「海をむすぶ祈り-東アジア海域交流と信仰」でのコメント要旨    07.2.11

                                 慶應義塾大学 野村伸一


 付記

 以下は2007年2月11日(日)に、長崎歴史文化博物館一階ホールでおこなわれた国際シンポジウム「海をむすぶ祈り-東アジア海域交流と信仰」における発言要旨である。当日は多くの参席者とともに熱意ある質疑応答がおこなわれた。
 なお、これは文部科学省科学研究費特定領域研究「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成」というプロジェクトの一環として開催されたものである。
 発表者野村はこのプロジェクトの一員ではないが、今回は「現地調査研究部門」の討論会ということで参席し、発言した。ここに用意した論点がすべて取りあげられたわけではなかった。しかし、会場での多方面にわたる質問、意見により、かなり多くのことが討論された。
 なお、当日おこなわれた発表と質疑内容の全記録はやがて公開されるとのことである。




 三点の報告要旨を事前に読んで感じたことを記します。

 今回のわたしのコメントの立場はさしあたり「朝鮮半島からの視点」ということにします。ただし、わたし自身は日本と中国の基層文化、とくに「祭祀と芸能」を一定の基軸の上で位置付けたいと考えています。そのため、そうした視点からの意見となっています。ご了解ください。末尾に付した四点は討論の際に提起したいとおもっていることがらです。

 柳和勇先生の「浙江舟山群島の寺観と祠廟」 はこの地域の「宗教」の歴史的展開を主として史書と実地調査の結果に基づいて説いたものです。それによると、4世紀末東晋の時代に、まず道教がはいり、次いで仏教が伝わったとのことです。唐宋、元代まで両者は並行しておこなわれていったとみられます。ところが、明代にいたると、民間信仰が多様なかたちで進展していきます。そのなかにはもちろん媽祖信仰もあります。やがて、清代康煕帝のときに渡航禁止令が解かれ、それとともに祠廟が飛躍的に増加することになります。
 結果的に、仏教寺院が主流をなし、その他、道教の宮観、媽祖、海竜王宮、人物をまつる廟などが混在することになります。そして、以上の変遷のなかで、宗教信仰の世俗化があり、また航海者の増加とともに媽祖や観音信仰が盛んになったことが説明されました。
 これら歴史的展望はこの地域の宗教信仰の基礎的な理解にとって有益なものです。ところで、ここで次のようなことを三点、付け加えておきたいとおもいます。

1. 道教や仏教の寺廟が建つ以前にはどのようなかたちの祭場があったのか。洞窟のようなところが初期道教の担い手により利用されたようだが、あるいはそこはより原始的な海神の祭場ではなかったか。済州島ではそうしたところをtang(タン、堂)とよんでいる。タンは洞窟や石囲い、あるいは木叢が大半である。

2. 観音や媽祖、漁民菩薩などと並行して海竜王の祭祀がつづいていることは、原初の海神、竜王信仰が生きていたことを意味する。それは当然であるが、ここで次のようなことが考えられる。
 すなわち、済州島では「(東海)竜王国」の竜王(男神の心象)とは別に、そこからやってきた女神がタン神になることが多い。舟山列島でもそうしたことが考えられる。それが観音や媽祖(より一般的な呼称は娘娘)信仰の基盤になっていた可能性は大きいのではないか。

3. 漁村の人びとにとって、海は生活の場であると同時に「他界」でもある。海と集落を去来する神、神霊、異人などに対してどのような信仰があったのか。たとえば、舟山の「氽来菩薩」は海で死んだ女性の死体をまつったもの。済州島ではヨンガムという神霊についてこうした死体漂着の伝承がある。また、海の彼方に災厄を流し去ることも東シナ海周辺の漁村では一般的である。海の神霊は幸・災厄をもたらすと同時に持ち去ることもはたす。それがどのように表現されてきたかをより詳細に知る必要があるだろう。

 林国平先生の「中国福建沿岸の諸廟と海神」では、福建の前近代における海神信仰の展開を簡潔に説明してくれたもので次の点が興味深いものとおもわれました。

1. 福建の原初の海神信仰を閩越族にさかのぼって「海神は蛇トーテムであった可能性が極めて高い」としたことである。これは済州島の蛇信仰にも通じるものとみらる。済州島のチルソン(七星)という神は星ではなく、海の彼方から漂着した八匹の蛇で、これが富をもたらし定着して祖先としてまつられる。また兎山堂の神も朝鮮半島全羅道からきた蛇神でやはり一族、あるいは村の祖先神の扱いをうけている。そのほか蛇を崇拝する民俗はいくつもみられ、それらが血縁の祖先崇拝とはまったく別の祖先観に由来することはよく知られている。

2. 竜王信仰は漢代以降唐代までに北方から流入したとする点もおおむね首肯できる。ここには男性の支配者、統治者の心象が重ねられている。四海竜王のような表象は後来のものとみられる。ただし、それが東シナ海に広くいきわたったのは、あるいはもう少し古く、越国が歴史上から消え去った時代、すなわち前4世紀にさかのぼって考えてもいいのではないか。

3. 第二部の祭祀儀式の紹介では、「漁民・海商・官員・渡海移民の海神祭祀儀式についてそれぞれ別個に紹介」された。こうした分析方法は注目される。ただ、「漁民の海神祭祀儀式は比較的簡単」とした点にいくらか問題点が残る。たとえば、海での死者と海神の関係、海神の居所に関連する神話伝承と祭儀、船を守る神霊・海辺の鬼神などを含んだ広義の海神信仰と祭祀儀礼の関係という視点を含めると、かなり複雑なものとなるのではないか。たとえば済州島では、海の死者の霊魂は竜王により管理されていて、その竜王の使者への祭儀がおこなわれている。海辺に寄り来る鬼神は定着して漁村を守護する神ともなっている。当然、そこでは祭儀がある。

4. 第三部で主張されたように、媽祖以外の数多くの海神に注目すべきことはいうまでもない。済州島の海辺のタンでは諸方からやってきた女神が定着してまつられることが多い。日本の福岡県には宗像三女神がいるが、これがまた移動して各地でまつられている。古代神話で神功皇后として語られた人もやはり、その行跡をみると神話的な海の女神のひとつであろう。

5. とはいえ、明清以降、媽祖が数多い海神のなかからとくに多くの人びとの支持を受け各地に広がったこと、そして、今日なお、台湾などではその信仰が拡大していることは改めて見直す必要がある。それは女性の根底的な支持ということを抜きにしては考えられない。では、それはなぜ多くの女性たちに支持されたのか。すでにいわれているかもしれないが、観音菩薩と現実の母親や未婚のむすめたちとの中間に位置する女神であったこと、しかも海上あるいは各種の共同体を移動しえた点に理由があるのではないか。

 大石一久先生の「九州西北の渡来神仏と海の信仰」では、14-15世紀の東アジアに社会的な変動と文化の移動が活発におこなわれたであろうということが示唆されました。この時代、長崎では関西方面から石塔類が多数持ち込まれています。そしてまた、同時期に朝鮮半島から金銅仏が将来されています。この時代は朝鮮半島で王氏高麗が統治能力を失い李氏の朝鮮に変わる時期でもあります。一方、中国社会でも元から明へと体制が移行し、社会は総体的に流動性を帯びていました。
 その時代、朝鮮では国教の仏教が著しく民間信仰と融合し、いわば新しい巫俗が形成されていました。中国では道教が泰山の東嶽大帝、城隍神あるいは媽祖などを取り入れ、神統譜を整えていきます。そして、黄籙斎などの祭儀を充実させていきますが、その一方で仏教もまた水陸会や諸種の法会などでさかんに民間の死者霊供養の要求を満たしていきます。
 こうした東アジアの流動的な状況下、朝鮮では各地に塔や石仏が作られました。長崎に一時的に盛んに持ち込まれた石塔などはその影響を受けていると考えられます。一方、中国から長崎に渡来した神仏は明清時期のものだとのことです。それは徳川幕府の時代にも日本と明のあいだで海を介しての交流があったからです。これに較べて、李氏朝鮮と明のあいだでは陸路の往来はあったものの、海の交流は盛んでなく、従って媽祖像のようなものも将来されなかったのだと考えられます。

 なお、以上のこととは別の視点で、「東アジア海域交流が日本文化へ与えた影響の諸相」を考えるとき、次のことがらはなお、いろいろと究明すべき点を残しているとおもいます。

1. 海の神への畏敬  鯨は神(山東半島遠海、山口県)。年初の魚を海神に献呈すること。

2. 女性の旺盛な生活力の連鎖  中国南部、、琉球列島、済州島などで女性は男以上にたくましく労働し、家庭を支えた。これは根源的なもので、のちに儒教倫理が重なると、「列女」を産み出すことになる。東アジアのこれらの地域に古来、集団的な移動があったと考えられる。世界を創る女神の伝承(定海の女媧拼天、済州島のソルムンデ婆さん)。

3. 死後の霊魂観、とくに鳥の役割  周山列島、済州島、朝鮮南部では近年まで二次葬がみられた(草挾墳、センビンヌル、草墳)。これは死後の霊魂がすぐに屍を去らないということを示唆している。そして、その行方は鳥とともに海の彼方にいくと観ていたようである。葬礼に鳥を模したものを用いること(舟山列島、対馬)、また死後に霊魂が鳥となって飛び去るという巫歌があること(済州島)はそれをものがたる。

4. タコ揚げは厄払い  放鳶(舟山列島)、鳳巾を放す(イカ、長崎)、鳶揚げ(済州島)。こうしたことは、村落の災厄を船に載せて放つ民俗と基本的に同じものといえる。