アジア基層文化研究会

研究会便り


目次


あいさつ

 わたしたちは、数年前から慶應義塾地域研究センター内のプロジェクトとして「祭祀」を多面的に研究してきました。すでに宮家準・鈴木正崇編『東アジアのシャーマニズムと民俗』、勁草書房、1994年、鈴木正崇・野村伸一『仮面と巫俗の研究』、第一書房、1999年を刊行し、またインターネット上でいくつかの成果の公開をしています(http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura)。
 わたしたちはさらに、ひきつづいて「危機の共同体ー東シナ海周辺の女神信仰と女性の祭祀活動」を主題にして、研究会を開いています。
 さまざまな立場の研究者、学生だれでも無料で参席は自由です。ただし例会は不定期です。

研究会の活動趣旨と計画

 今回の活動の趣旨、概要は下記のとおりです。

危機の共同体ー東シナ海周辺の女神信仰と女性の祭祀活動

1.地域設定と問題の所在

 本研究は東シナ海周辺の地域を研究対象とします。この地域の共同体は今日「画一化」あるいは「都市化」という生活空間の変化に伴い、かつてみられなかったほどに大きな危機に瀕しています。その精神的再生はムラ起こしの行事により実現できるような簡単なものではなく、どこに模索の焦点を当てたらよいのか不分明なのが現状です。このような状況において、再生の方向を基層文化の掘り起こしに求めるとき、女神信仰とそれを支えてきた女たちの祭祀活動が注目されます。
 ここでは東シナ海周辺の地域を

  l.韓国全羅南道沿岸部 ll.韓国済州島 lll.沖縄県宮古諸島 lV.台湾および福建省

の四地域に分け、その精神世界の基盤に潜む祭祀活動と日常の行動を捉えようとします。この四地域は当該国内の文化的位置が共通します。すなわち「南」にあり、ともすれば政治経済中心の論理から疎外されていきます。
 しかし、文化状況全般に逼塞感が漂うなか、「南」の文化は見直されなければなりません。「南」とは何であったか。そのために、わたしたちは、まずはじめに、その共通の価値観、宗教観を取り出し、そこに通有するものが何かを明らかにしますが、同時に、当該地域では共同体慣行の急速な変容のため諸種の葛藤が生じています。葛藤をついに克服することができずに祭祀そのものが中断し、共同体の結束も失せるばあいもあり、また今日的な適応を試みつつ何とか祭祀を維持しているところもあります。あるいは台湾のように、かつてないほどに祭祀活動が活発化している地域もあります。
 各地域の現況はさまざまですが、上記の四地域に共通するのは女性の根源的な力です。それがどのように共同体の祭祀活動に反映されてきたか、そして過去に共同体が危機に瀕したとき、女たちのつながりがいかにして共同体を救ってきたか、また、そのことは今後の共同体のありかたに示唆する点があるのではないか、こうしたことをわたしたちは論究しようと考えます。
 さて、この地域を取り上げたことの意味をもう少し具体的に記すと次のとおりである。
 東シナ海は古来、中国文化と朝鮮および日本文化をつなぐ重要な海域で、ここを往来する人や文物は錯綜していました。しかし、この数世紀の歴史のなかで中国沿海部、台湾、琉球、朝鮮、日本はそれぞれ個別の地域として生きてきました。その間の政治的、経済的条件の違いが、文化全般に大きな影響を及ぼし、それぞれの地域文化はかなり独自のかたちを取るにいたりました。
 ところが、この地域の女性たちは、ムラや地域の中心に女神の存在を想定し、これをまつったり、あるいは女性たちだけの各種の集団を形成し、生業や冠婚葬祭などの面での相互協力をはたしたりといったことで、共同体を支えてきました。
 表面的には男の集団である宗族や郷吏、儒教倫理の実践者である知識人が共同体を指導しましたが、基層文化の担い手は女たちであったといっても過言ではありません。このいわば二重の構造が陰に陽に共同体を支えてきたのですが、今日、そうした基盤にあった女性たちの力が発揮されなくなりつつあります。その原因は、共同体における女たちの社会にも近代がまぎれもなく迫ってきたからです。女性の会社勤めや公務員生活のために女たちの結束が失われていく傾向があります。しかし、それを乗り越えようとする動きもあります。
 「仕事」のために共同体慣行を失うということは、近代社会が経験してきたことそのものでした。それはあるていどやむをえないという大方の支持がかつてはありました。しかし、近代以降の社会を模索するとき、もはやこのかたちは有効ではありません。
 こうした観点に基づき、「南」の基層文化ではそもそも何がおこなわれてきたのか、また今、何が起こっているのかを実見し、考えることは差し迫った課題だといえるでしょう。
 
 2.活動計画

 研究は2年を予定しています。2000年度の研究計画は以下の通りです。

1 台湾台南市近郊の女神にかかわる寺廟(臨水夫人・註生娘娘・観音)を中心に祭祀の実態、組織などを実地調査すること
2 臨水夫人をめぐる祭祀芸能の研究
3 宮古島および伊良部島における女性祭祀組織の維持の現況について実地調査し、同時に祭祀行為の過程を総合的に研究すること
  各論 ユークイの世界から(上原孝三) 2000年3月25日予定
狩俣の祈りと暮らし(奥浜幸子) 2000年4月予定
4済州島の海女たちの「年中行事と祭儀」の研究
  各論 海女のかたる伝承と生業(韓林花) 国際発表討論会依頼予定
5済州島および黒山島周辺の精神世界「生業と祈りの現況」
  各論 漁労と祭祀にかかわる語彙(高光敏) 国際発表討論会依頼予定
6済州島神房李中春氏の伝承する世界の研究(済州島出身の国語学者高榮珍氏との共同調査を含む。)
7本塾での国際発表討論会
 (当該地域での女神信仰の儀礼過程を中心に。韓国、台湾、沖縄の研究者を招請。
  2000年10月28日、土曜日、予定)

8地域研究センターを会場とする研究例会(年7,8回)

例会について

研究会「危機の共同体ー東シナ海周辺の女神信仰と女性の祭祀活動」の公的な年度(大学への申請年度)は2000年4月からはじまりますが、研究会そのものは1999年からおこなっています。
 地域研究センター8階で毎回、公開の集まりです。
 以下は既発表および発表予定の日誌と主題の要旨です。

日誌
1.1999年5月9日、野村伸一「台湾の祭祀と芸能」
2.1999年7月23日、高梨一美「ウンジャミ再考」
3.2000年1月12日、野村伸一「台湾の道士の儀礼とその芸能性」
4.2000年1月28日、余大喜「中国の仮面の神々ー江西省の儺戯を中心として」
5.2000年2月2日、皆川隆一「台湾ヤミ族の現在ー祭祀歌謡の世界から」
6.2000年3月25日、上原孝三「宮古島ユークイの世界」
7.2000年4月   奥浜幸子「狩俣の祭祀について」
8.2000年5月   高梨一美「伊良部島の祭儀伝承」
9.2000年7月7日、袋井由布子「南インド、後期チョーラ朝女神寺院における舞踊表現 についての一考察」
10.2000年10月29日、国際シンポジウム「東シナ海周辺の女神信仰」開催
            「東シナ海周辺の女神信仰という視点」 野村伸一
            「済州島の海女とその信仰世界ー潜嫂を中心にー」  韓林花
            「潜嫂の漁法語彙ー日常ー」 高光敏
            「宮古島の女神ー祭祀歌謡からー」 上原孝三(琉球大学講師)
            「宮古島の水の信仰と女性ー井戸を中心としてー」 奥濱幸子(民俗研究者)
11.2000年11月6日、「福建省の女神信仰ー分布と特徴」
            「寿寧下房村の祭儀と傀儡戯」 葉明生(福建省芸 術研究所芸術理論研究室主任)

発表の要旨紹介


入手できたものについては参考のため公開します。

台湾の祭祀と芸能ー梗花欉その他        99.5.19
野村伸一

目次
l.台南と祭祀の背景
ll.道士と法師
lll.臨水夫人廟の事例ー法師儀礼の図像より
lV.「法事」の種類
V. 臨水夫人とは
Vl.小法事の祭儀構成
Vll.担い手林俊輝
Vlll.展望ー東シナ海周辺の女神複合の視点から


l.台南と祭祀の背景

16世紀末  オランダによる台湾の発見、Ilha Formosa
 1622 オランダ、澎湖島を占領
 1624    オランダ、台湾占領
 1661
鄭成功、オランダを台湾から追放。こののち福建、台湾の住民が移住。
 1683
鄭氏政権崩壊、清の統治下にはいる。移民の制限にもかかわらず大陸からの人口の移動はつづく。
 1894    首府、台南から台北に移る。

 台南は19世紀の末まで政治、経済、文化の中心地。人口およそ68万人。
 移民の出身地は福建省の泉州、漳州を中心にし、次いで福州、また広東省の客家など。
 寺廟の数は主要なもので215(『台湾廟神大全』1985)。小祠を合わせると倍以上はあるか。全国でももっとも濃密な祭祀空間があるところ。

ll.道士と法師

台南の祭祀の担い手。
1.道教  道士または司公
2.法教  法官または法仔、紅頭法仔
3.霊媒  
4.仏教  和尚または和尚仔、香華和尚1)   


台湾全体では「紅頭道士」「烏頭道士」の別がある。しかし、外見ではまったく同じ。葬礼をもおこなうのが烏頭道士。台南の道士はほとんどが葬礼をもおこなうので烏頭道士。そもそもこの分類は台南に関してはあまり意味がない。
 道教と法教の担い手を総称して「法師」ということもあるが、狭義には道士よりも法の力、学識が低い者を「法師」という。具体的には法師は小規模な「法事」を担う。

lll.臨水夫人廟の事例ー法師儀礼の図像より2)

7.臨水夫人媽廟への「進香」、林
基本語彙  兜仔、扁鼓、銅鑼、沙魚剣、龍角、三清鈴(法鐘)、法縄など
8.裁花換頭
9.梗花欉
 林俊輝道士の服装その他  網巾、道冠、道袍、朝鞋、七星剣、七星燈
10.造橋  「開剣符来護橋」
11.改限  限は関、人の霊の活動を遮るものの象徴。この関を破ること。
12.女性の持つ「花園」と裁花
13.祭星という観念  白虎、五鬼、太歳、天狗の作り物で表象される。
14.弓箭の関を断つこと
15.元神(辰)を回復させること  赤い餅は醗餅
16.銅銭による改運  「三元賜福抄経」
17.徐甲派の紅頭法師による「買断」
  二男、寝台から落ちて夜泣き。元辰が飛んだこと、また亡き長男の霊との関係が 断たれていないこと。
  転生関を準備して壊す。そして二男の替身に魂を注入。
18.サケと鶏の血による浄め。
19.清水祖師の扶鸞(お筆先)

lV.「法事」の種類1)

┌ 大法事  建醮2)、功徳(祖霊供養)

└ 小法事  進銭補運、点灯拝斗、改厄、梗花、裁花換頭、抽刀箭、開枉死城など

V. 臨水夫人とは


Vl.小法事の祭儀構成(映像)

1.梗花欉
「請神ー清壇ー祭星ー造橋過限ー改厄ー梗花ー栽花ー送花ー進銭ー祈福ー謝壇」
2.小孩祭関煞、添加元気
「請神ー清壇ー祭星(祭関限)ー造橋改厄ー梗四柱ー梗元神ー進銭ー祈福(誼子書)ー謝壇」
3.誼子書1)は臨水夫人と小孩の契約書
 誼子書の授与は前段で各種の星をまつり、厄を除いていることが前提となる。そして臨水夫人にこの子供を預けることを約束する。
4.首飾りはお守りの代わりであろう。
5.
Vll.担い手林俊輝道士について

Vlll.展望ー東シナ海周辺の女神複合の視点から

 臨水夫人は福州と

1.若い巫女の死がきっかけとなってカミにまでまつられていること。この出発点は福建省莆田の媽祖信仰と同じである。
2.「臨水夫人」とは女神たちの複合体。三
3.福建およびその周辺にはさらにより古くから各種の女神がいた。そうした女神崇拝のもっとも典型的なかたちが媽祖と臨水夫人である。
4.臨水夫人の祭儀には「橋」「生命原理としての花2)」「蛇神」「戦う女神」といった観念の複合がみられる。ただし、これらはおそらく要素としてはより古層のものであったとおもわれる。従って、東アジアの他の地方にも、要素としてはいくらでも存在する。
5.しかし、ひとまとまりの祭儀のなかで構造化された点が特異である。
6.台南の法事においては「百花橋」だけではなく「七星橋」「
前者は玉皇宮などにおける改運、補運の法事で日常的に用いられる。後者は葬礼のなかでみられる。すなわち、死者を埋葬後、道士たちはイエに戻り、その庭で死者の霊魂が三途の川を渡ることを具体的に演じてみせるのだが、そのときに用いる。
7.「橋」の役割はこの世とあの世をつなぐことである。橋を伝って新しい生命がくること、またこの世から霊魂が去っていくこと、これらと「船」の去来は根柢を同じくする発想である。
8.果たして、台湾とその周辺では、この世ならぬところから「船」がやってくるという観念が広く知られる。船にはカミがいていろいろなものが載せられている。その典型が王船(王爺船)である。
9.この世のソトからカミが何かを持ってやってくるーこの観念は女神複合とはまた別の根柢的な観念で東シナ海周辺にひじょうに根強く維持されてきた。
10.それゆえ、女神もまた去来することが一部地域では知られている。広東省のある天妃廟の伝承では航海神である媽祖もまた一年に一回決まって渡海するという。ヨンドゥン女神も元来は広い地域の風雨のカミであったと考えられるが、済州島では女神というだけではなく、去来する男のカミだとか、中国から女性が漂着して化したカミだとかいわれるようになった。
 これらは根柢にある「去来するカミ」という強固な枠組の所産であろう。


台湾の道士の儀礼とその芸能性             2000.1.12
  野村伸一

  1 祈安醮について
  2 陳栄盛道士
3 科儀の次第
4 映像紹介
5 道士の儀礼の芸能性
   
────────────────────────────────── 

 1祈安醮について

1.法事の種類については以下のような区分がある。
大法事  建醮1)、功徳(祖霊供養)

小法事  進銭補運、点灯拝斗、改厄、梗花、裁花換頭、抽刀箭、開枉死城など

2.以下に取り上げるものは、台南市佑民街の玉皇宮にておこなわれた祈安醮である。

李老君(老子、太上老君)の誕生日を祝うと同時に、「風調雨順 国泰民安」その他の祈念を込めて挙行。玉皇宮は現在二階建ての建物で、一階は正面に三官大帝を安置し、その左側の空間には南斗七星、北斗七星などの神像があり、その前では毎日、改運、補運が法師によりおこなわれている。一方、二階には、三清や玉皇大帝が安置されている。

2 陳栄盛道士

 福建省漳州から台湾にきた道士の家系。10代ほど前に真珠の貿易のためにきたという。父親陳聡(1888-1975)も名高い道士。雑貨業を営んだ1)。

台湾の道士は正一派2)あるいは天師派。全真教3)や茅山派4)は福建省沿海部ではほとんど普及しなかったという。台南の道士は度生(醮や改運、厄払い)と度死を両方おこなう。

陳栄盛氏は1927年生まれ、19歳で道士になる。現在、道長(籙士)、妻帯。編成は道士五人楽士四人が基本5)。道士は高功、都講、副講、引班、直香(値香)とよばれる。
  
3 科儀の次第


正一派では、積極的な宗教活動はなく「儀礼が全てである」といっても過言ではない。かれらは人びとの依頼によって儀礼を執行する「専門的職業者」ともいえる6)。

1998年3月12日(旧2月14日)の夜半から16日(18日)にかけて玉皇宮では毎年恒例の「太上道祖聖誕」を祝う醮がおこなわれた。これは12日夜半にはじめ、16日の午前までつづくが、実質は「三天」の儀礼である。太上道祖とは李老君のことで、誕生日は旧暦2月15日、玉皇宮の二階にまつられる。主催は台南市道教会、これに玉皇宮が協力するかたちで営まれる。担い手は陳栄盛氏を中心とする道士、楽士たちで、現在の台南ではもっとも活動的な道士たちといえる。
 元来、醮には女性の参加は禁じられていたが、現今、玉皇宮では管理委員会の構成員に女性も加わっているし、また女性信者の参席、祈祷する光景もみられる7)。その主要な科儀の次第は以下のとおりである。陳栄盛氏所蔵の科儀書の大半は大淵忍爾氏により翻刻されている(注2参照)。なお、正一派の科儀書には霊宝派の影響が強いが、教派としては正一派に吸収されたとみられる1)。


3月12日(旧2月14日)
1.起鼓(吉時に合わせて開始)
2.焚油逐穢
3.発表上章(神がみの招待2))

3月13日(旧2月15日)
4.啓請列聖
5.竪天旗
6.七献午供
7.朝天宝懺(第一巻から第五巻まで誦経)
8.分燈捲簾
9.礼斗消災

3月14日(旧2月16日)
10.早朝三宝、三進香湯、礼朝十極
11.朝天宝懺(午前第六・七巻、午後にかけて第十巻まで誦経)

12.午供
13.放水陸燈
14.勅水禁壇
15.宿啓

3月15日(旧2月17日)
16.金表
17.外供天厨
18.正醮
19.普度

3月16日(旧2月17日)
20.回謝燈


 <科儀の概要>

 儀礼の対象となる神がみは三清天尊と玉皇上帝、紫微大帝、天皇大帝、雷声普化天尊など。これらはいずれも天神である。またこの際に龍虎山の六師真君(張天師ほか)と武当山の北極四聖真君(玄天上帝ほか)を道壇に迎え、送ることも特徴。

発表上章
功曹を通して神がみに表文をたてまつる。三界壇に向かうことは天地水あらゆる神がみに向けて奏上することを意味する。高功(陳栄盛道長)らはまず道壇内部で交班を描きつつ巡る。これは道壇のソトへいくことを象徴する。また高功は「総召符命」に朱点を入れ、さらに大変身呪を密念して、元始天尊に成り変わる。次にソトに出て禹歩をし、官将を召し、護らせる。次に官将に献酒してもてなす。
竪天旗
廟外に天旗、天燈、七星燈のための三本の太い竹竿が立ててある。天旗には「三清上聖十極高真三界萬霊四府列聖
左班真宰右序群真
&#37294;筵一切威霊&#32609;」と記される。すなわち、すべての神霊をよび招く旗である。
 分燈捲簾 過去の火を消して新しい火を灯す。まず三清燈からはじめる。
礼斗消災
信徒の持参した斗燈に向かって厄を祓い、祈福する。斗は北斗を象徴し、その燈火は個々人の元辰の輝きを意味するので消してはならない。個人祈祷。
放水陸燈
孤魂野鬼を供養する(普度)前提として、海辺にいき灯篭を流す。これで孤魂野鬼を祭儀の場によび寄せる。
 勅水禁壇
祭場を結界し、人びとの心身をも浄める。そこへ艮の方角から命魔(鬼)が現れる。道士が剣をもって道壇に侵入してきた命魔と戦い圧伏する。このあと高功は「吾今結界至于東…&#32609;斗禹歩躡震位、寅卯鬼路不能通」といった唱えごととともに&#22080;水と剣による結界を五方でくり返す。そして最後に鬼門封じの儀がある。
 金表
拝表、拝天公ともいう。玉皇上帝に奏文を献上し拝謁する儀。ソトの壇上に図像を掲げ、人びとのみまもるなかでおこなう。道士が表を抱き、五方の精兵をよび、また「表官」に献酒する。道教の体系のなかでは元始天尊がもっとも上位だが、民間では玉皇がもっとも尊ばれている。この玉皇という名は唐代以降用いられてきたという1)。

正&#37294;  神がみをの通路「天橋」を黒布で設え、招き感謝する。ここでは命魔も「命魔摂穢天尊」という神霊になり、その警護のもとで、&#37294;に参与した信者たちの名が列挙される。このあと、&#37294;が無事すべて終えたことを神がみに告げて送り返す。
 普度
あとのまつり。ソトで「十方法界内有霊」の白旗がかざされる。道士はソトの普陀山(観音山)の前にて観音を称え、次に特設の壇に登って霊魂を救済する。高功はこのとき五帝冠2)をかぶり、仏に変身する。これは「一切無祀男女孤魂滞魄等衆」つまり餓鬼を香、花、灯、菓、楽などで供養するもので、もともと民間にあった死者霊もてなしの民俗が仏教を通して儀礼化され、それが道教に取り込まれたものと考えられる。ただし正規の&#37294;の科儀ではないという3)。普度は&#37294;だけでなく功徳の際にも必ずおこなわれる。

4 映像紹介

5 道士の儀礼の芸能性

1.道士はみずからの身体からも神がみをよび出し(発爐)、これをもとに戻す(復爐)1)。これは、要するに、自覚された神がかりのようなもので、この前提のもと、天神や聖人をよび、最後に送る。それは巫覡の所作と結局は同じことである。
2.起鼓、竪天旗、発表、午供、回謝燈
   起鼓ーサムソク、竪天旗ー長竿 立て、発表ーまつりの次第語り、啓請列聖ー
   神請じ入れ、午供ー神饌献上、回謝燈
  すなわち、クッのはじめに神房らはまず楽器を奏でる。これをサムソクという。そして大きなクッでは長竿を立て、神がみ来臨の目印とし、カミ来臨のためにはチョガムジェをする。このなかではまつりの次第を語り2)、カミの名を列挙し、座席を決め3)、厄払い(セドリム)をし、供物を献上しあそぶ。午供でも道士の舞あそびがいくらかみられる。そして、長い竿を下ろすことは祭場を閉じることを意味する。これも共通する。
3.&#37294;で経文、懺を読むのはポンプリの唱えに相応する。
4.道教科儀では剣、水、塩、コメ、銭などで&#29022;を祓う。神房クッでは、水とコメを神刀を用いて適宜、蒔く。意味は同じである。
5.普度における孤魂野鬼の供養は別神クッなどにおけるコリクッと対応している。こうしたみとられない霊魂に対する配慮は道教儀礼においても無視できない重みがあった4)。
6.勅水禁壇における命魔の登場も、同じ意味のものとみられる。道壇に侵入する命魔とは孤魂野鬼のひとつの象徴であろう。しかも、これは圧伏されたのちに「命魔摂穢天尊」となる。つまり道士に使役される鬼となり、人間の側のモノとなる。こうした転化は巫儀では頻繁にみられる。仮面戯のモノたち、日本のオニはその例である。
7.道教儀礼が巫儀に通じるものであれば、それは祭祀芸能の範疇に当然はいってくる。
8.道教史あるいは過去の儀礼細則についての概説書はかなり多いが、個々の儀礼を実際に即して分析しつつ、さらに周辺地域の巫儀、カミゴトと対照させる作業また、芸能としての扱いはほとんどなされていないのが現状だといわざるをえない。


アジア基層文化研究会

The society for the study of Asian Basic Culture in Keio Univ. Official Web site