慶應義塾大学アジア基層文化研究会 >> 2001年度活動日誌 >> 2002.3.1 巫俗と女性

2002年3月1日の研究例会は黄縷詩氏が映像を用いつつ三時間余り休みなしで講演をした。女性の生活史の視点から司祭としての働きはいうまでもなく、主婦としての巫堂をきめ細かくえがいていった。韓国の巫俗研究を新しい地平に導く意欲が十分に伝わり、十数人の参加者にとって多様、多彩な巫堂の生活史が目にみえるようであった。以下は当日の発表の要旨ということで発表者から送付されてきたものである。

巫俗と女性

黄縷詩(関東大学校教授)
  巫堂の大部分は女性だ。世襲巫は女性だけが巫堂であり、降神巫の場合にも女性の数が圧倒的に多い。それだけでなく巫俗を信じてクッを依頼し参加する人も女性が多い。巫俗で信仰する神も女性が多い。山の神や龍王神のような自然神も女性で重要な巫俗神話の主人公も女性の占める比重が大きい。死の世界へ亡者を引き渡す神はパリ公主という女性で生産を主管する神もタングムエギという女神だ。生命をみごこもらせるサム神も女性と信じられている。このように巫俗は女性文化的な性格が強い。この発表では巫女を中心に女性文化的な特徴をうかがってみようとおもう。

1.職業人としての巫女

 巫堂というのは伝統社会で最も長い間の歴史を持つ職掌である。事実上韓国の女性たちは明確な職業を持つ場合がまれであった。だが巫堂は国に巫布税という税金を出したから堂々とした職業人であったことがわかる。ところが巫堂という職業は一般宗教の司祭に比べて多様な仕事を遂行しなければならなかった。まず巫堂は司祭である。司祭は神に完全に自身を捧げる約束をした者である。それでキリスト教や仏教ではそもそも結婚をしない伝統も維持されてきた。それほどに献身を必要とする職業ということなのである。ところが韓国で世襲巫はクッという儀礼だけするが、降神巫は占い師でもあって二重の役割をする。普段は家で吉凶を占い、占いの結果によって問題を解決するためにクッもするものだ。 次に巫堂は医療関係者の役割を担当した。今でも鍼を打つ巫堂が少なからずいて特に病気クッを上手にやる巫堂もいる。赤ん坊がぐずついたり、目に星目ができる等、病気になると巫堂を訪ねて簡単な厄払いをすることは伝統社会で最も普遍的な方法であった。朝鮮朝には東西活人院のような貧民救護の医療機関に必ず医巫が所属していた。これは国家でも巫堂の医療的行為を認めていたということを証している。
 最後に巫堂は芸能人の役割を担った。元来クッというのは芸術的行為とそれほど違わない。巫堂は音楽的構成によって巫歌を歌い踊る。降神巫は刃の上に上がるなどの妙技を見せもする。こうして巫堂はその社会の芸能全般にわたり活動した。クッの後半部はあそびで構成されていて、あそびの場で最も人気のある者は巫堂であった。全羅道では巫堂のなかからパンソリ広大が現れ、妓生も巫堂出身が多かった。
 ところがこういう多様な役割を果たしながらも、巫堂は一般女性と違わない家庭生活をしたという点で他の宗教の司祭と区別される。巫堂の家庭はやはり男性中心の家父長制を固守していた。巫堂たちは一定の年齢になれば、家の定める男子のところへ見合いで嫁に行った。世襲巫の場合、相手は必ず同じ世襲巫の家庭であったため選択の幅は広くなかった。総じて降神巫は結婚した後に巫堂になる場合が多い。だが仮りに婚姻前に巫堂になると、出身に関係なく結婚の条件が不利になった。巫堂たちは皆嫁ぎ先で舅姑に尽し、子供を産み、くらしていくのであり、一般人と全く同じ生活を営んだ。そして同時に巫堂として司祭と医療行為と芸能人の役割を遂行したのである。このような点で巫堂は最も世俗的な生活を送る司祭という独特の位置を占めている。

 2.巫女の家庭と家族

 巫女の家庭生活は非常に不規則で安定感がない。巫女はいつ仕事をすることになるのか正確にはわからない。村のクッの場合には日取りを決めて準備するけれど、人が死んでからやるクッは決まった日がないためである。またクッがあれば何日でも留守にするのが習いである。人が死んでするクッは夜を明かすことがふつうで、村のクッは少なくとも一晩多ければ10日はかかるために、きちんと生活をする巫女というのは期待しがたい。子供たちは何日間、母が留守になるのかわからなくて情緒不安になる。降神巫は大体家で吉凶を占う。またクッに必要な供物を巫堂の家で準備する場合も多い。それで巫女の家庭はいつも込み合っていて落ち着きがなく、家族が安定感のある安らかな家庭を持つことは難しい状態である。
 このようにして巫女はお金を稼ぐために家庭にあっては実質的に家長の役割をしている。巫堂の夫はしばしば「柱亭主」といわれる。柱のように立っているばかりでお金を稼いだり家庭のことをしない無能な夫を指し示す言葉である。子供たちは母が巫堂であるがゆえに受ける社会的蔑みを耐えるのが難しい。したがって母に敵対的な場合が多い。キリスト教やその他他の宗教を信じて母と訣別する子供も少なくない。巫女は熱心にお金を稼ぐが、家族らはその功を認めず、むしろ当然なこととする傾向が強い。
 だが降神巫の場合、巫堂になる過程で家族の犠牲が要求されることもある。人橋(インタリ)というのがそれである。インタリは巫堂になることに反対する家庭で家族の誰かがおもいがけずに死ぬことをいう。家族の死を通し巫堂が神のもとにいくということを意味する。すなわち家族の死がまさに神と巫堂の掛け橋になるのである。このようにおもいがけない家族の死にあえば入巫者は神の意が強いものとみなし、これを受け入れて巫堂になる。

 3.巫女の社会的位置

 巫女は巫俗という宗教の司祭だが、社会的にひどく疎外された存在でもある。神懸かった人は神と人間の中間的存在として差別を受けた。巫俗信仰では普段の日常生活では神を近づけない。したがって常時神と近い存在の巫当も遠ざけられた。但し死とか病気になって日常のリズムが損なわれた時は、巫堂を呼んでクッを依頼する。この程度に巫堂に対処したのである。神懸かりの人は一般人に歓迎されなかったし、男たちは、降神巫を近づけると縁起が悪いといって敬遠した話までもが伝えられていた。
 朝鮮朝社会で巫堂は賎民であった。幼い子供にも尊敬語を使い、最底辺の生活を送る人々がまさに巫女であった。ところが世襲巫は女性だけが司祭となる。男子は女がクッをする時、音楽を伴奏して助けるに過ぎない者である。けれども、世襲巫の家庭となるとやはり男性中心である。クッは女がするが、村のクッのように規模の大きいクッの契約は男の役割であった。全国的組織を持っていた世襲巫等の神庁(または才人庁)は徹底して男子中心に運営された。神庁はパンソリ広大や綱渡り広大,農楽のサンセのような有名な民俗芸術家を育てる温床であったが、女たちはこれに加わることができなかった。このように世襲巫家の女たちは家庭や社会にあって誰もが最も蔑まれる存在として徹底して疎外された生を生きてきたのである。(訳者野村伸一)

2001年度活動日誌