「中国四平腔学術研討会」参席備考二題

                               2006.10.28    野村伸一

  Ⅰ 四平腔をめぐる熱気 

 2006年10月16日から18日まで福建省屏南(ピンナン)県で四平腔、四平戯を主題とする大規模な学術研究、討論会が催された。京劇や崑曲、儺戯、目連戯などの会議には国外からも相当数の研究者が集まるようであるが、福建省の四平戯はまだそれほど研究が進んでいない。とはいえ中国内の関心は高く、今回、口頭発表をした中国内の研究者、文化庁関係者は五十名余りにで及んだ。ただし台湾からは三人、日本からは一人の参加であった。 


竜潭村の四平戯『沈香破洞』より。屏南

 三日間の会議のあいだには実際の芸能の公演があった。屏南県の各地で伝承されている四平戯のうち、龍潭村の人びとによる四平戯「沈香破洞」全本の上演があり、また『白兎記』の一部「井辺会」もあった。そのほか、在地のことばによる平講戯(ピンジャンシ)(演目『馬匹卜換妻』)、乱弾(ルワンタン)(演目『双合縁』)が演じられた。さらに双渓村の城隍廟では杖頭傀儡戯(演目『江姑伏虎記』『白蛇伝』)および提綫四平傀儡戯(演目『隋唐演義』)が演じられた。これらは全体として熱気が感じられた。ある意味では初心のもののみが持つ新鮮な緊張感が隅々にまでいきわたっていたといえるだろう。
 とくに印象深かったのは双渓村の城隍廟である。いかめしい城隍神に向かい合うところに舞台がある。そしてその前の空間は村の人びとでいっぱいとなった。ここでは、四平戯だけでなく、土地のことばによるさまざまな芸能が祭祀とともに息づいていることがよくわかった。


双渓村の城隍廟。杖頭傀儡戯『江姑伏虎記』


 四平腔が明末に南京の近くで流行ったことは資料がある。ただし、福建北部の四平戯がはたして明末以来のものなのかどうかは今後まだ検討の余地があるようだ。しかし、村の人びとの「記憶」では確かに明末以来、江西省から習い伝えたものという。その実年代を考証することよりも一層、重要なことがあるようだ。それは、今、福建の祭祀芸能の世界でみられる基層文化のかけがえのない「記憶」がここにはあるということである。
 やがて十年もすれば、それは文字と映像と新しい脚色で変容していくだろう。16日にあった龍潭村の四平戯公演はすでにいくらかその兆しがあった。それは楊源村や禾洋村の古朴な四平戯に較べるとだいぶあか抜けしていた。しかし、まだ、ここでは、祭祀のなかの芸能ということが十分に生きている。
 これをどのようにしていくべきなのかは今まさに焦眉の問題であろう。



  Ⅱ. 口頭発表要旨

 付記  会議での発表は、一人15分の限られた時間で進められた。以下は10月19日の最終日に報告した内容である。会場ではほぼこのまま読み上げた(通訳 馬建華氏)。

「中国の民間祭祀芸能小感─福建省の祭祀儀礼や芸能を通して」

 

                                                             慶應義塾大学 野村伸一

 

  1. 

 

 四平戯については現地で2回、見学しました。すなわち、はじめは2005年に福建省政和県楊原村で、二回目は2006年政和県禾洋村で農民たちの手による祭祀のなかの四平戯をみました。それはわたしにはたいへんおもしろく感じられました。しかし、研究はまだこれからです。そこで、今回は、地方文化や地方の祭祀儀礼に関して、日ごろ考えていることをまず述べ、次に目連戯や四平戯についての感想を述べることにします。こうした点、ご了承ください。

 

  2. 

 

 はじめに東アジア各地の祭祀儀礼と芸能をどのように考えているかということを簡単に話したいとおもいます。

 わたしは、30年ほど前、1970年代には、日本国内の山神信仰と山村の生活に興味を持ちました。日本では、当時、都市文化が急速に進展する一方、地方ではまだ多くの伝統的な習慣と祭儀が維持されていました。それを実際にみて回ることは興味深いことでした。

 ところが、1980年代以降、わたしは日本の地方文化にみられる形式化、様式化に飽き足らなくなりました。そして韓国の民間祭祀儀礼と民間の芸能を知って驚きました。そこには巫女の文化とそれを支えた女性たちの文化がたいへん力強く残っていました。韓国社会は当時、経済の高度成長を実現しはじめていて、都市は急速に近代化していました。しかし、農村や山村は、まだ十分に近代化の恩恵を受けることができず、数多くの矛盾と葛藤が現れていました。

 それはかつて1960年代から70年代の日本社会でもみられたものです。こうした状況において、一般に知識人は文学や戯曲のかたちでその気持ちを訴えることができます。しかし、そうした方法を持たない人びとは何によって、自分たちの気持ちを表現するのでしょうか。

 わたしの考えでは、それは民間の祭祀儀礼や芸能によって表現されたのです。韓国の1980年代は都市の人びとの民主化の要求が高揚した時期でした。そして、また、そうした都市の民主化の運動とは直接の関係がない、地方の巫女の儀礼や伝統演劇がやはり、その時代には生き生きとしていたのです。

 これはなぜでしょうか。いうまでもなく、依頼者である一般の人びとの胸のうちに訴えたいことが充満していたからです。その思いが、家族の死や病気などを契機として儀礼や芸能のなかで表現されました。つまり祭儀のなかで神や祖霊の言葉として、また滑稽な寸劇を装った社会諷刺として現れていたのです。

 

  3.

 

 もちろん伝統社会の祭祀と芸能の表現には限界があります。そこでは、今、現在生きている人間が中心ではありません。まず何よりも神や祖先の霊、あるいは無祀孤魂がいます。さらには生きている長老、先輩という人たちもいて、このもとで秩序が形成されています。

 こうしたなかで祭祀儀礼や芸能がおこなわれるのですから、個人の悩み、苦しい気持ちが直接表現できるかといえば、それはあまり期待できません。そのため、知識人や都市の生活者の多くは伝統的な祭祀儀礼や芸能に新しい意義を求めることは無理だと考えます。

 しかし、わたしは、1980年代の韓国で祭祀儀礼や仮面の芸能をみたとき、そうではないということがわかりました。当時韓国では、まだ少なくない人たち(とくに20~30代の青年たち)が、伝統的な村落の祭儀や巫女の儀礼、仮面の芸能などに自分たちの文化の根を見出そうとしていました。

 わたしは、その人たちの考え方に大いに学びました。そして、自分たちの社会の基層において持続してきた祭祀儀礼や芸能を十分に学ばなければ、近代化や民主化を叫んでみても、本当の成果は得られないのではないかとおもいました。それは今、一層強く感じています。その意味で、最近の韓国社会をみていると、都市化、近代化があまりにも早すぎるようにおもいます。そこでは、伝統社会に生きつづけていた祭祀儀礼や芸能が急速に変容し、形式化しています。そして、あるものは消失しています。

 現在の韓国社会では、政治の民主化はかなり実現したといえます。しかし、自分たちの根柢にあった文化の伝承、意味づけに関連しては深刻な悩みを抱えているといえます。今後、かつての日本がそうであったように保存、維持に重点を置くのか、あるいは変容や消失を放置するのか。それとも別の道を探るのか。とにかく現在、韓国の若い民俗学者たちは自分たちの文化の根を求めて新しい模索をはじめているところです。

 一方、こうした韓国の経緯をすでに30年か40年前に経験していた日本では、伝統社会の文化をあらゆる領域で形式化、様式化して残してきました。おそらく、韓国、中国の文化の研究者は日本にいって、その地方文化の保存の様子をみれば驚くことでしょう。とにかく日本では地方文化、祭祀儀礼は数多く残っています。またそれらの記録、整理もたいへんしっかりとおこなわれています。ただし、またこうもおもうことでしょう。「そこには人びとの差し迫った思いとか生命力はあまり感じられない」と。

 

  4.

 

 地方の祭祀儀礼や芸能のなかに生命力があるかどうか。それは、結局、そこに参与する人たちがどのていど、真摯な思いをもってそこに参与しているかということと関係しています。

 わたしは、日本では、1970年代の終わり頃から、また韓国では1990年代以降、あまりそれが感じられなくなりました。人びとが便利な都市文化にすっかり満足してしまったからか、あるいは祭祀儀礼を単に慣習、形式としてだけつづけているからか、理由はいろいろでしょう。


写真1 臨水夫人廟の儀礼。台湾台南市

 
こんななかで、わたしは
1990年代後半に、台湾と福建の祭祀儀礼に接しました。そこではとくに女性たちの態度が新鮮でした。たとえば、台南市の臨水夫人廟では、今日、若い母親たちの参拝が数多くみられます(写真1)。子供が生まれることを祈願する人、あるいは幼児が無事成長するようにと祈る人が大半です。

 こうした人たちのためには道士や法師が簡単な儀礼をしてあげます。その形式はいかにも民間道教という感じで素朴なものですが、わたしは形式はともかく、参拝する女性たちの表情がすばらしいとおもいました。みな、真摯に祈りを捧げて帰っていきます。

 その祈りのかたちと印象は、1980年代に韓国で感じたものと同じものでした。

 

   5. 

 

 わたしは2000年に福州にいきました。そこで葉明生、馬建華両先生に会ってから、いろいろ教えられました。そして、福建の民間祭祀儀礼と芸能をほとんど毎年、みるようになりました。

 いろいろ印象深い祭祀と芸能があります。今日はとくに三つ取り上げておきます。第一は福建東北部寿寧県で正月元宵節におこなわれる陳靖姑を祀る祭祀、第二は中部莆田地区の目連戯、そして三つ目は、北部政和県でみた四平戯です。これらは日本、朝鮮**[1]との対比の上でたいへん注目されます。以上の三点それぞれについて順に説明します。

 寿寧県のものは下房村の陳氏の人びとが中心になって、陳靖姑という女性神を村の廟に迎えまつるものです。下房村では一年ごとに傀儡を使って陳靖姑の一生の物語を上演します。それをみる人老人たち、とくに女性は物語をほとんど暗記しています。それゆえ、この女神が人びとの宗教観、生活感情と密着して現代に至っていることがよくわかります。そして、また、陳靖姑を通して福建の女性たちのたくましい生活史がよくわかるのです。たとえば陳靖姑自身はもとは一介の巫女です。そして、人びとのために力を尽くします。ところが、まだ若いときに、閩江のほとりで雨乞いをして死にます。そして、そののち人びとに祀られ神となりました。こうした女神の物語を村の定期的な祭儀のなかで反復して上演するということは朝鮮や日本の地方文化ではあまりみられないとおもいます*[2]

 

   6.

 次に目連戯について考えたことを述べます。今日は時間がないので、次のことだけをとくにいっておきたいとおもいます。わたしのみた目連戯は数がまだ限られていますが、仙游地区でみた次の場面(写真2)がとくに注目されます。


写真2 目連戯の三殿超度。莆田市仙游県楓亭鎮斗北村大浦。

 それは、目連尊者による三殿超度の場面です。ここでは、民間の霊魂済度儀礼が挿入されます。すなわち目連救母の物語が一時中断されます。そして、目連は現実の村人たちのために超度儀礼をやります。人びとの依頼があれば、いつまでもやるので長い時間かかります。近代的な演劇の通念からいえば、これは演劇を壊してしまう行為です。しかし、そこには人間の根源的な要求、すなわち身近な者の死を追悼したいという気持ちが直接表れています。その表現こそはもっとも古いかたちの演劇であるとおもいます。しかも、参与した人に救済感を与えるという意味では近代の演劇よりも意味深いものがあるとわたしはおもいました。

 

 7.

  さて、第三番目にあげた四平戯については、次にあげる五点が印象に残りました。

今回の会議は四平戯が主題なので、なるべく具体的に述べたいとおもいます。

 1)2005年に政和県楊原村で四平戯をみました。第一に村の人びとが、自分たちの祖先祭祀の一部として演劇をつづけていることが印象的です。農村の人びとが独自の組織を作って毎年2回も祭祀儀礼をし、その一環として演劇が欠かさずおこなわれるということ、これは現在の日本と朝鮮にはみられないとおもいます。

 2)第二に、それが明清時代の伝統を受け継いでいるということ、これも十分意味のあることです。日本や朝鮮にも古い祭祀儀礼や芸能があります。しかし、二百年から三百年前後の歴史のものが大半です。もちろん、時間の長さだけが意味の深さを保証するものではありませんが、四百年にわたる伝承というのはやはり、尊重されるべきでしょう。

 3)第三に、楊源村の英節廟と廟内の舞台が村人の手で守られていることに感心しました。中国にはこれよりもずっと古い舞台が各地に残っています。しかし、管理委員会が文化遺産として管理しているものが多いようです。それは、わたしにはあまり興味深くありません。管理された舞台はただの遺物です。地方演劇の舞台はその地に住む人びとがその舞台の上で心のこもった演劇をしてこそ意味があります。楊源の英節廟ではそれがみられます。こうした常設の舞台を維持して演劇をするところはやはり、朝鮮や日本にはないとおもいます。以上の三点はいわば四平戯の形式の上からの感想です。

 4)第四に、四平戯の演目について感じたことを述べます。ここではふたつのことが印象的でした。第一点は宗族の体制、その維持に不可欠な感情や倫理が直接的に表現されたものがくり返し上演されることです。第二点は観客、とくに女性たちの意向が意外に多く反映されていることです。そこには、宗族の重視する儒教倫理にとらわれない生活が示唆されています。

 以上の二点について、もう少し補足しておきます。たとえば「八仙」や「跳魁星」、また『東方朔偸桃』『蘇秦奏主』『彭子求寿』『張公義』などは慶祝の表演です。それは演劇としてはあまりおもしろいとはいえません。これは人びとの素朴な期待、倫理観をそのまま表明したものです。そこには演劇的な起伏はみられません。

 ところが、四平戯のなかでは、次のような演戯がみられます。これは、わたしにはおもしろく感じられました。すなわち、『白兎記』や『上華山』のなかで、母と子が他意により一度は別れます。しかし、苦難ののちに母子が再会します。この母子の別れと再会の演出は目連救母劇を反映したものとみられます。

 それだけでなく、また、『楊六郎斬子』での穆桂英の立ち回り、『尋箭』における金連の積極的な求婚、『挂牌大戦』の包三娘および『玄武関』の才月娥などの勇姿。こうした演目のなかでは、男の力と対決しても負けない、強い女性がよくえがかれています。そこには観客の中心をなす女性たちの意向が十分反映されているとおもいます。

 こうしたものが中国演劇のなかにいつごろはいっていったのかはよくわかりませんが、福建の四平戯のなかではひとつの伝統を形成していると考えます。とにかく、実際の上演時間を計ってみると、これらはかなり長く演じられています。いかに好まれていたかがよくわかります。

 5)第五に四平戯の上演の前後にみられる祭儀が興味深いものだといえます。いうまでもなく地方芸能は都市の舞台演劇とは違い、祭祀儀礼が伴わなければ価値は半減です。

 2006年に政和県の禾洋村でみたものについて説明します。禾洋村では現在、祠堂と舞台がありません。かつてはあったというので、その点は残念なのですが、村の祖神東平尊王に四平戯を奉納することは変わっていません。そのために人びとは行列を作り、神を福首の家や舞台のあるところに迎えます。そして、芸能を奉納したあと、神送りをします。 それらの一連の祭儀はどれも真摯なもので興味深いものでした。そして、そのうち、とくに3日目の夜の祭儀はすばらしいものでした。すなわち、神送りに際して、村の子供たちが三十人ほど集まり、手を拍って心から神に感謝し、神を送り出しました(写真3)。この時、神は若い子供たちの身の上におりてきているかのようでした。実際、中国以外の地でも、神は子供の上に容易に降りてくると考えられています。


写真3 四平戯の上演後、東平尊王を送り返す子供たち。政和県禾洋村。

 子供たちは四平戯の上演中はもちろん、上演後の祭儀にも参加しました。そして神送りの儀礼では村の平安のために一心に唱えごとをしました。村のなかで、こうしたかたちで毎年、おこなわれている四平戯は、様式化、形式化する以前の演劇、元来の祭祀演劇を伝えたものといえます。これは演劇以上にたいへん感動的な場面だったということをいっておきたいとおもいます。

 以上、朝鮮や日本の民間祭祀、演劇との比較という視点で簡単に感想を述べました。本格的な四平戯の討論に参考となれば、さいわいです。 



 注

*[1] これは朝鮮半島とその周辺の島嶼部を含めた呼称として用いています。

*[2]  ただし、朝鮮の慶尚北道河回村には、不幸な死に方をした村の女神のために、何年かに一度、その心意を慰めるために仮面戯をするということがあります。これは14,5世紀にはじまったのではないかと推測されています。現在は村の祭祀はなくなりましたが、仮面戯だけは保存されて時折演じられます。当時、東アジアではそうした女神の祭祀が盛んになったとみられるので、この朝鮮の仮面戯の存在は注目されます。