Graduate Seminar in Theatre Studies at Keio University

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ハンス=ティース・レーマン先生との思い出

平田栄一朗

 

ドイツを代表する演劇学者でフランクフルト大学名誉教授のハンス=ティース・レーマン先生が2022年7月16日、アテネにて永遠の眠りにつきました。ご遺族のお話によると、レーマン先生は長い闘病生活を強いられながらも、嘆きの言葉をこぼすことなく、ブレヒトの詩の一節「最期の一呼吸でも新しいことは始められる」を信条にして旅立たれたとのことです。 レーマン先生は2002年に慶應の三田キャンパスにいらして以来、ほぼ毎年のように来塾してゼミナールや授業、シンポジウムを行いました。また当ゼミ員の多くがレーマン先生に指導やアドヴァイスを受けて、修士論文や博士論文に取り組んできました。ここに哀悼と感謝の念をこめて、レーマン先生との思い出を綴ります。 私がレーマン先生と初めてお会いしたのは1992年6月、東京演劇アンサンブルの公演『ハムレットマシーン』(ハイナー・ミュラー作、ヨーゼフ・ザイラー演出)に際してでした。当時大学院生だった私は、この公演に合わせて来日したレーマン生生の講演やシンポジウム(東京演劇アンサンブル劇場やドイツ文化会館などで開催)を拝聴し、軽妙洒脱に語りながら、演劇やミュラーの核心をつくお話に感銘を受けました。離日直前に行われたレーマン先生を囲む会にも同席し、先生と話す機会もありましたが、当時は私のことを一介の学生という程度の認識でおられたのではないかと思います。 10年後の2002年秋、谷川道子先生や新野守広先生らと共にレーマン先生の著作『ポストドラマ演劇』を翻訳出版したのに合わせて、レーマン先生を東京にお招きし、講演会やシンポジウムを開催しました。 来日の際、私は成田空港に向かい、玄関口でレーマン先生とパートナーで演劇評論家のエレニ・ヴァロプルーさんを迎え、滞在先の慶應ゲストハウスにご一緒しました。3週間ほどの滞在でレーマン先生ご夫妻と私は予定していた企画を行いつつ、東京の内外で観劇を共にしました。 これを期にレーマン先生との「友情関係」が始まりました。(私にとって師匠のようなレーマン先生を「友人」であるかのように申し上げるのは失礼と思いつつも、先生はシンポジウムなどで幾度となく私を「友」と公言してご紹介くださいましたので、私はその言葉を信じてここでは「友情関係」と申し上げます。) レーマン先生は毎年のように来日しましたが、私はその度に空港に向かい、玄関口で迎え、再会の喜びを分かち合うと、滞在で予定されている企画だけでなく、実に様々なことについて話しました。その話は尽きることなく続くようでした。私も、おそらく先生も、旧知の友と旧交を温めつつ、常に未来志向でいるような思いだったのではないかと思います。来日中、先生は現代演劇だけでなく、能・歌舞伎・文楽・舞踏などジャンルにこだわらず数え切れないほど舞台鑑賞し、いずれも文字通り「堪能」されました。来日当初は字幕付きの古典芸能の公演がほとんどなかった不利な状況でも、レーマン先生は俳優の身振り・動きを丁寧に追い、印象深い箇所を探し求めるようにして観劇しました。例えば国立能楽堂で『弱法師』を鑑賞した際、字幕がなかったにもかかわらず、橋掛かりにひっそりと現れて、たたずむシテの長い静止状態と、その状態で起きている僅かな動きなどを喰い入るように見ておられ、上演後、その一挙手一投足を言葉で説明しながら、印象深かった点について熱心に語っておられました。 また観劇後、演出家や批評家などと話す機会も多々ありましたが、レーマン先生は初対面の方でも屈託なく接しておりました。このように演劇制作者や批評家たちとも積極的に交流しましたが、この交友関係もあって先生と私は2009年、共同編纂者として日本の現代演劇に関するドイツ語の書籍『Theater in Japan』を上梓することができました。 2011年3月の東日本大震災の直後、レーマン先生は日本の演劇人を支援する募金活動を申し出てくださったり、その年の10月に来日して演劇人とのシンポジウムなどに参加されました。またドイツの劇場で震災などをテーマにした日本の作品が上演される際、関連するシンポジウムなどに積極的に関わっておられました。 レーマン先生は、ギリシア悲劇をディスクール分析から読み解いた著作『Theater und Mythos』(1991年)を発表されたように、悲劇研究でも大きな業績を残されましたが、2013年、長年の研究の成果を『Tragödie und dramatisches Theater』にまとめて出版されました。この出版に合わせて先生は来日し、私たちは同年12月に三田キャンパスにてシンポジウム「悲劇以後の悲劇」を開催しました。 毎年のように続いた来日は、その後、レーマン先生のご病気により絶たれてしまいました。それでも先生は日本に来て、以前と同じように観劇し、演劇人や研究者仲間と再会したいというご希望を何度か表明し、私たちは実現の可能性を具体的に模索しました。それがようやく実りつつあった2020年初頭、先生のご体調が悪化し、断念せざるを得なくなりました。その際レーマン先生は「奇跡がいつか起きて、旅に出られるようになったら…」と述べられました。私は奇跡が訪れないだろうと思いつつ、東京で再び会える一縷の望みを捨てきれずにおりました。 訃報を受けた今でも、その望みを完全に断ち切れずにおります。旧友に再会するような高揚感に駆られながら、空港に向かい、玄関口でレーマン先生を迎えて、語り切れなかったことを語りつつ、これから一緒に行う予定について話したいという思いが――あり得ないにもかかわらず――募ってしまうのです。でも先生ならきっとわかってくれるはずです。というのも先生は、能舞台で死者と生者が出会って語り合うのが習わしであり、あり得ないはずの邂逅が生者の切なる願いゆえに舞台上で実現可能になることをよくご存知でしたので、私の夢想もそっと受け止めてくださると思っています。