目次
0 目的 1
要旨 2 契機
3 他者 4
定義
5 歴史 6 円環 7
差異
8 不死 9
虚構
0’未来
0 目的
巽孝之編『日本SF論争史』(以下本書)は2000年5月15日に初版が発行され、同年11月15日に第21回日本SF大賞を受賞した。選考会においては、史料としては偏向し過ぎている、という意見に対し、「SFに関わっている人間のマニュフェストととれば、まさに現在のSFをめぐる状況を考えたときに大賞を与えるにふさわしい著作ではないか」(とり・みき選評より)という意見が主流を占めた故の受賞であった。
編者は「SF史がそっくりそのまま20世紀特有の思想史たりうることを示し」つつ、「編纂者自身の物語学を遠慮なく刷り込んだ」(巽孝之「受賞の言葉」より)と述べているのだから、選考は妥当な評価を行ったと見るべきであろうが、ジャンルの「外よりも内へ向けて」(荒俣宏選評より)といった発言を
読むと、SFをめぐる言説が未だジャンルな るものに縛られざるを得ない現実に、いささかの違和を覚えることも事実である。
一体SFを読む時ジャンルの内外など意識しつつ読む読者など存在しないにも関わらず、SFほどジャンルに拘束され続けてきた「ジャンル」はない。
一体日本においてSFというジャンルはどのように形成されてきたのか。そうした疑問を起点としつつ、本書が示す「日本SF論争史」とはいかなるものであるのかを検証するとともに、本書成立の背景と、「長いことSFの主題であり遥かな未来であるかのように思われてきた21世紀」(「受賞の言葉」より)において本書はいかに読まれるべきかについても、いささかの考察を加えていくことが本稿の目的である。
1 要旨
本書はまず、1957年から1997年までの40年間にわたる日本におけるSFをめぐる代表的かつ重要な論考を集成し、詳細な解説を加えた「優れた評論のアンソロジー」(大倉貴之<新刊展望>2000年7月号より)として読まれる。本書は第一義的に、日本SFについて時代ごとの傾向と理念の変遷を一冊に集約した、有益な日本SF批評入門、教科書(テキスト)としての性格を持つ。またそれと同時に、個々の論考が提起するSFをめぐる諸問題を通
して、SFが抱える多様性を如実に示す批評集としての価値も併せ持つ。しかも、それらの論考は現在では散逸し、本書に収録されなければ広く読まれる機会は永遠に失われていたかも知れないものが多いことを考えれば、一級の資料集(テクスト)としての価値もまた持つものだ。
歴史的文献を集大成した、珠玉のSF批歴史的文献を集大成した、珠玉
のSF批評アンソロジー。 (井上雅彦<読売新聞>2000年7月24 日付より)
過去の日本SFや海外SFを読み返す行為へとわたしたちをただちに誘うと同時に、わたしたちが抱いているSF観の再点検を通
じて、これからのSFの可能性を夢想させてくれる。(若島正<學鐙>2000年11月号より)
さらに言うなら、高度経済成長に突入した後、社会経済的に激変する日本社会において、伝統文学から映画、コミック、アニメーション、TVゲームへとその領域を拡大していく大衆文化、サブカルチャーの歴史をSFという視点から概観することも不可能ではない。
『日本SF論争史』を、必ずしもSFファンではない一般
の読者にとっても興味深いものとしてお勧めできるのは、SFというジャンルだけではなく、二十世紀後半における日本文学の変質と、その背景にあ
る社会の変化を浮かび上がらせるからである。(佐藤亜紀<図書新聞>2000年9月16日付より)
こうした評者たちの見解は決して間違っていないし、これ以上付け加えることもないように思える。
「だが、SFプロパーの人にとっては、SFは鵺のようなもので、何でもありのものであるようだ」(石堂藍<幻想文学>59号より)
「これほど、自分達は何を書いているのか、何を書くべきかを生真面目に論じ合い、共有しようと試みるジャンルは他にはなかろうし、またそうした論争自体を記憶にとどめて語るジャンルはなかろう」(佐藤亜紀前掲より)
こう言った見解について、果たして本書がどのような回答を持っているのか、評者達にとっても明確ではないようだ。そもそも、本書は本当に、評者達のいうような書物であろうか。
2 契機
本書は五部構成からなり、巻頭に全体を鳥瞰する序説「日本SFの思想」を置き、各部、各論考のヘッダーとして解説を加え、巻末には「編集後記」、英文による要旨、「日本SF年表」、「日本SF論争史・年表」、「索引」、「初出一覧」を付している。こうした付帯部分をパラテクストと読んだりもするが、パラテクストに書物全体を示唆する構造が隠されていることも多い。
たとえばP・K・ディック『ヴァリス』は本文だけを読んでもVALISが何であるのか、その全貌はつかめない。超現実的システム・ガジェット「VALIS」の形態と実質を相互に補完しながら現出させるのは、巻頭の「大ソヴィエト辞典1992年刊行第6版」の文章と、巻末「秘密経典書」である。その相互補完構造は「秘密経典書」が示す陰陽の巴、アンバランスな双子そのままであり、両者を通
底させるものこそ、本文として展開される主人公の狂気の論理なのである。
本書を『ヴァリス』になぞらえるつもりは全くないが、それでも巻末の「日本SF論争史・年表」を読めば、本書に収録された「論争」が、その年表において一部にしか過ぎないことは容易に見て取れる。
まず最初期のものがない。「『宇宙の戦士』論争」、「集団理性論争」などと重複する内容のように理解していいのだろうか。いわゆる「論争多発時代」「ニューウェーブ受容後」とされる時代の評論は多く取り上げられているが、その後は駆け足、という印象を受ける読者もいるだろう。編者巽孝之の論考も除外されている。
「しかしそれではSF評論史の側面も持つ本書に欠落があるように感じさせはしないだろうか」(石堂藍<SFマガジン>2000年8月号より)という意見も当然あるが、「おそらくアンソロジストとしてのセレクションそのものを一つの論考として読んでほしいというメッセージなのだろう」(若島正、前掲より)という見解の方が編者の意思に近いのだろう。すなわち本書自体を一つのSF批評として読むこと。逆に、本書が一つのSF批評として構想されること。その契機となったのが「クズSF論争」であることは、編者自身が語っている。
日本のSFの歴史を論争という形で切り取って、実際に現物がテクストとして読めるアンソロジーを作ったら面
白いと思っていたのですが、そこに<SFクズ論争>が起きたので、これは本格的に『日本SF論争史』をまとめなければならなくなった(笑)。(<SF
Japan>2001年春季号「SFは何と戦ってきたのか?」より>
編集後記によれば、本書の構想はカナダのSF文学者ダルコ・スーヴィンとの交流から生まれ、1990年にまでさかのぼるとされているのだから、1997年の「クズSF論争」勃発時に、編者はすでに日本SF論争の歴史を知り抜いていたことになる。もっとも、ダルコ・スーヴィンの編集する「SFスタディーズ」への「日本におけるSF批評の特集が始まり」であったのならば、「論争史」というコンセプトが当初からその基調を成していたかはやや疑問でもある。ともあれ、SF論争について研究していた者が、実際に論争勃発の現場に立ち会うほど刺激的な体験はあるまい。だが、その結果
はどうであったか。
私は今回初めてまとまった形で関連の文章を読む機会に恵まれたが、正直に言って何ら生産性のないまま終結したという印象をぬ
ぐえなかった。むしろ、本書を読めば分かるとおり、過去の論争の喜劇的な反復以外のもの
ではない。同語反復的だが、「本書を読まなければ」そうした不毛さは共有されるものではないだろう。もちろん大原まり子の「SFの呪縛から解き放たれて」が貴重な収穫であったにせよ、論争がジャンルを活性化させるというテーゼ自体、その歴史が忘却された時にはその限りではないことを編者が痛感したとしても不思議ではない。実際「日本語版だけでもまとめ」る(P378「編集後記」l8)話がでるのは論争勃発の年、1997年である。
もちろん、実際の契機を論争に得たとしても、クズSF論争の一部として本書自体が回収されることも避けなくてはならない。包括的に批評史を論ずるために、「論争史」という「超虚構」を設定し、逆に論争を回収すること。そのためにあえて距離を保ったと見るべきではないだろうか。むしろ、本書が新たな論争の火種となることすら編者の「謀略」に含まれてはいないか。
有益な教科書、一級の資料がそのまま闘争の武器となること。批評は常に論争的である、ということなのだろうか。
3 他者
そもそも、何故人は論争を繰り返すのであろうか。controversy
とは「反対の立場にまわること」を意味するcontrovasia から由来するそうだが、ここで反対のための反対である立場や、ディベートの相手、モデル−ライバルめいた止揚されるべき二項対立の構図を想定することは不適切だろう。それは違う言葉を用いる者、同じ事物から全く異なる結論を導く未知の論理を使う他者であろう。そうした他者に対して、人は自らの立場を表明しなければならない。論争は常に自己言及以外のものではない。
日本SFの黎明期において、他者とは既存のSF思想であり、社会主義文学あるいは純文学であり、SFを知らないジャーナリズム
に他ならなかった。そうした他者に対し、小松左京はその有益性をもって答えている。「SFは、文学として、ほとんどあらゆるものを表現の対象にし得る」(「拝啓イワン・エフレーモフ様」P53)、
「SFの形をとれば、いわばあらゆる文学をパロディ化することができる」(同、p.53)
当初からジャンルの定義をその機能的特質 によって説明しようとする姿勢は分析を欠いているが、ジャンルの開拓者達にそこまで要求することはできまい。
「科学者たちは、SFにおける科学が厳密にいって<非科学的>であると思っている。味方どころか、たいていは傍観者である以上に敵なのです」(福島正実「未踏の時代」p.98)
「あなたの敵はSFを全く知らない無知蒙昧な人たち」(荒正人の発言、同
p.102)
信じがたい無理解の中で、読者すら他者として振舞う。福島正実を襲っていた状況不信は、論争の生産性などを語れる状況では全くなかったと言っていい。
「いたずらざかりの鼻たれ小僧たちの、あるいは年ばかり喰っていて知能指数は似たりよったりの連中の小遣い銭をくすねとること」(福島「SFの夜」p.111)
「SFは、科学啓蒙小説であることをやめたときから、けっきょくはエスケープ小説だとはいわれたくないばかりに(中略)インチキ薬と同じものを、おまえ達は大衆に大量
にあたえているんだ」(同 p.111〜12)。
読者は傲慢な存在である。 「大体私は『宇宙の戦士』なんぞは読んじゃいないし、今後何百円かの金を払って買うなり借りるなりして読むつもりもない」(一読者の手紙より、石川喬司「ハインライン『宇宙の戦士』論争」p.129)。この読者は『宇宙の戦士』論争のなかで、『宇
宙の戦士』は読まないで日本のSF作家を軒並み罵倒している。他者とは全くそうした存在である。
「初出一覧」によれば、安部公房「SF、この名づけがたきもの」が発表されたのは「SFマガジン」1966年2月号である。福島の「SFの夜」掲載と同時であった。安部がかまびすしい状況を知らなかったとは信じがたい。SFとは何かという他者=外部からの自己証明の要求を留保し、むしろ理解されないことを称揚したこのエッセイによって、SF関係者にとっての「他者」とは、現実の勢力からSFそのものへと根本的に転回したといってよい。「論争多発時代」の基調を決定づける定義の留保は、論争の無効宣告から始まったのではないだろうか。もちろん、安部の主張が敵=他者を主流文学へ定めるべきだということに主眼を置いていることはいうまでもあるまい。常に、どこかに敵はいる、というわけである。
4 定義
激しい論争を繰り広げた山野浩一、荒巻義雄、柴野拓美、田中隆一であるが、共通
した認識としてSFを定義付けることの困難もしくは無意味を挙げている。山野の「SFは、SFを原点としたすべての作品である」(「日本SFの原点と指向」p.143)という定義付けは、「SFは自由に全ての分野に対応できる」(同p.157)という認識を補強するレトリックに過ぎないし、その認識自体が小松左京の反復に過ぎない。荒巻もまた、「いったんSFの方法論を作家が体得した場合、文学のあらゆる主題すらもSFにおいて書きかえられるのではなかろうか……」(荒巻「術の小説論」p.168)と述べ見解に相違を見ない。柴野もまた、「ドグマを設定しないあらゆる論理につきまとってくる逆説」(柴野「『集団理性』の提唱」p.198)
と述べて、SFの主要概念とする「集団理性」が極めて定義付けにくいものであることを強
調する。田中はその論考の冒頭において「SFはすべてのタブーから解放されて」(田中「近代理性の解体+SF考」p.214)いるというアイザック・アシモフの意見を批判し、実証主義批判としてニューウェーブSFに神話的思考の復権を見るが、それは可能性の検証であり、むしろジャンルの拡散を目論
むものであろう。
4人はその異なる立場に関わらず、自己が論じているものが何であるのか定義付けないまま論を進めるという態度において共通
している。SFが自明の現象として日本で自覚されたのはこの時期以前にはあるまい。SFという他者に自己表明を行っているのは彼らなのである。彼らは根本的な部分で類似している。荒巻の比喩を借りるわけではないが、「オリジナリティと論理体系」(山野、同p.158)を希求する山野はSFにおける「純粋理性」(真)を、
「倫理の地平から湧きおこってくる様々な矛盾を、科学の論理や成果
を武器として、合理的に解決していく」(荒巻、同 p.166)ことを期待する荒巻はその主張にも関わらず「実践理性」(善)を、
「動径的な物質的想像力を源泉とするSFへの回帰」(田中、同
p.266)を断じる田中は「判断力」(美)をそれぞれ論じることで、「名づけがたきもの」というSFの超越論的定義を補完し、延命させていると言えよう。柴野の論考は文脈こそ違え構造的には同一であり、総括的なものだ。
こうしたゼロ記号としての定義は論者達に定義を保留しながらその性質を論じるというダブル・バインドを強いながら、同時に共通
了解を与え共同体を形成する。多様な諸学の成果が日本SF批評にもたらす基盤はこうして確立される。極論を言えば、あらゆる論争が自己証明の
反復であるならば、全てのジャンルは自らを 再定義しながら拡大していく自己差異的な差異体系に他ならないだろう。本書に対する書評において、多くの書評者が「SFの変貌」について述べているのはそうした事態のことだ。
「貪欲さのひとつの軌跡」 (東浩紀<読売新聞>2000年7月16日付より)
「この本が対象とする半世紀足らずの間に、SFは劇的な変貌と進化を遂げた」(佐藤亜紀、前掲より)
「この四十年ほどのわが国における“もう一つの思想史”」(風間賢二<信濃毎日新聞>2000年6月18日付)
「SFのスコープが着実に移り変わり、先見性をも保ちつづけていることが分かる」(岡本俊弥HP「岡本家記録」2000年6月3日)
あたかもSFなるものが先験的に実在し、持続した連続体として変化してきたような印象を受けるこうした表現に私は同意しない。「日本SF」というジャンルは論争の過程において事後的に見出されたものでしかなく、しかもその明確な定義は存在していなかったのだ。それは「名づけがたきもの」として定義を留保し、共同体に安住することで他者を拒絶し抹消する過程の産物である。30年後の書評者たちですら、「では、結局SFとは何なのか」という清算を迫る者はいない。ジャンルの自己差異化とはそうした事態であり、それは伝統文学に基礎付けられ、歴史的に変化を遂げた結果
ニューウェーブを生むに至った欧米SF史とは異なる、原理的かつ構造的な帰結なのである。
5 歴史
そもそも近代小説においては形式上メタレベルなど存在しない。自由口語散文という形
式がもたらすものは、会話、書簡、記事、批評、あらゆる形式の言表の内部化であり、それぞれの言葉が複数の方向へ分散しもしくは衝突するその雑多な指向性をも内部化しよう
とするテクストの形式崩壊である。すなわち それぞれの言表は誰かに向けて書かれたコミ
ュニケーションの言葉としての言説であり、自由口語散文が内包するものは言説の差異の他ない。同時にそれは非在の語り手とその対
象を差異化することであり、その時テクストの内部/外部は転倒する。テクストと現実の階層すら既に破られているのである。そのコミュニケーションの力学、言説が隠蔽する政治性を露呈させるためにあえて模造される階
層こそがメタフィクションなのだと言えよう。
SFの特性として多くの人が挙げるパロディ性、自由度は、むしろ自然主義文学との対比においてのみ有効なのであり、本来的な特質とは言いがたいのではないか。筒井康隆「現代SFの特質とは」を今読むことは、そうしたともすれば否定的な見解を伴う。しかし、それがリアリズムの決定的な崩壊を宣告していることは間違いない。むしろ、小説は他ジ
ャンルである映画、TV、コミックの影響下に置かれる時代が来ていた。川又千秋によって日本SFのパラダイムは文学的定義の問題から完全に逸脱する。
「SFは一ジャンルでないと同時に、文学ですらない。それは一種の感性、理念のような
30 ものだ」(川又「明日はどっちだ!」p.231)
日本SFはその自己証明を忘却することで拡散し、同時に黄金時代を迎える。それとと
もに、大きな論争は起こらなくなる。「ニューウェーブ論争」「集団理性論争」以後は作品化解釈をめぐる論争が中心となり、「SFゲットー論争」まで、原理的な論争は起こらない。
当時の活況を簡潔にまとめた文章としては、本書よりむしろ笠井潔『機械じかけの夢』(1999年、ちくま学芸文庫)に寄せた巽孝之
の解説が最もふさわしいかも知れない。だが、背景となる状況を確認するためには、巽孝之『アメリカ文学史のキーワード』(2000年、
講談社現代新書)の巻末年表を、本書巻末の 「年表」と重ねてみるのが近道かも知れない。
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アメリカ文学
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日本SF
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社会・事件
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1971年 |
ポール・ド・マン
『死角と明察』
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|
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1972年 |
ジョン・バース
『キマイラ』
|
筒井康隆
『家族八景』
|
あさま山荘事件
|
1973年 |
トマス・ピンチョン
『重力の虹』
|
『日本沈没』
大ベストセラー
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ヴェトナム戦争終結
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1974年 |
|
筒井
「現代SFの特質とは」
|
オイルショック
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1975年 |
ハロルド・ブルーム
『誤読の地図』
ジョナサン・カラー
『構造主義の詩学』
ジョアナ・ラス
『フィーメール・マン』
|
山田正紀
『神狩り』
|
サイゴン陥落
|
1977年 |
映画『スター・ウォーズ』公開
|
冷戦がそのピークを過ぎ、世界同時革命の思潮も後退し、アメリカ文化も変容し始める。アメリカ文学はメタフィクションの主要作品が出揃い、脱構築批評が批評理論の主流を占める。年表にはないが変動相場制の導入や、『宇宙戦艦ヤマト』を皮切りとした日本アニ
メーション独自の発展もこの頃からである。
激変した政治経済構造とイデオロギーのなかで、77年に『スター・ウォーズ』が世界的にヒットしたことは偶然ではない。『インディ・ジョーンズ』や『ジュラシック・パーク』を引くまでもなく、ジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグに顕著なのは、それ以前にジャンルが形成したイメージに極めて自覚的であり、むしろ積極的に徹底しようとするジャンルに対する強い自意識に他な
らないからだ。
だがそれが解体のための遡行ではなく、イメージを温存するための手法であったことが、日本SFにも大きな影響を及ぼしたのではないか。
『SFJapan』の鼎談で、笠井潔、山田正紀両氏が口を揃えて『スター・ウォーズ』の影響の大きさを述べると同時に、『機械じかけの夢』『道化師と神』『理科系の文学誌』といった批評が全く黙殺されたことにも触れている。
この時期の日本SFの成果や問題点については、今後より詳細に研究されなければならないと思うが、ジャンルが活性化とともに批評を拒否して自閉していったことは確かだろう。このことは次のことを示唆する。
すなわち、ニューウェーブを含めた60年代の言説は相対化され歴史的なものとなったこと。小松左京を批判する笠井潔の言説は、疑いなく小松の言説が相対化されなければあ
りえないものだ。求心的であることをやめた時、ジャンルはその位相をずらし、過去と現在にまたがる存在となって時間線上の自己を意識する。回帰と批判、保守と革新が同時に起こり、分裂が生じる。
ジャンルに自己言及的であるが故に、そのクリシェを最大限に魅力あるものにし得ると同時に、その歴史的な文脈を忘却し他者を抹消する身振りにおいて、「スター・ウォーズ」と日本のジャンルSFは世界的な言説付置の位
相変化として通底する。その時批評は、論争は拒絶されるのである。
論争すら励起しないこの分裂、この沈黙こそが、本書の連続せざるテクスト群の間から真の闘争の力学を垣間見せてはいまいか。
『日本SF論争史』という本書の主題がそもそも事後的に見出された混成主体であり、
本来、日本/SF/論争/歴史という四つに分裂した相容れぬ複数の体系、ジャンルが隠蔽した他者であったことを、サイバーパンクまでの15年の論争の不在が露呈させてはいないか。
その意味で、サイバーパンクとは分裂したSF的言説を再統合し、別の主体へと回帰しようとするジャンルの新たな自己証明の試みという側面
を持ってはいなかったか。「日本」と「SF」に新たな意味を発見し、ジャンルに対する先鋭な「歴史」意識をもって「論争」
を仕掛けること。それが新たな回帰と分裂をもたらすことは、その後のフェミニズム批評の活況と、クズSF論争の破綻が示しているとおりであろう。今、そうした言説の分裂を再び回収し、日本SFを歴史的に再検証することが、新たな分裂と生成を呼び起こす契機となりはしないだろうか。
6 円環
本書の壮大な射程を概観したところで、この解題を終わるべきであろうか。しかしなお、こうしたテクストの把握だけでは不十分なように思われる。
大きな論争が不在であった81年に、巽孝之は「超越概念論争」で「日本SF論争史」に登場する。その後の「『カエアンの聖衣』論争」は『現代SFのレトリック』(92年
岩波書店)に、「『一九八四年』論争」については『メタフィクションの謀略』(93年
筑摩書房)序章および第8章の『幼年期の終わり』分析に、それぞれ発展形を見ることが出来るだろう。編者が自身の論考を収録していないことはすでに述べたが、その理由としてもう一つ、他の膨大なテクスト中に拡散していることも挙げられるだろう。
それほどまでに多彩な活動を繰り広げている巽孝之の方法論を、危険を承知で要約するならば、次の四つになるのではないか。
1. ニュークリティシズムからニューヒストリシズム、ポストコロニアリズムにまで至る現代批評の方法論を咀嚼し多様に駆使しつつ、批評の方法そのもの基礎をも相対的に逆照射することでその政治性をも差異化していく広義の脱構築批評
2. メタフィクションに代表される自己言及文学の戦略とその可能性を最大限に読み
こなしつつ、伴流文学(スリップストリーム)など新たなジャンルの提唱にも積極的に参加しながら、伝統的な作品の再評価をも行い、「新たな文学史」をも展望する相互作用的な
間テクスト(インターテクスチュアリティ)理論
3. 「デッド・メタファー」=濫喩表現から、「言語がけっきょく絶対の照応物を持つわけではないという根源的不完全性」(『メタファーはなぜ殺される』2000年松柏社
p.138)の自意識に基づき、 「従来比喩的でしかなかったものを字義的に実現させるアイロニー」(『メタフィクションの謀略』、文庫版『メタフィクションの思想』2000年
ちくま学芸文庫 p.160)にSFの可能性を見出す脱修辞学的(ディスフィギュレーション)批評
4. テクスト内言説の偏差からフェミニズム、オリエンタリズムまでいたる政治的言説
の生成装置としての文学を論じつつ、ポストモダン文化全体を包括的に見据え、差異化の中に逃走線を導入する「アヴァン・ポップ」=「サイボーグ/クレオール」
これだけではないけれども、とりわけ2、4が結びついて現実/虚構の境界が消失したメディア社会におけるメタフィクションのイデオロギー分析は巽孝之の批評活動において一つの中核を成す。
本書の闘争的な性格を読み取りながら、メタファーの崩壊、メタフィクションの力学を目の当たりにすることで、ジャンルという概念そのものがテクスト受容のプロセスから読みの共同体において仮構される「超虚構」であることすら自明のこととし、なお個別
作品の分析に取り組む巽孝之の批評を見る時、当初我々が抱く「日本SF入門」といった本書のイメージが全くの誤りであることが分かるだろう。本書をあたかも日本SF史という舞台に次々登場する論客達の物語であるかのように見えるなら、それは戦略的な擬態であるか、テクスト形式の持つ政治性であるとしか言いようがない。
テクストを書く者/読む者は、継起的にテクストを構成し/把握することで連続したイメージを得る。配列はそのまま時間の隠喩である。他の原理による配列(アイウエオ順など。巻末の索引を参照せよ)を行っても、編者/読者はテクストを順序立てて並べ替え、
構成する/読む主体をその中心に見出すだろう。継起的なイメージとは起点と終点を仮設することであり、起点と終点を「同時」に定めることで、直接的な時間軸のイメージは、実は円環としてテクストを閉じる。こうした考えは非ユークリッド幾何学の比喩を想起させる。球体の表面
に描く直線が始点に戻るように、中心から頭上を過る直線を引く時、線は弧
を−重力の虹を描き、円環を構成するのである。
編者/読者としての主体は、そうした円環の中心に見出される。円環を閉じることで全体を眺望する、テクストを配列=編纂する/読む主体、ミシェル・フーコーの言う<一望監視装置>の中心にいる主体。
<一望監視方式>は、見る=見られるという一対の事態を切離す機械仕掛であって、その円周上の建物の内部では人は完全
に見られるが、けっして見るわけにはいか ず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。
(フーコー『監獄の誕生』田村俶訳 p.204)
無論、こうした主体の観念がフーコーの「人間」、近代的主体化装置としての人間概念に基づく。「従順なる至上のもの、見られる鑑賞者としての人間」。(フーコー『言葉と物』渡辺一民・佐々木明訳
p.332)
そうした主体の地位を確保する鑑賞装置、「博物学者の所産」(『監獄の誕生』p.205)がいまや日常的になってしまっていることを我々は知っている。我々はTVを、チャンネルを切り替えながら一望している。年表を作成して全体を一覧する。編纂されたアンソロジーを、歴史を通
覧する一望監視装置として読む時、我々はそうした主体化に参加している。SFという「ジャンル」すら、こ
うした主体化、共同体として円環を閉じる運動の帰結でないと言えるだろうか。また、こうした書くこと/読むことの権力構造、主体化の力学に編者が自覚的でないことがあり得ようか。
SF的なるものをめぐる言説が差異化により分裂し、原理的な論争が不在となった時期と、サイバーパンク以降巽孝之が次々と評論集を世に問うてきた90年代は表裏として照応している。それはジャンルに対し他者として振舞うことで、ジャンルの覇権主義を解体する試みに他ならない。それは分裂を自覚し、さらに折り畳み新たな系譜を遡行する。本書を読む者は本書を円環として閉じてはならない。分岐させ開かなければならない。その端緒として索引を引いてみることもできる。本書に収録されなかった言説がひしめいてい
るのが見えるだろう。宮崎勤が、アポリネールが、マクルーハンが、ハイデッガーが、萩尾望都が、由良君美が、ソフト・マシーンが、バルザックが、遡行され分岐した新たな歴史へ向け本書を開くだろう。
7 差異
「SFマインドがある、とは、世界を外側から眺めるような巨大なものさしを持っている、ということだ」(大原まり子「SFの呪縛から解き放たれて」P.369)
「SFという手法は、世界に輪郭を与えるものである」(同、P370上l12)。
こうした大原まり子の言葉は、ともすればまさしく世界を円環で閉じる主体化の言説として理解されるかも知れない。だが一旦フェミニズム批評の文脈に照らす時、我々はその「巨大なものさし」が複数であることに気付かずにおれない。クズSF論争が成立しなかったのは、多くの論者がこうした複数化した主体の概念に無自覚だったからではないだろうか。
だが複数化した主体も、いやむしろ複数化した主体こそ、継起的な時間観念から逃れることができない。また、開かれたコミュニケ
ーションが主体の権力構造を解体するわけでもない。本来的にその不均衡はコミュニケーション行為そのものが持つ不均衡だからだ。
これはインターネットが導入されたとしても変化する事態ではない。それは驚くべき速度の情報交換を可能にするが、ともすれば「見られる鑑賞者」としての人間存在を、実在であれ仮想であれむしろ補強する。それは<一望監視装置>の監視者と囚人が目まぐるしく入れ替わっているだけのことだ。そこで起きるのはおびただしい衝突、どちらが見ているのかという「論争」である。我々はお互いをマークする。そうした状況はジル・ドゥルーズが指摘す
る「管理社会」の構図を想起させる。
工場は個人を組織体にまとめあげ、(中略)企業のほうは抑制のきかない敵対関係を導入することに余念がなく、敵対関係こそ健全な競争心だと主張するのである。(ジル・ドゥルーズ『記号と事件』宮林寛訳
P.295)
規律社会における見せかけの放免(これは二度にわたる投獄のあいだにあらわれる状態だ)と、管理社会における果
てしない引き延ばし(こちらは恒常的変異の状態に置かれている)は、まったく違うふたつの司法生活の様態である。(同、P.295)
今となっては極めてナイーブに映るこうした発言を、60年代特有のパラノイアックなものとして笑うのはたやすい。そして、我々は当然、トマス・ピンチョン『ヴァインランド』」の<管>(ザ・チューブ)を想起する。しかし、ドゥルーズ管理社会の構図は継起的な時間の中で分裂する主体の様態を正確に指摘している。
いま目の前にあるのは、もはや群れと個 人の対ではない。分割不可能だった個人(individus)は分割によってその性質を変化させる「可分性」(dividuels)となり、群れの方もサンプルかデータ、あるいはマーケットか「データバンク」に化けてしまう。(同、p.296)
ここでは、インデックスはむしろ連続した 変容を管理する指標として参照される。単数的な書く/読むテクスト構築がフーコー的近代の主体化力学に監禁されるように、複数的なインターテクスチュアリティの受容はともすればドゥルーズ的連続体の管理化に規制される危険をはらむのである。
ではこの「果てしない引き延ばし」=継起的かつ直線的な延長としての時間はどのようにして我々において自明のものとなるのか。『差異と反復』において、ドゥルーズはこれを「空虚な形式」への総合と呼ぶ。
事物は(円環という単純すぎる形態に即して)時間のなかで繰り広げられるのだが、それに反して時間は、それ自身が繰り広げられる(すなわち円環であることを公然とやめるのである)。時間は機軸的(カルディナル)なものであることをやめて、順序的(オルディナル)なものに、つまり、純粋な順序としての時間へと生成するのである。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳、p.146)
ドゥルーズは、こうした時間形式において規定される《私》は、常に「ひび割れて」い
るとも述べている。自己は常に差異化するが故に反復する。この構図が、『言葉と物』で示される19世紀以降思考の原理となった「歴史」と、その原理において規定される「経験的=先験的二重体」としての人間に照応していることは周知のことだろう。異なっていることは、フーコーが言説分析によって原理を
「経験的」に見出すのに対し、ドゥルーズは概念の分析からイマージュを解体することで原理を思考する「先験的」な手法をとることだ。
分析された言説と解体されたイマージュ。アメリカ文学理論の激しい変化、文学作品群が被るおびただしい再解釈、言説の付置の目まぐるしい移動、そうした状況を肌に感じてきた編者が、言説分析の陥る抜き差しならないイデオロギー表出、政治性の露呈に自覚的であることは当然だが、一方でイマージュとしての歴史を解体するメタフィクションの、そしてSFの手法について自覚的であることも自明であろう(『メタフィクションの思想』
で取り上げられる全ての作品が、何らかの形で歴史改変に関わっている)。
極めて論争的なSFであるスタニスワフ・レムの作品群(『天の声』、『新しい宇宙創造説』、『泰平ヨンの現場検証』など、次第に「論争SF」化していく)について、今ここで詳細に論じる余裕はないが、もともとSFは論争を内に含んでいる。サイバーパンク最大の主題が「人間」の解体/サイボーグであったことをいまさら述べる必要もあるまい。
SFの方法論自体を、現代思想の根本的な認識と接続すること。もちろん、そのほとんどがたやすくイマージュに還元され、パーフェクト・ガイド・ブックといったインデックスの管理化に置かれかねない脆いものであったとしても。まして批評はいまや常にテクストの危機にさらされている。ドゥルーズは
『差異と反復』をサイエンス・フィクションと呼んだのである。
何かについて思考するということは、その何かを墨守するために行うことではない。ましてSFという現象を思考することは、テクスト受容の歴史全体を原理的に批判する過程を経ずしては不可能であろう。その時ジャンルが根本的な変容を余儀なくされたとしても。本書を闘争的に読むこととは、そうした倫理的な主題をも導入する。
8 不死
ドゥルーズは『差異と反復』において、「時間の空虚な形式」を説明する際、ボルヘスの言葉を引用している。
「時間は、迷宮の最後の形をとったのだ。ボルヘスの言うような『見えない、絶えることのない』直線をなした迷宮の形態をである」(『差異と反復』p.176)。
しかし、セルバンテスの『ドン・キホーテ』とピエール・メナールの『ドン・キホーテ』
40 が異なるように、ドゥルーズにおける「見え ない迷宮」は、ボルヘスのイメージする迷宮とは異なっている。
実際、ボルヘスは時間について論じる際、永遠と結びつけずには論じない。
「永遠から発した時間はふたたび永遠なるものに回帰したいと願っており、それゆえに時間は連続して現れてくるのである」
(『ボルヘス、オラル』木村榮一訳、p.141)
ボルヘスにおける時間は実体であり、永遠もまた神聖なものに満たされた空間である。彼の迷宮は充実している。それは図書館であり、全ての書物は永遠に繰り広げられる一冊の書物である。
「ひと言でいえば、不死性というのは、他人の記憶のなか、あるいはわれわれの残した作品のなかに存続しつづけるのである」
(同、p. 59) しかし、ドゥルーズの時間は死と分かちがたく結びついている。彼の迷宮はむしろ、フーコーの言う「外」に等しい。
死は、反対に、あらゆる物質を放棄してしまった純然たる形式−時間という空虚な形式−に対応しているのだ。
(『差異と反復』p.178)
「私が話す」なるものがその主権の拠点 としているのは、他のあらゆる言語の不在
なのであり、私がそれについて話している言説は、私が「私は話す」と言う瞬間に言表される赤裸さに先立って存在するものではないし、私が口をつぐむまさにその瞬間に消え失せてしまう。言語活動のあらゆる可能性が、ここでは、言語活動がその中で成就される他動性によって干あがってしまっている。それをとり囲むものは砂漠である。
(『ミシェル・フーコー思考集成』「外の思考」p.336)
フーコー的主体がコミュニケーションといかに関わるかを明確に示したこの文章は、同時に言説が差異化するときの無根拠をも指し示している。ドゥルーズ/フーコーに従うならば、ボルヘスの意に反し※、コミュニケーションは常に死にさらされている。他者は敵であり、コミュニケーションは闘争である。
テクストの受容をジャンルの枠組みにおいてではなく、むしろコミュニケーションの一回性において捉えるならば、読み返すという行為は別
の意味を持ち始める。小松左京、ハインラインの繰り返し現れる読解は、ある者は延命を、ある者は抹殺をもくろむものだが、むしろテクストはその都度新たな生を生きると言うべきだろう。それは本書に収められた批評群それぞれにも言えることだ。
コミュニケーションの瞬間にしかテクストは生成し得ないという認識は、テクストはいかに生くべきかという文学的生の哲学へと到達する。テクストに残された戦略は論争しかない。むしろ、論争においてしか批評が生成し得ない空間へ、我々は足を踏み入れている。
不死をあきらめ、有限の生をテクストが受け入れること。テクストを書く/読む主体もまた、コミュニケーションの中でのみ、1回
的な生を生きるだろう。その時、ボルヘスの 夢想する不死の文学空間も消滅するのである。
※ もっとも、ボルヘスが採取した迷宮にまつわる挿話には、バビロニアの王を自身の迷宮=「登る階段もなく、押し開ける扉もなく、さまよい歩いてへとへとになる回廊もなく、行く手をさえぎる壁も」ない迷宮で殺すアラビアの王の物語が出てくる。ここでいう迷宮とは砂漠のことである。
9 虚構
「拝啓イワン・エフレーモフ様」や「術の小説論」がその存在を知られていながら、文
献の散失によってその内容を検証し新たな可能性を論じる機会が失われた−いわば歴史的物語に回収された「仮死の文献(タナトイド)」となり始めた−その頃、批評活動を開始した巽孝之が、日本SFを論じる際にいかに本書の裏面
へと 周到に自己を折り畳んだとしても、次第に自分史への言及が増えていく事態を避けることはできない。95年以降、出版した書物の後記や発言に自らの原点へ遡行する内容が目立
ち始め、自身の批評活動を一旦総括するかのような動きも始まる。
95年は後に小松左京『SFへの遺言』としてまとめられる座談への参加、88年日本で本格的に活動を開始して以降の「アメリカという言説」をめぐる論考を集成した『ニュ
ーアメリカニズム』の出版を行う。その後も『恐竜のアメリカ』後記、前述笠井『機械じかけの夢』文庫版後記などに、自身を回顧する言及が見られる。自己の理論を現代主流文
20 学に適用してみせた『日本変流文学』等を経て、2000年6月に『ニューアメリカニズム』の「実質的な理論的分身」と規定される『メタファーはなぜ殺される』を上梓する、その約1ヶ月前である5月に本書は出版されているのである。その後も9月には1000年間のアメリカ文学史を扱う、かつてない時間軸を展望する『アメリカ文学史のキーワード』が出る。
批評理論/SF批評/アメリカ文学研究と いう自身の主たる三分野において、それぞれ道標たるべき著作を同じ年のうちに出版する膂力には瞠目するほかない。そこには自己の主題と方法論を確立し、なお貪欲に新たな領域を取り込みつつ、さらに自らの批評原理を鍛え上げていく成熟した批評家の姿を見ることができる。それ故に、むしろ個人史へ回帰する巽孝之の発言は奇異にも思えるが、『SFへの遺言』での発言はその動機を示唆しているようにも見える。
巽――(前略)小松さん的なものを麻原彰晃も当然吸収してて、現実と虚構の区別
ができなくなったのではないか。正常にいけばSFファンになるかもしれない。小説書いてれば、そこで昇華できるかもしれない。
けれど、それを信じてしまうと……。 小松−そうね。彼のヴァーチャル・リアリティ−妄想ですけどね。(後略)
(『SFへの遺言』光文社 p.191〜92)
同時代の想像力として間違いなく「浸透と拡散」を見た日本SFが、現実に影響を与え始める事態。現実/虚構の境界解体を論じてきた巽孝之自身が、経験的=先験的メタリアリズムに囲い込まれる。だがむしろ、私にはこうした状況下を想定しつつ巽孝之が自らの批評=闘争機械を鍛えてきたようにも思える。すでに『日本変流文学』(特に第6章、
第9章に顕著だが、随所に宗教=仮想現実への言及有)でも日本的SF想像力の分析は試みられているが、本書もまた、さらに求心的かつ遡行的な日本SFの言説分析の端緒として構想されたのではないか。
前述したように、巽孝之の批評はジャンルに対する他者として、現代SFを解体する試みとしてまず捉えられる。だが同時に、他者を抹消していたジャンルの想像力の根源に、日本社会の現実/虚構の境界を侵犯する力学が潜むのであれば、共同体の一員でもあった自らの存在の分裂について改めて語り始めるために、ジャンルSFを再び召還する必要があるのかも知れない。
「そもそも日本においてSFを思考するとは何を意味するのか」(「編集後記」p.
375)
これは決して他者の問いではない。「文芸史のどのあたりに日本SFが位
置するのか」(川崎賢子<読書人>2000年8月11日付) という問いにとどまるものでもない。「鉄腕
アトム」生誕の2003年に向け、人間型ロボットを開発している集団が、複数の一流企業において現実に存在しているのだ。二一世紀の日本に生きる我々が抱え込んだアポリアとして日本SFはいまや在る。
0′未来
編者は『アメリカ文学史のキーワード』巻末「おわりに」において、「もともとあらゆる文学史は不可能な試みであろう」と述べている。そもそも本書「序説」の第一の小見出しが「論争史はひとつではない」であった。
それでも、本書は編まれた。第一の日本SF論争史として。真に本格的な日本SF批評の言説分析を切り開く端緒として。サイバー
パンク以降の日本SFを逆説的に位置付けるものとして。そしてアメリカSF研究に日本SF批評の精華を対比させる試みとして。
我々は本書を、共同体の物語としてではなく、砂漠に立つ者達の叫び、果
てない迷宮の中の届くことすら不確かな呼びかけとして読み得る準備が出来ているだろうか? 倣岸な読者としてではなく、砂漠の水脈を探る異邦人として。彼らに呼びかけなければならないのは我々の方なのである。
本書は国内のみならず、アメリカなど国外においても、日本SFを論じる際には必ず参照されることになるだろう。もともと、すでに国内外などという境界はSFにおいては消滅しつつあるのではないだろうか。アジア諸国においてはまた違った読まれ方をするだろう。それをグローバリゼーションなどという安直な言い方で論じることは避けたい。それは新たな論争を呼び起こすだろうし、そのように読まれるべき書物なのである。すでに『アメリカ文学史のキーワード』はそうした試みを内包しているように思える。ピンチョン『ヴァインランド』のタイトルがその源と
した「ヴィンランド」(一千年前ヴァイキン
グたちが名付けたアメリカ大陸)の挿話から『キーワード』が始まることは決して偶然ではない。1000年の歴史をも射程に捕らえる想像力が、既成の境界を解体し、予測し得ない分裂を生む。
テクストを字義的に分析する即物性と、歴史を再編し抽象する他者の想像力。本書が我々=読者に開示するのもまた、そうした境界解体の力学である。それがSFというジャンルをも解体し尽くすのか、それともいつの日かそれをこそSFと呼ぶことになるのか。SFにおいて常にジャンルが問われるのは、そもそもSFがジャンルを破壊する力を内に秘めているからなのだ。名づけがたきものへの呼びかけは絶えることがない。
私事になるが、ここ10年ほどSFと文学批評からかなり遠ざかった生活をしてきた。
一切禁欲してきた訳でもないのだが、今回『日本SF論争史』を読み、またこの解題を書くよう依頼を受け様々な考えをめぐらすうち、余りにも最近のSF批評の動向に無知であることを痛感せざるを得なかった。だいぶ無理をして論じた観もあるがご容赦を願いたい。<クズSF論争>関連の文章も、今回初めて目を通
したのである。巻末の参照に従い、野阿梓氏のHPを活用した。また、各書評の文章は中江川靖子氏のまとめた小冊子による。
誤読や写し違いがあればそれは全て私の責任 である。
編者は『アメリカ文学史のキーワード』巻末「おわりに」において、「もともとあらゆる文学史は不可能な試みであろう」と述べている。そもそも本書「序説」の第一の小見出しが「論争史はひとつではない」であった。そのとおり、本書の読解も決して一様ではあるまい。想像し得る様々な読みの方向性を含めてきた積りであるが、他の戦略がいくらでもありそうな気がする。本書はまさに、いくら戦略的に読んでも戦略的でありすぎることはない。
(文中敬称略)