対馬の盆踊(2009年の概況と映像)、付小考
                                              野村伸一

  はじめに

 本稿は「東シナ海文化からみた対馬の盆踊り」を意図している。ただし、ここでは2009年の報告を中心とし、そこにいくらかの考察を付した。

 はじめに視点の提示をしておく。
 日本の盆踊り論  日本では盆踊りがさかんである。それに対する研究もすでに1930年代からある。『民俗芸術』1巻7号(地平社書房, 1928年)、『旅と伝説』79(三元社、1934年)では各地の盆踊りを紹介した。また小寺融吉『郷土舞踊と盆踊』(桃蹊書房、1941年)は日本の盆踊りを幅広く見渡して、25項目に分けて論じた。盆踊りの組織、歌、振りなどはいうまでもなく、社会状況とのかかわり、保護と弾圧、復興のことなども取り上げられる。同書の後半は社会評論の趣きもあるが、日本の盆踊りの概論としてはまずは十分といえるほどである。
 わたしの視点  さらにそののち、盆踊りの前身に当たる念仏踊りや風流に関する研究も大いになされている。今や一個人で各地の事例研究を見尽くすことなどはもはや不可能といえるほど資料は堆積している。おそらく演劇的にはもうおおよのことはわかっているのだろう。
 けれども、盆の時期の各種の踊りは東アジアにおいて一体、どのくらいの歴史があり、どういう意味があるのかということになると、それほど明確ではない。盆の時期の踊りは日本に限らない。朝鮮半島や中国にも存在する。そして、それぞれがやはりその地の民俗と関係している。それゆえ、日本の盆の時期の各種の踊りは日本の周辺地域(とくに東シナ海周辺地域)のものと積極的に対照せるべきである。にもかかわらず、それがあまりおこなわれていない。
 わたしの主要な関心事項は四つの問に集約される。すなわち、東アジアにおいて

 1. 盆の時期の踊りとは何か
 2. その踊りの淵源は何か
 3. 盆の時期の踊りは誰が担うのか
 4. 演じられるものは何か

ということである。
 これらはいずれも大きな主題であり、十分な説明が伴わなければ、余り説得力もない。とはいえ、課題が大きいからといって誰もが答を出さない状況というのもおかしなものである。わたしの現在の回答は「三 小考」(別記)の冒頭に記した。それは対馬の盆踊りをみる上での前提でもあり、またみた上での考察でもある。

 以下、一、二は、2009年に対馬でみた盆の行事を記したもの、三は考察である。対馬に限らないが、盆踊りの伝承そのものが危機的な状況にある。一部は観光化して賑わってはいるが、それはいわば観光コンテンツとしての利用にすぎない。こうした大勢はいかんともしがたい。しかし、伝承の文化的な意味を新たにみいだすことによって、自分たちの踊りとして存続させることもありうる。以下の文がその一助となればさいいである。

  一 2009年の対馬の盆踊り―概況

 1. 実施状況
 江戸時代には大部分の集落で盆踊りがおこなわれていたとされるが、2009年、現地で各所に問い合わせた結果、厳原町三カ所(内院、阿連、曲)、峰町二カ所(吉田、上里)の五ケ所だけとなった。1998年の段階では毎年開催の集落が「11箇所」、そのほかに不定期におこなうところが約10箇所ということであった*1。従って、この10年余りのあいだに半分以下になった。
 2009年、四カ所(内院、阿連、曲、上里)を見学した。このうち内院は担い手の確保がたいへんむずかしく、今年限りかもしれないとのことであった。他の三カ所は保存会があって、若手から老年までが協力して運営していた。地元での話によると、どこでも人の集まりはかつてほどではないという。しかし、阿連と曲ではまだ初盆の家巡りをしていたし、上里では、20年ほど前に作られた保存会を中心にしっかりと盆行事を営んでいた。これらの地区の伝承は当分のあいだ、可能であろう。

 注 *1 『国選択無形文化財調査報告書 対馬 厳原の盆踊』、厳原町教育委員会、1999年、 45頁。

 2. 2009年、各地の概況
 見学し得た四カ所の盆踊りの状況は以下のとおりである[以下(一)〜(四)」。時間の順に概況を記す。


  (1)厳原町

 (一)内院


1

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 8月15日午前中、集落内の甘露寺本堂で実施。内院の盆踊りは「内院青年団」が担う。ここでは朝7時過ぎからやるのが特徴である。
 当日の踊りの種類は次のとおり。

 1. 六方(口上)(図版1)
 2. 祝言(図版2)
 3. 鈴木主水(前半)(図版3)
  歌詞は、女郎買いをする鈴木主水を女房のお安が諫めるもの。一人で歌う。振りはない。
 4. 九つコンタン(図版4)
  四人で踊る。「今里コンタン」(明治初期に入水した男女を歌ったもの)の替え歌という。
 5. 女郎屋(鈴木主水の後半)
  これも一人で歌う。
 6. 甚句(図版5)
  四人の手踊り。  


6

7


 従来は、本堂での踊りのあと、エズリ(図版6)を先立てて、神さま廻りをした。すなわち、地区内の薬師堂、斉藤弘之家(村内の旧家。藤原家系の文書を保存)(図版7)、阿弥陀堂、エビス様を廻る。そうしてのち初盆の家を訪れる。また2004年までは夜、舞台を組んで盆踊りをした。
 ところが今年は、担い手不足のため、神さま廻りは省略し、すぐに初盆の家を訪れた。ただし、青年団がよそ者の参席を望まなかったので、同行はしなかった。

 (二)阿連


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 8月15〜17日にかけて、以下にあるとおり、場所を変えて踊る。阿連では毎年、踊宿を決める(図版8)。踊宿は練習の場を提供し、一行の世話もする。また踊り組への新入りがあるときは、最終日の夜、踊宿でハナビラキ(宴)をする。場所によって踊りの数は異なるが、振りは同じである。以下の演目は役員の一人神宮茂氏の教示による。

  15日


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  1. テラバタケ(ヤクマさま、昔の寺)   @祝言*2(図版9)A石童丸
  2. 村内の延命寺   @出歌(図版10)A坪入B祝言(図版11)C石童丸D鈴木主水(綾踊)(図版12)E引歌
  3. ごろうの小屋  @出歌A坪入B祝言C石童丸D家中E吉実F鈴木主水G引歌

 注 *2 船に大黒、エビス、フナダマを乗せて宮に入港するという内容。松原武実によると、これは九州、中国地方の船祝歌として歌われるものだという(同上、157頁)。なお、フナダマのほかに船上に神仏をまつるのは注目される。これは舟山列島から南シナ海にかけてもみられる。そこでは観音菩薩や媽祖、玄天上帝が一般的である。

  16日
  1. 若宮さま @祝言A石童丸
  2. でんでえの小屋 @出歌A坪入B祝言C石童丸D家中E吉実F鈴木主水G引歌
  17日
  1. エビスさま  神事。@出歌A坪入B祝言C石童丸D鈴木主水E引歌       
  2. 雷命神社  神事。@出歌A坪入B祝言C石童丸D家中E吉実F鈴木主水G 引歌
  3. 宿  ハナビラキ(新入りがいる年に行う)

 以下は「でんでえの小屋」での状況である。


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 @出歌  一行の師匠がエズリを持つ(図版13)。エズリは日によって段が異なる。すなわち、15日は五段、16日は七段、17日は五段。
 A坪入  一人が太鼓を打つ。他の者たちはそれについて回る(図版14)。
 B祝言  六人の扇の踊り(図版15)。


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 C石童丸  踊り手は女性たちに手伝ってもらい女装する。歌詞によると、石童丸とは齢16の女盗賊である。しかし、踊りは二人でする(図版16)。なお、「石童丸」は物語を伴う仕組み踊り(後述「二 映像による事例」参照)である*3

  *3 中世の説経節に「石童丸」があるが、阿連の石童丸は説経節とは別のものとみられる。石童丸はイシドウマルと読むのが普通だが、現在の阿連ではセキドウマルといっている。

 D家中  家中が女盗賊を斬り伏せようとするが、かえって女盗賊の返り討ちにあう。はじめは男二人で踊る。やがて女二人(石童丸)が現れる(図版17)。四人は立ち会う。
 E吉実  吉実は返り討ちにあった家中の息子、修行をしつつ石童丸を探し求める。男二人の踊り(図版18)。なおこの結末「敵討」(女盗賊の敗北)が現在はない。
 F鈴木主水  六人が綾竹を持ってはなやかに踊る(図版19)。
 G引歌  出歌と同じかたちでやる(図版20)。


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 (三)曲
 8月15日、午後7時少し前、踊りの師匠(故梅野勝五郎氏)の家の庭で踊りをはじめる。ここからはじめるのは毎年、恒例である。次に墓地にいく。墓地は少し小高いところにある。そこの「海人先祖代々為菩提」の銘のある墓の前で踊る。そうして、その年の初盆の家を巡る。踊りは「二本扇踊」だけである。一回の踊りは約9分ほどのものである。
 曲は福岡県鐘崎から移住した海人の村といわれる。今も漁業が中心で結束力が強い。保存会による曲の盆踊りは島内外でもよく知られている。「二本扇踊」のほかに綾踊、四つ竹踊、柳踊を伝承している。


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 梅野家の庭  8人で踊る(図版21)。歌は口説で次のような内容である。京都中山さまのむすめ、めざくら姫が船に乗せて流された。それが伊勢の浜辺で拾われて、豊後の牡丹長者の三男の嫁となる。
 墓前  墓前での踊りは、そのむかしここに流れ着いた先祖たちの慰霊のためのものである。死後、無縁となった人たちも少なくなかったことだろう。墓所での供養の踊りは現行では唯一である(図版22)。
 初盆の家  初盆の家では飲み物などを準備して、一行をありがたく迎える。踊り手たち8人は座敷にあがり、扇をかざしつつ黙々と踊る(図版23)。ただし、踊り終えると、酒などもあまり飲まずに、次の家に向かう。今年は初盆の家が七軒あった。

 (2)峰町

 (四)上里 
 8月17日、夕刻、阿弥陀院で施餓鬼がおこなわれる。施餓鬼が終わると、境内で盆踊りをする。踊り終えると、一行は近くの三根川にかかる橋の上まで行進する。そこではエズリを川に投じ、諸霊を村外に送る。これを送り施餓鬼という。詳細は以下に記した。

  二 映像による事例

  峰町上里の盆踊り

 1.保存会
 上里では1989年に「峰町三根上里盆踊り保存会」が作られ、以降、今日まで毎年盆踊りをしてきた。保存会結成以前は、30年余り、中断していたという。踊りは仕組み踊り「国は備前よ」と手踊り「祝言」が伝承されている。このうち、仕組み踊りは物語(口説)を伴うもので対馬に独特のものである。かつては何種類もの物語が各地で語られ、それに応じた振りがあったとされる。しかし、それらは記録に残るばかりで、現在では上里と阿連にみられるだけとなった。しかも阿連の「石童丸」は不完全である。その意味で、上里の仕組み踊りは注目される。

 2.今日の盆踊り(歌詞と映像)
 


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以下は2009年8月17日午後7時過ぎからおこなわれた施餓鬼と盆踊りの実況をもとに記した。
 阿弥陀院の施餓鬼 阿弥陀院(曹洞宗)の本堂では夕刻から施餓鬼がおこなわれる。太鼓の軽快な音とともに読経がなされる(図版24)。そのあと、参会者が焼香する。これが終わると、境内で、盆に招かれた霊魂(新仏、祖霊、餓鬼)のための踊りがなされる。
 今日、上里では初盆の家を巡って踊ることは省略されている。従って、この日は境内で踊るだけである(以下にその全貌を掲載した)。


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 阿弥陀院の境内  当日、午後8時前に、保存会の一行が村の会館から行進してくる。先頭に保存会長、そのあとに幟、エズリを携えた者、、音楽の担い手などがつづく(図版25)。エズリは霊魂の依代であろう。一行は境内に到着すると、すぐ「坪廻り」をはじめる。右回りに三周すると、「打ち切り」がおこなわれる。これは盆踊り開始の合図である。やがて「花踊り」以下の仕組み踊りがはじまる(後述)。

 仕組み踊り  仕組み踊りは対馬の盆踊りに特有のものである。これは筋立てのある踊りである。江戸時代、17世紀後半になると、手踊り中心の盆踊りに物語性を帯びた歌が伴うようになる。この踊りと歌の形式を「踊り口説」という。対馬の仕組み踊りはこの踊り口説から派生したものといえるようである*4
 仕組み踊りは近世庶民の観劇への思いをあるていど満たすものであった。そうした物語性のある芸能が盆の慰霊の季節におこなわれたのは注目される。こうした展開は日本だけではない。すでに中国にもあった(後述、「三 小考」参照)。対馬の仕組み踊りは物語にかたちを借りた慰霊であった。ここではその生きた姿をみることができる。
 近世後期の女仇討ち物  上里の「国は備前よ」は近世後期に流行った女の仇討ち物である。当時、西日本を中心に「団七踊」が流行った。団七踊はある姉妹が悪代官団七を親の敵として討ち取る話である。和田修によると、それは「従来の風流踊の類型から一歩踏み出したところがある」という。仕組み踊りの一面にはこの団七踊からの派生が考えられる。そしてまた、「歌舞伎からの強い影響」もあったという*5
 上里の「国は備前よ」は、おつやという女性が主人公である。苦難の修行を経て、親の敵藤島武兵衛を討ち取るまでを語り、踊る。また、厳原町椎根のばあいは、かつて手踊りとして女仇討ち物を演じた。すなわち「がうてき」と「おんがの国よ」である。前者は庄屋の姉妹による仇討ち、後者は国名はおんがの国だが、内容は上里の「国は備前よ」と同じである*6
 対馬だけではないが、近世後期にはこの種の女仇討ち物が少なからずあった。趣向をこらした一時の流行といえなくもない。しかし、こうした物語の流布は日本だけのことではなかった。その意味については、もう少し広い視野で考えてみる必要がある。それについては「三、小考―東アジアの死者供養の踊り」において記した。
 なお(三)以下の歌詞は「三根上里盆踊り保存会」(会長永留安生氏)提供の資料による*7

 
 *4
『国選択無形文化財調査報告書 対馬 厳原の盆踊』、厳原町教育委員会、1999年、210頁参照。
 *5 同上。
 *6 同上、123-125頁。
 *7 同上、208頁以下にも掲載されている。



 T 入場と仕組み踊り「国は備前よ」

 映像1 本堂の施餓鬼。(1分55秒)

 (一)坪廻り
 保存会の一行は境内にはいると、まず右回りに三周する(図版26)。


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 (二)打ち切り
 打ち切りでは、男一人が撥を持ち、太鼓の前に立つ。そして力強くこれを叩く(図版27)。こうして盆踊りの開始を告げる。以上は歌は伴わない。以下、(三)〜(八)までが仕組み踊りである。
 映像2 行進。坪廻り。打ち切り。 (1分54秒)


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 (三)花踊り

 女装した三人による女踊り。手には椿を持つ(図版28)。母に育てられたおつやが父の行方を母に尋ねる内容である。この間、武士の姿の男三人が坐して見守る。


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 映像3 花踊り。(3分17秒)

  〔歌詞〕
 国は備前よ 岡山城下
 後家の娘に おつやというて
 七つ年より お寺に上り
 寺の朋輩 寺稚子たちが
 父のない子は 仲間に入れぬ
 いえばおつやは 涙が下り
 もしなこれこれ 母上様な
 父の行方を 教えてたまえ
 岩の上さえ 種まきや生える
 父のない子は 育ちはしまい
 いえば母様 理に詰められて
 父の行方を 尋ねるならば
 父はお江戸の 御番の節に
 的の遺恨で 討たれてござる
 そなた敵は 藤島武兵衛

 (四)ひねり

 刀を持った男三人の踊り(図版29)。歌の内容は剣術の師匠藤島武兵衛が家来を連れてやってきたというもの。


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 映像4 武士の踊り。(1分37秒)

  〔歌詞〕
 国を申さば 近江の国よ
 その名を申さば 藤島武兵衛
 敵討つより 他国をなさる
 武道軍学 剣術師匠よ
 今はそしてえ 千石取りよ
 家来二十人 引馬つれて
 敵討ちぢやと なのりえけえいえる

 (五)中踊り

 女三人の踊り(図版30)。歌詞は、おつやが父の敵を討つため5年のあいだ、剣術の修行をするというもの。


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 映像5 長刀を持った女たちの踊り。(2分38秒)

  〔歌詞〕
 さらばさらばと わが家を出ずる
 もしなこれこれ 朋輩方な
 わしが母様 血気持ち持病よ
 もしも死せんと いう時あらば
 せめて湯水の 介抱なりと
 頼みますばな 朋輩方よ
 さあこれから 大阪をさして
 急ぎや程なく 大阪に着いて
 米屋治兵衛に 五年の奉公  
 昼は主人の 勤めをいたす
 夜はわが身の 稽古をいたす
 五年間の 稽古をいたす

 (六)装 束

 女三人が、みずからの粧いと姿を披露する。女たちははじめは正座姿。やがて長刀を持って起ち上がり振りかざす(図版31)。この間、男たちは坐してこれをみつめる。そして、女たちが坐すと、次に男三人が坐して手踊りをする。やがて剣を取って起ち上がり、勇姿を披露する(図版32)。
 歌詞はおつやのいでたち、武兵衛のいでたちをそれぞれ述べ立てる。


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 映像6 女踊り、つづいて男踊り。(3分44秒)

  〔歌詞〕
 (女)
 そこでおつやが さて装束は
 下にや白無垢 上には綸子
 帯は緞子 後にしやんと
 たすきや紫 いよさやだすき
 一に手裏剣 二に鎌鎖
 三に白柄の 大薙刀を
 右の小脇に はやかい込んで
 いまぞいまぞと 進みけえいえる 

 (男)
 そこで武兵衛の さて装束は 
 下にや白無垢 上には黄無垢   
 帯は練襦子 吉弥にしやんと 
 五尺丸桁 たすきにかけて    
 ねじのはち巻 しっかとしめて 
 印龍巾着よ 小脇に下げて
 二尺五寸を おとしにさいて
 いでよ いでよ と名のりけえいえる

 (七)問 答
 女三人、男三人がそれぞれ一列縦隊をなす。先頭の女が男に問いかける。すると、先頭の男が返答する。これは完全に台詞だけで演じる。台詞では、女、男、女、男の順に声をかける。武兵衛が挑発に乗っていきりたつ(図版33)。


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 映像7  問答。(41秒)

  〔台詞〕

 (女)
 もしな これこれ 武兵衛さんな
 敵討つにや ひきうないらぬ
 (男)
 敵討つのは このめのさいよ
 足で殺そか 叉手もかきよか
 (女)
 もしな これこれ 武兵衛さんな
 こまい舟にも 荷は積みまする
 関の小刀 身の細けれど    ’
 あやも断ちます にしきも断つよ
 そなた一人にや 立ち難にやしよまい
 (男)
 そこで武兵衛が いよつつれめし
 上の格子の 八丈の羽織

 (八)立ち会い

 男女六人の立ち合い(図版34)。歌詞は、おつやと武兵衛の戦いである。はじめおつやは刀を打ち落とされて劣勢に陥るが、手裏剣と鎖がまで逆転し、敵討をはたす。三分半ほどの踊りで比較的長い。


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 映像8 立ち合い。(4分29秒)

  〔歌詞〕
 双方互に 声をも上げて
 二尺五寸を すらりと抜いて
 ちょうど合わすりや 左手にかわす
 すそを払えば いよ右手かわす
 受けつ流しつ 戦いければ
 どちらも手利で勝負がつかず
 あわれおつやは 受太刀ばかり
 あわれおつやは 討たれるほどに
 数万数千の 見物人が
 おつやおつやと 数万の声に
 力尽くれば おつやは今と
 受けつ流しつ 戦いければ
 女肩充 腕弱ければ
 白柄薙刀 うち落されて
 あいまねらんで 手裏剣ふりて
 眼くらんで とちめくどころ
 分銅なすかけ 太刀まき落す
 かまをなんかけ 腕を落す
 白柄難刀 け上げて取りて
 おどり上りて 大袈裟にきる
 あわら嬉しや 本望はとげた

 U 手踊り「祝言」

 白装束の男たち7人による手踊りである(図版35)(図版36)。歌詞は、「かど」と「君の恩賞」。前者は家褒め、後者は立派な男を愛でたものである。熟練の演者は歌いながら踊る。元来はそうしたものだったのだろう。手踊りとはいうが、足腰を十分に使って、なかなか力強い。


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 映像9 かど。 (1分16秒)
 映像10 君の恩賞。 (1分36秒)


  〔歌詞〕

   かど

 かーどは 一五三に飾り縄かけてもの
 あっさどれどれどっこい どれどれどっこ
 ひとおしヘ ホイ おとめの えーふうちょうに
 ふうふとや えなさいとや めでたいな
 蔵開き 棚卸し 花のさあえ 分銅
 肩に引っ掛けて あっさ ふるがねか
 あお から金か あお あお せんじょのようにめでたしが
 千年も 万年も あっさ 万々年も
 正月だいとう 祝うさえ

   君の恩賞

 君の恩賞 ちりぃ どっこい めでたいことや
 このお先に立つたる だて おのこ
 冬の大根 この脇差を おえのくだりの ひげ ひげ男
 つるりんりん ひげ男 つなぎとめたや 君のごうはんじょ
 さあ あなたも やかたも おどろどろ
 さあ こなたも やかたも おどろどろ 
 さあ どろどろしとしと のりだす 馬のかずかず
 さあ くるげ ちくげに げにげに はしげに 空ひばり
 さあさあ 手は おいでの ごうはんじょ

 3. アララ オーイ ―送り施餓鬼
  
 阿弥陀院で境内での盆踊りは以上で終わる。このあと、一行はエズリを先頭に掲げ、鉦、太鼓を鳴らしながら三根川まで行進する。これを送り施餓鬼という。
 オーイ オーイ オーイ
 アララ
 オーイ
このことばをくり返しつつ、エズリに寄りついた各氏の祖霊や無縁仏を集落の外れまで連れていく。そして、三根川にかかる橋の上に勢揃いすると、エズリごと川面に投じる(図版37)。これで盆の霊魂供養は終了する。なお、以前はこのとき、鉄砲を撃ったという。
 大人から子供までが加わっての送り施餓鬼は盆踊りとはまた違った意味で貴重な光景であった。そこにはまごころがこめられている。


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 映像11 送り施餓鬼。(1分34秒)


  三 小考―東アジアの死者供養の踊り  (→別記 回答として)
 

  まとめ―対馬の盆踊りの位相

 以上、1〜4までの関心項目についての回答である。対馬の盆踊りは男たちでやる慰霊の行列であり、踊りである。これは古いかたちだとおもわれる。そして、そこに口説というかたちの物語が加わり、これを演劇的に表現しようとした。それは歌舞伎のような演劇には至らなかったが、物語への欲求は確かに「現代的」だった。おそらく19世紀あたりの時代の雰囲気を直接反映していたのだろう。
 盆踊りは日本民俗学や日本芸能史においては、念仏踊、風流などの歴史のなかで位置づけられ、それで終わっている感がある。しかし、もう少し枠を拡げてみると、そこに東アジアとの接点がみいだせる。小考ではそれを述べた。

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