Session 3 :「青少年SFファン活動小史」をめぐる論争

  難波弘之・永瀬 唯




司会
 じゃ続いて、時代順で難波さんにしましょうか(笑)。
  難波さんは、この本には収録されていないんですが、私もつい先日読ませていただいたばっかりの、<映宙塵>にかつて連載された「青少年SFファン活動小史」という小論があります。たぶん、ご存知の方はこの会場の感じだとあまりいないんではないかと思うんですが。これが非っ常に面 白い。  
 
 大学に入られたばっかりのころですよね。難波さん、ハタチやそこらでもう歴史 家になっちゃった(笑)。
 
難波
 なかったことの過去にしたいという……(笑)
 
永瀬
 そもそもですね、「青少年ファン」という言葉自体あたりが成り立った頃って僕は知らないんですけど。
 
 あれっ、そうでしたっけ?!


永瀬

 巽さん、難波さんは現場にいたんだけども、僕なんかはその頃、地方で仲間もいない読者で、ファンダムとの接触は東京に出てきてからだから一九七〇年か一九七一年くらい。この中でも古手の僕でそうですから、今活動しているファンの中でも、当時のことを知ってる人はかなり少ないでしょう、「青少年SFファン」を知ってる人は。

司会
 ちょっと、会場の方にも聞いてみたいんですが、「青少年SFファン」という言葉を聞いて、ああ、そういう言葉があったなあと思える人っていうのはどれくらい――。(会場に挙手を求める、数人手をあげる)
 

(会場から)ああ――
(会場から)ディープな方がいますねぇ――
(会場から)やっぱり歳だなあ――!
(会場から)平均年齢は――。
(会場から)40過ぎだと思うよ。
(会場から)40半ば以上です(笑)。
 

司会
 まあ、こんなもんだとご理解いただいて。

柴野
 いや、そもそも「青少年ファンダム」なんてものが生まれたいきさつを申しますと、あの頃SFファンというのはやたらに類を求めて集まる、とかくメダカは群れたがるなんて悪口を言われていた時代、悪口というか仲間内で自嘲していた時代で。

野阿
 今とどう違うんでしょう?
(一同爆笑)

柴野
 とにかく仲間が出来ると飛んでいって仲間入りしたがる、と。その頃やっぱり学生の間、高校生なんかの間にSFが好きでファングループっていうのが次々出来るわけですが、そうすると大人が顔を出すんですよね。仲間が欲しいから。そうすると、やっぱり大人の方が弁が立つものだから、何となく、子供達のファングループ側としては、大人にかきまわされて占拠されるような印象を持ったらしくて、あの頃、「SFの夜」に登場する本村三平のモデルである木村一弘さんとか、他にも何人かいるんですけども、ああいう人たちが「青少年ファンダム」と言って大人からの独立を図ったわけです。プラネッツというグループを青少年ファングループの中だけで結成しました。
 ところが彼らに誤算があったのは、学校のクラブ活動みたいに、やがて自分たちが大人になればOBとして迎えられると思っていたらそうじゃなくて、難波さんなどの一派が青少年ファンダムのもひとつ若い世代のファングループを作って上の世代から、独立というか何というか……

野阿
 下克上。
(一同笑)

柴野
 そういうことになってきちゃって。そのうちに青少年ファンダムの中でも、青少年ファンダムの主流に対する俗流って言うんですか、傍流が反旗を翻して。僕らはまあ当時の学生運動の分裂みたいに思って見てたら、今度はその傍流が大人のファンダムに対して攻撃をかけてきた。「日本SF大会粉砕!」なんてやりだしちゃって。「ファンダムを私する柴野拓美を倒せ!」とか(笑)。

 あれは柴野さんと<科学創作クラブ>、つまり<宇宙塵>のことを天皇制にたとえてるんですよね。あの時、革バグ−−革命主義的バグ集団の−−アジビラには、深川七郎の「風流夢譚」のパロディで、過激派SFファンが柴野家を急襲する、みたいな小説まで印刷されていた(笑)。

柴野
 しかも、僕の家におしかけるのに、僕が定時制高校の教師で夜はいないことがわかってるから夜おしかけるっていうんです。何で僕を倒すのに僕がいないときを狙うのか。それもよくわからないんですけど(笑)。
 難波さんの話から横へいっちゃいましたが、そうして青少年ファンダム第二世代というのができて、難波さんはそんなわけでわりとその辺り冷静に青少年ファンダム全体の分析が出来たんじゃないかと思ってます。

永瀬
 結局、中坊とか高校生あたりやなんかが目立ってファンジンを作り始めたっていうのはいつ頃からなんですか?

難波
 やっぱり、木村さんとか矢野さん(永瀬註 矢野純。プラネッツによるコンヴェンション、プラコンのニ回実行委員長。大学に入ったのち、永瀬は年度が上の彼を通 じてSFファンダムに接触する。プラネッツの当時の常連にはたとえば、カルト・コミック作家ダディー・グースや、のちの矢作俊彦氏などがいた)とか。 

永瀬
 僕、後からアメリカのSFファンダムの歴史なんていうのを知って、あの頃野田さんも紹介していた、サム・モスコウィッツによる「永劫の嵐(イモータルストーム)」なんて本を見ていると、プラネッツがどうのこうのというのとそっくり同じコトを、1930年代にフレデリック・ポールとかね、パシリがアシモフとかブラッドベリとか(柴野追加:ウォルハイムとかシコラとか)でって感じでですね、アメリカのSFファンがやってるんですよね。 ところが、僕は現場にそのころいなかったんだけど、日本のSFファンダムっていうのは最初いい大人が初めてSFを知って、つまり大人から始まって……。
 

難波
 そうです。

永瀬
 そのあとですね、子供達が気がついて、順番が逆になってしまったのがゴタゴタの原因じゃないかという印象があるんですけれども(笑)。
 
柴野

 
大人のSFファン活動っていうのはいわば日本のファン活動にとっちゃ単なる先行現象で、その後、青少年ファンダムから生まれたのが本物のファン活動だったのかも知れません。一度私それ書いてます。
 

難波
 最初にSFファンジンがあるとかね、ファンダムがあるとか、SF大会があるっていうのを知って、喜び勇んででかけた僕は、子供がいっぱいいると思ったんです。同世代がね。そういうふうに思ってた。情報がないから。そう思って行ったらガキ扱いだったんです。僕の最初のSF大会の印象としては、圧倒的な背広ネクタイの……背広ネクタイ・メガネの(一同笑)海、っていう印象だったんです。それで「これはえらいところに来ちゃったな」と思ったら、いないわけじゃなくてポツポツいたってとこから始まったんです。

 あの頃、つまり六〇年代末にはもう、すでに「おたく何々持ってる?」という言 い方が蔓延してたのを、はっきり記憶してますが。  

難波
 そうですね。

 私がこのフレーズを最初に聞いたのは柴野さんから、柴野さんご自身のお宅で……。(一同爆笑)

野阿
 中森明夫より早い。

難波
 あの辺の人たちがおたくの定義をしてるのはあきらかな誤りなんだけど誰もそれを訂正しない。それをそのまま放っておくっていうのは非常によくないね(笑)。

永瀬
メディアのありかたにしても、柴野さんの<映宙塵>は最初はガリ版だけど、きちんとしたプロの業者に発注していて。それからしばらくしてタイプ印刷。筒井さんご一家の「ヌル」は最初から活版でしたっけ?

難波
 活版です。
 そういう意味でも出版形態や何かも中心となるようなものは大人でしたね。

永瀬
 ガリ版もコンパスの針とですとかね、紙ヤスリの上に原紙(蝋引きの和紙。鉄筆と専用のヤスリでこの紙に微細な穴をあけ、インクをしみとおらせて印刷する)を置いて切ったという伝説があるくらいで、大人が立派な活版印刷でね、同人誌を、しかも毎月とかね、季刊くらいで出してる時に、きっちゃないのを出すところからやり始めているっていう。
 
野阿
 巽の文字が汚いのは有名なんだけど、こいつイラストまで描いたからね。それで表紙にしたんだけれども、人間だか宇宙人だかわからなかったって……(笑)。

司会
 今は評論ばかりですが小説もイラストもやっていらしたというのは是非読んでみたいんですが。

 当時SFのファンは何でもやりましたからね。

野阿
 小谷真理に対してすらその小説とかは隠しているという。

小谷
 そう、結婚して読ましてくれると思ったら、隠しちゃって、見せてくれない。

難波
 うちへ遊びに来い! (一同笑)

司会
 夫の、過去の恥ずかしい姿――

永瀬
 難波さん、結局ファンダムと接触したのは幾つですか?

難波
 中1だから13ですね。

永瀬
 何年くらいですか?

難波
 67年――。

永瀬
 68年くらいですか、いわゆる「青少年ファン」がきっちゃないガリ版をバンバン書き始めたのは。

難波
 そうですね。
  名前また出しちゃうとアレなんだけど、福島正実さんが凄く「ガキのSFファンは嫌いだ、」みたいなことをよくね<SFマガジン>にお書きになったりしてて、ガキの僕らはカチンと来たんだけれど、最初にカチンと来て、「青少年」というのを意識しだしたのはたぶん木村一弘さんたちだと思うんですよね。別 に僕らはね、そんなに批判的な感じではなかったと思う。
 そういえば、昨日すごく面白い話を巽先生から聞いたんだけど、当時はファン活動やるか学生運動やるかっていうチョイスがあった(永瀬註。同じ日にそんなSF政治少年だったお方が、高校生時代の光瀬さんとのおつきあいの思い出を語る企画があった。<ザ・スニーカー>2000年〇月「押井守」特集号に、ご本人の証言の概要が掲載されている)。だから、ファン活動やるか学生運動をやる。で、最近はSFやるか宗教やるかがチョイスになっていて(笑) 。

 これもまた固有名詞をだすけど、<SFマガジン>元編集長の阿部氏がね、早川書房に入るか阿含宗に入るかで迷ったという有名な話がありますが。(一同爆笑)
 
野阿
 阿含宗に入ってたほうが出世はしたと思うけどなあ……。

 たいていの人が陥りやすいですよね。


永瀬
  あの、これ、評論を書くんで調べたことあるんですけど、ラヴクラフトのファンはですね、あの頃のパルプ小説は単行本になりませんから、何をするかっていうと、自費出版でアーカムハウスっていうところあたりから豪華絢爛、1千ドル近くかけてですね、ハードカバーの箱入りなんかを出すんですよ。で、SFファンはどうするかっていうと、向こうだとこんにゃく版ですね、タイプの。タイプのこんにゃく版、12ページくらいのヤツを7ドルくらいで作ってホチキスで適当にとめただけで送りつける(笑)。つまりね、あの頃の日本の大人のファンっていうのがキチンとしたものをキチンとした読者に届けるっていうのが義務だというようなところがあったのが、どっかで壊れちゃったから、ガキが入れるようになったのかなあ、という気がするんですよ。

柴野
 どうも伺ってますと、さっきから子供のその、紙ヤスリの上でコンパスの針で切ったの何のと汚い話ばっかり出ますけれども、木村一弘と同じ頃始めた佐藤昇という人は、ファンジンを出すために、まずガリ版の講習会に行って、きちんと習って、実にきれいなものを出してます。まあ、そういう人もいるっていうことです。

永瀬
 技巧的にはですね、当時の青少年ファンジンもすごいんですよ。僕がその佐藤昇氏のとこであとで見せてもらったのは、ガリ版6色か7色印刷っていう。
 

(おおーッとどよめく場内)
 
 
 

永瀬
ただね、更に昔の世代のいわゆる機関誌ですともう、比較にならないくらい技量 の高い人はいたんですけど。そこはやはり、コンパスに紙ヤスリから一年か二年で、独力でそういうものを作っちゃうような人がいたっていう。

野阿
 当時「筆耕屋」っていうのがいたんだね。いまでは誰も知らないだろうけど。活字そっくりの字を、それはもちろん紙ヤスリじゃ書けませんけども、鉄筆でやろうとすれば、そのくらいのことが出来る技量 の人がいた、というね。

司会
 あと、「青少年SFファン活動小史」を読んでいて非常に思ったのがですね、この頃大人のファンダムっていうもの、こっちには良くわからないんですけど、それがあって、そこに新たに15歳とか13歳という子供たちが現れて、で、大人からは「不思議なものが来たなあ」と思われていて、子供の方からも「不思議なものが来たなあ、と思われてるぞ」と思っていたわけなんですけれども、今丁度、私なんかがその渦中にいると思うんです。ネットワーク経由でSFファン活動を始める人たちっていうのがだいぶ現れていて、その人たちが、私は両方に属しているんですけど、昔から大学SF研とかでファン活動をしていた人から見ると、「何か不思議なところから人が現れてるぞ」とか思われていて、ネットワーク経由でファン活動を始めた人たちは「不思議な人たちが来てる、って思われてるぞ」みたいな感じなんですけど、そのへんとの類似性とかは何かありますか。

難波
 昨日ちょっとある方から、これは「青少年SFファン活動小史」が今はまったく読めないので、ネット上で流していいかっていう話が来たんですね。

司会
 私も是非、それは言おうと思ってたんですが(笑)。

難波
 それは僕は構わないんですが一応柴野さんの許可とってくださいと申し上げたんですけど、その時、その人が言っていたことが−−まあ、義憤にかられてじゃないんだろうけども−−近頃の若手ファンは、ファン活動とかファンダムのことになると柴野さんっていう名前が出てくるけど偉い人なの? とかそういう感じらしいんですよね。天皇に匹敵する存在であると言うべきだったかな(笑)。

 柴野天皇。(一同爆笑)

難波
 大学のSF研しか知らないんだろうな。
  あの時代っていうのは<宇宙塵>を頂点だと批判した人もいたんだけれども、僕が当時非常にわかりやすかったのは、要するに柴野さんがファンダムのことすべて把握出来る大きさだったんですよね。大きさというか規模というか、とにかく<映宙塵>誌の最後のところを読むとどんなクラブがどんな活動をしているのか、住所はどこなのかということがわずか3ページぐらいしかなくて、そこで把握できたと。それがだんだんあのページが増えてきちゃって、そろそろ柴野さんが悲鳴を上げる頃から変質してったと僕は思うんです。それは僕らが出てきてね、そういうふうにしちゃったんだと思うんですけれども。
  大学のクラブ以外の、そういう経緯というのをまったく知らない人たちがいるから、その人たちに読ませたいんだという話があったので、だったら、それはもう是非インターネットに掲載してもよいと思った。昔、こういうことがあったというのを知っておいてもらってもいいかなと思って。まあ、別 に知ったからどうっていうこともないんだけれども。で、いいですよという返事をしたんです 。

永瀬
 今の話の補足で、柴野さんのご機嫌を損ねてた、無軌道で野放図な若者の系列がその後どうなったということで個人的な話からいきますと、私、東京に出てきてから引きずり込まれたのが「ショッカー」というですね、(一同爆笑)情けない名前のグループでして。

 難波さんも入ってた(笑)。
柴野
 あのグループは割と真面目な方でしたね(笑)。
永瀬
 ただね、今から考えるとさっき出た革バグとかですね、

難波
 革バグは入ってないよ。
永瀬
  わりと悪ふざけ云々よりはむしろ今の流れに通じるのは、この「ショッカー」という名前からもわかるように、そのへんから戦隊もの・特撮系・アニメ系・マンガ系やなんかの同好の連中の人脈がのちに分かれている。そこから二人くらいの人間関係をおいたところが、米澤嘉博さん率いる系統で、ここからコミケットが始まってるんですよね。 ですから、コミケが始まったあたりの77、8年くらいっていうのは、さっきも言ったように、まだあの段階で僕らの仲間っていうのは全員がほとんど顔見知りっていう状態。怪獣博士の池田憲章氏もそうですが、アニメファン、特撮ファン、SFファンっていうのが若い世代としてみんなごっちゃになって出てきて、そこから枝分かれしていったんですよね。
  実は、専門学校で教えてるんですけど、何年か前、学校の授業中にコミケットの話をしましてね。その中に同人誌をセミプロ的に出している女の子がいて、授業おわったあとで言うことにゃ、「先生みたいな人にあまり自分たちのところを覗いて欲しくない」。で、「俺達がつくったんだ、バカヤロー!」(一同爆笑) 。

 

Session4 : おたくと永瀬とはどう違う

  永瀬 唯

 

司会

 そのあたりからつながって、第二章にある永瀬さんの紹介の一言目が「永瀬唯は筋金入りのSFおたくである」で始まるんですが、おたく論というあたりはどうでしょう。

 最近よく言われるのは「おたくと永瀬の違い」。(一同爆笑)

永瀬
 いやあ、おたくって言葉自身の定義するのは嫌いだから、一般にどういうふうに使われてどういうふうに意味が違ってきたかしか言わないんですけど。
  中森明夫のおたくとですね、宅八郎のおたくと岡田斗司夫のおたくというのは、それぞれが自分たちの商売も含めた計算で違ったように言っているんですね。だからうーむ、どうなんだろうね、じゃ、マニアとどう違うのか、サブカルとどう違うのか、カルチャー系の人とはどう違うのかとか、思ってしまうわけです 。

野阿
 前に米澤嘉博さんから聞いたんだけど。梶尾真治さんが日本SF大賞取った直後くらいのときに、梶真さん、地元で御祝いやったんですよ。米澤さんも熊本出身だから、同郷のとり・みきさんとか一杯集まったの。その2次会か何かで、米澤さんがね、「宅八郎というのはあれは、職業的な、つまり商売としてのおたくだ」って言ったんだよ。

 職業おたく。(場内爆笑)

野阿
 職業おたく、なんだけどさぁ、宅八郎はね。それで、米澤さんが言うには、「自分が知る限り真のおたくというのはチェリオのような――あ、いや、永瀬さんのような人のことを言うのだ」と(笑)。米澤さんが保証するんだから、これは確かだろうと私は思いましたね。

永瀬
 でも結局米澤くん、宅くんとつきあいないでしょ。宅八郎ってのは、本当にはやりだす前にキッチュ趣味をオタクの名前で出してきた男なんですよ。のちのディープ系の趣味あたりをおたくのキャッチフレーズで売り出そうとしてて。だから、<SPA!>での連載コラムの第一回が勝新なんですよ。で、彼は、HAMANACONのスタッフもやっていたりして、一応コンヴェンションっていうかファンダム関係の出身でございますけれども。

司会
あのう、宅八郎が、ですか?
 

  そう。<東海SFの会>の会員。

司会
 あー、そうなんですか。全然知りませんでした。

野阿
 エライ人だって言いたいのかなぁ(笑)

難波
 永瀬さんはやっぱりあれですよ、人のうちに電話してくるのはいいんだけど、『あ・じゃぱん!』面 白いぞって、それから一時間美味しいところを全部ネタ話しちゃって。(一同爆笑)

永瀬
 ずいぶん前の話じゃないですかっ。

難波
 でもあれじゃあさあ、正直、後追いって感じだったんだよね〜。(爆笑)

野阿
 なんか、既視感あるなぁ(笑)

司会
 論争史の方の話題に戻りますが(一同爆笑)永瀬さんの稿は非常に面 白い構成になっていまして、「真夜中通りのジュール・ヴェルヌ」というブルース・スターリングの文章を永瀬さんが訳したのがまず載っている。で、これ自体が非常に論争的で、君たちはジュール・ヴェルヌのことをこうだと思っているけど本当はこうなんだよ、かっこいいんだよ、ということをずーっと書いてあって、で、その次の訳者解説が永瀬さんのものなんですが、ブルース・スターリングのこの文章がいかに格好悪いかということが、微に入り細を穿って、実例を上げて詳細に書いてあるのが非常に清々しくてですね。

永瀬
 いや、これは同志への建設的な批評ですね。(場内爆笑)

野阿
 あなた、スターリング好きなんだよね。

永瀬
 うん。いい加減さも好きなんだけどね。

野阿
 いや、ギブスンとさあ、スターリングだったら、やっぱり皆、普通 ギブスンの方へ行くだろうと思うんだけど。

永瀬
 小説はもちろんギブスンの方が好きに決まってる。

野阿
 いや、だけど、心情的にはあなたはどっちかっていうとスターリングに行っちゃうんだよ。何でかな、私はちょっとわかんないんだけど――まあ、いいけどさ(笑)。

永瀬
 実は、巽さんの本に並べていただいて、ジュール・ヴェルヌとかハインラインとか、何となく神棚に祭り上げてそのままにしておきたいっていうものを読み直すというのがわりと趣味なもんですから、こういった格好になったんですけれども。

司会
 あの、もう一つ収録されている「スペキュレイティヴ・アメリカ−スペキュレイティヴ・フィクションの父ハインラインとアメリカ保守の思想」というのも非常に内容が面 白かったんですが。

野阿
 これは梅原克文に対するアレなんだよな――。

永瀬
 今、自分で言おうと思ってたとこなのに。(場内爆笑)
  一言も書いてないけど、読んで笑ったな、みたい 。(場内爆笑)

永瀬
 一言も書いてないけど、読んで笑ったな、みたいな。

野阿
 読んだら誰だってわかるんだよ(笑)。

小谷
 その辺の経緯、説明してよ。

 これが発表されたのは、クズ論争の渦中で――。

永瀬
 クズ論争の渦中で、梅原克文先生が……。

野阿
 イヤミだよなぁ〜、その先生っちゅうのが(笑)、すでに。

永瀬
 乱入されてですねえ、で、「バラードはスペキュレイティヴ・フィクションなどという格好でSFを高尚仕立てで偉そうにしたからいけないんだ」みたいなことをおっしゃられたので、スペキュレイティヴ・フィクションっていう言葉はハインラインが考えついたんだよ、と指摘したんだというのが裏の話ですよね。

野阿
 永瀬氏の説は、梅原克文っていうのは、彼がリソースとしていると主張するヴェルヌだけじゃく、他にもいろんな源流があるんだよっていうものだった。そのなかには梅原先生のお嫌いなバラードの「沈黙の遺伝子」にしてからが、梅原作品の源流にすでになっているものまである。だから「あんただっていろんな人の、過去のリソースの上に乗ってんだよ」って非常に論理立てて梅原先生に反証したことになるんだが、その結果 、梅原克文先生が何とおっしゃったかというと、「そんなバカなことはない、だって俺はバラード読んでないもん」って言ったんで(一同爆笑)。 この人(永瀬氏)はだいたい一日くらい脱力したらしいですよ 。(爆笑)

永瀬
 で、梅原先生はバラードがSFをダメにしたとおっしゃってるんですよね。

野阿
 だけど、ダメにしたっていうやつを本人が読んでないのは(笑)。

永瀬
 <SFマガジン>に再録されたバラードのニューウェーヴ宣言「内宇宙への道はどれか?」は読んだらしいんだ。だから、梅原説ってのは、梅原克文っていう作家を、<SFマガジン>への投書だけで、こりゃ駄 目だって評価するってのと同じになっちゃうわけね。

野阿
 じゃあ、何で評価するんだよ(笑)。『カムナビ』か?

永瀬
 『二重螺旋の悪魔』に決まってるじゃないですか。個人的なやつで言ったらあれは五つ星ですから。

野阿
 じゃあ『カムナビ』は?。

永瀬
 ……。

小谷
 なんで沈黙すんのよ。

野阿
 だいたい<WinPC>誌か何かにぼろっくそに書いてるんだし、それをネットにも配信したら、もう絶句することもないと思うのに。

永瀬
 あれは作品の評価とは別ですよ。

司会
 そろそろ野阿さんの・・・

野阿
 なんで、私なのっ!(笑)

司会
 時間がないんで、すいませんが。