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松例祭は、現在は出羽三山神社の神事として行なわれているが、もともとは羽黒修験の行事であった。そして中世末に著わされた羽黒修験の教義書である「拾塊集」によれば、次のような故事にもとづいてはじめられたとされている。慶雲年間、(鹿三つ)乱鬼という三面六臂の悪鬼が鳥海山、岩鷲山(現在の岩手山)の山上から邪気を放って奥羽ニヵ国に悪疫を流行させた。数百の人々が死亡し田畑も荒廃の極に達した。この時、羽黒権現が山本郡の郡司である乙部希古の7歳の娘に憑依して、神前に12人の験者をおき、悪鬼の形に擬した大松明を焼くように託宣した。その通りにしたところ悪鬼は北海の小島(現在の山形県酒田市飛島)に退散し、悪疫はおさまった。以後この故事に従って毎年松例祭を行なうようになったという注9)。
もっとも出羽三山神社では、松例祭は羽黒山の開山蜂子皇子が悪魔に苦しむ里人を救う為に山麓の聖山にこもって百日間祈願をこめた所「悪魔を焼きすてよ」との神託をえたのでこれを焼きすてた故実にもとづくと説明されている注10)。いずれにしてもこの神事が大松明をやくことによって災厄を除去する目的からおこったものであると説明されているのである。
松例祭の歴史についてはほとんど記録が残っていない。わずかに近世初頭のものと推定される「羽黒三山古実集覧記」には、
「毎年九月二十日。冬峰修行開闢の儀式。先達両人は両松聖と号す。−−中略−−百修行中所々山籠の行法。天下泰平。国家安穏。五穀豊饒の勤行無二(返り点)怠慢一(返り点)相勤候。大晦日於二(返り点)三山権現総社宝殿一(返り点)緒願の式有レ(返り点)之。大火炬を引出し。位上先達(途か−−宮家)勝負の儀式相済−−以下略−−注11)」
との記載がある。なお同書には引きつづいて国分の神事の説明もなされている。ここでは松例祭は羽黒山冬の峰結願の式ととらえられているのである。
この他では、慶長7年に玉蔵坊が羽黒山別当宥源から与えられた、永正の旧記により松聖が修行中死亡した際にその代理を勤めるよう依頼された許状が伝えられてている注12)。また貞享4年のものといわれる「羽黒山年中行事」には、松聖の修行及び大晦日の行事が記されている注13)。さらに慶応元年の「羽黒山松聖旧事記」には、元文5年、松聖の行中の細事がなおざりにされているので、旧来の慣習を守らせる為に「松聖行中記」を作ったとの記載がある注14)。この他近世末期以降は、参籠修行中の松聖が残した日誌の類がいくつか伝えられている。
松例祭は明治の神仏分離により一時中断した。しかしまもなく手向部落の村民が中心となって、山上とは関係なく山麓手向部落の黄金堂で実施された。けれども明治中期には装をかえて出羽三山神社の行事として山上で行なわれるようになったという。
以上史料に見られる限りで松例祭の歴史を瞥見したが、これだけで松例祭の歴史すべてを語るには不十分であることはいうまでもない。しかしながら、松例祭は中世期以降、羽黒修験の冬の峰結願の日の作法として行なわれて来たもので、特に松聖の修行に眼目があったと推定することは可能であろう。
ところで冬の峰の松聖のように、冬から春にかけて山岳にこもって修行した修験者は、晦日山伏と呼ばれ特に呪験力に秀でているといわれていた。晦日山伏の修行は熊野山や金峰山では特に中世から近世にかけて盛んに行なわれていた。中世期における熊野関係山伏の峰入の記録である「山伏帳」巻下には、承安元年(1171)及び文治3年(1187)の晦日山伏峰入の様子が記されている注15)。また文亀3年(1503)の奥付のある「金峰山創草記」によれば、晦日山伏は12月晦日に入峰し、4月8日に出峰する。そして出峰の日(4月8日)には将軍家の為に祈傭をし、翌9日夜には験競を十番行なう。この折、一方は出峰山伏で他方は交衆であるという。ひきつづいて終夜延年が舞われている注16)。 中世末期の晦日山伏の修行については、熊野修験の教義書「両峯問答祕鈔」巻上にくわしい。これによると、
「間云、晦日山臥者是何事哉。答云。彼山臥儀式者是神事也−−中略−−而自二(返り点)十一月三日一(返り点)至二(返り点)十二月晦日一(返り点)六十箇日之大営。是則天照大神御饗応之儀式也。是号二(返り点)先途山臥一(返り点)焉注17)」
と記されている。つまりここでは晦日山伏は毎年11月3日から12月晦日迄こもる山伏で、先途山伏ともよばれるとしている。とすると、場所は違っても冬の峰の松聖と性格的に近いものが感じられる。なお晦日山伏の他に大峰山中の笙の窟や那智山の岩屋に籠る修験者も多かった。笙の窟の冬籠は9月9日から正月3日にかけて五殻を断ってこもるものである注18)。これに対して那智山の岩屋籠は1千日に及ぶという注19)。
ところで「金峰山創草記」などに見られるように晦日山伏は出峰後は験競べを行なっている。このように修行のあとに行なわれる験競べは、験力を得た修験者が左右に並んでたがいに験をきそうというものであった注20)。ちなみに大永年間の「三峰相承法則密記」所収の「験競役者事」には
「注進 千年山恒例験競役者事、第一番 左方行者観音房実名 右方行者堯名房実名 第二番 左方行者房号実名 右方行者房号実名 第三番 左方行者房号実名 右方行者房号実名 右為二(返り点)衆儀一(返り点)所二(返り点)差定一(返り点)如レ期、年号 月日注21)」
との記載がある。
それでは、こうした験競は具体的にはいかなる形のものだったのであろうか。「木の葉ころ裳」をみると浄蔵が石に護法をつけて操作する話が記されている。また同書には火渡り、刃わたりなどが験競べとして行なわれたことが記されている注22)。この他、修験道においては火を操作する験術の類が験くらべとして行なわれることが多かったことは、私も以前指摘したことがある注23)。
験競べとは、明記されてはいないが、毎年12月31日、厳島神社別当寺の大聖寺で行なわれていた(現在は厳島神社で行なう)晦日山伏の神事はきわめて興味深い。この行事は、供僧が座主大聖院に集まって饗応をうける。次いで前駆二人に導かれて、御幣を中にした供僧が松明を持って神社拝殿に馳せまいる。そして法螺、読経による参拝後、再度松明を持って別当寺にかえるものである。この際の松明の火は元来は弥山山上の常夜燈の聖火が用いられたといい、村人はこの松明の火をうけて帰り、若潮むかえの火や雑煮をにる火だねにしたという。また松明のもえのこりは火難よけに用いられたという注24)。
この厳島神社の場合には、晦日山伏が修行して出峰した山伏であるかどうかは明白ではない。ただこの山伏達が羽黒山の松例祭と同じく晦日に松明を操作していることに注目しておきたい。これに対して戸隠山の天台修験の柱松の神事は夏の峰入後というように時期を異にしているとはいうものの、峰入のあと、火による験競べが行な、われたことを示す興味深い事例である注25)。
以上私はまず伝説を通して、松例祭が当初災厄除去を目的とする神事であったことを推測した。そして、その歴史を見ると冬の峰結願の験競べの性格を持ち、特に松聖の修行が重視されていたことを指摘した。もっとも峰中修行−−なかんずく冬期の−−をおえた修験者が、その験力を誇示する目的で験競べを行なうことが各地の修験で見ることができたとすると、松例祭もその一つと考えることが出来る。そしてこの立場にたつと松例祭はあくまでも冬の峰の修行の結果を示す手段にすぎないということになる。しかし現在の松聖は斎館にこもるのみでさしたる修行をしているわけではない。そこで以下主として、近世期の手文(慶応元年の「羽黒山松聖旧事記并に改制帳」を定本とする)を中心として、戸川安章氏の御教示をもとに、当時の松聖の修行内容をふり返って見ることにしよう。
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注9)戸川安車「拾塊集の研究」国学院雑誌47の7。
注10)出羽三山神社札務所「羽黒山松例祭について」。
注11)「羽黒三山古実集覧記」修験道章疏3、443頁。
注12)戸川安章氏所蔵文書。
注13)「羽黒山年中行事」明治維新神仏分離史料第2巻所収。
注14)原田敏明『日本祭礼行事集成』第2巻、32頁。
注15)「山伏帳」巻下、修験道章疏3、390−391頁。
注16)「金峰山創草記」修験道章疏3、365−366頁。なお本書によれば、9月9日から翌年の3月3日にかけては笙の窟で冬籠が行なわれている。
注17)「両峯問答秘鈔」巻上、修験道章疏2、596頁。
注18)「両峯問答秘鈔」巻上、修験道章疏2、598頁。なお「金峯山創草記」によれば、笙の窟冬籠は9月9日から3月3日までとなっている。
注19)「両峯問答秘鈔」巻下、修験道章疏2、607頁。なお九州の求菩提山の修験道でも、山伏の最高位たる長床第一和尚になる為には12月30日から3年間にわたる1千日の籠山修行を行なったという(重松敏美「豊州求菩提山修験文化攷」149−156頁)。
注20)「木の葉ころ裳」巻上、修験道章疏2、493頁。
注21)「三峯相承法則密記」巻下、修験道章疏2、493頁。
注22)「木の葉ころ裳」修験道章疏3、186−187頁。
注23)宮家準「修験道の験術」哲学48集、昭和41年。
注24)野坂元定「厳島神社の鎮火祭」まつり4号、昭和37年参照。
注25)「顕光寺流記」によると、「夏末、又云二(返り点)柱松一(返り点)焼二(返り点)尽煩悩業苦一(返り点)亦顕二(返り点)一夏行徳威徳」と記されている(僧有通編、「顕光寺流記」長禄2年7月15日「信濃史料」第8巻所収)。
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