トップ黒森神楽役舞の世界-陸中沿岸地方の神楽より-

5.役舞の構造とその世界観


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 右にみてきたような沿岸地方で演じられている役舞の世界は、個々の演目は独立性を保っているが、全体としてはある一つの方向性をもった流れを形成していると考えられる。それは大きく祓いと予祝の部分に分けられる。悪いものを祓い、踏み鎮め、その上で神みずからが人々の今年一年の生活の安泰を約束するといった構造が読みとれると思う。新しい年を迎えるにあたり人々は良くないもの、災いとなるようなものを取り除いてもらい、大地や自分たちに活力を与えてもらい、そうした上で神の姿を見、声を聞き、行為を見て納得し、安心するのである。このことが神楽を見る人々にとり最大の関心事であり、宗教者としての役割を多分にもった舞い手への期待なのである。そうした期待にこたえるように、祓いと予祝の部分は趣向をこらしてくり返し演じられている。それゆえこの部分には呪力や宗教的世界観をいかんなく発揮できるように仕組まれているのである。こうした役舞の構造を整理すると[表1]のようになる。そこで次に演者と観客が神楽の役舞の中に何を示し、何を求めているのか、祓いと予祝の構造を通して探ってゆきたい。

(1)演者と観客の視点からみた祓いと予祝の構造

(A)1「清祓」では、神楽のはじまりにあたり、宿とその村が呪術的なことばや、桃の皮、太刀などの呪具や塩により祓い清め、悪魔や邪気を鎮めてしまおうとするものである。神楽が演じられる場とその地域全体のマイナス要因が除去されるのだが、それらは「悪魔」ということばであらわされている。これは地域や人々に災いや不幸をもたらす要因となるすべてを指す抽象的な概念としてとらえてれおきたい。2「榊葉」では「繁昌を祝う」「神の利生ある」などの祝言により、あるいは米や酒により、また力強い足踏みにより祝福が込められる。

 右の二曲は神楽に先立ち、神楽が演じられる家とその地域全体の祓いがなされ、その上で祝福が込められるというもので、神話劇の導入部にあたる序曲の部分である。

(B)3「岩戸舞」からいよいよ大日留女尊の登場する神話劇になる。ここでもその始まりの前に「祓いたまえ、清めたまふ」の祝言により神出現の劇の開始にあたって再び祓いがなされる。4「岩長姫」では一度は退治されたはずの大蛇の霊が草薙の剣への妄執となり、姫に姿を変えて出現する。大日留女尊の登場を乞い、聖なる神の声を聞こうという神話劇の前段として、混沌を設定してこれを平定し、神の出現を待つという演劇的な効果をねらったものと思える。聖なる神の出現の前に邪悪とみなされるものはすべて祓わなければならない。それらの「祓うべき」とされるものの象徴が岩長姫として表現されている。それは退治された大蛇の霊がミカドに意趣つまり怨みがあった御霊と化し、岩長姫の姿となってあらわれたと語られる。前述の抽象的な「悪魔」から、ここでは具体的な怨みの観念として述べられ、それが祓い鎮められる対象とされている。この怨みの観念は大蛇の霊という象徴として語られ、演劇の場へは岩長姫という女性の姿で登場してくる。神話劇としてはミカドに意趣ある者が、ミカドの側の大和武尊に退治されるという構図だが、山伏神楽としてみると、御霊とか怨みといったマイナスの心性を山伏がもつ呪力や験力で祈り鎮めるという構造になっている。

 神の声を聞き、神の姿を見ることがこの神楽の主眼であるならば、その神の出現を得るために三度にわたりくり返し祓いがなされる。「清祓」では家や地域という居住空間を、そして「岩長姫」では御霊とか怨みといった観念的にマイナスとされるものを祓う。役舞の構造の中では祓いの機能が重要な位置を占めていることがうかがえる。

 それらは山伏がもつ呪力や験力、またさまざまな呪具や呪言により祓い鎮められる。一方「清祓」の中で「この塩をもち七浦八浦の悪を祓い申す」と述べている。七浦八浦注29)という範囲は、神子の託宣の折にも唱えられることがあり、自分たちの生活圏、日常世界なのだととらえられている様子がわかる。この七浦八浦の生活世界へ神々は出現してくるのである。

 こうして登場するのが5「三番御神楽」における大日留女尊である。女神の出現に際し招く側は拝み手、三番叟そして春日と八幡の二神の三組の者がいる。拝み手は神話劇の上からは手力男尊に擬せられているが、その名の示すとおり神楽の演者すなわち山伏が拝むことにより神が現れてくるという、演じる側の自己主張が見て取れる。そしてこの自己主張のもっとも明白にあらわれたものが三番叟である。悪しきものを祓い、聖なるものを迎える力をもったもの、それがこの神楽の主催者であり演者でもある山伏である。超自然的な存在を追い祓ったり、祈り鎮めたり、また迎えたりといった彼らの能力は、力強くあるいは軽々とした動作や、唱えられる呪言や手に持つ呪具によってのみ示されるのではない。三番叟に込められた再生譚が彼らの誇る呪力の象徴である。だからこそ、狂言「粟蒔」の中で御神楽の拍子では岩戸は開かず、三番叟の拍子で開くのだと助六にいわせているのである。始源の時空にいる大日留女尊を、いまという時間と、このところという空間に出現させることができるのは、拝み手であり、神楽を主催する胴取であり、山伏の体験した死と再生を象徴的にあらわしている三番叟であった。彼らのもつ呪力と、彼らの奏でる楽の拍子により、神は我々の目の前に現れて、村の中のどんな災難も祓い退け、家内安全、大漁成就、村と家の繁栄を約束すると述べるのである。ここでは神楽衆が一丸となって神を招き、それにこたえて神が出現してくるのである。神が一人称で語り、胴取あるいはそれに相当するものが問い返しをするという託宣の形式をきちんと踏んでいないため、これを神の託宣と真正面からとらえることには抵抗があるかもしれないが、地域の人々の希求するものにこたえて神語りがなされるという意味では、充分に信仰と結びついた表現形態といえるのではないかと考える。この神のことばを得たのちに新年を迎える祝いのことほぎの舞6「松迎え」により、喜びが確認されるのである。

(C)山伏あるいは神楽の舞い手のもつ呪力や験力を、行為として最大限に発揮できるのは7「山の神舞」である。舞い手に対しては舞の技量だけではなく、舞を通して示される除魔また招福、予祝の能力が期待される。そして山の神舞の演じられる場においては、そこに居合わせる観客にもさまざまなタブーが課せられて、宗教的な世界を共有することを強いられる。山の神舞は舞い手にも観客にも緊張を要求する。こうした緊張感が信仰的な雰囲気をより強めてゆくと考えられる。

(D)一方9「恵比須舞」は山の神舞同様に地域の人々の信仰に支えられたものではあるが、舞そのものはおっとりと優雅で、山の神舞とはまったく対照的である。そこには神様が休日にのんびりと釣を楽しむといったおもむきがある。しかし魚を釣りあげる場面になると、漁師の人々は身をのり出してそれを見つめ、神様の一挙手一投足に注目しヤジも飛ぶ。魚を釣るという一点に集中的に示される人々の関心の高さは、山の神舞の折にあらわれる緊張感とは異なるが、今年一年の海の安全と漁の豊かさを願う気持ちを示しているといえよう。

 一年のうちで大地の活力がもっとも弱まり、人々の生活範囲もせばめられる北国の冬の期間にこうした神楽が演じられている。これは折口信夫氏が「日本の古代の考えでは、或時期に魂が人間の身体に附著しに来る時期があった。此時期が冬であった。歳、窮った時に、外から来る魂を呼んで、体に附著させる、謂はヾ、魂の切り替えを行ふ時期が、冬であった注30)」と述べる冬祭りについての考え方に通じるものである。それゆえ人々は「神楽が舞い立つから来んべぇ」といって、かつては霜月からはじまったこともある神楽の舞い立ちに春の訪れを感じようとし、来る一年の無事を願ったのだと思えるのである。

(2)粟蒔の助六の示す世界観

 「三番御神楽」では次の神降ろしの歌により、大日留女尊は高天原から千道百道を通り陸中沿岸地方の人々の住む日常世界である七浦八浦へとやってくるという。

・音に聞く高天原はここにあり、集まりたまへ四方の神々

・神道は千道百道道七つ、中なる道は神の通い路

・神々は今こそ降ります長浜を、葦毛の駒に手綱ゆりかけ

この神歌でうたわれる高天原は「三番御神楽」で示されたように、天地創造、神々の生誕という記紀神話と一脈通じる世界であり、そこで示された内容は抽象的な起源神話であった。一方の狂言「粟蒔」は、ふとしたきっかけで神々の世界へ迷い込んでしまった助六が、神々と出会い、神々から物種と人種をもらうことができたという物語である。ここで説かれる世界は現実の生活の起源譚であり、一つ一つの事象が生活と密着して語られ、現実と結びついたリアルな表現となっている。本稿では粟蒔の助六が語る世界こそ地域の人々の生活観、世界観と密接に結びついているものととらえ、前述の(B')で示したものを手がかりに、その世界を再現してみたい。

 助六が迷い込んだ神々の世界は遠い彼方にあるのではなく山中にあった。はじめに出会った高天原の神々は少し遠いところに、そして二番目に出会った地の神は少し近いところにいて、助六に生活の手だてのさまざまを示してくれた。助六は演者も観客も共有できるどじで、なまけもので、おっちょこちょいの人間として、普通の身近な存在として描かれている。しかしちょっとしたきっかけで彼は神々の世界を見てしまった。彼は異界を体験したのである。助六が日常生きている生活世界と、彼がまぎれこんでしまった神々の世界は、世の中が暗闇になってしまったという異常事態により、実はまったく遠くて異なる二つの世界ではなく、ある一つの連続した世界なのだと教えてくれる。それは自分たちの日常生活世界と、黒くて大きな地の神のいる世界と、そして高天原の神々の住む世界という三層の世界観である。人々の住む村あるいは里に対する神々のいる異界としての山があり、その山は近いところと遠いところという二重の遠近観をもって語られている。

表2
表2

 これは低い部分と高い部分とも言いかえられるから、里に対して近くて低い山と、遠くの高い山という対比ができる。これは[表2]のような上の方向への垂直の遠近観をもって語られている。遠くて高い山には高天原の神である大日留女尊が、そして近くて低い山には黒くて大きな地の神がいるという二層の神々の世界が考えられているのである。

 一方当地方神子は祭りの時にタカ神とトコロ神という二柱の神を降ろして託宣をする。タカ神は天照大御神であり、トコロ神は地域の氏神や産土神など身近な神である注31)。このことは粟蒔の助六が体験した神々の世界と、託宣で神子が語る世界は、共通の構造をもっていることを示すものといえよう。こうしたことから当地方では、神々のいる世界は二層の遠近の構造をもっていると理解されていることがわかる。

 これら神々の住む高天原は助六の体験によれば、「生豆を食ってきて屁をたれた」ような生臭い風の吹くところという。助六はこの高天原で神々から粟の種をもらい、かえってからこの種を蒔き、穂が出て、刈取りをすませ、売って金儲けをして伊勢参りをする。狂言「粟蒔」が描く世界は、助六が天上界の神々から物種をもらうという穀物起源譚であり、この粟を蒔いて刈取りまでを行う農耕予祝を示す神話劇でもある。そして注目すべきは神から与えられた起源の穀物が、米ではなく粟であるという点である。神楽の中で権現さまに供えるしとぎは米から作るし、山の神は舞の最中に米を撒くなど、この地方の人々は米も生活の一部としていた。しかし穀物の起源譚として粟が取りあげられ、農耕予祝のプロセスとして粟の種蒔きから刈り入れまで語られるということは、米作りよりも粟作りの方が当地方の人々の日常にとってはより身近なものであったと言えるのではなかろうか。米は人々の日常食というよりは、神に供えるものであり、神から蒔いて頂けるハレの食物だったと指摘できよう。『岩手の食事』によれば、三陸沿岸地方の主な穀物はそば、ひえ、あわ、じゃがいも、小麦、大麦、そして米である。沿岸地帯は平地が少なく米の収穫は期待できない。日常食の中心は三穀飯といわれる雑穀と米のまざったもので、米や大麦はつなぎ程度であった注32)という。こうした中でも「粟蒔」の中で、「世の中が暗闇になったので、浜に近い人は海に出て海草や小魚をとって油をしぼり町に売り出して金儲けをしたのだから、お前も山へ行って松をとってこい」と助六が父親にいわれているように、神楽を演じるのは山間部出身の人々が主であった。だからこそ焼畑の中心作物であった粟は身近な主食として位置づけられていたと考えられる。もちろん山間部の人々のみでなく、三陸沿岸地方に住む人たちにとり、「粟蒔」は決して遠い他国の話ではない。粟は演者も観客も共に共感できる穀物だからこそ取りあげられられたのであろう。

 助六は次に黒くて大きな地の神に出会った。この黒くて大きい神という表現は、神子が唱える「山の神の本地」の中の「山の神と申す神はせいも大きく、いろ黒く、まなく目だがくましませば注33)」という部分に共通する。助六が山中で出会った地の神というのは、山の神の属性をあわせもった神であった。助六はこの地の神から嫁を迎える方法、男女結合の仕方を教えてもらうことになる。一方神楽の山の神舞の詞章に「御夫婦となって十二人の御子をもたせたもふ注34)」という部分があり、生まれた十二人の子はそれぞれ名前がつけられる。この「夫婦となって」の部分さらにくわしく補強してくれるのは、前述の神子の「山の神の本地」である。その中に「竜宮浄土の一人姫さんきつ姫御前といって山の神のふさいになるべきものよとありければ注35)」というくだりがある。黒くて大きな山の神はさんきつ姫御前という竜宮の姫と結ばれて十二人の子をもうけたのである。「粟蒔」の助六は、この山の神舞の中にある十二人の子を産むという詞章や、民間信仰の山の神はお産を守ってくれといったことを背景として、地の神が助六に嫁を迎える方法を伝授するというプロセスを語るようになるのだと考えられる。

(3)役舞の示す世界観

 右のように粟蒔の助六は山中に入りこんで神々と出会い、その世界を体験して物種と人種をもたらしてくれた。この「粟蒔」では「浜に近い人は海に出て海草や小魚をとり」と父親に言わせているだけで、助六は海の世界について一言も語っていない。しかし役舞の中の一曲である「恵比須舞」は沿岸地方の人々にとっては重要な曲であることにかわりはない。神楽の廻村では同じ宿に二泊以上する場合、山の神舞だけは毎晩舞うが、他は祓や予祝の構造にあわせて演目を変えている。そのうち恵比須舞にかわるものとしては「浦島」がある。

 「津の国の浦島太郎という漁師が竜神の使いの若い女を釣りあげ、この女の案内で海中の竜神を訪れ、その姫と結ばれ、別れの時に玉手箱をもらう注36)」  

この曲は地域によっては「竜神」のタイトルで呼ぶこともある。三晩目によると黒森方では恵比須舞の伴う「七福神」を、鵜鳥方は魚売りと商人のやりとりを狂言「あきない恵比須」をとりあげることもある。

表3
表3

 このように海や漁や釣りとかかわりのある曲目が、役舞の恵比須舞にかわって二晩目以降に神楽宿で演じられるのである。内容は変化しても重要なことは、神が魚の獲物を釣りあげるという点である。海の彼方からさまざまな形で豊漁や豊饒を運んできて神がみずから示してほしいという願いが込められているととらえることができよう。このような海の彼方の世界も含めて、神楽の中で描かれている世界は[表3]のようになる。

 人々の住む村の中心に神楽宿があり、垂直の上の方向には天地創造・神々の生誕と物種の語られた高天原の神々の世界と、人種の起源が示された地の神山の神の世界がある。それから村の水平方向には七浦八浦の生活世界としての海があり、その彼方から海の神が豊漁をもたらしてくれる。竜宮浄土の姫と夫婦になったと山の神舞で述べられたように、山の神と海の神は婚姻を通してつながっている。また海の彼方から豊漁を招く象徴として語られている恵比須は、浦島伝説と習合注37)することで竜神の姫と結ばれる。海は豊漁だけではなく、豊饒をももたらしてくれる可能性を秘めた異界ととらえられているのではなかろうか。

 役舞の演目の中には地上における異国、見知らぬ他国は登場しないので、図2は半円のままである。だが役舞以外の諸曲には豊かな異界あるいは人間社会が描かれている。神楽全演目をながめることでこの半円は円環となるのであるが、本論の目的はここまでである。自分たちの住む村と、生活世界であり活動範囲である山や海があり、そのはるか彼方に神々が住む異界があると沿岸地方の人々は考えたのであった。このように本論では陸中沿岸地方の神楽のほんの一部を描いたにすぎないが、当地方の人々の豊かな精神生活の一端を示すことができたのではないかと考える。しかし本稿でしばしば登場してきた女神たちの世界、右に述べた円環の残り半分の世界は描ききれていない。そして何よりも実際に神楽を支えている神楽衆の実態には一言もふれることができなかった。稿を改めて考えてゆきたい。

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注29小形信夫「下閉伊地方の巫女の習俗」95頁『民俗資料選集・巫女の習俗』I 昭和六〇年 国土地理協会

注30折口信夫「大嘗祭の本義」188頁『折口信夫全集』第三巻 昭和四一年 中央公論社

注31神田より子 前掲書(12)

注32『聞き書き岩手の食事』250−276頁 昭和五九年 農山漁村文化協会

注33小形信夫 前掲書(29) 130−131頁

注34佐々木勝治本『黒森神楽唱舞編』

注35小形信夫 前掲書(29) 131頁

注36佐々木勝治本 前掲(34)

注37奥浄瑠璃本『西の宮一代記』と鵜鳥・黒森神楽『浦島太郎』の題で資料紹介を私家版で出版された阿部幹男氏は、「浦島太郎」の内容は浦島伝説と西の宮恵美寿の本地譚を習合したもの、と述べている。発行年不明。


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