慶應義塾大学アジア基層文化研究会

2001年度活動日誌

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最終更新日:2002年3月28日


  1. 研究例会
    1. 5月25日 田仲一成 「宋元と明清の女性観の比較」
    2. 6月22日 高雲基 「韓国の中世における女性 - 13世紀の文献資料を中心に」
    3. 10月5日 野村伸一・鈴木正崇「台湾・福建の中元節について」
    4. 10月22日 国際シンポジウム開催
    5. 1月22日 高達奈緒美「血盆経信仰の諸相
    6. 3月1日 黄縷詩(ファン・ルシ)「女性としてのムーダン−韓国の女性生活史のひとつとして」(2002.3.28更新)

  2. 実地調査と研究
    1. 8月31日−9月12日 中国福建省の中元儀礼調査
    2. 11月20日ー29日 中国福建省田での目連戯調査
    3. 12月12日ー20日 沖縄県宮古島宮国のンナフカ調査
    4. 2002年2月6日ー12日 韓国の仏画を通した宗教文化の調査研究(2002.2.25更新)

研究例会

5月25日 田仲一成 「宋元と明清の女性観の比較」

演題   宋元と明清の女性観の比較
発表者 田仲一成(東京大学名誉教授)
日時 2001年5月25日、金曜日、午後6時半より
場所 慶応義塾大学三田キャンパス、大学院校舎8階地域研研究室


田仲一成氏は中国の民間に伝わる演劇空間を幅広く実地調査してきた。かつて、自由な調査が不可能であった時代におこなったその調査の先駆性はいうまでもなく貴重なものであるが、それだけにとどまらず、その膨大な研究書においては緻密な読みの深さを提示してきた。民間の祭祀と演劇は、文献だけで得られる理解とはかなり異なるものである。そこには、いつでも村の婦女子という観客がいる。そしてそれを取り巻く宗族のさまざまな規範がある。演劇は一定の「物語」の上に成り立つが、その物語に陰に陽に働きかけるのはやはり「観客」である。今回は、近作の 『明清の戯曲』を踏まえつつ、それとの対比において、宋元の戯曲や文物の中にみられる女性観を提示してもらう。

田仲一成 たなか・いっせい

1932年東京に生まれる。1972年から93年、東京大学東洋文化研究所教授、また1993年から98年、金沢大学文学部教授、1998年から2000年3月、桜花学園大学教授を務め、現在は研究に専念している。この間、中国の祭祀演劇および演劇史の研究に携わり、『中国祭祀演劇研究』1981年、『中国の宗族と演劇』1985年、『中国郷村祭祀研究』1989年、『中国巫系演劇研究』1993年、『中国演劇史』1998年を上梓し、最新作に『明清の戯曲』2000年がある。

6月22日 高雲基 「韓国の中世における女性 - 13世紀の文献資料を中心に」

演 題:韓国の中世における女性−13世紀文献資料を中心に
発表者:高 雲基(慶應義塾大学訪問研究員)
日 時:2001年6月22日(金) 午後6時半より
場 所:慶応義塾大学三田キャンパス、大学院校舎4階 341教室

高雲基氏は韓国の主要な歴史・説話・詩歌資料である「三国遺事」を研究している。「三国遺事」は10世紀までの資料だが、実際は13世紀に著作出版された。そのためこの本を正しく理解するためには韓国(高麗)の13世紀の状況を理解する必要がある。著者がどんな状況でこの本を著述したのかを探ることを通じて、この本の深い理解とともに13世紀韓国の状況も理解することが出来るだろう。特に13世紀は文永・弘安両役をきっかけとして、日本列島と朝鮮半島のあいだに緊張が高まった時期でもあった。この時期の韓国(高麗)の女性達は、どんな位置でどんな生活をしていたのか。15世紀以後、韓国(朝鮮)社会とは異なる様相を見せてくれる女性たちの姿を通して韓国の中世を探索してみる。


高 雲基 コ・ウンギ
1961年 韓国・全南に生まれる。延世大学大学院国文学科修了(文学博士)、1996年から1999年、明知大学文学部助教授、1999年から慶應義塾大学文学部訪問研究員、延世大学国学研究院研究員。著書に『一然』1997年、『解説韓国古詩歌』1998年を上梓し、最新作に『解説三国遺事』2001年がある。

10月5日 野村伸一・鈴木正崇「台湾・福建の中元節について」

 題「座談 台湾、福建の中元節」
 出席 鈴木正崇、宮坂敬造、野村伸一ほか


 旧暦7月は各種の霊魂を弔う月で寺廟においていろいろな儀礼があり、また個々の家庭でもこころをこめて亡き人を弔います。かつてはこのときいたるところで目連戯などがおこなわれました。今日では演戯の奉納はだいぶ少なくなったようですが、まだおこなっているところもあります。
 この9月に見聞したことなども含めて、こうした行儀の歴史や現況などをはなしあいたいとおもいます。

10月22日 国際シンポジウム開催

慶應義塾大学地域研究センターの研究プロジェクト「危機の共同体ー東シナ海周辺の女神信仰と女性の祭祀活動」(代表者野村伸一)では、昨年に続いて10月20日(土曜日)に国際シンポジウム(通訳付き)を開催します。女性の社会生活史を踏まえて、女神信仰の意味と広がりを福建、琉球、朝鮮半島南部から歴史的に考えてみたいとおもいます。一般に公開するもので、自由な質疑応答の場も用意しました。ぜひ御参席いただきたく、ご案内する次第です。

日時:2001年10月20日(土) 13:00-18:00

場所:慶應義塾大学(三田)大学院校舎1階313番

プログラム 
13:00-13:10 あいさつ
野村伸一(慶應義塾大学教授)
 13:10-14:00  「沖縄の女性生活と女性祭司」
         高梨一美(東横学園女子短期大学教授)        
14:00-15:00 「韓国全羅南道の女性生活と女神信仰」
        李京附泄イ攅駝擶座膤愿舫拱顕集Φ羹蠍Φ羸貲ざ擬・法・面・佞-

休憩
  
15:10-16:10 「中国福建省の女性生活と女神信仰の歴史」
徐暁望(福建社会科学院、歴史研究所長・研究員)、通訳付き
16:20-18:00 総合討論
司会 野村伸一・鈴木正崇(慶應義塾大学教授)
  討論参加者 野村伸一・鈴木正崇・宮坂敬造・石井達朗・田仲一成・神田より子

 (各人3,4点の事項をあげておいて、その点について簡潔に質疑します。)

18:00-20:00  講演者歓迎会 (慶應義塾大学<三田>大学院校舎8階会議室)
*参加費 1000円

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発表要旨 (ご覧になるには、AcrobatReaderが必要です →ダウンロード シンポジウムビデオ映像(ご覧になるにはRealPlayerが必要です →ダウンロード

1月22日 高達奈緒美「血盆経信仰の諸相」

 東シナ海周辺地域における女性の地位の変化を端的にものがたるものとして血盆経の信仰があります。宋代以降の中国社会に発生したものとされ、いくらか遅れて日本にももたらされました。日本のばあいは立山や恐山を舞台として、その展開がみられたことはよく知られていますが、この信仰の日本における成立過程や具体的な儀礼の諸相などは、いまだ明らかになったとはいえないようです。
 今回はこの分野に関して数々の論考を発表してきた高達奈緒美氏(東洋大学師)に現在までの研究の到達点をかたってもらいます。あわせて東アジアにおいて女人救済というテーマはどのような意味を持つのか、広く考えてみたいとおもいます。年初であわただしい時期ではありますが、ぜひご参加ください。

日時:2002年1月22日(火) 午後6時〜
場所:慶應義塾大学(三田)大学院校舎8階地域研究センター第一共同研究室
演者:高達奈緒美氏(東洋大学講師)
演題:「血盆経信仰の諸相」

演者紹介
1956年生まれ。日本大学芸術学部卒業。同大学院修士課程修了。東洋大学大学院博士後期課程満期退学。『血盆経』に関わる主な論文に、「血の池地獄の絵相をめぐる覚書―救済者としての如意輪観音の問題を中心に」『絵解き研究』第6号、1988。『「資料紹介『血盆経和解』−近世期浄土宗における血盆経信仰」『仏教民俗研究』第6号、1989。「疑経『血盆経』をめぐる信仰の諸相」『国文学 解釈と鑑賞』8月号、1990。「『血盆経』と女人救済」『国文学 解釈と鑑賞』5月号、1991。「越中立山における血盆経信仰I・II」『富山県立山博物館調査研究報告書』1992、1993。「血盆経信仰霊場としての立山」『山岳修験』20号、1997など。共著論文に、「血盆経の受容と展開」『女と男の時空』III、藤原書店、1996。「日光山輪王寺蔵慶長四年釈舜貞写『血盆経談義私』略解題並びに翻刻」『実践女子大学文学部紀要』43集、2001、がある。

>> 発表要旨はこちら。

3月1日 黄縷詩(ファン・ルシ)「女性としてのムーダン−韓国の女性生活史のひとつとして」

日時:2002年3月1日 15時〜17時
場所:慶應義塾大学(三田)大学院校舎8階地域研究センター第一共同研究室
演題 女性としてのムーダン−韓国の女性生活史のひとつとして
講演者 黄縷詩(ファン・ルシ)

黄縷詩氏は韓国関東大学国語国文学科教授です。「ムーダンのクッのあそびに関する研究」で梨花女子大学で学位を取得し、そののちも一貫して巫俗の現場で多彩かつ精緻な研究をつづけてきました。今回はクッそのものの分析、研究ではなく、長年にわたって温めてきたムーダンたちとの人間的な交遊をもとにし、そののなかでみいだした巫女の生活誌の一端をかたってもらいます。黄縷詩氏は今回の講演のためにわざわざ来日します。韓国では新学期開始直前なのですが、いわば「友情出演」していただくもので、ぜひ御参席いただきたいとおもいます。
 近作に『わがムーダン物語』、その他『韓国人のクッとムーダン』『八道クッ』『チャンスン祭』、また『基層文化を通してみた韓国人の想像体系』(全三巻、共著)など。

>> 発表要旨はこちら。

参考写真

  

実地調査と研究

8月31日−9月12日 中国福建省の中元儀礼調査

(野村伸一・鈴木正崇・宮坂敬造、中国側参加者 葉明生、馬建華)

 福建省では旧暦七月になると、各地の村落共同体で、また寺廟で孤魂野鬼の供養をしてきた。文化大革命の時代の弾圧とその後の近代化のなかで、都市部では今日、そうした伝統を残すところが少なくなっている。しかし、今回、田と永泰でみた供養の諸相はこの間に抑えられてきた文化的な欲求の発散とでもいうようなものであった。人びとはほんとうにこころから望んで寺や廟に集まった。
 そこにはまちがいなく宗教の復活があった。仙游では三一教による霊魂供養の儀礼に出会った。これは儒教をもとに仏教、道教を取り込んだ民間の宗教で、特に印象深いところは「転蔵」であった。三メートルにもなる模造の燈を回しつつ、霊魂を血の池から救済する。その背景には「前世の夫婦」という観念がある。そのしがらみがこの世の者に災いをもたらすという。これは台湾や東南アジアの漢族社会にもみられるものだ。
 また道教閭山派の法師たちの儀礼は゛もっとも活気があった。それは朝鮮でいえばクッに限りなく近い。この地ではこれが道教文化のもっとも下層のところで息づいている。これを語らずして道教文化などは云々できないというのが収穫であった。田の城隍廟は有名でここでは七月中元に目連戯をやっていた。今回情報が正確に得られず見過ごしたのは遺憾であった。

11月20日ー29日 中国福建省田での目連戯調査

(野村伸一・鈴木正崇、中国側参加者 葉明生、馬建華)

 今回ははじめから目連戯だけを記録しにいく。中国全体のなかでも福建、そのなかでも田と隣りの仙游には今なお目連戯の文化が残っている。
 それは郊外野辺送りの場に設けられた中世の祭祀空間さながらであった。仙游地区楓亭鎮斗北村の村はずれ、有り体にいうと墓地の脇。わたしたちは深夜三時に起床して楓亭の中心部にある招待所からクルマでかけつけた。この地域では、中元のときよりもむしろ旧10月下元のときに多く死者の供養をする。ここには孤魂をまつった質素な堂がある。この日は町から僧侶たちが数名きて、地域の亡魂と各家庭のいわれのある魂を弔ってやる。
 一方、そのそばには臨時の小さな傀儡戯の舞台が設けられる。人形師たちは前日から泊まりがけで準備し、夜を明かす。周囲には弔いを望む家族が何十という単位で待機している。この人たちも簡単な被り物を持ってきてほとんど野宿である。しかし、持参した供物は豚の頭やら果物、餅などかなり充実している。質素な身なりに較べるとき、このまごころはたいへんなものだ。そして年輩者に混じって若い女性の数が多いのには驚く。
 朝になると僧侶たちの読経と平行して傀儡戯がはじまる。それが目連戯である。宋の時代、中元節に一週間もおこなわれたというが、その文化がこうして残っているのはおどろくべきだ。一千年という時間はどう考えたらよいのだろうか。生きている者の安泰、豊穣はこうした死せる者への供養からはじまると考えてのことだ。これははたして迷信といえるのだろうか。それぞれにいわれのある死があるにちがいないが、今回の短期間の調査ではその個別の面談まではできなかった。

12月12日ー20日 沖縄県宮古島宮国のンナフカ調査

(野村伸一・高梨一美)

 宮古島は沖縄県のなかでも共同体文化が比較的残っているといわれてきたが、上野村ンナフカ行事の現況をみると、ここにもまちがいなく「本土並み」の嵐が押し寄せている。
 海の向こうからユをもたらすカミたちが南の浜からやってくる。それを迎えるために神女たちがこもるのだが゜、今年は籠もりりをしたツカサは何と二人。しかもこれは任期一年だから儀礼の詞章も踊りも伝承の仕様がない。今年の二人ユーザスとツカサはともに八十前後のオバアであった。
 ゴルフ場とドイツ村(第三セクターによる「村おこし」のこしらえ物)のすぐわきで夜ごもりをするのは何のためなのだろうか。こうした施設で働き、道路整備事業の労役で暮らしているのが多くの村人の現状なのだが、あまりよい展望はない。しかし、オバアたちを元気づけにくる人たちもやはりちらほらいる。そしてまた酒を提げてきて航海安全の祈願を依頼する若い衆もいる。共同体のつながりは八十のオバア二人によってかろうじてつながっている。

2002年2月6日ー12日 韓国の仏画を通した宗教文化の調査研究

 (野村伸一・高雲基)

 韓国の仏画については一部の研究者が関心を示しているが、宗教、歴史、民俗の方面からはまだあまり論じられていない。
 今回、ソウルの奉恩寺、京畿道の竜珠寺、郷国寺、慶尚北道の南長寺などを訪ねて甘露幀とよばれる仏画をみた。甘露幀は孤魂の供養である水陸斎や盂蘭盆会、また小規模な施食をおこなうときに掲げたものとされている。日本に16世紀末の物が残されていて、これは服部良男『『施餓鬼図』を読み解く』(2000年)に興味深く叙述された。服部氏はそののちも『アジア遊学』に関連の図像学を披瀝していて、この分野の今後の展開を促している。
 わたしは甘露幀のうち、下壇にえがかれた朝鮮王朝の庶民生活が時とともに朝鮮民族の日常そのものに変転していくさまに興味がひかれる。すなわち、甘露幀の下壇は元来、冥府にさまよう餓鬼の世界であり、そこにはむごたらしく死んだ者のさまがえがかれたとおもわれる。このあわれな霊魂に供物を施す図が中心であったはずである。だが、そこにはやがて死と紙一重のところにいる底辺の民衆が続々と登場してくる。この絵模様がさまざまに活写されていて優に民俗生活の絵解きとなっている。
 ここにそのいくつかを紹介しておく。 



韓国寺院の仏画

竜珠寺の甘露幀

▲ 綱渡りの芸人 ▲ クッをする巫女
   ▲ 竜珠寺甘露幀の餓鬼

 この醜怪な餓鬼は中有に浮遊する看取られぬ霊魂の代表である。こうした餓鬼の供養は宋代以降東アジアに流布した。そこからさまざまな民衆生活の済度の儀礼が起きてきた。おそらく朝鮮民族におけるさまざまな死霊祭の背景はここにあるだろう。


ソウル奉恩寺の甘露幀 1892年



1 奉恩寺の餓鬼二体 2 二本綱の上での綱渡り


慶尚北道尚州南長寺の甘露幀 1701年
▲ 1 鮮愁楽士
 このころから旅回りの芸人の光景がえがかれるようになる。かれらは才人とよばれた。才人はもともと高麗時代の王室周辺において優戯を演じた者たちで、契丹、そしてのちには元から朝鮮にはいってきた。非農業民であり、芸能のほかには日常用いる行李をこしらえ、また牛や馬、豚の解体をもっぱらとした。当初は差別を受けなかったとおもわれるが、朝鮮王朝の時代にはいると、定着化か政策として進められた。しかし、そのことでかえってかれらの生活と文化が孤立化した。農業民となれない者たちは流浪して芸人や盗賊化した。近年、田耕旭はかれらの一部がソウルで人とよばれて仮面劇を担ってきたということを文化史のなかで説明した。
 しかし、ソウルに定住できた芸人は才人の一部であっただろう。多くは漂白し、地方で白丁村、才人村、社堂村また在家僧(すたちは法体だが仏教徒ではない)の村を形成して五百年のあいだ被差別民として生きた。
▲ 2 乳飲み子を抱く女、首吊り自殺の男、妊娠中に死んだ女、病に伏す父親を看病する子供などがえがかれている。


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