安田のシヌグ-2007年の図録および東シナ海文化からの小考
                                       野村伸一

 1  はじめに-シヌグの性格は蜡祭

 2007年8月18日から24日まで沖縄県国頭村安田に滞在した。この間、21日と22日の二日間、旧暦7月の行事シヌグを見学した。以下は基本的にはノートを補うための図録である。
 シヌグについてはすでに少なくない論著があり、細部についても知り尽くされている。それゆえ、今さら新たに付け加える点もなさそうである。しかし、この祭祀の全体の性格を把握するという点ではまだ不十分だとおもう。
 そこで図録にはいる前に、わたしの視点を少々述べておきたい。

 シヌグへの視点  安田ではシヌグ行事をウフシヌグとシヌグンクァーに分けて隔年におこなっている。ウフは「大」、クァーは「小」である。ウフシヌグは以前は三日間おこなっていた(宮城鉄行『安田の歴史とシヌグ祭り』、未来工房、1993年)。しかし、現在は初亥の日から二日間おこなう。
 ウフシヌグ  2007年はウフシヌグの年であった。天候にもめぐまれて二日間の行事はなかなか盛り上がりをみせた。ウフシヌグのときは男たちが三方の山に登り、神となって下りてくる。そして、これを神として迎える女性や老人と交歓し、次に田畑を祓い浄める。また要請のあった特定の家をも浄める。こうした行事があるため、とくによく知られている。
 シヌグ行事は沖縄全体の祭祀のなかでも名高い。しかし、それでいて、この行事の性格が今ひとつ明確でなかった。シヌグという名称からして定説はない。また山から下りてくる男たちの祓いの仕種とそののちの農耕予祝の諸芸能が全体として何を意味しているのかについて、十分に説き切れていない。
 蜡祭からみる  こんななか、東シナ海周辺の祭祀芸能という観点からみなおしてみた。村や家の災厄を払うこと、村落内の各家いえの祖先が戻ってくること、そして、きたる年の豊作祈願のために農作(稲作)の過程を演じ、皆で踊ることなど、こうした要素を全体として説明できるのは古代中国の年末の蜡祭である。それは農耕の感謝祭を中核とした年末のあそびで、後世には複雑に分化していった。この蜡祭については最後に「3. 小考」として改めて述べる。
 中国において蜡祭そのものはすでに失せてしまった。またその系譜に連なる農耕感謝の祭祀もあまり顕著ではない。しかし、中国の江南では年末に謝年ということをしていた。これは蜡祭の変容したものである。
 そして、また蜡(漢代以降は臘ともいう)は儺とも結びついて複雑なかたちを取った。いわゆる儺戯(儺のあそび)は年末から年初に時期を移して中国各地でさかんにおこなわれている。
 東アジアにおける、こうした民俗の歴史に照らし合わせるとき、シヌグは年の切り替わり時の蜡祭の系譜に連なるものといえる。このように位置づけるとき、沖縄県安田のシヌグは一層、興味深いものとなる。何しろ、東シナ海周辺地域において、こうした原初的かつ複合的な農耕祭祀をおこなうところは今日残されていないからである。

 2. 日誌

 2007年8月19日


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            *図版は拡大できます。

 「祈豊年」の旗竿  シヌグの三日前には「祈豊年」の旗竿が立てられる。旗の上部にはムカデとヤナギがあしらわれている(図版1)(図版2)。その意義は未詳。ただし、宮城鉄行は、ムカデ旗は「ハブよけ」、あるいは「航海安全」の両説を出して、後者が「やや有力ではないか」という(宮城鉄行『安田の歴史とシヌグ祭り』)。その際、中国への進貢船のマストにムカデ旗が翻っていたということを指摘してもいる(同上)。
 この祭祀全体が大陸の系譜の上にあるとみられるので、航海安全説は興味深い。安田集落は陸地からの道はひじょうに険しい。当地の人びとが船に乗って現在地にたどり着いたのは確かなことであろう。その際、船には穀物と災厄よけのムカデ旗があったのてはなかろうか。
 東シナ海の蜈蚣船  ちなみに明代、東シナ海には蜈蚣船が走っていた。舳先は烏の頭のかたち、烏の眼をえがいた船である。船体そのものが蜈蚣に似ていた。また、蜈蚣(むかで)の脚にも似た八本の槳(かじ)を付けていた。そこで蜈蚣船とよばれた(姜彬主編、金涛副主編『東海島嶼 文化与民俗』、上海文芸出版社、2005年、172頁)。さらに歴史を遡れば、龍頭鷁首の名でよばれる船も実際に走っていたと考えられる。
  いずれにしても、安田の旗に付けられたムカデ頭はまさに東シナ海の船の文化の名残といっていいだろう。

 2007年8月21日


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 猪への注視  安田のシヌグは旧暦7月、初亥の日におこなわれる。猪への注視がシヌグ行事の意味を暗示している。つまり農作への害敵に祭祀のかたちで対処しようとしている(宮城定盛編『国頭村安田の「シヌグ考」』、私家版、1976年参照)。
 2004年に作りかえられたアサギ(図版3)。アサギ内の大きな容器にはミチ(神酒)がはいっている。柱は12本。これは神女の数に対応しているらしい。なお、このアサギの位置する所は二、三百年ほど前に安田に人が住みついたころの中心地。明治初期まで「安田の集落は、そこにかたまっていた」という(同上書)。
 かつての中心地での御願  午前11時過ぎ、アサギのなかで御願(ウガン)がはじまる(図版4)。カミンチュは3人。アサギにつづいてニードーマ(根所)での御願がある(図版5)。なお根所とは、村落発祥の地。重要な願立てはここからはじまるという(宮城定盛編『国頭村安田の「シヌグ考」』)。
 さらにカミギー(神木)拝所に移動して、御願をする(図版6)。これがすむと、またアサギの方に引き返し、アサギンシー、ナハメーとよばれるところで御願をする。


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 ヤマヌブイ  村の男たちは、昼食を早めにすませて12時過ぎにヤマヌブイ(山登り)をはじめる。大人から子供まで歩ける者は藁縄、赤い実のついたミーハンチャー(「目を見開く」の意味。ごんずい)の枝を携えてでかける。
 アギ橋の袂では祖母から頭に藁を巻いてもらう男の子の姿もみられる(図版7)。ヤマヌブイはメーバ(集落の西)、ササ(集落の北)、ヤマナス(集落の南)の3カ所に向けてなされる。このうち、わたしはヤマナスに向かう人たちに同行した。なお、この際、各門中が一カ所に集中する傾向は強いが、厳密な決まりはないようである。なお、1975年の参加者総数は約270人であった(宮城定盛編『国頭村安田の「シヌグ考」』)。2007年のばあいはその半数ほどだろうか。
 スクナーレ  ヤマナスは山といってもさほど高いものではない。しかし、最初の川では腰のあたりまで水につかった(図版8)。幼児を抱きかかえた若い父親の姿も散見される(図版9)。目的地につくと、人びとは山の神と海の神に御願をする。そして、太鼓の音に合わせてエーヘーホーイと叫びつつ左回りに巡る。そして一回巡るたびに、指揮者がスクナーレスクスク[健やかであれ、平伏しなさい?前引、宮城鉄行、1993年]という。すると、皆はそれに呼応して手にした祓い用の打ち木(杖)で地をたたく(図版10)(図版11)。神がみの巡行にあたって先払いをしているのだろう。


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 サカインケー  下山の道でもやはり膝の辺りまで水につかる。目的地の浜まではおよそ1キロ。幼子にとってはなかなか忘れがたい経験かもしれない(図版12)。アギ橋には家族らが大勢待ち迎えている。ここでメーバ組と合流し、サカインケー(坂迎え)がなされる(図版13)。男たちは神人として迎えられ、飲み物を提供される。とくに初登りの子供の母親はわが子の健康と幸福を切に念じるとのことである。
 つづいて、アギ橋のすぐ近くにあるトンチバルに移動する。ここではササ組と合流する。男たちは待ち迎える女性たちを杖で祓う(図版14)。このあと、男たちはアサギにいく。アサギの前ではカミンチュが椅子に座っていて、彼らを迎える(図版15)。
 神人による祓い  男たちはさらに公園に向かう。そこには老人たちがいて、男たちによる祓いを待ち望んでいる(図版16)。このあと、男たちは浜辺に向かう。行進の途中、何軒かの家では神人となった男による祓いがおこなわれる(図版17)。ちなみに昭和の中期ころまでは、青年たちは隊伍からから抜け出て自分の家を急ぎ一回りして祓ったという。また前年に死者が出た家は必ず祓ったものだという(宮城定盛編『国頭村安田の「シヌグ考」』)。


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 儺者から人へ  浜辺に着くと、男たちはまず、集落の側、つまり山に向かって横隊を作る。そして敬虔に御願をする(図版18)(図版19)。さらに男たちは海に向かって御願をする(図版20)。そうして、のち身につけた藁縄やミーハンチャーを脱ぎ捨て、海につかって身を浄める(図版21)。
 彼らはあくまでも山や海の神に仕える臨時の神人である。それは儺儀をおこなう儺者と同じような者といえるだろう。
 男たちは海から上がると、集落を通りウイヌハー(上の川)にいく。そして再び身を浄める(図版22)。これが済むと、「祈豊年」と記された旗頭を掲げてアサギの前にいく(図版23)。ここでしばし踊ることで山登りの行事は終わる。午後二時半ごろであった。このあと、人びとは家に戻り、晩の豊作祈願の行事に備える。


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 豊年への予祝  午後7時少し前に夜の部が開始される。区長の挨拶のあと、タンクサトエー(田の草取り)(図版24)(図版25)(図版26)、ヤーハリコー(図版27)(図版28)(図版29)が演じられる。
田の草取りは一連の農作業のうちでも、最も骨の折れるものであろう。それゆえ、これは米作りの象徴として演じられるのであろう。
 航行への期待  ヤーハリコーは何を表現したものか、解釈が定まっていない。丸太が東西に揺すられる。船板の継ぎ目をふさぐ仕種がある。船の乾燥を防ぐために海水を注ぐ仕種がある。こうした演戯からみると、船の建造や進水のさまを表現したとする説(宮城定盛編『国頭村安田の「シヌグ考」』)が穏当だろうか。そのばあい、アサギに丸太をぶつける仕種は船が「海を割り立てて、進水する様相」と解釈される。これを支持したい。ちなみにかつての安田は陸側は山が連なり、たいへん不便であった。そのため交易は海路によるほかはなかった。船は村民にとってひじょうに重要なものであった。 


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 ウシンデーク  このあと、しばらく待ち時間があり、7時半過ぎにウシンデークがはじまった。女性たちだけのなかなか多彩な踊りである。チヂン(小鼓)を持った女性たち(ニイルイ)が先頭に立つ。そのあとには村の内外の女性たちがつづく。年配者から十代のむすめたちまでが手を前に差し出して踊り巡る。大半は紺の着物だが、新入りのむすめたち数人は白い服を着て参加している(図版30)(図版31)。
 入端(いりは)の歌のはじめは次のとおり。

 仲前大主(なはめーふっすー)ちょー大主 鼓(ちぢん)借らち給(たばー)り
  よーねーよーね遊(あし)でぃ 風(しでー)みてぃうぇーさびら

 (意) 仲前…の伯父さん、太鼓を貸して下さい。一晩中遊んで、朝になったらお返ししましょう(お憩みしましょう)

 また安田の酒をたたえた歌もある。

 面白(うむしる)さ芳(かば)さ 安田米(ぐみ)ぬ真神酒(まみき)
  其(うり)みせーる諸人(しゅにん) 百歳(ひゃくさ)みそーり 迄(までぃ)ん

 (意)すばらしくて芳しいのは安田で穫れた米の神酒。それを召し上がる方はどなたも百歳迄も長生きなさいませ。

 そして入端の最後の歌詞はこの地の女たちの心意気をしのばせる。

 女童(みやらび)でぃいちょーてぃ 歌知らなやりば
  鳥(とうい)ぬ卵(くーが)やりば しむいなとーれ

 (意) 娘にもなって歌を知らなかったら、そんな娘には、これが鳥の卵だったら孵らないまま腐ってしまえーと言うところなんだけれど。

 これらはまた、全体の最後に歌う「ちらし・高離(たかばなり)」でもくり返される。
         (国頭村教育委員会著『安田のシヌグ』、国頭村教育委員会、1982年、16頁以下)

 なお、シヌグ舞(ウシンデーク)には男女の交わりを象徴する要素があったとおもわれる。あるいは男女の群舞があったのかもしれない。恩納ナビーがシヌグをおもって詠んだ次の歌はよく知られている。すなわち

 「よかてさめ姉べ、シヌグしち遊で、わすた世になりば、うとみさりて」(姉さんたちはよかったですね。シヌグ遊びもできて。わたしたちの世になると禁止になってつまんないね)*。
  *宮城鉄行『安田の歴史とシヌグ祭り』、未来工房、1993年、157頁。

恩納ナビーの時代[18世紀半ば]に、シヌグ舞は儒教規範により禁止された。
 踊り明かす女性たち  ところで、上記の歌詞に示されているように、ウシンデークでは生産への感謝、生の賛歌が歌われる。安田の女性たちは豊年満作の年の夜、シヌグの酒を造り、大いに呑んで思い切り踊り明かした。そこではいうまでもなく恋歌も歌われる。それはまた自分たちの人生がそうであってほしいという願いの反映でもあるだろう。

 ひとしきり踊ると、徐々に音楽が早まる。そして一連の神歌の最後に「散らし」が歌われる。このとき、女性たちは鉢巻きにしていた手拭いを手に取る。そして、それを振りつつ退場していく(図版32)。最後は見物の人たちも加わってのカチャーシである。ウシンデークがはじまってからおよそ50分ほどで夜の部が終了した。 

 ウシンデークの映像
   . 映像1(2分26秒)  入端(太鼓を持って)、宇地泊(うちづまー)、真浜
    映像2(2分44秒)  海ぬささ足(太鼓を持つ)、ハリバコー、ちらし(手拭いを持つ)、
              カチャーシまで


 2007年8月22日


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 ウフシヌグの2日目の行事は夕刻6時半過ぎのワカリウガン(別れ御願)ではじまる。前日と同様にカミンチュがアサギ、ニードーマなどで御願をする。またこの日は、トンチバルでも感謝の御願をする(図版33)(図版34)。
 そのあと、アサギの前で相撲(図版35)とウシンデーク(図版36)(図版37)がおこなわれる。最後はやはりカチャーシである(図版38)(図版39)。

 3. 小考

 1 国頭では6月には稲を刈っている。シヌグは7月の行事であり、収穫を感謝する祭祀でもある。ウシンデークはそれをよく示す。これはシヌグの核心であろう(上記ウシンデークの箇所参照)。しかし、二期作の地域でもあり、次の農作がすぐにまたはじまる。それゆえ、一方では予祝の意味を込めて農耕の所作を演じたりする。
 2 儺の儀の趣。ウフシヌグではとくに集落ごとに分かれて山登りをする。これは男の行事である。男たちは山にはいり、そこで神に変身する。それは個々の家を代表する神霊でもあり、一面では身近な祖霊の来臨の感もある。そして彼らは橋のたもとで家族から迎えられ、酒を飲んだりもする。ここには男の神人を中心とした祖霊祭祀の趣がみられる。
 しかも、かれらは家族だけでなく、集落の要所を祓い浄める。その際、太鼓に合わせて行進する。この行進には年の切り替わり時の儺の儀の趣がある。
 3, シヌグの行事は要するに農耕感謝、祖霊迎え、儺、新年の農耕の予祝という性格を併せ持つ。それは中国の蜡祭あるいは臘祭の系譜の上にある。以下、参考までに蜡祭の概略を述べておく。
 蜡祭  『礼記』郊特牲によると、蜡祭は12月におこなった。それは農耕感謝の祭儀である。そこでは八種の神がまつられる。蜡祭では農耕の大元の神である神農や后稷以下、耕作地に関係する自然神をよび、もてなす。その際、猫と虎に扮した者が登場する。猫と虎をまつるのは農作を損なう鼠や猪を取って食うからである。この際には巫師による呪言がある。すなわち、呪言では土は宅に返り、水は谷(壑)に帰れ。昆虫は悪さをせず(毋作)、草木は沢に帰れという。
 蜡祭は漢代には臘とよばれた。その臘には祖先祭祀の趣が強く現れていた。その一方で、臘と儺(鬼やらい)が強く結びついてくる。すなわち『後漢書』礼儀志によると、臘は漢代には儺の翌日におこなわれた(中村喬「臘祭小考」『立命館文學』、立命館大学人文学会、第 418~421号、1980年)。
 また儺の儀は中国各地でさまざまな演戯と結びついて儺戯となっていく。それは年初にもなされ、正月の祭祀芸能を多彩なものとした。
 4. シヌグは諸神をよびあつめて祈願するまつり。今日では神女の存在が希薄になったため、祈願もほとんどかたちだけのものとなっている。しかし、かつてはニガミ(根神)とカミンツー(神人)、サンナムン(お供)たちが中心となっていた。そして、彼らは安田集落の周囲の山と海の神、祖神らをよび、地域と家庭の平安、豊年、豊漁を祈願した(前引、宮城定盛編『国頭村安田の「シヌグ考」』)。この諸神糾合のかたちは臘祭に似ている。
 5. シヌグンクァーでは、猪と魚を捕り、豊作感謝の舞をする。シヌグンクァーはウンザミともよばれていて、ウフシヌグとは行事内容が多少、異なる。これは二日間の行事である。一日目に、ヤマトシトエー(猪取り)、ユートエー(魚取り)、インコー、ウシンデークがおこなわれる。二日目は相撲とウシンデークで、これはウフシヌグのばあいと同じである。
 6. ヤマトシトエーは国頭村比地のウンジャミ祭でおこなわれるものがよく知られている。安田のばあいもほとんど同様の模擬的な狩猟である。ただし、安田では「白衣をつけた女神が、弓矢で猪をしとめる」(前引、宮城定盛、80頁)。またユートエーは他地域ではみられない魚取りの模倣である。いずれも滑稽に演じるのが特徴である。
 7. 一方、インコーは3人の神女が五尺ほどの棒を携え、円をなす。そして「インコーインコー」と唱えながら、右へ、左へ移行する。ただし今日のシヌグではおこなわれなくなった。その所作の目的は定かではない。水あるいは海に対する祈りかという説が提起されている(前引、宮城鉄行『安田の歴史とシヌグ祭り』)。
 ウンコイ  インコーはあるいはウンコイとかかわるのかもしれない。与那のウンジャミでは四人の神女が東方の山に向かって弓を頭上に上げて拝礼をする。そしてシナマーという場所に上がり、「ウンコイウンコイ」と唱えながら左へ回る(国頭村教育委員会著『安田のシヌグ』、国頭村教育委員会、1982年、知花博康執筆、71頁)。これは山の神に対して、猪の害を防ぐことを祈るのかもしれない。弓は猪取りを連想させる。いずれにしてもユークイ(世乞い)に連なるだろう。
 8. 上記の猪取りや魚取りは、元来は、神女の主宰する神事としてなされたものであろう。とくに猪取りは蜡祭にもつながるもので興味深い。ちなみにシヌグを亥の日におこなうのは、猪に対する強いこだわりを意味する。天災地変などがあっても順延はせず、やらなくても終わったことになったという(東恩納寛正「安田のシヌグ伝承」国頭村教育委員会著『安田のシヌグ』、1982年、51頁)。ウンザミにおける模擬的な狩猟、漁猟は祭事の演戯化といえる。
 9.宮城定盛説の妥当性。安田の人宮城定盛は、1970年代、米作りが忘れられ、急速に甘蔗畑に変わっていく状況をみて、いう。
 
 米が一粒も取れないという事は、安田にとっても、安田シヌグにとっても、淋しい限りにちがいない。まことシヌグは、米祭りでもあったのだ(宮城定盛編『国頭村安田の「シヌグ考」』、私家版、1976年、159頁)。

 同時に宮城定盛はまたシヌグのなかに「田地を祓い浄め、稲の成長を促し、病害虫を駆除するという思考」をみた(同書、160頁)。
 これらは妥当である。それは蜡祭に通じる。
 10. 新たな展望―農作終了の感謝、予祝、祓い。ウンザミ(海神祭)のなかにすでに農作が無事終えたことの感謝ときたる年の予祝が込められている.。これはウフシヌグのなかにも当然みられる。では、ウフシヌグの特徴は何か。それは、感謝と予祝の上に、予祝をより完全に成り立たせるための祓いの儀と農耕の所作、祖先(類似の神霊)の到来が付加されたということである。これは蜡の後身である臘祭と近いものだといえる。こうみることによって、新たな展望が得られる。すなわち南島の古層の祭祀芸能とおもわれていたものが東アジアの祭祀芸能のなかに位置づけられることになる。 
                                       (2010年10月20日 補遺)