1986年の男寺党人形戯(映像と解説)-洪同知と造寺 補遺 


洪同知の登場(後掲第二段)

  (撮影、1986年6月20日、ソウルノリマダン)  

  男寺党(ナムサダン)の人形戯トルミ(コクトゥ閣氏<カクシ>あそび<ノルム>)

  収録場面(6分47秒)

  ①冒頭、よびだし(映像2分39秒)

 はじめは咒語  デジャビ(人形遣いのかしら)とサンバジ(楽士の一人、受け手)が楽の音に合わせながらそれぞれ「オーホホ アーヘヘ 」というと、朴僉知(パク・チョムジ)が「テイル テイル ティオラ ター テイル テイル テイル ヤーハー…」という。サンバジが同じく、テイルテイル…を唱えると、朴僉知が再びこれを唱える。するとデジャビが「ナイニ ナイニ ナイニ ナイナ ナイナ ナイナ ナイナ」という。ここで朴僉知は踊る。朴僉知は簡単に踊ってからサンパジと対話をはじめる。
 この唱えごとは咒語である。日本でも能の翁のはじめに「とうとうたらり」があり、また佐渡ののろま人形の出だしに「ピーヤル ルル ピーヤル ルル ルウル ルルル…デコ デンデコ デデン デデン デコデコ デコ デンデコ」という呼び出しがある。中国の傀儡戯でも冒頭に咒語「囉哩嗹(ルオ  リ リエン)」(莆仙地域の目連戯)あるいは「唠哩嗹(ラオ リ リエン)」(泉州傀儡戯の冒頭「大出蘇」)がある。
 これらは神聖なものの登場に必要な儀礼であろう。祭祀儀礼の冒頭に呼び出しの音楽が伴うことは、巫俗儀礼、道教儀礼でもみられる。その起源はさておくとして、現存の傀儡戯や戯曲においては、仏教の陀羅尼(密呪)の影響が大きかったとみられる(野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年参照、以下『序説』と記す)。

  ②第一段「朴僉知の遊覧」 (映像1分51秒)
 


仕切り役でもある朴僉知

 朴僉知(パク・チョムジ)は踊りを止めて、サンバジ(受け手)と対話をはじめる。サンバジに素性を問われると、朴僉知はいう。「おれはソウルでは名の知れた遊び人。もとはいい暮らしをしていたが、食いつめて、今は八道江山をめぐっている。ひとつ、歌ってやるからよくきけ」と。伴奏に合わせ、軽快に歌う。

  竹杖ついて 麻の草鞋をはくがいい 千里江山ながめにいこう 全羅道では智異山(チリサン)で河東の蟾津江( ソムジンガン)を見物し 慶尚道では太白山(テベクサン)で 尚州の洛東江(ナクトンガン)を見物し…

 以下、江原道の金剛山一万二千峰、咸鏡道の白頭山・豆満江、平安道の妙香山・青川江、黄海道九月山の聖地仏像、忠清道の鶏龍山・公州錦江、京畿道の三角山・臨津江の名があげられる。これは元来、国土の安泰を祝願する寿詞だったとみられる。こうした土地褒めは巫歌やパンソリにもみられる。その発想は、山川が人体の脈と同じように国土を守るという密教[とくに道詵]の見方に由来するものであろう(徐閠吉『韓国密教思想史研究』、仏光出版部、1994年所収「道詵裨補思想の淵源」参照)。

 仕切り役の含意  朴僉知は仕切り役であると同時に滑稽な登場人物でもある。この仕切り役の存在は興味深い。というのは、中国の傀儡戯や宋代の雑劇でも仕切り役がいた。これは「引戯(インシ)」とよばれた。その役割は芝居の指揮者のようなものである。しかも、この引戯ということばはもとは梵劇の舞台監督「引線匠(インシエンジャン)」にさかのぼるといわれている。こうした事実は傀儡戯そのものが相互に関連することを示唆する(『序説』第六章)。 ちなみに、明代の『五雜爼』巻五には
 南方好傀儡、北方好韆、然皆胡戯也
とある(沈雨晟『男寺党牌研究』、同和出版公社、1974年)。明代の中国知識人の通念として、傀儡戯は中国の外、北方からきたとされていた。これは、当時の中国において傀儡戯は中央アジア経由のものという認識があったことをものがたる。
  ③第二段「ピジョリ」(以下、
映像4分8秒)
 ピジョリとよばれる女子が小僧らとあそぶ。そこへ洪同知が現れて遊び人たちを追い払う。いわば秩序を整える。洪同知は見物人に向かって小便をする。秩序更新の民俗的な表現であろう。
  ④見物人席
 楽士らは舞台の前面に座って演奏し、歌う。
  ⑤第四段「イシミ」
 水辺の怪獣イシミは次つぎと村の男や女を取って食う。ピセン(非生)という名の妓生は密陽アリランを歌って浮かれているところを食われる。また朴僉知も危機に瀕する。そこへ洪同知が現れてイシミを打ち倒し、救済する。
  ⑥第六段「平安監司のひつぎ


喪輿。傀儡戯は古来、「喪家の楽」であった。この段は朝鮮のトルミもまたその系譜にあったことを示す。

 平安監司が鷹狩りに出て急死する。洪同知がそのひつぎの担ぎ手としてよばれる。洪同知は傍若無人のことばをはきながら裸のまま喪輿を押していく。

  ⑦第七段「造寺


造寺。この傀儡戯の眼目は勧進。寺造りに参与することが平安をもたらす。

 若い僧(上佐<サンジャ>)が見物人に喜捨を乞う。そして、寺を建て、また片付ける。これは男寺党(ナムサダン)が継承した本来の仕事の核心であろう。それは寺院のための勧進だったとみられる。
  ⑧朴僉知のあいさつ
 見物人への祝福で終える(後述)。

 2 映像の背景

 祭祀芸能の本流を示す伝承  東方地中海(東シナ海)周辺地域の傀儡戯は祭祀芸能の本流、あるいは始源そのものである。このことを示す伝承は数多い。中国福建省では傀儡班の担い手は一般の戯曲の担い手よりも上位にある者として認められていた。福建の西部などでは、地域に災いがあると、まず傀儡班を招請して演戯をしてもらう。あるいは、人の一生にとって重要な節目(厄、結婚、不慮の死)に傀儡戯が催されることも各地でみられる。たとえば、北斗戯は子供の成長祈願として、また結婚式当日の祝願の戯としておこなわれる(『序説』112頁)。

 福建省の傀儡戯伝承
 福建省の傀儡戯は今日なお祭祀の場で重要な役割をはたす。以下、葉明生「福建民間傀儡戯的祭儀文化特質」(『福建芸術』、2010年、03期)により、摘記する。
 1.福建東部の捜間(包公捜間)  
 舞台で「包公判台」が演じられるとき、傀儡師は包公(バオゴン)の傀儡を携えて病人のいる部屋にはいり、病魔を追いやる。
 2.福建北部の「破胎」
 舞台では陳靖姑(臨水夫人)の物語を演ずる(夫人戯)。一方で、鶏卵を割って子供の病因や吉凶を判別し、治癒させる。夫人戯の3日目(最終日)に傀儡師が卵を刀で割って、この儀をおこなう。
 3.泉州傀儡戯の「大出蘇」
 ここでは戯神田相公が現れる。もっぱら観客への祝願としておこなわれる。
 4.莆仙傀儡戯の「踏棚」(俗称「田公踏棚」)
 これは妖気を鎮めるもので、地域の平安のためにやる。ここには儺儀の性格がみられる。後掲図版武魃参照。
 5.地域と家庭の平安のための夫人戯
 各地で陳靖姑を主人公とする傀儡戯が演じられる。寿寧県の四平傀儡班は『奶娘伝』を演じる。除災、祈雨救旱、家庭の平安などが図られる。末尾では子供の成長祈願ともいえる過関の儀もおこなわれる。
 6. 福清県の蛇王戯
 この傀儡戯では蛇王の故事を演じることで消災、還願(願ほどき)をする。蛇信仰が傀儡戯とともに伝承されてきた点でたいへん興味深い(『序説』第五章「蛇祭祀の明暗」<228頁以下>参照)。
 7.旧暦7月または10月の目連戯
 各家庭の霊魂超度の儀礼がこの傀儡目連戯のなかでなされる。これは地域、家庭(さらには女性)の平安にとって大きな意味がある。    (以上、葉明生「福建民間傀儡戯的祭儀文化特質」)

 死後の祭祀とかかわる傀儡戯  中国だけでなく、朝鮮半島の傀儡戯の代表であるコクトゥ閣氏あそびも人の死後の祭祀とかかわりがある。すなわち男寺党の伝承した傀儡戯トルミ(コクトゥ閣氏あそび)では、演戯の後半に平安監司という官吏が死に、その葬列が出る。そして、それを丸裸の洪同知(ホンドンジ)が男根を押し立てて引導する。この奇抜な演戯が展開されると、人びとは洪同知の天真爛漫さに大笑いする。
 儺神を兼ねた洪同知  ここには古層の意味が含まれている。おそらく洪同知が原初の童子であり、あるいは男根そのもので、しかも儺神を兼ねていることが示唆されているのであろう。洪同知は礼儀知らずの子供のような設定であるが、その赤色の裸体から発する力には神通力がある。そして、その役割は喪輿の前駆をする方相氏の人形と同じなのである。また、トルミの前半の演戯で洪同知は水辺の妖怪イシミを制圧して人びとを救済する。これも儺神としての役割をはたしたものといえるだろう。


:現代の方相氏。1988年。


 仏教の戯場と密接にかかわる傀儡戯  傀儡戯は仏教の戯場と密接な関係を持った。唐代の詩人は傀儡戯を人生の縮図のようにとらえている。
  刻木牽糸作老翁、鶏皮鶴髪与真同。須臾弄罢寂無事、還似人生一夢中(『全唐詩』巻202、「詠木老人」)
これは『唯摩詰経講経文』(敦煌変文集)などで説かれていることと同じである(康保成『中国古代戯劇形態与仏教』、東方出版中心、2004年)。
 中国では宋代に傀儡戯が盛行した*

 *耐得翁「都城紀勝」瓦舎衆伎によると、当時は懸糸傀儡、杖頭傀儡、水傀儡、肉傀儡(人形ではなく子供を使うもの。一説に布袋戯)などがあった(浜一衛『日本芸能の源流 散楽考』、171-175頁参照)。また薬発傀儡(しかけあやつり)もあった(『東京夢華録』巻5)。また『東京夢華録』巻5によると、任小三という芸人は毎日、夜明け方に人形芝居によって「頭回(最初の)小雑劇」を演じた。この「小雑劇」は今日の南戯の世界(莆仙戯など)でみられるような戯劇冒頭の祭祀劇を演じたということだろう。福建省の傀儡戯では今も祭祀性の強い演出がまずなされる(図版参照)。


傀儡戯開始直前の浄め。黒い顔の神武魃は儺神そのものである。福建省莆田市坂尾

武魃(ウーボー)

 宋の時代、密教の影響を受けた道教全真教では、人生の空虚さを説くために髑髏図を盛んにえがいた。おそらく髑髏を操りに利用して布教したのであろう。康保成は南宋時代の「髑髏図」を分析して、宋金元代には巷間で傀儡を利用して説法する者がいたことを例証した(『中国古代戯劇形態与仏教』)。
 唐代にはじまる文人の傀儡戯観は高麗時代の朝鮮の文人にも共有されていた。李奎報(1168-1241)はいう。
  巧人弄幻使人眩 (巧人の操るコクトゥカクシは人を幻惑させる)
  丹青傅會須臾巻 (赤や青色の建物ができあがったかとおもうと、たちまち収めてしまう)
                                             (「復答幵びに序」)
 あるいはまた、次のようにもいう。
  造物弄人如弄幻 (造物主<かみさま>が人を弄ぶことは弄幻<傀儡戯>とおなじ)
  達人観幻似観身(達人は傀儡をまるでわが身のごとくにみる)
  人生幻化同為一 (人生も幻化<傀儡のあそび>と同じことだ)
                                        (「弄幻を観て作ること有り」)
 
 寺院の戯場に参与した芸能者たちがどのていど上に述べた理を理解していたかは不明である。しかし、傀儡師たちも寄る辺のない身の上である。そうであれば、彼らが、寺院の建立や寺院への喜捨を募る背景には傀儡戯を人生と同一視する見方も一役買っていたことだろう。
 男寺党の傀儡戯の末尾は「造寺」  高麗時代の朝鮮の人形戯集団がどのようなものであったかはわからない。しかし、寺院との結びつきは想定される。そして、その末裔といえる男寺党は、主に各地の寺院を根城にして生活していた。彼らは諸種の演戯の末尾に傀儡戯を演じた。それは曲芸や綱渡りの演戯とはやはり比重が違う。つまり、あそびであると同時に祭祀でもあったといえるだろう。
 そしてその傀儡戯の最後の場面が「造寺」であった。最後に現れる朴僉知は見物人に向かってこう挨拶をする。

  これでけりをつけましたから、安心してお帰りください。この年老いた朴がご挨拶する次第です。ああ、腰が痛いね。

 
朴僉知は咒語とともに登場し、全体を仕切り、最後に滑稽な口調で祝願を述べて退く。朴僉知だけをとってみても、少なくとも宋代あたりの傀儡戯の趣を伝えているといえるだろう。

   (台詞は野村伸一『仮面戯と放浪芸人』、ありな書房、1985年、215頁、韓国民俗研究所編、梁民基・平井美津子訳『コクトゥカクシノルム』、現代人形劇センター、1986年、136-137頁参照。)

 (2008.11.19  野村伸一)
 (2012.6.12  補訂)

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