映像・解説『毛越寺の延年』(1998年の記録、補遺)


  映像 毛越寺延年の「老女」(2分45秒)

  毎年、1月20日、晩に常行堂で摩多羅神の祭礼がある。このとき延年舞がおこなわれる。
  僧による法会のあと、蘇民祭がある。そして「呼立」「田楽躍」「路舞」「祝詞(のっと)」「若女禰宜」「老女」「花折」「勅使舞」等が演じられる。
  「老女」では、神の前に坐して顔を繕う仕種がみられる。化粧は神に対するためにおこなったものであろう。
 この延年舞は朝鮮、中国の仮面戯伝承と比較しうるものを含んでいる(後述、補遺参照)。

    →  映像・解説『毛越寺の延年』 (1998年の記録)(47分)

 
付記 1998年の延年舞の記録は、学術研究のためということで可能となった。資料を公開するに際し、改めて毛越寺の配慮に感謝する次第です。(2009.7.16)

  補遺          「小考―延年舞の場と朝鮮の仮面戯の場」

  1
 
 1932年24日(旧暦1月20日)、北野博美、西角井正慶、本田安次の三人は毛越寺の「摩多羅神祭り」にいき、延年舞を見学した。そして、その報告を北野博美、本田安次、西角井正慶「陸中平泉 毛越寺の延年舞記録」『民俗芸術』第五巻三号、民俗芸術の会、1932年として発表した。
 その報告には、今日、すでにみられなくなった状況がみられる。さらにこの延年舞は、1786年に菅江真澄により記録されていた*。これらを比較すると、興味深いことがわかってくる。

 *「中尊寺摩多羅神祭」『民俗芸術』第一巻二号、地平社書房、1928年。中尊寺は毛越寺の誤記。

  2
 
 1932年当時、行事全体が夜通しのもので長かった。1932年の時点においても、人びとの行事への思い入れは、今とは較べものにならないほど篤かった。
 それは人びとにとって、一年の厄払いであり、また鬼子(満七歳で体の弱い子)の健康祈願の儀礼であった。人びとは、午後6時ごろ、行列を作って毛越寺常行堂に向かう。これを神あがりという。
 そして、一晩、常行堂の法会、上記の延年の舞を見学する。「勅使舞」が終わったあと、その日は「雅楽五常楽」を奏した。その時が午前3時ごろであった。今日では12時前にはすっかり終わっている。
 そして、このあと、なお「御膳びらき」(鍋を囲み、飲み食いする時間)がある。さらに、人びとの厄除け行事ともいえる「神火あがり」「鬼子あがり」「神袋(蘇民曳き)」がある。

 3

神火あがり

鬼子あがり

蘇民曳き


 上記民俗行事は次のとおり。

 神火あがり  神火あがりとは境内で薪(さいとうぎ)を焚くことである。その燃えた枝を手に取った若者が廊下や格子をたたいて回る。これは鬼子のための道開きだという。

 鬼子あがり  鬼子あがりは鬼子を背負った者が堂内にあがることである。かれらは蘇民宿という村の親方株の家からやってくる。

 神袋(蘇民曳き)  神袋とは「蘇民将来の入った袋」のことて、人びとはこれを争奪する。その袋がどこに出されるかは係りの者以外、誰も知らない。そのため、丸裸になった若者が格子の梁の上に登って二、三十分も待っている。その日は「三四十人の丸裸の男達」が群衆のなかにはいって揉み合った。二時間も雪の上をうごめいていたという。
 蘇民将来の入った袋は護符の役をはたした。
 
 4

 1998年にも、この行事はあった。それはまた蘇民祭もという。毛越寺の蘇民祭は明治15(1882)年に江刺郡黒石村のものを移したのだという。
 延年舞とは主として寺院の法会のあとの法楽(ほうらく)に舞われるものをさす。従って蘇民祭とは関係ない。しかし、もともと、法会のあとのさまざまな表演には民俗的なあそびが混じっていた。そこでは新年のはじまりを祈ると同時に厄除けがおこなわれるようになったとみられる。
 これはごく自然である。
 
 5

 以下の考察の前提として、1998年の次第を中心に書き出しておく。( )のものは菅江真澄、および1932年の記録による。

 1.神あがり
 2.常行三昧供の法会
 3.蘇民祭*
 「神火あがり」「鬼子あがり」「神袋(蘇民曳き)」「御膳びらき」がある。

  *菅江真澄のものでは、これはない(後述)。1932年のばあい、夜通しの延年舞のあと、「御膳びらき」があり、そののち未明のころに蘇民祭がおこなわれた(後述)。

 4.呼立
 田楽衆に伴われた僧二人による。
 5.田楽躍り
 太鼓、編木(ささら)、瑟丁伝(しっていでん)、銅撥子(どうばっし)、笛吹。 
 


田楽踊り。網代笠に花をかざす。花笠が目に付く。

6.路舞(唐拍子)
 (7.若法師の踊り)
 8.祝詞(のっと)
 (9. 多数の小法師の演戯)
 10.若女禰宜*


若女


 *菅江真澄のみたものでは、若女(板東舞)、禰宜は、老女(うば舞)、若小坊師の出産の演戯のあとに現れる。つまり上記のものが11,12,10の順になる。これは、後述する『統営五広大』のものと類似する。

 11.老女(うば舞)
 (12.若小坊師、出産の演戯)
 13.花折
 14.勅使舞(京殿有吉舞)


有吉は従者。都での見聞を主人に伝える。

 (15.舞楽)*

 *以下は1932年のものによる。

 (16.御膳びらき)
 (17.蘇民将来のお守りを巡る厄除け)

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 延年舞のなかで、禰宜と老女の本舞は維新後、延年舞の伝承が一時、絶えたとき失われた。しかし、そののち復元され、現在に至っている。
 ここで重要なのは、江戸時代までの「老女」の演戯である。菅江真澄の「霞む駒形」には、天明六(1786)年にこの延年舞を観た記録が綴られている。
 そのなかで、「祝詞」の演戯のあと、小法師がたくさん出て、戯れる。そして老女が現れる。老女は
 

 神の御前に蹲りてくしけずるまねをし、神を拝礼(をろがみ)、たちよろぼひ倒れ、ぼけぼけしきさましける。是を老嫗舞(うばまひ)といふ。うばまひ入れば、また若小坊師、産婦(こうめる)まねしてたはぶる。

 とある(『本田安次著作集 日本の伝統芸能』(第十五巻 舞楽・延年T)、錦正社、1998年、261頁)。


老女の舞

老女は神の前で化粧する。


 7

 菅江真澄によると、この場面では、遊び人の法師立たちが跳び回り、老女が化粧をし、また小僧が現れて出産の演戯をする。それはおそらく若い女の面でもつけて演じたのであろう。
 また次に、若い女と禰宜が出てくる。禰宜の演戯では、竹の杖をついて出てきて蹲る。このあと、また法師が出てきて観客を笑わせる。


若女の前で蹲る禰宜

 

 若女と禰宜のあいだには現在は何も物語がない。しかし、朝鮮、中国の伝承を踏まえると、故事が伴っていた可能ある。すなわち「弄婆羅門」の系譜の演戯である。


老長は小巫により回春する。弄婆羅門の演戯。

 これら、一連の演戯の状況は今日、毛越寺の常行堂内で静かに鑑賞する雰囲気とは相当に違う。おそらく、元来はかなり哄笑に富んだものだったであろう。それは朝鮮半島に伝承されている仮面戯の場に近いものがある。菅江真澄のことばにも、法師たちの「其さま能の狂言の如く、あはひあはひにかゝる戯れをのみ為し」、とある(前引、「中尊寺摩多羅神祭」、61頁)。とにかく、滑稽感に満ちていた。同時に、観客たちは僧侶に対して悪態を吐いた。それは農作をよくするという伝承を伴っていた(前引、「陸中平泉 毛越寺の延年舞記録」、25頁)。

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  たとえば、『鳳山タルチュム』や『楊州別山台戯』の八墨僧たちは上記、若小法師に似ている。また、そこでは小巫が酔発という男と遊んで、子供を産む。
 さらに「統営五広大」のハルミ(婆さん)は亭主を探しつつ現れ、神に祈祷をする。そこでは婆さんが化粧をする。これは巫女の化粧ともとれる。延年舞における「老女」の化粧もまた阿弥陀仏や摩多羅神の方に向けておこなわれる。それだけでなく、この五広大では、それにつづいて、妾と亭主が現れる。めかけは出産し、その子供が原因で、婆さんと妾の諍いが起こる。


亭主を求めて現れた老女

妾の産んだ子供をつねくって観客を笑わせる。

 毛越寺の延年は、菅江真澄のころにも、すでにそうした「物語」はなかったようである。しかし、当時の延年舞は、法師たちによる滑稽な演戯が随所にはさまれていて、雰囲気としては朝鮮の仮面戯と相通じる。

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 ちなみに、本田安次は、毛越寺以外にも出産の真似をする表演があったことを記している。すなわち、陸前名取郡熊野堂の舞楽では、「二の舞」ののちに、「やはり子を産む真似をし、五色の紙を撒き散すことがあり、これが一つの縁起祝ひにもなってゐる」という。そして、毛越寺の出産の狂言も

  或は年々老嫗舞の後に繰返されたのではなかったらうか。

と記している(前引、『本田安次著作集 日本の伝統芸能』(第十五巻 舞楽・延年T)、262頁)。
 同感である。

                                           (2009年7月16日更新)
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