ホークスよ、安らかに眠れ
『スペース・カウボーイ』評

宮尾大輔
(映画史家)

クリント・イーストウッドは、アカデミー作品賞を受賞することになった『許されざる者』を映画製作の師であるドン・シーゲルとセルジオ・レオーネに捧げた。それに対し、新作『スペースカウボーイ』は、イーストウッドのもう一人の師と言って もよかろう、古典的ハリウッド映画作家ハワード・ホークスへの鎮魂歌ではないだろ うか。いや、ラブレターと言うべきか。本編最後に感動的に流れるフランク・シナトラの歌声、「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」は、「別 の言葉で言えば、アイ・ラブ・ユー」なのだから。

前作『トゥルー・クライム』までのイーストウッド作品群のいたるところにホークスの影響が垣間見られたのは、多くの評論家が指摘する通 りである。が、本作には、 ホークスへのオマージュがこれまでにない明快な形で提示されている。

まず主題論。フランスの『カイエ・デュ・シネマ』誌の同人をはじめ、いわゆる作家主義を標榜する批評家たちは、ホークスが繰り返し追求したテーマの一つを、職業人集団のプロフェッショナリズムに求めてきた。極限の状況下でも冷静さ、優美さを失わない者たちを、ホークスは好んで描いたというのである。『遊星よりの物体X』(本作同様、東西冷戦をモチーフとしている)や、『リオ・ブラボー』に始まる西部劇三部作(『エル・ドラド』、『リオ・ロボ』)といった作品はその好例と言えるだろう。 『スペースカウボーイ』で執拗に強調されるのも、「チームプレイ」ということで ある。しかしながら、これまでのイーストウッドのスクリーン上のイメージ程、「チームプレイ」ということと結びつかないものも珍しい。例えば、『荒野の用心棒』に始まるマカロニ・ウエスタン三部作の名無しのガンマンも、ダーティー・ハリーも、イーストウッドが演じてきた男たちは皆一匹狼で、世間に疎まれながら孤独に引き金を弾 き、「悪」を倒したりしてきた。本作でイーストウッドが演じるNASAのエンジニアも、皆から、まさにそのイメージで見られている。お前は「チームプレイ」ができない奴だ、という台詞が実に三度に渡って、イーストウッドに投げかけられる。しかし、本編クライマックスでは、イーストウッドを含む四人の男たちが真のプロフェッショナリズムを発揮し、誰にも真似のできない「チームプレイ」を見せるのである。

これまでのイーストウッド作品ではイーストウッド一人が体現してきたキャラクター・イメージが、本作では四人の男たちに分散されているという事実も、本作が「チームプレイ」の主題を強調していることの一つの例と言えるだろう。まず、『ペイルライダー』等の「隠された過去を持つ牧師」という役柄がジェームス・ガーナー(TVシ リーズ『マーヴェリック』に、若きイーストウッドがゲスト出演して以来の共演となる)に与えられている。次に、若い女を虜にするという、多くのイーストウッド主演 作に見られる役柄は、初共演となるトミー・リー・ジョーンズに与えられている。そして、『許されざる者』始め、『目撃』や『トゥルー・クライム』に顕著だった、視力の衰えなど身体の老いを強調しつつも堂々と裸体を曝し、レディーキラーぶりを発 揮するという役柄は、『戦略大作戦』以来の共演となるドナルド・サザーランドに、与えられているのだ。

ホークスが追求したもう一つの主題は、身体的・社会的弱者が一花咲かせることで あると言われてきた。典型的な例は、『リオ・ブラボー』でジョン・ウェインの保安官に協力する老ガンマンや、アル中のディーン・マーティンであろう。言うまでもなく『スペースカウボーイ』の決定的なテーマは、『許されざる者』や『トゥルー・ クライム』と同様に、老いて死に行く者が、若き者のため、そして自らの過去に決着をつけるために最後の帰還を果 たすというものである。あるいは、『荒野のストレンジャー』や『ペイルライダー』に倣うならば、死者の帰還と言っても良いかもしれない。なぜなら、NASAに戻ってくる老いた四人がたびたび話題にする彼らと同世代 の元同僚たちはことごとく既に死んでいて、四人は、彼らを話題にしてしまったことについてきまり悪い顔を浮かべることしかできないからである。

老いのモチーフは、『スペースカウボーイ』の物語前半の訓練場面 でしつこくジ ョークとして繰り返される。最高なのは、『ライト(正しい)スタッフ』(映画化もされた宇宙飛行士たちの実話)ならぬ 「ライプ(老齢)スタッフ」という新聞見出しである!ここで特に思い出されるのは、ホークスの『エル・ドラド』である。その映画の中で、老いたジョン・ウェインとロバート・ミッチャムは、若いカウボーイを引き連れて最後の一仕事に向かう。しかし、よく訓練されているはずだった若者は、結局役に立たず、老いた二人が協力して使命を果 たす。本作のクライマックスもまた同様である。

今一つのホークスの主題として挙げられるのは、マスメディアの存在に意識的であることだろう。例えば、『ヒズ・ガール・フライデー』は抱腹絶倒の新聞メディア論 であった。『スペースカウボーイ』でも、メディアの寵児となった四人(可笑しいのは、本作の中で四人は深夜トーク番組「トゥナイト」ショウに出演し、司会のジェイ・レノと老人ジョークに興じるのだが、それと全く同じ行為を、四人は映画公開直 前にプロモーションのため出演した同番組で繰り返していた!)には、政治的最高権 力も手を出せなくなってしまうという、現代のメディア権力論が謳われるのだ。

次にジャンル論。まず何をおいても、『スペースカウボーイ』は航空映画である。 モノクロで始まる本編のオープニングでは、ギターの音色と雄大な西部の大空が突然、 轟音と共に、客席に飛び込んでくるかのような高速ロケット飛行機に引き裂かれる。 それ以後、我々観客は、飛行士たちと共に何度も大地を後にすることになる。そして、 四つの核弾頭を積んだロケットと共にトミー・リー・ジョーンズが月に向かって決死 の飛行を始め、好敵手のイーストウッドがこの事態を冷静に受け止めるとき、ホークスの傑作航空映画『コンドル』 が思い出されるのだ。その映画の中で、飛 行士リチャード・バーセルメスは悪天候の中ニトログリセリンを積んだ飛行を行うこ とを余儀なくされるのだが、プロの飛行士として好敵手のケーリー・グラントはこの 事態を冷酷なまでに冷静に受け止める。バーセルメスの恋人役のリタ・ヘイワースの涙が美しいこの映画であるが、『スペースカウボーイ』でも、トミー・リー・ジョー ンズの若き恋人役マルシア・ゲイ・ハーデンの涙が非常に印象的である。

また、タイトルが示す通り、『スペースカウボーイ』は西部劇の変奏でもある。 国内にフロンティアを失った米国の、冷戦時代以来の新しいフロンティアが宇宙であるという事実も、それを裏付ける。では、本作の物語が始まる1958年とは、どういう年なのであろうか。それは、イーストウッドがTV西部劇シリーズ『ローハイド』 への出演が決まった年であり、また、『真昼の決闘』の「脚本の図式性と悪の魅惑に対する愚鈍さ」(蓮実重彦)に憤ったホークスが渾身の西部劇『リオ・ブラボー』を製作した年である。イーストウッドは『許されざる者』公開時のインタビューで、自分が最初に出会った映画監督がハワード・ホークスであったことを明らかにしている。 それは、ホークスが所有する馬の群れが逃げ出した時、若きイーストウッドがそれを捕まえた時だったという。このインタビューから伺い知ることができるのは、イーストウッドにとって、ホークスはまず何よりも西部の男であり、西部劇の監督だったということである。そして1958年という年は、イーストウッドにとってもホークスにとっても、西部劇を巡って重要な意味を持つ年であったということだ。  

他方、『スペースカウボーイ』の前半は、『ラブリー・オールドメン』のような老人喜劇でもあり、後半は『アルマゲドン』のようなSFアクション・メロドラマでもある。こうした、あるジャンルから別 のジャンルへの軽々とした横断は、その多ジャンルに渡るフィルモグラフィーが示す通 り、まさにホークスが得意とした身振りだと言えるかもしれ ない。

トミー・リー・ジョーンズが演じるパイロットは何という名前だったか。そう、ホークである。ホーク(ス)は月に眠り、イーストウッドは未だ地上に残り、映画を作り続ける。では、今なぜイーストウッドにとってホークスが重要なのだろうか。それを 説明するのは容易なことではないが、一つには、ホークスが映画においてドラマ、物 語を語ることを重視していたことを、イーストウッドが高く評価してのではなかろうか。ホークスの映画では、カメラワークは自己主張し過ぎることなく、なるだけ透明に、ただ物語を語ることに奉仕する。これはイーストウッドの作品群にもあてはまることである。物語を語らず、ドラマを作ることをおろそかにし、ひたすらCGやカメラ・ テクニックを駆使するだけで視覚的スペクタクルを濫造する現在のハリウッド大作への批判。それが、イーストウッドとホークスを結び付けるのではないか。勿論、本作 でイーストウッドはCGを用いてはいる。しかし一方でイーストウッド演じる老エンジ ニアは、「ファック、コンピューター!」と悪態をついてもいるのだ。