トップ黒森神楽役舞の世界-陸中沿岸地方の神楽より-

4.役舞の世界


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 このように神楽の構成の仕方はほぼ確定しており、役舞は訪れる町や村の宿ごとに必ず演じられている大切な舞なのである。そこで次にこの役舞によりどのような世界観がつくりあげられているのか、役舞の描いている世界を、またこの舞を見る人々はどのような思い入れを込めて見ているのかを、役舞にまつわる信仰や伝承から探ってゆきたい。

1清祓(photo15)  神楽のはじめに演じられる祓い清めの舞である。手に持つ桃の枝は記紀神話でもフォークロアの世界でも邪気を祓う呪力のあるものとされており、この枝をもって「この村のこの家の悪魔を祓い清め申す」と述べる。また「この塩をもち七浦八浦の悪を祓い清め申す」と述べて塩をまき、太刀を抜いて「この太刀により家と村を祓う」と唱える。清祓は神楽に先だち宿となる家と、この地域から悪いものを祓い清めようとする舞である。

2榊葉(photo16)  祝福の意味が込められた舞で、神歌には扇や鈴を手にとり「拝めば神も利生あるもの」と、弊をもち「読まれし法華経貴とさよ」、さらに「旦那繁昌と祝ひ申せば」とうたわれる。最後に権現さまに向かい扇の上にのせた散供とよばれる米と神酒を供える。この曲は門打ちなどの折に新築の家に招かれたときにも必ず所望されるもので、山伏神楽特有の力強い足踏みと前述の所作とにより、強い力をこの家とこの地に祝い込めてほしいとの意図がこめられている。

岩戸舞3岩戸舞(photo17)  ここから一連の神話の内容に入ってゆく。そのはじめとして二人の尊が出て「八雲立つ出雲八重垣妻込めに、八重垣立つる其の八重垣」の歌が入り、「祓い給へ、清め給ふ」の呪言が述べられる。「御神楽」に先立ち、祓い清めが再びくり返される舞である。

4岩長姫  素戔嗚尊に退治された大蛇の霊が姫となってあらわれて、蛇の本性を示して剣を奪おうとするところを再び退治されるというストーリーである。国土が創世され、神々が誕生する国土創造の神話に先立ち、鎮まっていたはずの世の中が再び混沌へと逆行する。退治された大蛇の霊が残り、御霊と化したのであり、それは女の姿をとって表現されている。語りの中で、岩長姫はミカドに意趣があって、つまり怨みがあって八岐の大蛇と化したと述べられている。神楽の中の女舞は鐘巻や機織りなどに見られるように、女の妄執とか怨念といった心性を、呪力、験力、法力などにすぐれた僧や験者が、これらの力により祈り鎮めるといったテーマがある。岩長姫も役舞に属してはいるが、一連のこの女舞の系譜の中にある。ここでは鎮まりきらないマイナスの力、つまり御霊、妄執、怨念といったものを、大和武尊が退治する形をとっている。神楽を舞う演者である山伏およびその呪力が大和武尊に象徴化されて語られていて、女性として描かれたマイナスの心性を鎮めようとするものととらえることができよう。

kuromo31.gif (23092 バイト)5三番御神楽(photo18)  右のような混沌が鎮められた後で、「神々は今こそ降ります長浜を」の神降ろしの歌からはじまる、神を招く曲である。大日留女尊を招くための神歌と「岩戸祝詞」といわれる御神楽の由来が語られる。この内容は次の通りである。

 「千代の御神楽の由来をくわしくたずぬるに」からはじまり、伊弉諾伊弉冉の二柱の神が天の浮橋に立ち、天のさかほこをさしおろして青海原をさぐると島が成立し、これをおのころ島と、また豊葦原の中津国と名づける。大八島の国々や山川草木を産んだので、次に天の下に立ちたる者を産もうと、大日留女尊すなわち天照大御神、月夜見、日夜見、昼子、須佐之男の地神五代を産む。しかし須佐之男がさまざまな諸悪をしたため、姉の尊は立腹して天の岩戸に引きこもり、国土は暗闇になってしまった。そこで神々はさまざまの策をもって女神を岩戸から引き出そうと計る。

 神楽により始源の物語である天地創造と神々の生誕の瞬間が語られる。こうして「手力男が岩戸に手をかけ」の語りで拝み手が幕を開け、大日留女尊が登場する。ここで女神、拝み手、三番叟、春日、八幡の五人が舞、女神が中央に立つと、胴取により「当村における如何なる災難も万里が表に払い退け、家内安全、大漁成就、御村繁栄、御家御祈祷の神楽なり」と語られる。神の語りと神への祈祷が融合したような内容である。この曲は別名「御祈祷」とも称し、神降臨を願って、一年間の人々の安全やさまざまな希望を祈願する祈祷舞なのだとの受けとり方が一般的な理解の仕方であろう。しかし大日留女尊の降臨の前に、わざわざ大蛇を退治するという劇的な要素をとりこみ、混沌を沈静化して、その上で神を招くという入り組んだ劇の構成をとっている。このことは、女神の降臨は波瀾万丈を経てはじめて実現するのだという、演劇的効果をねらったものと考えられる。祈祷舞をめぐってその前後に付随するさまざまな劇の構成や、伝承の類の豊富さがそのことを雄弁に物語っているように思われる。ここでそれらについて少し考えてみたい。

 本田安次氏が昭和七年八月採録された下閉伊郡岩泉町下岩泉の「岩戸開謡注15)」には、その最初と後半部に次のような記述がある。

(a)天明と、天地岩戸を立出て、神子舞仕ル、仰敬白奉、昔より、大白霊尊トハ、我が\也、衆生利益のために、衆身を白く顕すなり、

(b)此島が泥の海となりし時、天の逆ぼこ、取をろし、日本六十余[と、書印、其時、能 印権現杯者、日本山々獄々、山の風情[               ]御眼をさまさせ、[            ] 御悦の御託宣たれたもふ。 ………(途中略)………

(c)あら難有や、五社の大明神の、御神楽、大日霊の尊の御託宣に依而、今より後は神明を信仰社、神明を信仰の輩を諸願成就、家内安穏のために、力社の、大明神、御神楽諸願成就とおんバやし、御聴もん注16)。」  

この「岩戸開謡」は現在の黒森神楽でも鵜鳥神楽でも伝えられていないが、当地方には神楽衆が太鼓の胴をとり、笛を吹き、鉦を打って伴奏をし、神子が託宣をする湯立託宣がある注17)。その際の神子の託宣の言葉と、それに受け答えをし、また聞き合わせをする胴取の願上の言葉は、まさしくこの下岩泉本の一人称と三人称の混沌した謡と、構造的に一致している。湯立託宣では神子が一人称での神の言葉を託宣し、胴取が神に対して問い返しをする。下岩泉本では(a)の部分と(b)の前半の破損の部分までは一人称であり、(b)のそれ以降と(c)の部分は願上にあたる。湯立託宣では神子が一人称で神語りをし、胴取が聞くというダイアローグの形をとっているので、託宣とそれに対する問いの部分がはっきりしている。神楽の中では「御祈祷」の神語りの部分を黒森方も鵜鳥方も胴取、舞手そして脇にいる伴奏者が合唱するように唱えるので、神の託宣なのか、神に対する祈祷の唱文なのか、今ひとつはっきりしない。しかし前述したように、女神出現に到る仕掛けが大がかりなこと、そして神出現の部分にポイントが置かれて神楽が構成されていることを考えると、やはりこれは祈祷とはいえ神の声を聞きたいといった観客の心持ちが反映しているのではないかと思えてくる。

 この「御祈祷」には黒森神楽では「新岩戸開き」(photo19)という第二の演目がある。同じ宿に二晩以上泊まる折に、第一夜に「三番御神楽」を演じた場合には、第二夜はこの「新岩戸開き」を演じることになっている。また毎晩宿をかえている場合でも、「旧開き」と称する「三番御神楽」と、通称「新開き」という「新岩戸開き」のどちらかを選んで演じている。

 「新開き」の内容は、須佐之男命の悪戯けで天照大御神が天の岩戸に隠れてしまったので、思兼命が岩戸の前で神技しょうと提案した。そこで天鈿女命が舞を舞い、八百万の神々が手をたたいて喜んだ。これを聞いた女神がのぞいたところを、手力男命が幕を上げて女神を登場させ、天太玉命と天津児屋根命が祝詞を奏上する、というものである。

 この中で天鈿女命が舞う舞は、祭礼で湯立託宣の後に神子が舞う舞を取り入れたものという。天鈿女命は着物姿の上に千早を来て、両手に笹をもち、「笹の舞」を舞い、その後千早をぬいで両手にもって「獅子の手」を舞う。これらは神子舞をそっくり神楽に取り入れたものであるという。この「新岩戸開き」は湯立託宣の際に湯立をおこなう田代正雄氏によれば、昭和初期に宮古市の横山八幡宮につとめていた神官の一人が創作したものという。また今の黒森神楽の師匠格にあたる佐々木勝治氏(明治四四年生)や、中村隆一氏(大正元年生)、あるいは昭和三十年頃まで黒森神楽と一緒に歩き、今は宮古市の蒼前神楽の胴取である在原源吾氏(明治四二年生)の諸氏の師匠の時代に作られたものともいう。西口益治氏、上坂喜兵衛氏らがその人たちである。本田安次氏の採集された黒森神楽の台本はこの二人の所有のものであり、本田氏の採録時の昭和七年頃注18)に活躍していた人たちであった。なぜ「新開き」のものが作られたのかわからないが、当時下閉伊地方には出雲大社教に所属していた民間宗教者注19)がかなりいた。在原源吾氏は昭和六年一月四日の銘のある『出雲神楽能』と題する謡本を所蔵されており、この中には師匠の作になると在原氏が証言している「榊舞」、「五行五大龍神舞」、「三韓征伐」などが記されている。また本田氏が採録された黒森神楽の台本の中には巻物もあり、奥書に「神道大社教黒森神楽講社社長権大講義藤原朝臣昌諄印 印」と記され、神楽の折にこの巻物をもって歩いたとある。これに書きつけられていたのが、「岩戸開ノ辞」と題する語りであったという注20)。黒森神楽衆の誰か、あるいは神楽とかかわっていた宗教者が出雲大社教の講員であったところから、こうした神道風の新作が成立したのではないかと推測できる。

 また、外山サツ神子(明治四二年生)の師匠松浦クマ神子の時代、神沢ヨノ神子(明治三五年生まれ)の姑の神沢トヨキ神子の時代には、神子舞を舞うときには現在のような緋色の袴をはかず、着物の上に直接千早を着て舞を舞っていたという。下閉伊地方の神子の多くも一時期大社教に属していたから、こうしたところにも神道大社教の影響が出ているのかもしれない。新作の神楽の天鈿女命による神子舞は緋の袴をはかず、かえって古風を残しているといえよう。

 話がわき道にそれてしまったが、「新岩戸開き」という新作を作り、そこで神子舞を舞っているということは、手を変え品を変えても、基本的な要素は変化していないということを意味していよう。それは神の声を聞きたい、神から直接一年間の生活の安全を保証してもらいたいという観客の希望、要求が、こうした部分を残し続けた理由なのではないかということである。地域の人々のこうした信仰心が、神楽の内容は変化しても、その格となる部分を伝え、そして生き続けさせているのではないかと思えるのである。  岩戸が開き、女神が出現すると、神楽衆全員で謡をかけ、最後に「悪魔を四方七里に投げ鎮めよう」と述べる。鵜鳥神楽の田野畑和七氏はこのことを、「託宣と同じようなことをいう」と証言しておられる。

 大日留女尊を幕内から出現させるのは直面の拝み手といわれる者である。幕内つまり岩戸からの女神の出現に際し、手を添えるところから手力男尊ともいわれているが、神を招き、神の声を聞き出そうとする役の者ともとらえることができる。この折に神を招く側の拝み手、春日、八幡の三人は直面であるのに対して、黒尉面をつけた三番叟のみが異質である。なぜ三番叟が「御祈祷」とも称されるこの「御神楽」に入りこんだのかわからないが、三番叟には神楽の謡本とは別に次のような再生譚が伝えられている。

 「三番叟は一目千両の美人に恋をしたが、色が黒く醜いために相手にされず、恋いこがれて、顎も手もはずれ、ぼろぼろになって川原で死んでしまった。そこへ通りかかった一目千両の美人はかわいそうなことをしてしまったと、三番叟の死体をつなぎ合わせたところ生きかえり、二人は結ばれた。ところが顎の骨が足りず、一目千両の美人が糸でつなぎとめた。」(在原源吾氏談注21)

一度死んだ三番叟が美女に助けられて生きかえったが、顎の骨が足りずに紐で結びつけたので三番叟の顎は切り顎なのであるという、黒尉面の由来譚であり、三番叟の再生譚注22)である。役舞に準じるとされる狂言「粟蒔」では、大日留女尊のとじこもった天岩戸は、春日と八幡の二神の舞う御神楽の拍子では開かず、「三番叟」の拍子で開いたという三番御神楽の由来が語られる。この「三番御神楽」の曲に天鈿女命は登場しない。鈿女に代わり天岩戸を開ける力をもった者として、ここでは三番叟が語られているのである。

 里人にとり他界とされる山中で修行をした修験者は、自己の死と再生を儀礼を通して体験注23)している。そうした修験山伏の徒が深く関与してきた山伏神楽の一つとしてこの「三番御神楽」をみるとき、彼らの自己主張がこうした部分によくあらわれているのではないかと思える。前述のように岩戸とみたてた幕を上げるのは拝み手である。しかし女神の出現の動機づけとなるのは、三番叟の拍子だと説明されている。この説明と、三番叟の切顎にまつわる再生譚は不可分のものとは思えない。「三番御神楽」そのものは大日留女尊の出現を乞い、そして女神の声を聞こうとして、それをもって村人に対して、これが神楽による祈祷なのだと主張することが主題であり、また観客もそれを望んでいることがわかる。しかしそうしたテーマとは別に、「三番御神楽」のもどきともいえる狂言「粟蒔」の中で、三番叟の拍子により岩戸が開き、女神が出現すると説明されている。神楽の演者たちは自分たちの間にだけ伝わる伝承として、三番叟の切顎の話を伝えている。これらのことは彼らがこの演目についてもつ思い入れ、三番叟の再生についての特別な感情、あるいは信仰といったものがこめられてるのではなかろうか。それは三番叟の舞う拍子が女神を出現させるだけの力をもつ、と考えられている点であり、また三番叟は一度死んで他界を体験したものととらえられている点である。女神を出現させる力と、三番叟が復活したといったものと、儀礼を通して死と再生を体験したといったものが、構造的に一致したものと言えるであろう。またそうした修験者の呪力と再生した者という信仰が、女神を出現させる力とか、三番叟の再生譚といったものにより象徴的に表現されているともとれよう。ここに三番叟にまつわる由来譚が語り継がれ、また狂言の中でも粟蒔の助六の語る話として解説されてきた理由があろう。演者の内包する呪力や彼らの描く他界観は、三番叟により象徴的に示されているのである。

6松迎え(photo20) 二人の若者が年の初めに立てた門松の由来を語るという祝いの舞であり、めでたい新年を迎えようということほぎの舞である。「三番御神楽」によって神が示現したその時が、新たな年を迎える時と重ね合わせて考えられているのだ。いま陸中沿岸地方では正月が過ぎてから舞い立ちがあり、人々は「神楽が舞いたったから来んべぇ」と言いあって、春の訪れと重ね合わせるように神楽の訪れを待っている。かつては神楽衆は農作業の秋じまいがすむ霜月の頃にはもう神楽に歩いていたという。気候の上では冬よりも早く、暦の上では正月よりも早く、神々を迎える春の祈祷は行われていたのである。そうした神迎えをことほぐ舞が、三番御神楽のすぐ後に演じられる松迎えであるといえよう。

7粟蒔(photo21) これは狂言である。沿岸地方の神楽は狂言を豊富に伝えているが、ここでは前述のような理由で、役舞に準じるものとされている「粟蒔」をとりあげる。内容は黒森神楽の佐々木勝治氏の台本と彼からの聞き書きによる。

 「弟の素戔嗚尊が生馬の皮をはいで姉の尊に投げつけたために、大神宮さまは立腹して天の岩戸に隠れてしまった。そのために世の中が真っ暗闇になり、村の人は浜へ行ったり山へ行って松アカシという明りとなる松の根を採ってきて大もうけをしている。飲んでばかりいて働かない助六は、お前も松を採ってこいと父親に命ぜられて、山へ松の根をとりに行く。暗いので手さぐりで行くと、生臭い風が吹いてきてどこからともなく音楽が聞こえる。そこは高天原であったのだ。世の中が真暗闇になってしまったので、神様たちは「御神楽」の拍子や「三番叟」の拍子を打っているのだ。御神楽の拍子では岩戸は開かず、「三番叟」の拍子で開くのである。こうして大神宮さまが岩戸から出てきて、暑くなったし世の中が明るくなったので、助六は松を採る必要がなくなった。しかし明るくなったために助六は神様に見つけられてしまい、その方は何者だとたずねられた。自分は粟蒔の助六だというと、神様は粟の種をくれた。こうして家へ帰る途中にまた別の大きな黒い神様が現れ、何者かとたずねると、我は地の神だ、その方は何者だとたずねられた。我は粟蒔の助六だとこたえると、よい粟がとりたければ嫁をもらい大事にしろ、そうすればよい粟がとれるという。この神からもらった粟の種をオバコ泣かせの種という。そこでその種を蒔き、植え、育て、藁打ちをする。そして正月を迎えるために注連縄を張り、御幣を飾り、年徳神を拝む。こうして粟もできたので、刈り入れをし、脱穀をして、粟を売った。お金も儲かったので伊勢参りをしよう、と引き込む。」 

以上が粟蒔の内容である。これは前述の「三番御神楽」のもどきにあたるものといえよう。しかももどきである以上にこの狂言はさまざまな意味を含んでいる。まず山中に火をつくる燃料となる松の根をとりにゆき、そこで高天原の神々と出会って物種となる粟の種をもらう。次に地の神と出会い嫁を迎える方法を教えられる。当地では嫁を迎えることを「アワマキ」というそうで、この話はかなりエロチックな含みを残して伝えられている。ここでは穀物の生産と男女の結合が重ね合わせて語られているのである。また粟の種蒔きから脱穀して売るまでのプロセスが示され、田遊びなどで演じられるものと同様の、農耕予祝の要素を伴ったものといえよう。こうして注連縄を張り新年を迎える。世の中の始まりが示され、生活に必要な火や食物の起源が語られ、子孫を残す道が説かれる。

kuromo26.gif (22076 バイト)8山の神舞(photo22) 神楽では絶対に欠かすことのできない重要な舞とされ、この舞に関するタブーは他の神楽の演目に比べてとても豊かに伝えられている。このことは一般の人々の日常生活の中に生きづいている山の神への信仰と、神楽の演目の中での山の神舞が重ねられて、山の神舞は地域の人々の山の神信仰の延長線上にあると考えられる。そこで千葉徳爾氏の指摘注24)された、民間信仰における山の神信仰を整理して、本論では千葉氏の述べられた趣旨に沿って便宜上番号をつけて記してみる。

(a)神の性別を説く、

(b)この神様は女性であるがゆえに女が祭りに奉仕するのを忌む、

(c)一年に一二人の子を産む、

(d)お産を守ってくださる神様だ、  

この四点については沿岸地方の山の神舞はすべて当てはまる。 まず(a)神の性別だが、神楽の山の神舞は勇壮で力強くて荒々しく、その顔は赤い面だが、性別を問えば女であるという。神楽衆によれば、神楽の武士面にはヒゲがあるが山の神にはヒゲがないから女だという。また若手の神楽衆は山の神舞を舞う場合には、きびしい中にも女らしさがなければだめだと師匠から常々いわれるという。(b)女が祭りに奉仕することを忌むということと同じタブーが、山の神舞を見物する女性についてかつては当地方にもあった。本田安次氏によれば、岩泉町袰綿では山の神舞が終わるまで婦人は神楽を見ることができない、あるいは少なくともこの舞が出る際には婦人に退いてもらった注25)という。また普代村で筆者が神楽を見ている際に出会ったある老婦人は、神楽を何十年ぶりに見たという。かつて若い女は神楽を、とくに山の神舞を見るべきではないと言われて育ったからという。(c)一年に一二人の子を産むという伝承は、山の神舞の謡に語られている。その内容を要約すると次のとおりである。

 「山の神の父の名はならば大王、母の名は金比羅才良う御神と言う。山の神は夫婦となり一二人の子を産み、その子にそれぞれ十二支の名をつける。そして一人称にて祈祷のことばを述べる。」

このように神楽の謡においても山の神と一二人の子の出産は語られている。このこととかかわるように、(d)お産を守ってくれる神、という伝承がある。山の神舞は安産祈祷の舞ともいわれていて、妊娠した女性は神楽衆にたのみ、自分の身につけている衣服を着て舞ってもらい、それを身にまとうのである。

 このように一般的な民間信仰レベルでの山の神に対する信仰は、沿岸地方の山の神舞においても見られる。山の神への信仰は層がひろく、生業により、また地域により、それぞれ独自の信仰形態をとっており、右のようにたった四つの点が当てはまるからといって、山の神舞を簡単に一般化することはさけねばならない。  しかし当地方の人々は生業を異にしても、山の神舞を自分たちの大切な信仰対象の象徴化とみて、それぞれの立場で受けとめているようである。たとえば山の神舞は山で働く人たちのための舞なのだという言い方がある。一方漁師の人たちに言わせると、ほんの一昔前まで船は木造であり、船を造るために山へ木を伐りに行っていたから、自分たちにとっても山の神舞は大切なものだという。

 この舞への人々の信仰や思い入れは今でもとても深い。山の神舞が終わるまでは酒を飲まない。神楽宿を例にとってみよう。宿をするということはその家にとり、かなりの負担であり、村の人に負担をかけたくないという理由で三〇年ほど前に廻り神楽を中止した別当もいる。一方神楽宿をすることは、宿の主にとり自分の家の繁栄を示す機会でもある。近所の人、同業者、マキとよばれる親類の人を招き、神楽を媒介として人々のコミュニケーションがはかられる場ともなるのである。だから神楽が終わるのもそこそこに宴会が始まることもあるが、そういう場合でも山の神舞が終わるまでは酒が入ることを慎むということは、厳重に守られている。この舞は単なる娯楽の舞ではなく、信仰に根ざした舞なのだということが、こうした話の中に今でも生きづいている。

 山の神の演ずる行為の一つ一つが見るものにとっては信仰の対象である。山の神の舞い手は「手ちがい」といって、紙を御幣状に切ったものを指輪のように指にはめる。この「手ちがい」が切れると、その家の者に不幸があると言い、切れた紙片を神棚に供えて神楽衆に拝んでもらうという。また山の神の撒く米を御符といって、拾ってそのまま口に入れたり、紙に包んで家に持って帰る人もいる。山の神はこのように呪力に満ちあふれた存在としてとらえられているが、その呪力の源泉として考えられるものの一つに、山の神の荒々しく、力強い足踏みがある。本田安次氏によれば、岩泉町袰綿では、じんばいあるいはけんばいという足踏みをすると、その場所には三年間草木が生えないと言われ、また踏みそこなうと足が折れる。それゆえ神楽ではめったにこの足を踏まず、これだけを師匠の者が病人祈祷の折に剣を抜いて踏んだ注26)という。鵜鳥神楽の胴取の田野畑和七氏は山の神舞の足踏みのうち「九字の庭」の踏み方は師匠からまちがえてはいけないといわれたという。前述の伝承の一部は未だにタブーとして生きているのである。

恵比須舞9恵比須舞(photo23) 大漁祈願の舞いとされ、漁村では欠くことのできない舞いである。恵比須舞も山の神舞と同じように地域の人たちのエビス信仰に支えられて、単なる神楽の一演目という以上の役割を果たしている。そこで当地方のエビス信仰の一端を示しておきたい。陸中沿岸の久慈市小袖、山田町大浦では十月二〇日頃に漁師の人々が集まり盛大なエビス講注27)がある。また釜石市箱崎白浜では漁船が大漁して帰港する折に、島々や崎々に祀ってある神社に向かい「トウトウエベス」とか「トエベストウ」と唱えて海に魚をささげる注28)。まだ宮古市では漁師の人々が「エビス直し」と称して漁のない時や大漁祈祷に、巫女を訪れてお祓いをしてもらうことがある。

 右のような恵比須信仰の一環の中に神楽の恵比須舞を位置づけて考えてみると、漁師の人々の恵比須舞への思い入れがよく理解できると思う。とくに漁場では廻り神楽の折に船祈祷をたのまれることがあり、神楽衆が船に乗り、安全祈願や豊漁祈願の祈祷をして、恵比須舞を舞う。宮古市熊野神社の祭礼では宮古湾の先端の黒崎神社近くまで船渡御をするが、その際船中で恵比須舞が奉納される。またこの黒崎神社の祭礼の日の船渡御では、立ち寄る港々で同じく恵比須舞がある。こうした折によく本物の鮭やシオビキと称する荒巻鮭やマスやスズキが、そして時には現金が釣り上げられる。漁師の人々の奉納によるもので、彼らの恵比須舞への信仰がよくあらわれていると感じとれる一瞬である。またある時には見物していた子供が釣り上げられたこともあった。豊漁のみでなく、豊饒のシンボルとして子供を釣り上げたのであろうか。海の彼方の幸いを釣り寄せようという心意気のあらわれとも受けとれる。漁場では恵比須舞を見ている人がみなプロの漁師さんだから、演ずる神様も緊張するという。竿に釣針をつけたり、釣り上げた魚にとどめの一撃を加えるにも、さまざまな技巧が用いられる。あの技は古いとか新しいとか、大向こうから盛んに声がかけられる。神様が上手に魚を釣り上げてはじめて来る年の豊漁が約束されると人々は感じ取るのであろう。

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注15本田安次『山伏神楽・番楽』37頁、昭和四六年 井場書店

注16本田安次 前掲書(15) 433頁

注17神田より子 前掲書(12)

注18本田安次 前掲書(15) 36頁

注19筆者が手に入れた昭和一六年二月の出雲大社教名簿には二七名が載っている。

注20本田安次 前掲書(15) 433頁

注21この話は在原源吾氏より聞いたものだが、在原氏の師匠の上坂喜兵氏談として、本田安次氏も採録しておられる(前掲書(15)115頁)。上坂氏の伝承の方が内容がくわしいが、本論では一応再生の意味がくみとれればよいので、在原氏の口承のみを載せておく。

注22この話は下北半島の能舞の舞い手の人たちの間に伝えられている。(神田より子「下北の能舞にみられる三番叟」48−59頁『三田国文』創刊号 昭和五八年 三田国文の会、同「下北の能舞」17−24頁『山の祭りと芸能』(下) 一九八四 平河出版社)

注23神田より子「羽黒修験の峰入り」64−84頁『山の祭りと芸能』(上) 一九八四 平河出版社

注24千葉徳爾『女房と山の神』39−40頁 一九八三 堺屋図書

注25本田安次 前掲書(15) 437頁

注26本田安次 前掲書(15) 438頁

注27『三陸沿岸の漁村と漁業習俗』(下巻)29頁 昭和六〇年 東北歴史資料館、『大浦の生活と民俗』54頁 昭和六〇年 山田町教育委員会

注28『三陸沿岸の漁村と漁業習俗』(上巻)221頁 昭和五九年 東北歴史資料館


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