今日の普陀山(図録)
                                       野村伸一


 はじめに


  (※写真はすべて拡大できます。)

 2007年11月26-27日、12月29日の二回、浙江省の普陀山を訪れた。名前は山だが、実際は小さな島(普陀山島)である。しかし、ここは「海天仏国」ともいわれ、全島が観音の霊域でもある。歴史的には浙江省杭州の上天竺寺、下天竺寺なども観音の道場として有名だが、今日では普陀山が観音信仰の拠点として最もにぎわいをみせている。浙江海洋学院の柳和勇先生によると、2006年の訪問者は320万人に達したという。中国では経済の活性化により、近年、各地の観光地はどこもにぎわっていて、来客数百万人ほどの観光地も珍しくはないようである。しかし、三百万以上という数はとてつもない。しかも、この数は年々増加しているのだという。
 もっとも、わたしの興味は観光地としての賑わいにあるのではない。むしろ通常の観光地であれば、おそらく二度も訪問することはなだろう。しかし、わたしの興味は、普陀山を含む舟山列島の海洋文化の現況、とくに祭祀とその敬神の表現にある。そして、普陀山はまさにその象徴なのである。
 わたしの印象では、今日の普陀山はあまりにも俗っぽい。舟山市の沈家門あるいは朱家尖で船に乗り、20分ほどで到着すると、外地の訪問者は無条件160元(2500円余り)払わされる。いやなら戻るしかない。この管理方式からして、観音さまの霊山にはふさわしくない。まるで観光遊園地だ。そして、道路は完全舗装。また、観光すべき地域の標識はかなり整っている。しかし、すべて統制下にあり、ああせよ、こうせよと指示されているような感じで、とても長逗留していられない気分になる。
 第一回の訪問は、一人旅であった。観光用の地図をもとに名高い三カ寺(普済寺、法雨寺、慧済寺)を中心に訪問した。さすがに観音の島だけあって、各寺院の観音像にはそれなりの安らぎを感じた。とはいえ、自然に形成された観音の居所、つまり補陀落という期待からはかなり遠いものがあった。強いていうと、楊枝庵と安宿の近くでみた越劇が印象に残ったくらいであった。
 しかし、そののち、ゆっくりと考えてみると、観光コースから逸れて、自分なりに見所を探せなかったのは認識不足のせいでもあるということがわかった。そこで二回目の訪問をすることにした。
 第二回目は柳和勇先生に同道を願い、各地の洞を中心に回った。すると、そこにかつての観音行者の相貌が浮かび上がってきた。やはり、普陀山は歴史と文化の重みを感じさせるところである。
 普陀山について語るべきことはいろいろある。ただし、以下ではその手がかりとして、まず図版を提示しておくことにする。詳しい説明は後日のことにしたい。

Ⅰ.観音の示現

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1. 潮音洞。
 普陀山には観音が示現したところがいくつかある。僧たちはかつて海辺の洞窟において修行し、補陀落の観音を幻視したのだろう。潮音洞は奥行30、高さ10㍍。普陀山島の東南、不肯去観音院のすぐ下、海に面したところにある。文字通り、絶えず波の打ち寄せる音がする。宋元時代には、ここに観音菩薩が示現したという。
2. 捨身燃指禁止の碑石。
 潮音洞の傍らにある。明万暦年間(1573-1619)のもの。ここでの捨身の歴史は唐代に遡る。『普陀洛迦山伝』(元代)によると、847年、天竺の僧がきて燃指し観音の説法にまみえ、七色の宝石を授かったという。これがはじめで、以降、宋元代には盛行した。さらに、、明代の碑石、清代後期年間の「莫捨身亭」建立などの歴史がある(『浙江民俗大観』「莫捨身」の項参照)。しかし、このことは明清代においてなお投身する者が絶えなかったということである。これは日本の補陀落渡海と通じるとおもわれる。。
3. 梵音洞。
 奥行30、高さ100㍍。普陀山島で最も切り立った崖をなす。ここから真下の海をみると、潮音洞以上に観音の示現が実感される。海潮音のものすごさが実感される。同時に観音にすがらざるをえない気持ちがよくわかる。
4. 梵音洞の岩窟。
 かつての観音行者はこうしたところに籠もって修行をしたのだろう。今日、訪れる者は少なくひっそりとしている。
5. 朝陽洞
 天然の洞のうちには、今も庶民の観音信仰がつづいている所もある。朝陽洞は海中に突き出た崖の上にあり、海鳴りを聞くにふさわしいところである。また普陀山で最も早く日の出がみられるところでもある。

朝陽洞からの眺め

6. 朝陽洞内部
 洞窟内の観音像は素朴である。信仰内容も素朴で、洞内には「有求必應」という文字がみられる。
7. 観音古洞
 観音古洞は普陀山島西部にある。ここは天然の洞のなかでも比較的にぎわっている。
8. 観音古洞内部。
 観音古洞内部、洞壁にはめこまれた石刻の観音像は大寺の仏像とは違って、親しみを感じさせる。訪問した当日(2007年12月29日)も参拝者は多かった。

Ⅱ.歴史のなかへ
 

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 普陀山には新羅礁、高麗道頭(後述)に相当する、日本関連の地名は残されていない。しかし、日本とのかかわりは9世紀半ば、僧慧萼を乗せた船が立ち寄ったこと(858年。Ⅳ.の項参照)以前に、実は、8世紀半ばの事績にすでにみられる。すなわち、752年に入唐した第十二次遣唐使の帰国の船が753年、浙江省明州(寧波)を発ち普陀山に立ち寄った。この帰国の船中に、鑑真が同乗していた。鑑真は過去、日本往きを幾度も試みたが、天候のゆえにことごとく挫折した。5度目の試みの際には広東省の西端、海南島にまで流されている。しかし、753年の6度目の試みでようやく日本にたどり着き、翌年、奈良に迎えられた。鑑真により律宗が伝えられたのは周知のところ。

9. 新羅礁紀念碑。
 新羅の商人や宋は明州(寧波)との往来にあたって、ここ普陀山に立ち寄った。ここを出て、嵊泗列島を経るとあとは東シナ海の真っ直中である。2003年「海上王張保皐紀念事業会」が来島し、舟山市当局と協力してこの碑石を建てた。
10. 新羅礁の前海。
 当日の天気が悪くて写真には写らなかったが、中央下の岩石の少し遠方(上側)に小さな岩礁がある。
11. 高麗道頭。
 新羅時代のみならず、高麗時代、商人や僧を載せた船はこの辺りに船泊めをした。その場所は同道した柳和勇先生によると、観音古洞の下、南側に広がる海岸辺りかという。これには考証があり、まず間違いがないだろう(普陀山仏教文化研究所「普陀山高麗道頭遺址探軼」方牧主編『慈航慧炬化糸路』中国文聯出版社、2004年参照)。高麗の人びとはこの辺りに道場を設けた。そして、東シナ海を横断する前に観音に祈っていったことだろう。また『高麗図経』で知られる宣和五(1123)年の宋使路允迪一行もこの辺りから普陀山に上ったのかもしれない(同上論文参照)。

12. 短姑古跡。
 現在の船着き場の右側にある。人口に膾炙した観音縁起説話がある。伝承によると、かつて仏を尊ぶ姑(いもうと)と嫂(あによめ)がいた。二人は仏にまみえるため船に乗って普陀山にきた。しかし、姑(いもうと)は生理のときを迎えていた。そのため下船して入山することをためらった。嫂(あによめ)は、思慮の足りない、この妹を置いて一人山にいく。のち、潮が満ちてきた。小舟は岸から離れて姑(いもうと)は腹も減った。困っていたとき、竹林から一人の老婆がやってきて、石を投げた。石は大岩に変身した。これをつづけると、そこが埠頭になった。そして、老婆は船にきて食べ物を与えて去った。まもなく嫂(あによめ)が帰ってきた。そして、この話を聞いて、驚いた。寺にいって確かめてみると、観音大士の裾が濡れていた。それは観音菩薩のしわざであった。姑(いもうと)ははじめ、嫂に短姑(思慮の足りないいもうと)だと罵られた。これにより、二人の女性が停泊したところを短姑道頭(短姑の船着き場)という。

 宋華燮「중국 보타도와 한국 변산반도의 관음신앙 비교(中国普陀島と韓国辺山半島の観音信仰比較)」『比較民俗学』第35輯、比較民俗学会、2008年参照。ここには朱封鰲、『 普陀山觀音文化勝迹遊訪』、宗敎文化出版社,、2002年の忠実な引用がある。また、普陀山と朝鮮半島全羅北道海域(辺山半島、蝟島)の観音菩薩に対する興味深い比較検討がある。
 ※なお、この短姑道頭の外側を高麗道頭とする説もあったが、文献の記述と合わない。上記写真11の記述参照。
           (2011.8.5補訂)
  
13. 多宝塔。
 宝仏塔ともいう。元代、1335年建立。王室の太子の援助でできたので太子塔ともよぶ。高さ18メートル。
14. 多宝塔の各面に刻まれた観音像。

Ⅲ.不肯去観音と参拝者

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15. 不肯去観音院。
 宋代志磐の『仏祖統紀』によると、858年、日本僧慧萼の乗る船上にあった観音は、まだ日本にいく機縁が熟していないということで普陀山に留まった。これはのちに「不肯去観音」とよばれた。現在、それにちなんで不肯去観音院が建てられていて、参拝者が絶えない。
 ちなみに、『普陀山志』によると慧萼の乗った船は寧波を出て普陀山にさしかかったとき、新羅礁に行く手を阻まれた。そこで、慧萼は潮音洞から上陸し、紫竹林中の張氏宅に観音を安置した。これはのちに「不肯去観音院」とよばれることになった。観音道場はこれに発するという。
 ところが、近年の研究によると、普陀山には東晋の時代にすでに観音庵が設けられていたとされている(柳和勇、方牧編『東亜島嶼文化』、作家出版社、2006年)。地理的な位置からいっても、慧萼寄航以前に観音信仰はすでにあったとみたほうがよいだろう。

16.  不肯去観音院の観音。
 十一面観音である。しかし、これは慧萼が五台山から将来した観音ではない。原像は失われた。
17. 参拝団1。
 僧侶らにひきいられての参拝団。香港からきたとのこと。やはり女性が大半である。
18. 参拝団2。2007年12月29日。

Ⅳ.修行僧と祈り

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19. 修行僧1
 紫竹林から普済寺まで歩いていく途中でみた僧。普陀山についてすぐ目にした光景だが、こうした修行しつつ歩く僧はほとんどいなかった。
20. 修行僧2
21. 修行僧3
 話を聞くと、この僧は、五台山から一年がかりで1400キロの道を歩いてきたという。法名は円覚。12月に再訪したとき、なお普陀山にいて、こうして歩いていた。住食は寺院を頼って何とかしのげるようである。
22. 普陀山の祈り
 僧侶だけでなく、個人の祈りの表現として五体投地しつつ歩く人もいる。さすがに集団ではこうした光景はみられないが。

Ⅴ.今日の観音菩薩像と参拝者

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23. 普済寺の観音1。
 普陀山を代表する寺院。いうまでもなく、普陀山の仏像も文革により漏れなく破壊され、現今のものはすべて新造である。しかし、ここでは観音が生きている。神仏の像はたとえ千年前のもので国宝級であったとしても信心がなければ、ただの物体でしかない。
24. 普済寺の観音2。
25. 普済寺の千手観音。
 中国では唐代以来、この千手観音像は信仰を集め、各地でみられる。
26. 普済寺の参拝者。
 訪問した日は旧暦の10月15日で、ふだんよりは比較的参拝者が多いという。月の1日と15日に神仏を詣でるのは中国では一般的。
27. 慧済寺の観音。
 普陀山の北側、仏頂山の頂付近にある。千段もの石段があるが、近年では上りは策道(ロープウェイ)で、下りは徒歩の者が多い。
28. 水陸道場の知らせ。
 慧済寺の壁に張られてあったもの。かつての中国仏教界で普遍的であった水陸会は近年、どこでもみられるようになった。普済寺ほどの寺になると費用は3、4万元(5,60万円)はかかる。この掲示によると深圳の黄氏一家が10月16日から一週間催すという。
29. 法雨寺の観音。
 慧済寺から千段の石段を下りきって、少し歩くと法雨寺に着く。ここの九龍宝殿に安置された観音菩薩。
30. 法雨寺の参拝客。
 多くは、これから千段の石段を上るのか、あるいは慧済寺から下りてきた人たちである。
31. 楊枝庵入口。
 法雨寺を出てさらに少し南下し、舗装道路から逸れて右手に入っていくと、人気のない庵がみえてくる。入口には「楊枝禅林」と記されている。
32. 楊枝庵の楊枝観音。
 右手に楊枝、左手に水入れ(あるいは水瓶)、白い衣を着けた観音像は庶民の救済願望に直接こたえる姿である。慈雨の力で愁いを取り除く。この図像は朝鮮半島全羅道の白衣観音菩薩像にも受け継がれている。
33. 楊枝庵内の碑石にある唐代の観音像。
 この石刻の図像は唐代の女人観音の相貌を伝えるものとして名高い。碑石は明代万暦36(1608)年のもの。図像は唐初の画工閻立本の描いたものに基づいて石刻したという。楊枝庵内の碑石(縦2.33㍍、横1.33㍍)から拓本を取り、一般公開されている。普陀山三宝のひとつ(他のふたつは多宝塔、九龍藻井)。
34. 唐代の観音像2
35. 南海観音1
 今日の普陀山を象徴する新作の観音像。1997年からはじめて1998年に完成。高さ33メートル。普陀山の南の海に面している。
36. 南海観音2
 新作だが、いい顔をしている。

Ⅵ.普陀山の越劇

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37. 龍湾村の越劇『珍珠塔』の知らせ。
 この晩の経費は島内に住む忻(シン)氏一家が負担した。高校生の子供の名前を最初に出して、子の成長、一家の平安を祈願しているのだろう。こうした出資者の名前は舞台前面に掲示されるのが地方劇の習慣である。

 普陀山龍湾村には何軒かの安宿と食堂がある。ここでは観光客のためではなく、自分たちの平安の祈願として外地(浙江省紹興)の越劇団「新昌越劇三団」を招いていた。上演は昼と夜の二回ある。
 普陀山には漁民がいない。全島が観光客相手で生活している。そのためか、東シナ海の島嶼、とくに漁村に特有な生活感が薄く、まるで箱庭にあそびにきたような味気なさを感じていた。しかし、宿の近くで鳴り物がしていて、小さな舞台で越劇をしているのをみると、やはり住民たちの生活感が濃厚であった。
 ちなみに、舟山列島の各地でかつて人びとは、海の神、あるは船の神に感謝して芸能を奉納した(今日、漁村ではあまりみられなくなったが、2007年11月に訪れた定海市の寿山廟のような寺では一ヶ月も通して越劇を奉納している)。このことは日本や朝鮮南部の島嶼部ではみられない。おそらくそれは、中国江南、とくに呉越文化の影響のもとで成立した文化だろう。すなわち、宋元以来、浙江をはじめとして広範な地域で形成された南戯がそれである。南戯はもともと祭祀と深い関わりがある。当然、この根柢には祭祀を尊ぶ観念があり、その点では日本や朝鮮南部の島嶼地域と共通しているのだが。
 いずれにしても南戯のおこなわれる地域では、敬神あるいは謝神の最高の形式は芝居の奉納なのである。これについては、たとえば今日でも福建系の人びとのあいだで確認される(「東シナ海文化の現場-2008年汕尾、海陸豊劇による旧正月」      http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/Hailufeng/heilufeng.html 参照)。

 さて、2007年11月24日の晩の演目は『珍珠塔』であった。これは次のような話である。すなわち、河南の方家の話。方家官僚の家であったが、弾劾に遭って落ちぶれる。その家の息子方卿は科挙の試験を受けにいくため、父方の叔母方朶花のところへ援助を求めにいく。
 しかし、叔母はみすぼらしい方卿をみると無下に退けてしまう。とうてい科挙などに受かるはずもないと。方卿はやるせない思いで、その家を出る。ところがその家のむすめ陳翠娥は方卿に情けをかける。そして弁当と称して実は貴重な珍珠塔を贈る。またその父親の陳培徳も方卿をみこんで、旅だった方卿を追いかけ、翠娥との婚約を認めてあげる。
 方卿は旅に出て、途中で珍珠塔の贈り物に気づく。ところが、盗賊に襲われて、これを失ってしまう。苦悩がはじまる。一方、陳家の方では、なくなったはずの珍珠塔が縁あって戻ってくる。これを知った翠娥は方卿と同じように苦悩する。それを知った父親は偽りの手紙をしたため、翠娥にみせて慰める。
 やがて方卿は科挙に合格し、出世する。しかし、方卿はそのままの姿で故郷に戻らない。結婚に対する叔母のこころを試すために書生の姿で戻って対面する。叔母は以前と変わらず、冷たい。そして結婚を認めない。
 そののち、方卿は官吏の身となって叔母の前に現れる。叔母が平身低頭し謝罪すると、
方卿は過去のことをすべて許して一門に平安が訪れる。
 こんな内容の演劇が7時過ぎから9時半過ぎまでおこなわれた。

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38. 叔母に邪険にされて憤る方卿。
39. 珍珠塔を贈った翠娥とそれに気づかぬ方卿。
40. 珍珠塔の贈り物に驚く方卿。
41. 叔父は方卿を見込んでむすめとの結婚を認めてやる。
42. 三年ぶりに平服で戻ってきた方卿。叔母の心は以前と同じ。
43. 過去の蟠りを捨てて和合する叔母と方卿。

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