三 小考―東アジアの死者供養の踊り  

  「はじめに」でかかげた四つの問に対する答えは次のとおりである。この回答をもって小考に代えたい。なお各項の説明においては基本的に中国、朝鮮半島、対馬の順で述べていく。

 1. 盆の時期の踊りとは死者霊の迎え、送りを表現したものである。

 中国福建省では7月はそもそも鬼節ともいう。とくに7月15日は通称「七月半」といい、祖先、無祀孤魂をまつる。仏寺の盂蘭盆会だけでなく、道教の廟では中元節がある。このとき、寺廟の舞台では目連戯ほかの演劇がおこなわれる。人びとが直接踊ることはないが、これを見守ることは祭祀に参与することを意味する。目連戯は本質的に鬼戯である。それゆえ、浙江省東部では身体の弱い者や妊婦などはみてはいけないという(野村伸一『東アジアの祭祀伝承と女性救済』、119頁)。
 朝鮮半島では、盂蘭盆会のほかに、7月15日に農民のあそびがおこなわれる。多くは慰労の宴であるが、慶尚南道密陽(ミリャン)では病身舞(ピョンシンチュム)という名の踊りがある。これは余興ではなく精霊の踊りとみられる。
 対馬各地の盆踊りは府中(厳原)でおこなわれた御卵塔風流(おらんとうふりゅう)と六十人躍の影響を受けて成立したとみられる。このうち、前者、御卵塔風流は第十一代宗貞国の夫人の死(1486年)とその後の祟りを慰めるためにはじられたと伝承されている。そして、この行列風流がのちに町躍のような芸能化したものと結びついて、今日の盆踊りが成立したとみられている*8。各村落で、初盆の家の死霊を弔うのに、この御卵塔の伝承はたいへん大きな意味があっただろう。ちなみに卵塔とは卵形の墓石のことである。

 
 *8
『国選択無形文化財調査報告書 対馬 厳原の盆踊』、厳原町教育委員会、1999年、214頁。

 2. 盆踊りの淵源は僧の舞と目連戯である。

 中国古代の僧は唱導をし、音楽に通じて舞った。これは『高僧伝』にみられる。少なくとも南北朝のころには顕著である。同時にその頃から死者霊追悼の仏事がはじまった。孤魂野鬼のための水陸斎(大規模な施餓鬼)、目連救母譚に基づく祖霊救済のための盂蘭盆会は梁代にはじまったとされている*9
 これが唐代を経て目連戯につながった。北宋代には目連戯が成立している。それはすでに祖霊祭祀だけのものではなく、地域を脅かすあらゆる死霊を慰撫するための芸能であった。寺院の戯場からはじまった目連戯はやがて民間の廟前の舞台でも演じられるようになった。そうして、その間に南戯という慰霊の芸能がはじまり、さまざまな物語が演出された*10
 朝鮮半島では新羅の頃に僧侶の跳舞がはじまってる。『三国遺事』によると、元暁(ウォニョ)(617-686)は法を説くために匏で道具を作りそれを持って舞った。一種の踊念仏であった*11。無○(「碍」の右側の字)舞(ムエチュム)という。
 この踊り念仏は高麗時代にも伝承された。李仁老(1152-1220)の『破閑集』(1260年編纂)にそれが記されている。この時代(高麗末期)は寺院の戯場において才僧(チェスン)や広大(クワンデ)がさかんに演戯をみせ、それがまた民間に広がっていった。今日、東海岸の死霊祭オグクッのなかに男巫が念仏を唱えつつ踊ることがみられる(図版38)。これなどは非常に古い念仏の形態を伝えるものだろう。


38韓国の死霊祭オグクッのなかで念仏を唱える男巫。


 一方、また高麗時代末期には広大による傀儡戯や仮面戯もおこなわれた。それらはもともと寺院との結びつきが深いものであった*12。そこで演じられたのは鬼神の跳舞にほかならず、そのため仮面や傀儡は畏怖された*13
 日本では、元暁の事績と同じことを空也(903-972)がはじめたとみられている*14。そして、その踊り念仏が散楽や田楽と結びついて多様な念仏芸能を生んだ。これを推し進めたのは勧進聖である。
 一方、念仏芸能のなかから風流が派生し、そしてまたそのなかから近世にいたって盆踊りが形成される。

 
 *9 野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、268頁。
 *10 目連戯は東アジアにおいてひとつの大きな民俗文化史を形成している。そこでは虫送りなどの民俗行事との結びつきもある。詳細は野村伸一編著『東アジアの祭祀伝承と女性救済』(風響社、2007年)参照。また南戯については、前引、野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、第六章参照。
 *11 一然著、金思燁訳『三国遺事』巻四、朝日新聞社、1976年、348頁および金思燁『朝鮮文学史』、金沢文庫、1973年、151頁参照。
 *12 傀儡戯と仏教のかかわりについては、前引、野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、第六章参照。また仮面戯と仏教については河回仮面戯の例をあげておく。全体が慰霊のあそびであるが、さらに河回の仮面をまつった洞舎の位置にもとは寺があったとのことである。これについては、ウェブサイト「朝鮮の仮面戯1」の河回仮面戯の項参照。http://ci.nii.ac.jp/naid/120000801213
 *13 高麗末期に造られたとみられる河回仮面戯の仮面は近代に至るまで神聖視されていた。それは常には秘蔵されていた。また朝鮮半島では傀儡は鑑賞すべきものではなかった。
 *14 これは『一遍聖絵』(1299年)の記述によるものなので、後代のものともされる。しかし、五来重は一遍以前に踊念仏があったとし、空也の頃にすでに大念仏がありえたと述べている(五来重「念仏芸能の成立過程とその諸類型」鈴木昭英編『仏教民俗学大系5 仏教芸能と美術』、名著出版、1993年、75頁)。

 3. 盆の時期の踊りの担い手はもとは僧侶であり、やがて僧の類い(儺者)、芸能者へと移行した。

 中国の7月の祭祀芸能は寺廟を中心に催される。当然、担い手は僧であり道士である。後世になると、廟の中元節がより広くみられるが、歴史的には寺院の戯場に集まった僧やその下位の芸能者が中心であっただろう。しかし、宋代に至ると、民間には儺者が現れる。彼らは打夜胡(ダーイェフ)(打夜呵)、路岐(ルーチ)などとよばれる。儺者たちは地域の境界を浄めるために厳めしい装いをして行列した。今日、台湾の中元節などでもその種の行進がみられる(図版39)。また路岐は後代には地方演劇の担い手となった。
 朝鮮半島では、上述の才僧、広大に加えて、社堂(サダン)あるいは男だけの男寺党(ナムサダン)が芸能者として知られている。彼らは盆の季節に限らないが、寺院の戯場や市場あるいは別神クッのような大きな祭祀の場において演戯を披露した。これらは基本的には男たちであるが、社堂のばあいは男女混成である(図版40)。 


39台湾桃園の中元節に現れた者たち

40韓国興国寺の甘露幀にみられる芸人たち。社堂であろう。


 日本の盆踊りでは、男女混成、男だけ、女だけと各種ある。小寺融吉は各種の例をあげつつも、盆踊りは「一般的に見て老若男女の凡てが出るのが、古い形でもあらう」と述べた*15。「古い形」というのはどこまで遡るべきか。これにより、回答はまた変わってくるだろうが、上記したように、踊念仏のようなものに遡らせるならば、担い手は当然、男たち、それも法体の者たちということになる。もっとも、盆踊りを平安時代の大念仏や大田楽の派生として捉えるならば、男女混成が古い形ということになろう。

 
*15
小寺融吉『郷土舞踊と盆踊』、桃蹊書房、1941年、18頁。

 4. 演じられるものは、鬼神を逐う者の仕種と鬼神(精霊)そのものの跳舞である。

 中国の目連戯でははじめは鬼神が劉青提(目連の母)を地獄で苛むことを中心にみせたようである。こうした鬼神の頭領が無常鬼(白無常)である。無常鬼は恐ろしい存在だが、神のひとつである。今日の目連戯でも舞台の脇にまつられる。
 しかし、これがやがては目連の破獄や観音による救済の芝居となっていく。さらに、宋代にはまつられぬ鬼神となりかねない不幸な女性たちの救済の芝居が演じられていく。それが南戯なのである。
 朝鮮半島のばあい、儺者の行列を想起させるものに農楽隊の行進がある。また才僧や広大たちの演戯のなかから仮面戯と杖頭傀儡戯が形成された。農楽隊は神域を訪れては奏楽し、また広場では縦隊や円をなして跳舞する。さらに家々を訪れては家の祝福をする。その間には多少の芝居も含まれる。それは盗っ人捕らえとか横柄な官僚への諷刺である。こうしたかたちで儺(鬼やらい)を表現する。
 一方、仮面戯や傀儡戯ではあわれな死をとげた庶民たちが次つぎと現れる。この文脈で慶尚南道密陽の百中戯(ペクチュンノリ)(7月15日の農民のあそび)をみると、そこで演じられる踊りが鬼神の跳舞だということがよくわかる。
 対馬の盆踊りは手踊りと仕組み踊りに分けられる。このばあい、御卵塔風流に相当する行列と手踊りがはじめにあり、のちに物語を伴う口説踊りがはいったとみられる。対馬の手踊りではどこでも「祝言」が語られる。上里のものでは、館と主君を称えていた。これは朝鮮半島の農楽隊のやる家の祝福と同じことであろう。
 ところで、対馬の手踊りでは、長篇の口説に合わせた手踊りもあったようである*16。これは余りにも簡単な祝言だけでは満足できなくなったことから起こったものだろう。そして、歌舞伎などの地芝居の影響もあって、仕組み踊りが行き渡ることになる。そうした踊りの変容は南戯の発展にいくらか似たところがある。もっとも、南戯のばあいは、もともと都市の祭祀演劇としてはじまっていたので、衰えることはなかった。
 一方、仕組み踊りはあくまでも歌舞伎や都市の芸能の影響下に生まれた素朴な口説踊りであり、盆行事を離れては存在し得なかった。それはともかく、江戸時代後半の演目とみられる女仇討ち物は注目される。そもそも西日本を中心に団七物というような女仇討ちの芝居が広く受容されたことが時代性を考えさせる。
 それは実は同時代の東アジアでも享受されていた。すなわち、明清代の中国では女豪傑の物語が読まれ、また演劇として上演される*17。小説としては清代末期(1824年以降)の『児女英雄伝』がよく知られている。これは単に女が仇討ちするだけのものではない。さらに女性が夫となる男を救出し、また戦争に参与して手柄を立てる話でもある。
 一方、朝鮮半島でも朝鮮朝後期には女性英雄小説が多数書かれ、享受された。上記の『児女英雄伝』も翻訳されている。さらに、ハングルで書かれた『洪桂月伝』『女将軍伝』などでは夫を叱咤する強い女将軍がえがかれる。また18世紀の漢文小説『剣女』では女主人公二人(娘子と婢女)は剣術の達人となって家の仇である男のところにいく。そして剣舞を口実にして刀を執り、仇を討つ。それだけでなく、もと婢女の女剣士は、三年の同居後、夫の志が小さいことを知ると、これをうち捨ててどこへともなく去っていく*18。この女性となると、すぐれて主体的である。男(夫)というよりは世俗を超越した姿をさえみせている。少なくとも儒教の教えである忠、孝、烈とはほど遠い。漢文小説だから主として男が読んだのかもしれないが、話そのものは口頭で語られてもいいような内容である。
 朝鮮半島ではこうした小説の享受だけでなく、妓生のあいだで剣舞が踊られた。それはもともとは軍士がする武術のひとつだったであろうが、妓生らはこれを舞踊化してみせた。それは朝鮮朝後期から近代に至るまで継続して、伝統舞踊のひとつともなった。
 ところで、女将軍や女英雄が語られる清末、朝鮮朝後期の雰囲気は海を越えて日本列島にまで及んだとみられる。対馬の「国は備前よ」のおつやは「武道軍学 剣術師匠」の藤島武兵衛を打ち倒す。それはまさに颯爽とした女剣士である。おつやに限らず、女性仇討ちの話は江戸末期の「軍書」にあったらしい。すなわち、対馬琴村の人内野対琴の『反故廼裏見』によると、仕組み踊りは口説を用いたのだが、それは「軍書カタキ打チの本ヨリ拵ラヘシモノ」と記されている*19。要するに種本があった。もっとも今のところ、それが何であるのかは判明しない。しかし、日本のどこかにそうした古書があったとしても、その淵源が同時代の中国、朝鮮にあったことは間違いないだろう。

 
 *16
 前引、『国選択無形文化財調査報告書 対馬 厳原の盆踊』、47頁。
 *17 前引、野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、284頁以下。
 *18 朝鮮朝後期の女性英雄小説については、田溶文『韓国女性英雄小説의研究』、牧園大学校出版部、1996年参照。『剣女』については同書、156頁以下に一篇の論考がある。
 *19 前引、『国選択無形文化財調査報告書 対馬 厳原の盆踊』、210頁。

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