韓国寺院の盂蘭盆斎

                                    野村伸一

  付記
 
 この文章は2002年に開設した「目連戯に関する議論用掲示板」に掲載した拙文に図版などの補訂を加えたものです。上記掲示板は所期の目的を終えたので閉鎖しました。
 なお、そこで得られた貴重な意見などは、野村伸一編著『東アジアの祭祀伝承と女性救済-目連救母伝承と芸能の諸相』、風響社、2007年)としてまとめました。                  (2009.4.5)


 1

2002年8月23日は旧暦7月15日、韓国各地の寺では、「百中(ペクチュン)祈祷」という名で盂蘭盆斎をやる。ソウルあたりの寺院ではむやみと数多くの信徒が集まるときいているが、地方の寺刹では百人前後の集まりといったところである。
 今日、曹渓宗、太古宗を問わず、朝鮮朝の初期の記録にあるような音楽、僧の舞を伴うような盂蘭盆行事はまずおこなわれていない。舞や梵唄(声明)を伴う盛大な法会は「霊山斎」(ヨンサンジェ。ソウル奉元寺でおこなう重要無形文化財のものが有名だが、それ以外にもある)や京畿道の各所で不定期にやる水陸斎のときに、たまにおこなわれるていどのものとなっている。
 一方、曹渓宗の僧侶たちは、音楽や歌舞、あるいは仏画の内容などには多くは無関心、冷淡で、そのようなことは仏教の本質とはかかわりのないことという反応がしばしばである。
 
 2

 今回は、盂蘭盆斎の現況を知るために、4、5日かけて、慶尚南道河東郡双磎寺(サンゲサ)、全羅南道海南郡大興寺(デフンサ)、同昇州郡仙巌寺(ソナムサ)を訪問した。このうち大興寺では信徒百数十名の参加する盂蘭盆斎をともに経験した。今日の韓国では、生活の仕組みそのものが変化したからか、あるいは人びとの価値観そのものの変容のためなのか、いずれの寺刹でも、行事は午前九時半ごろからはじまり、午後一時前には終えている。宗務所の代表僧に以前のことをたずねると、かつて盂蘭盆斎は一日がかりの行事であったというが、それではとても信徒がついてこないだろうという。

 3

 参与した大興寺の儀礼は次のとおりであった。

 1).仏菩薩への供献 
 釈迦讃歎、『千手経』による観音讃仰、地蔵菩薩招請、神衆への『般若心経』奉読。

 2).灌浴 

  霊山斎の灌浴儀礼(1988.6.10於ソウル奉元寺)


 この段はもっとも民俗的なもので、そのことは僧自身が認めている。招請した孤魂を洗い清め、新しい衣に着替えることを表現するために、あらかじめ白紙でこしらえておいた模造の小さな衣を水のはいった洗面器の上で燃す。これらは大雄殿(本殿)の三尊仏の裏側において、ひそかに屏風の陰でやるので、だれもみることはできない(これは、霊山斎のなかでもやる。こちらはみたことがあるが、なるほど民俗そのものである)。
 なお明代末、袾宏のまとめた水陸斎の儀軌『法界聖盆水陸普度大斎勝会修斎儀軌』のなかにすでに「奉浴」がみえるので、灌浴は相当に古くから仏教にはいりこんだ儀礼であろう。これは全羅南道の代表的な死霊祭シッキムクッの形成(『民俗芸能研究』第25号、1997年参照)に影響を与えているとおもわれる。

 3).法文
 大興寺の副住持が盂蘭盆会の意義にかかわる説経をする。このなかで目連尊者の救母の故事が説かれる。ただし、これはいかにも「お説教」といった感じであった。じっときいていると、しみじみとはするが、とくにそれが強く印象に残るというほどではなかった。

 4).施食
 正面の左側に霊駕(ヨンガ、死者霊)の壇(霊駕薦度位牌祭壇)が設けられていて、ここの前で招請した霊魂への施食がおこなわれる。


▲僧による説法(以下2002年)

 ▲霊駕(ヨンガ、死者霊)の壇での施食。最初の図版では左の壁に甘露幀が掲げられている。元来はそこにえがかれた庶民たちの霊魂も同じように供養されるべきなのだが。後掲の甘露幀参照。

▲庭に出ての奉送


 4

 直接、みることのできた儀礼はあらまし以上のとおりだが、その翌日、太古宗の古刹仙巌寺にいき、聞いたところでは、ここでは一週間の祈祷が今日なおおこなわれていて、最終日が旧暦7月15日だという。これは、かつて、宋代の盂蘭盆斎が7日以降、15日まで目連戯とともにおこなわれたというのと通じるもので、おそらく古式に則ったものであろう。ただ、一週間のあいだ、四時、勤行をするのではなく、一日四回、適当な時間、読経するだけというので、これまたぎりぎりのところまで簡素化しているとみられる。

 5

 ▲双磎(サンゲ)寺の甘露幀(1728年)。流浪し、自死する庶民。


 上記、三か寺には、朝鮮朝の仏画「甘露幀」が残されていて、それについての興味もあったが、今日、寺院の側では、その精神はほとんど生かされていない。すなわち、その仏画には、孤魂あるいは餓鬼に対する救済に参与することこそが、世の安寧につながるということが具体的に表現されているのだが、盂蘭盆斎において、この仏画の前で、読経をすることはまったくない*1
 すると、7月15日は信徒のイエの霊魂を中心に救済するだけということになるのではないか。大興寺の僧によると、2、30年前はそうした仏画の前でも読経があったというから、世の中は確実に酷薄になっている。これがワールドカップで湧き上がった韓国の基層文化の実態でもある。今日、韓国では日本以上に都市の文化と農漁村の基層文化とのあいだの乖離が生じていて、それに対する見直しも叫ばれてはいるのだが。
 もっとも、日本の寺院のばあい、檀家への盂蘭盆会の通知はもうだいぶ以前から、寄付を催促する文書を機械的に送りつけることで終わっている。こちらはそれ以上ということかもしれない。
                         (2002.9.9記、2006.2.12補訂)

 注1
 甘露幀下段の図像については、野村伸一「朝鮮時代の仏画にみる女性生活像」『日吉紀要 言語 ・文化・コミュニケーション』No.30、慶応義塾大学日吉紀要刊行委員会、2003年に部分的な言及がある。また、日本に伝存する初期甘露幀に対するより包括的な研究としては、服部良男氏の一連の論考がある。すなわち「松坂市朝田寺蔵『盂蘭盆盆経説相図』は『霊魂薦度儀 式図』か」『びぞん』79号、美術文化研究会、1988年、同『重要文化財 薬仙寺所蔵『施餓  鬼図』を読み解く』、日本エディタースクール出版部、2000年、「大津市西教寺所蔵『盂蘭盆 経説相』を読む」『アジア遊学』28.29.30.31.32号、勉誠出版、2002年、「明石市光明寺蔵『  盂蘭盆経曼荼羅図』を読む-朝鮮李朝仏画《初期甘露幀》の世界」『絵解き研究』第十九号、2006年がそれで、ここには儀軌に基づいた緻密な読解がみられる。そして、何よりもこの世におけるさまざまな「横死」への鎮魂が意図されている。
 なお、韓国の盂蘭盆会とその民俗的な意味については、上記、野村伸一編著『東アジアの祭祀伝承と女性救済-目連救母伝承と芸能の諸相』、風響社、2007年所収の李京燁論文「韓国の目連伝承と盂蘭盆斎」を参照されたい。