東アジアの女神たち(図版選)
                                              野村伸一

 総じて東アジアの宗教文化史、芸能史は女神の問題をおろそかにしてきた。それでも神話学や民俗学では太陽女神や日光に感精する母なる神については大いに語ってきた。
 しかし、東アジアの聖母についてはどうだろうか。残念なことに、わたしたちは聖母というと、キリストを抱く慈愛のマリアしか想起しない。西洋の聖堂や宗教音楽に憧憬する人は数多い。
 これに較べて東洋の聖母というと、ようやく観音菩薩をおもいつくものの、その裾野に興味を抱く人は数えるほどしかないだろう。
 ましてや、女性の冤鬼とその祭祀や芸能の歴史となると、ほとんどまともな論題とみなされてこなかった。しかし、東アジアの女神史を全うさせるためには、この面に光を当てなければならない。
 以下、そうしたことを考える手がかりとなるべく図版を選んだ。


 〔朝鮮半島


南原女院峙磨崖仏座像 撮影李慶禾

 南原(ナモン)女院峙(ヨウォンチ)磨崖仏座像

 この座像は高麗時代13~14世紀ごろのものと推定される。李成桂が倭軍と戦って勝利したときに助けたという伝承がある(李泰浩、李慶禾、ユ・ナムヘ『韓国の磨崖仏』,(한국의 마애불),다른세상, 2001、306.

 智異山とその周辺には女性山神の造形物が多数みられる。智異山では天王峰の聖母天王、老姑壇の老姑神が名高い(宋華燮「智異山의老姑壇과聖母天王」『道教文化研究』第27巻、韓国道教文学学会、2007年参照)。
 




地蔵(左)と観音菩薩(右)。韓国慶尚北道南長寺の甘露幀( 1701年)上段。


 地蔵と並立する観音

  東アジアの観音は女神である。元来、観音菩薩は性は中立あるいはむしろ男性であった。しかし、それが次第に女性化し、やがて宋代以降の民間ではほとんど女神化した。観音は仏寺にだけあるのではない。中国の観音は観音媽、観音娘娘として道教の神がみをまつる廟や小祠にもまつられている*1。
 朝鮮半島でも観音は女神化している。『三国遺事』巻第三の洛山二大聖の条、および僧調信に関する伝承はそれを物語る。
 ところで、朝鮮朝の甘露幀(かんろちょう)という仏画では、上段に地蔵と女性的な観音がえがかれている。これは放光菩薩信仰の名残であろう*2。
 観音・地蔵両者は一体となって「放光菩薩」として信仰された。すなわち、この二菩薩でもって天地和合を象る*3。両菩薩並立の図像は高麗時代の仏画としてもみることができる*4。中世の一時期、広く信仰されたのであろう。
  (後掲、中国の観音および付論―<目連戯中の女人観音>の項参照)

 
*1 野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、171頁。
*2 放光菩薩については、野村伸一「観音の姿態変容と東アジアの演戯文化」『韓国朝鮮の文化と社会』4、 韓国・朝鮮文化研究会、2005年、131頁および野村伸一編著『東アジアの祭祀伝承と女性救済』 、風響社、2007年、136頁参照。
*3 放光は眼光でもある。それはまた陽春の神の放つ光ともなる。唐代には、こうした民俗信仰を背景に千手千眼菩薩すなわち大悲菩薩が広く受けいれられた(小林太市郎『仏教芸術の研究』小林太市郎著作集七、淡交社、1974年、100頁)。なおまた唐末頃の『放光菩薩記』によると、妊娠28ヶ月の商人の妻が、放光菩薩の像を模写して願掛けをした夜に男子を産んだという。この菩薩の主要な効能は「易産送子」にあった(同上、203頁)。
*4 菊竹淳一、鄭于澤編『高麗時代の仏画』、時空社、2000年、図版119、120参照。




パリテギ、死霊救済の女神


故人の霊を導き、地獄の門を通過させる。

 パリテギ、死霊救済の女神

 今日の巫儀は主として祈福と死霊祭あるいは治病儀礼である。そのうち死霊祭は地域ごとの特色もあり、最も体系的である。朝鮮半島のばあい、その中心に位置するのが女神パリテギである。パリテギは巫歌を通して祭場に招請される。そして、亡霊をあの世に導く。ソウル地方でなされる儀礼チノギセナムでは王女のいでたちのパリテギが遺族を従えて庭を行道する(野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、193頁以下参照)。

 関連→ 「パリ公主の映像(1997年、1998年の記録)」




眼をぬぐう村の女性。別神クッにおける「沈清クッ」。

 沈清―もうひとつの「女神」

 朝鮮半島において沈清(シムチョン)は孝女というだけでなく、盲人あるいは眼病の人を癒す女人として受容されていた。東海岸の別神クッでは「沈清クッ」(倡夫クッあるいはチュナムクッ)がおこなわれる。このとき、パンソリの内容とほとんど同じ長編巫歌が歌われる。それは鑑賞に足る物語である。しかし、それだけではなく、沈清の事績を通して眼病治癒も期待されていた。
 孝心に感動すると同時に眼病治癒が図られる。それは観音信仰に由来するものであろう。



春香祠堂に掲げられた春香像。南原

 春香―もうひとつの「女神」

 春香(チュニャン)には単なる文芸上の女主人公以上のものがある。
 この女性像には人びとのこころの琴線に触れる何か根源的なものがあるに違いない。
今日、舞台となった全羅北道南原の広寒楼のかたわらには春香祠堂があり、そこには端麗な乙女の影像が掲げられている。ここは現今、観光地でもあり、訪れる者は引きも切らない。パンソリを知らない若者はともかく、年配者のばあい、ここに参拝するのも智異山聖母にまみえるのもこころはひとつであろう。
  春香の女神性はどこからきているのか。その根柢は多様である。一般的には、守節(夫との契りを守ったこと)、また、逆境にあってなお不義、不道徳に屈しないことがあげられる*1

 ただし、より根源的な宗教文化史的な理由、それは『春香歌』の根柢に潜む女性の慰霊クッの要素が共感を引き起こしているという点である。これについては鄭魯湜の伝えた南原の民俗伝承がよく知られている。すなわち、老妓のむすめ春香は府の長官の息子李夢龍と交情した。しかし、府使一家は上京したまま没落した。春香は李夢龍を待ちこがれて死んだ。そののち南原に凶災が生じた。人びとは冤鬼春香が原因であるといった。そこで役人が春香伝を作り、巫女をして解冤クッをさせた。すると凶作は豊作に代わり、人心も安定した*2
 パンソリ『春香歌』は死の淵に至った春香と李夢龍(李道令)の結婚で終わる。はじめに春香というむすめの死があったとすれば、これはまさに死後結婚である。根源は慰霊クッだったのである。

 
*1
とくに士族層がこれを支持したことはいうまでもない。ちなみに、中国共産党の演劇観に合致した上海の越劇がこれを取り込んで作品化している。すなわち、朝鮮戦争期の1953年、「徐玉蘭が戦地慰問のために朝鮮に赴き、古典劇「春香伝」を学んで越劇作品として移植した」(中山文「袁雪芬と上海の越劇」関西中国女性史研究会編『ジェンダーからみた中国の家と女』、東方書店、2004年、360頁)。おそらくこのばあいは、悪徳代官に抵抗する庶民女性という構図に着目してのことだろう。いずれにしても、これは越劇の作品として定着して今日に到っている。
*2 鄭魯湜『朝鮮唱劇史』、ヒョンイル出版社、1974年(原刊1940年)15-16頁。




閣氏。この女神の慰霊のために仮面戯をする。

 河回洞の女神

 死んだ女性を村の神とし、その慰霊クッをすることは慶尚北道河回(ハフェ)その他でもみられた。河回では女神の啓示を得て仮面戯と秘儀性を帯びた婚姻の儀がおこなわれた。

 関連 → 「映像 『河回仮面戯』(4分11秒) 」 → 詳細PDF(7頁以下


 〔済州島


安置されたトンイ。踊れずに死んだアギシ(むすめ)をかたどる。1997年

神房はトンイをくわえ、その袖を持って舞わす。トンイは米を詰めてあり重い。


 トンイプリ―甕を解く儀礼
 
 済州島の明道菴(現、済州市奉蓋洞)を本拠とする高氏と金氏の一族では、病気の治療に行き詰まると、神房に頼んでトンイプリ(またはトンイ大プリ)というクッ(巫儀)をしてきた。トンイは「広口の甕」、プリは「解きほぐし」、全体で「甕を解く儀礼」の意味である。それは「甕にまつわる祖先の痛み」を解くことである。
 巫歌によると、金典籍のむすめに「日月祖上」という神が憑いた。アギシ(むすめ)は、結婚を間近にして家を飛び出し、山野を踊り回る。金典籍は、むすめを探しだし部屋に閉じこめる。だが、病状ははかばかしくない。金典籍は不承不承クッをすることにする。しかし、むすめの病は踊らなければ癒えない。ところが、両班の金典籍はそれを認めることができない。身代わりに侍女を踊らせたが、侍女も、むすめももまた神房も金典籍もみんな死んでしまう。
 むすめは蟄居のとき、空腹を耐えしのいだ。クッをして踊れば癒えたかもしれない。しかし、それができずに死んだ。その追悼のためにトンイに米を詰めてこれをむすめに象り、踊らせる。それがトンイプリである*1。

 
 *1 野村伸一「トンイプリ-甕を解く儀礼」(『日吉紀要 言語・文化・コミュニケーション』No.19、1997年参照。 


 〔中国、台湾


莆仙戯(プシエンシ)中の王母娘娘。2009年福建省楓亭

慶誕の宴に参列した八仙。冒頭の祭祀劇。


 莆仙戯のなかの西王母
 
  古代中国の西方には皇帝をもしのぐほどの力を持つ女神がいた。それは西王母といわれる。西王母は今日、地方戯曲などをみていると、本演に先だつ簡単な儀式劇によく現れる。また三月三日の蟠桃会は西王母のための慶誕の宴として知られている。そこでの西王母は、みるからにうるわしく、きらびやかな女王という感じである。ただし、この女神は複雑な変遷を遂げて今日に到っている*1。

 
*1 野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、175頁。




南海観音。1998年完成。高さ33㍍。
南の海に面して立つ。

穏やかな表情で参拝者を迎える観音。


楊枝禅林の楊枝観音

楊枝庵の碑石にある唐代の観音像(模写)

 普陀山の観音
 
 今日、浙江省普陀山は観音信仰の拠点として最も賑わいをみせている。2006年の訪問者は320万人にも達したという。
 楊枝庵(楊枝禅林)は普陀山を代表する三か寺のひとつ法雨寺の付近にある。ここに楊枝観音がみられる。また、この庵には唐代の楊枝観音の図像(模写)がみられる。観音による水かけという構図は高麗時代の朝鮮半島、平安時代の日本にもみられた。
 水を降り注ぐと罪悪が浄化され、結果的に生命が更新される。これを御利益信仰といってすませるべきではない。朝鮮半島の仏事にみられる灌浴、死霊祭シッキム(洗い)クッ、インドシナ半島各所で賑わいをみせる「水かけまつり」、日本の京都三十三間堂の楊枝浄水供*1など、いずれも根柢はひとつであろう。

 
*1 毎年正月15日におこなわれる。正月9日から14日まで本尊の十一面千手観音に閼伽水を献じ、15日には千手陀羅尼を唱えながら白紙を巻いた柳の枝で、満願の浄水を人びとに注ぐ。この灌頂により一年間の無病息災を祈念する。現在の形式は大正時代に整えられた。ただ、源流は後白河上皇(1158-92)の院政期に遡る(速水侑「三十三間堂の楊枝浄水供」速水侑編『観音信仰』民衆信仰史叢書第七巻、1982年、雄山閣出版、317頁)。



 目連戯中の女人観音

 福建省の目連戯には観音が重要な神として登場する。そこでは寺院の菩薩像の観音ではなく、白い服を着た聖母のような観音が登場する。南安草亭寺の傀儡目連戯における観音の特徴はおよそ次のようである。四点ある。

観音の誕生祝い。四海龍王が駆けつける。南安草亭寺

 1. 観音はうるわしい女神として登場し、四海龍王らに祝福される。
 2. 観音は神となる前は妙善という名の公主であった。妙善は父王の無理解から死の苦難を経た。このことが戯中で語られる。これは女神の来歴を説く語り(神語り)に相当する。
 3. 観音は世俗の女性に変身し、ならず者や目連(出家前は羅卜)の前に現れる。そして、彼らに仏の道を教え諭す。この観音の姿は、子供らを優しく教え導く母親像を連想させる(下図参照)。
 4. 観音はみずから冥府の王、閻君のもとに降りていき、堕獄の劉氏を救済する。ここには究極の救済者としての女神がいる*1(下図参照)。

 付論 観音の代受苦から自梳女をみる

  「妙善にみられるイメージはひとことでいえば代受苦の姿である。そして、こうした観音の代受苦がやがて目連の母親劉青提の身の上に重ねられていく。」*2

  「人びとの心中において、観音は決して単に理想化された聖母ではなかった。その[聖母像の]根柢には、…刑死し、冥府を彷徨するあわれな女人としての観音像があったに違いない。それはまた、人びとにとって現実に生きるわが身に近い姿なのである。
 こうしたことが祭祀上の観音女神の奥深さを支えているとおもわれる。芸能を通して感じ取られた苦悩する女性としての観音、それこそが観音戯の内奥なのである。」*3

 前近代の社会のなかで、生涯独身の生活を選んだ女性たちがいた。自梳女(ズシュニュ。自身の手で髪上げする女)という。自梳女は仲間ととともに自分たちの家「姑婆屋(グーポーウ)」を持ち共同生活をした。家屋の中心には観音堂があり、左右に居室があった。自梳女は菜食をした。それで齋娘(ジャイニャン)などともよばれた。広東省珠江三角州の自梳女が広く知られている*4。
 そこでは独身のまま成道した「妙善」が生きるよすがであったに違いない。不婚を選ぶいわれはどうであれ、近世以降の社会では独身の女性たちはそれだけで苦難を免れなかった。そして、その生の根柢に観音がいたことは重要である。
 ただし、観音はまた母親となることも拒否しない。とくに代受苦の母親と自梳女たちの人生のいすれにおいてもこころの支えとなりえたという点は意味深い。引用文はそれをいおうとした。

 
*1 野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、178-179頁。
*2 野村伸一編著『東アジアの祭祀伝承と女性救済』、風響社、2007年、38頁。
*3 前引、野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、183頁。
*4  http://zhidao.baidu.com/question/10192939.html?si=1 参照。また成田静香「自梳女の家―広東の婚姻文化」関西中国女性史研究会編『ジェンダーからみた中国の家と女』、東方書店、2004年も参照。


傀儡戯中の白衣の女人観音

冥府で苦しむ劉氏(左)を救う観音(右端)

  関連→ 「目連戯中の観音と劉氏(2002年南安草亭寺の映像1分48秒)」参照
      「楓亭目連戯の三殿超度と観音掃殿(2001年の映像4分39秒)


 媽祖―中国と台湾から

 媽祖は宋代、960年に莆田市の南端賢良という漁村で生まれた。幼くして神異を顕したが、その生涯は短く、わずか27年で賢良の対岸湄州島から昇天した。死後、地域の人びとにまつられた。媽祖はそののち、さまざまな霊威を示し、やがて、媽祖廟は国家に承認される。その信仰は福建にとどまらず、東シナ海周辺地域はもちろんのこと、さらに東南アジア以遠の地域にまで広がった*1。そして、それは今日に到るまで途切れることなくつづいている*2

 
*1 航海神媽祖の信仰は明代以降各地に波及した。日本では、琉球、長崎、鹿児島、さらに茨城、宮城、青森においてその信仰が確認されている。また朝鮮半島の海域においては、媽祖の神像や祠の残存はみられないものの、海神への祭文のなかに天妃[媽祖]への言及がある。このことから、その存在が認識されていたことが推察される(藤田明良「航海神―媽祖を中心とする東北アジアの神々」桃木至朗編『海域アジア史研究入門』、岩波書店、2008年、211頁以下参照)。
*2 野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、185頁。


文革中、信徒により秘蔵された媽祖。南宋代のものという。賢良天后宮。

今日の天后祖廟。2008年旧暦3月23日の慶誕日に際して。

広東省東部汕尾の媽祖(天后聖母)。1994年建立。

鳳山公園内にあり、南海を望む。内外の参拝客で賑わう。普陀山の観音と変わるところはない。

  〔台湾〕


鹿港天后宮の媽祖。寺廟林立する港町のなかでも参拝客で一際賑わう。2008年には泉州を訪問した。

17世紀後半、清康煕年間(1685)開基。1936年重建。


台南大天后宮の媽祖。台湾最古を誇る。鹿港、北港,新港と併せて四大媽祖という。



 臨水夫人―生育の女神

 臨水夫人陳靖姑(チェン・ジング)は比較的限られた地域で信仰されている。すなわち、福建省(中部から東部、北部)とその周辺、また台湾の一部が主要な地域である。日本ではあまり知られていないが、この女神の祭祀と芸能はなかなか多彩である。そこには、東シナ海周辺の基層文化を理解する上で欠かせない点がいくつもある。
  その要点は、すなわち、次のとおりである。

 1.巫女から女神への軌跡
 幼くして霊威を顕した。とくに水旱禍福の予言に霊験を発揮した。未婚にして若死にし、死後、人びとにまつられた(『楓涇雑録』)。
 2.水と生命の女神
 明代の文献では、古田の劉杞に嫁して、24歳で死んだ。そして、生育の神となり、また白蛇洞の巨蛇を斬り、疫癘を鎮めた。生前には雨乞いにも力をふるったという。
 3.儺神としての役割と夫人戯
 閭山派の道士は傀儡を用いて『奶娘伝』を演じた。これは初春の儺戯である。その末尾の過関は再生の儀礼を伴う点でとくに注目される*1

 注
*1 野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、189-193頁。詳細は葉明生、道上知弘訳「福建女神陳靖姑の信仰、宗教、祭祀、儀式と傀儡戯『奶娘伝』」『日吉紀要. 言語・文化・コミュニケーション』No26、2001年参照。


古田臨水夫人廟にまつられた陳靖姑。

入り口上部に「勅賜臨水宮」の銘がみえる。福建省古田


廟内の壁画。陳靖姑は各地の女神を部下にする。図は林夫人との出会いの場面。

百花橋。ここで陳夫人は生命の花をみつける。古田臨水夫人廟近傍。


『奶娘伝』のなかの陳靖姑。巫女の面影がある。現在はこうした巫女がみられない。福建省寿寧県下房村


『北斗戯』中の臨水夫人陳靖姑。福建省莆田市霊川鎮。

『北斗戯』の末尾には依頼者側の子供の過関の儀がおこなわれる。


 関連 




花婆。採花枝りの儀を見守る。広東省汕尾市安美媽祖廟

採花枝。財運、子授かりのために争って花を手に入れる。

 花婆―花の女神

 東アジアにはもともと花の女神がいた。それはおそらく臨水夫人などよりも根源的な女神であろう。
 たとえば、壮族の女性始祖ミルォジャがそれである。ミルォジャは花山(あるいは花園)に住んで花を育てている。紅い花、白い花を人びとに送れば、女の子、男の子が生まれる。一方、人が死ぬと、魂は花山に戻る。そうしてまた花となる。
 こうした始祖女神を人びとは花婆、あるいは花王聖母とよぶ。ミルォジャのミは「母親」であり、全体で母なる神を意味する。ミルォジャはまた壮族に稲作、牛の飼育を教えた*1

 この伝承と、模造の花の樹をめぐる各種の祭祀とを併せると、「始祖女神-花山あるいは花園-この世の生命-農耕」のあいだにひとつの明確なつながりがあることがわかる*2
 この間を花(生命)が行き交うとみていたのである。近代的な表現ではこれを霊魂の往来などというのであろう。いずれにしても、赤児や実りを授かることを期待して花を育てること、あるいは散る花を惜しんだりする祭祀は広範に分布する。その根柢はここにあるのだろう。

 
*1 
過偉「南方稲作民俗壮族女性人文始祖」『文山師範高等専科学校学報』、第19巻第3期、2006年、6-7頁。
*2 野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、216-217頁。

 関連 → 貴州省苗族の跳花(1990年旧暦1月16日の映像)


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