Graduate Seminar in Theatre Studies at Keio University

Activities

Dance-Talk⑨
ソロダンスは可能か――what you see is not what you get

主催
科研プロジェクト「シアトロクラシーとデモクラシーの交差 演劇性と政治性の領域横断研究」
協力
有楽町アートアーバニズム、一般社団法人ベンチ
講師
チーム・チープロ
司会
宮下寛司
開催日
2023年6月10日(土)
会場
YAU STUDIO

概要

以下の概要にてダンストークを開催いたしました。

 

観客はソロダンスを観劇するとき、ダンサーの身体を中心として上演空間を構成していく。別の言い方をすればダンサーはその身体だけを通じて上演空間を作り上げる。上演空間は表現者と観客が直接的にも間接的にもコミュニケーションを取り合うことで初めて生起するが、それはソロダンスにおいて言えば、踊る身体のパフォーマティブな力によって導かれているといえるだろう。 ダンスに対する観客の経験方法は、ダンサーの生み出す身体運動に対するキネエステティクとダンサーの身体に対する視線へと分けられる。観客の経験は二重化されているのであり、身体で感じる運動と視覚的像を一致させるのである。 しかしながら身体に投げかけられる視線は観客個人の恣意的な見方であるばかりか対象を通じた個人の記憶を呼び起こすものでもある。さらに視線は文化的記憶・社会的記憶をも呼び起こすのであり、観客にもダンサーにももはや自由に扱えない第三項として、観客とダンサーの間に現れその両者をつなぎ上演空間を構成するのである。 したがってたとえソロダンスであったとしても、上演空間においては視線を通じて文化的・社会的イメージが呼び起こされ、ダンサーは視線においてそれらのイメージと踊るのである――上演が続く限りソロダンスは踊れないのだ。そしてまた、記憶を呼び起こす視線を通じた視覚と今ここでの直接的な身体的経験であるキネエステティクは異なる時間の層にあるために、観客における経験は両者が一致するどころかむしろ分裂し複層となる。 チーム・チープロはこれまで「イマジナリー・ボディ」を用いて、こうした複層的な身体を舞台上で示すことを続けてきた。舞踊(史)へと自己言及をしつつ、様々なイメージの衝突を松本の身体上において展開することで、観客の内に生じる分裂の経験を生み出そうとする。松本のダンスは視線とのダンスであり、しかしながらそれらのイメージが不在であるからこそ喪の作業でもある。 すなわちチーム・チープロのダンスは他者を不在のままに呼び起こそうとする喪のダンスといえるだろう。 しかしながら松本の身体は依然として舞台上にあり、観客は諸々のイメージへとその身体を開きながらも、その身体へとひきつけられたままである。 松本の身体的アイデンティティが視線において曖昧になる中でなおも観られる身体とは、パフォーマティブな力を持つ中心地というよりも残余である。しかしながらその残余は物質や素材に還元されるわけではない。イメージや記憶がとらえきれない何かとして踊る残余である。 このような残余となった身体をどのようにソロダンスとして観て語ることができるだろうか。チーム・チープロの試みとはこうした残余としての身体の模索としてとらえることができるのではないか。
このような問いは民主主義における他者に対する承認の条件をどのように開くことができるのかという問いに通じる。すなわち、民主主義における参加主体の承認はどのような次元から基礎づけられねばならないのかという問いである。 このテーマについて宮下とチーム・チープロの共同主宰のふたりであるパフォーマー・振付家の松本奈々子氏およびドラマトゥルクの西本健吾氏とこれまでの作品とこれからのアイデアや予感をもとに鼎談を行い、その後参加者全員で議論をしたい。


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