1. 西洋哲学倫理学史
  2. 諸特殊哲学
  3. 倫理学
  4. 美学美術史学
  5. 社会学
  6. 社会心理学
    (およびコミュニケーション研究)
  7. 文化人類学
  8. 日本研究(民俗学)
  9. 心理学
  10. 教育学
  11. 人間科学

行為の哲学

我々は人の行為を誉めたり,責めたり,恨んだりする.又,人の行為が分らぬと嘆いたり,感動してそれと与しようとしたりする.しかし,こういう我々の態度には根拠があるのか,行為とは一体何なのか? 事象であるのか,事象の性格であるのか? もし事象であるなら,他の出来事と本質的に違うのか? そして行為の説明は,他の出来事の説明と違う種類のものなのか.行為について現代哲学者が問題としていることを考えて頂くわけだが,過去の哲学者の著作にも教えられることが多々ある.年によって違う教材を用いたい.先ず問題設定をしてくれる現代の著作の中から選ぶ.外国のものは,訳のある場合和訳でお読みになって結構だが,時折訳に気を付ける必要がある.

これは1985年の放送大学の教材として出たが,昨年,勁草書房から再版が出ている.行為に関する哲学的問題を適切にまとめてあり,論議のみならず,参考文献のリストも良い.

この大変影響のあった小さい名著はPaperbackで手頃な値段でも出ているのと,次の和訳も出ているので便利だ.『インテンション』菅豊彦訳,産業図書,1984.

これは正反対の立場に立つ2人の哲学者が交互に書くという形の本.次の和訳がある.『意識と因果性』黒崎 宏訳,産業図書,1986

この論文集は多くの論議を醸した著名な論文を幾つも含み,paperbackで出しているし,和訳がある.『行為と出来事』服部裕幸・柴田正良訳,勁草書房,1990.

この論文集は現代の行為論の論議のみならず行為と善とか,ソクラテス,ヘーゲル,現象学の祖ブレンターノ,神学者バルト等,一連の過去の思考家とも関係づけて論じていて便利である.

この論文集も深い洞察を示す.特に序章 根拠から原因へ,第三章 ヒトと動物の境,第六章 意識・言語・行為,第八章 志向性と因果等.

これはヘーゲル及び分析哲学に就いて優れた仕事をした哲学者が,人間理解は自然科学のモデルでは出来ぬと説く挑発的な論文集.

過去の古典の中からごく一部をあげてみる.

これは一冊が 10 巻よりなり, 2 巻と 3 巻が行為と関係し, 特に三巻一章の本意の行為と不本意の行為は幾つかの現代の行為論の出発点とも云える.

和訳『哲学探究』ウイトゲンシュタイン全集8巻,大修館,1976(第一部588章~693章及び第二部).これは意図と行為,理由と原因などに関する現代の多くの論議の源泉である.

M. Merleau-Ponty, Structure de Comportement, Presse Universitaire de France, 1942, 2° edit. 1949. 現象学と実験心理学に通じた著者による振舞い,知覚,意味などにかかわる行為論.『行動の構造』滝浦・木田訳,みすず書房, 1964.  (石黒ひで)

知識の哲学

知るとはどういうことなのか,という問題に近づく方法はさまざまあり,それによって推される著作もかなり違うと思われる.私も年によって,異る著作を選び違う角度から近づきたい.先ず,古典の中から,我々のこの問題についての考えをゆさぶり,或は後の哲学に多く残したと見られるものを幾つかあげ,手頃な版がある場合はそれを選んだ.次いで現代書かれたものの中から,深い洞察力があるのみならず,我々を刺激し考えさせる所が多いものを少し選びたい.和訳の存在にも影響され,恣意的な要素をまぬがれぬ選択である.

まだ和訳のない最近出たものの中で新鮮で刺激的なのを一つ選んでみた.

又,情報科学と知識の哲学の関係に興味のある方には

が役に立つかもしれない.日本で出版された本で問題提起として刺激的なものとして

などがある. (石黒ひで)

科学哲学を知るための私的な文献案内

「科学哲学」という用語に何とはなく違和感をもち,できるならば敬遠したいという諸君が多いことだろう.だが,実のところは食わず嫌いで,科学哲学についての偏見から近寄ろうとしない者が意外と多いのである.私自身はすべての学生諸君に是非とも科学哲学に興味をもち,学んでほしいという啓蒙精神を人一倍もっているわけではない.しかし,科学哲学に対する偏見を取り除き,最低限の常識はもってほしいという老婆心は持ち合せている.そこで,この老婆心を満足させるような私流の科学哲学に対する文献案内を考えてみた.

したがって,これは科学哲学者になるための完全な文献紹介ではなく,(翻訳を含め)日本語で読めるものを中心に考えた,あくまで科学哲学を知るための入門的な案内である.そのため,科学哲学のすべての分野がカバーされるには程遠いものになっている.ここでの私の目標は二つある.まず第一の目標は,科学哲学に不案内の 2, 3 年生の学生諸君がどのような文献をもとに勉強していけば,科学哲学嫌いにならずに一通りの知識を身につけることができるか,にある.第二の目標は 3, 4 年生,大学院修士1年生でさらに科学哲学を学びたい諸君への文献の案内である.といっても,それで卒業論文や大学院での研究に必要十分な文献案内というわけではない.あくまでも入門から一歩を踏み出すための手掛かりである.これらの目標の実現のために,文献の数よりは文献の選び方,読み方に重点を置いて出来るだけ具体的に述べてみることにする.

(1)興味のタネ

「科学」哲学であるから,当然科学,それも代表的な自然科学と密接な関係がある.だから,自然科学を知らないひとにとって科学哲学は鬼門である.このような断定が常識的な見解であると同時に,実は科学哲学に対する偏見の始まりなのである.世界や人間に関してきちんとした知識をもっていなくとも哲学はできる.むしろ,私たち人間がきちんとした知識をもっていないからこそ哲学があるのである.科学的な知識がなければ科学哲学ができないのではなく,科学的な知識が十分にないからこそ,その不十分な点について科学哲学ができるのである.とはいうものの,自然科学のどれかに関する興味や関心,そして知識をもっていることに越したことはないであろう.では,それらをどのようにして手に入れたらよいのだろうか.

1.1 科学雑誌,科学読物等に興味を探ること

最近は多くの雑誌や啓蒙的な読物が れている.『サイエンス』,『科学』,『科学朝日』,『数理科学』,『パリティ』といった月刊誌は代表的な雑誌である.さらに,多くの新書や文庫本が毎月でている.これら定期的なもの以外にも科学読物は意外と多く出版されている.さらに,「科学」という語がその意味を変えつつある現在,コンピュータ,言語といった分野への関心も高まってきている.とにかく,図書館や大きな書店の科学の書棚を好奇心を持って覗いてみることである.予想外に面白いものが見つかるかもしれない.自分で見つけたものは人から教えられたものよりはるかに強い印象と影響を与えてくれるものである.また,最近ではテレビの科学番組も無視できない.優れた映像の科学番組が増えている.

1.2 まとまった知識

これは専門の授業をうけるのが一番いいのであろうが,三田キャンパスではなかなかできない.そこで考えられるのが,専門のテキストを読むということである.だが,これを全く独学でやろうとすると失敗するケースが多い(特に,数学や物理学).教師に相談するのが得策であるし,読む場合には一人ではなく何人かで読むほうが無難であろう.ただ,最近は教科書に工夫がされ,系統的な勉強ができるようになってきている.また,入門に重点を置いた講座物も多く出版されている.例えば,岩波の『物理入門コース』(全10巻).また,原典を読みたいひとは,中央公論社の『世界の名著』シリーズがよいだろう.このシリーズには科学者の著作が意外と多い.さらに,翻訳で定評あるテキストも多く出ている.例えば,ワトソンの『遺伝子の分子生物学』,フツイマの『進化生物学』,グライナーの『グライナー量子力学』,ファインマンらの『ファインマン物理学』.ただし,いずれもじっくり時間をかけて読まねばならないし,多くの疑問に遭遇することを覚悟せねばならない.やはり大変なのかと思う人には,無味乾燥に見える物理学の分野から次のような異色のものを紹介しておこう.

1.3 科学史

科学哲学の文献を読んでいると科学史の知識が必要な場合が多い.科学の営みを特徴づけるための例や証拠として科学史が格好の材料になるからである.科学史に関する文献は近年増大しているが,それらをすべて読む必要はないだろうし,また読む時間もないだろう.自分の関心に合わせて選択することになるが,これが結構大変である.特定の関心が定まっておらず,その関心を惹起する程度というのであれば,科学者個人の自伝や回想が手頃なものとなろう.関心が少しは輪郭をもっている場合には,分野別の科学史,ある時代の横断的な科学史,国別,地域別の科学史が有効になってくる.

このように科学史の文献は目的に応じて選択されるので,一覧表をつくることはできないが,手始めに読みやすいものを選ぶとすれば次のようなものが浮かんでくる.(以後の日本語の文献の発行年は翻訳の発行年である.また,日本人以外の著者のファーストネームは省略した.)

これらはほんの一部に過ぎないが,科学や科学者について興沢深い示唆を数多く与えてくれよう.これらのものは読んで感心するだけでは効果が薄いが,教科書にない何か(例えば,概念や理論の裏側,思考方法,そしてそれらの変遷)を与えてくれ,それが刺激になって興味が増せばしめたものである.

(2)科学哲学入門

科学哲学というと科学的な哲学という理解の仕方もあるようだが,ここでの科学哲学とは一応「科学に関する哲学」と了解しておこう.論理実証主義からスタートする哲学の流れを十分理解しようとしたら,必要な文献を原典で読むことが当然ということになろうが,これはすぐにはなかなか困難である.では科学哲学の歴史をということになるが,史的に語るにはまだ十分に時間が経過していない.その上,科学哲学という分野が意識されて出来上がったわけではないにしても,今世紀の哲学の特徴を表わすものであるから,今世紀の哲学そのものを部分的にであれ理解することがどうしても必要になってくる.したがって,文献も今世紀の哲学のなかから科学哲学に関係するものを選び出すということになろう.

私なりにまず一般的なものを列挙してみよう.

論理実証主義,分析哲学の精神を発展させたものとして,

(これは日本の戦後の科学哲学の出発点を宣言したもので,その影響は大きい.)また,培風館の「哲学の世界」シリーズ(Foundation of Philosophy Series の翻訳)は入門コースと銘打ってあるが,科学哲学に関係するものが多く,アメリカの1970年頃までの科学哲学を知るには便利であろう.

『科学と哲学』を除いてはいずれもシリーズになっており,一気に読了するには分量も内容も手に余るであろうし,またその必要もないであろう.しかし,多くの書き手の主張のなかに時代精神を読み取ることができる点に注目したい.

この節のタイトルは「科学哲学入門」であるが,以下に挙げる文献は入門として書かれたものでは決してない.内容を理解するためにはいずれもなにがしかの予備知識が必要となる.しかし,それではいつまでたっても本論に入れないので,まずは文献を列挙し,入門は後回しにすることにしよう.

ここまで挙げてくるとうんざりという向きもあろうが,以上が日本語で読めるごく基本的なものといってよいだろう.いずれもつい最近のものというわけではないが,内容について知っていないと困るものである.これらのものをいきなり読み出すのに不安をもつ者は次の本で全体の動向を知った上でも遅くはない.

これで十分というわけではなく,理解するために必要なものがいま一つある.科学の知識や歴史のほかに論理学の知識が必要である.科学哲学と論理学が結びつく理由があるかないかは別にして,歴史的な経緯は結びついて研究されてきた.そのため,多くの文献では論理学の知識が既知のものとして使われてきている.論理学の知識は知っていないと不便という意味で是非必要であろう.論理学そのものを本格的に理解しようとすれば,そのための手順がいるが,手頃なものとして,

がある.さらに,数学基礎論も同様によく言及されるので,その知識も手に入れたいという向きには,

が分かり易いであろう.

さらに,読む文献に応じて必要になる知識は異なるが,今迄述べてきたどの文献にも要求されるのは,科学に対する興味とある程度の常識である.読み進みながら,自分に欠けているものを必ず感じるであろう.不消化のまま進んでも苦痛しか残らないから,欠けているものを補う努力が必要である.その一番の近道は教師に聞くことである.だが,一人で努力することも忘れてはならない.努力に要する時間は浪費ではなく,それに見合ったものをもたらしてくれる筈である.

(3)入門後欲の出た人のために

既に書いた文献は決して入門書ではない.したがって,読むのに時間がかかるし,すべてを読まなければ科学哲学が理解できないというものでもない.恐らく,二,三冊で科学哲学の手法や精神がおぼろげながらわかるであろう.それで興味を感じたらさらに読み進めばよい.しかし,それぞれの文献は科学哲学のすべての分野にわたって叙述してあるわけではない.ほとんどのものは特定の主題や分野に関するものである.既に自分の関心の決まっているひとはその関心の主題に合った文献を,まだ決まっていないひとは手頃な文献をまず読み出してみることである.

それで欲の出たひとはごく最近の自然科学に関する哲学の問題は何だろうかという疑問をもつことだろう.無論,それぞれの関心領域で多くの面白い問題があるが,基本的な問題を扱ったものの例を挙げておこう.

この辺まで読んでこられたひとは容易に気がつくように,日本の哲学者の書いたものはほとんど挙げていない.日本の哲学者が何も書いていないというわけでは決してない.実際,多くの優れた文献がある.ただ,研究書が圧倒的に多いのである.日本の哲学者の文献は書店や図書館で比較的容易に見出せるであろうし,それこそ教師に聞けば,読みたい文献ばかりか,著者についての詳しい情報も得られるであろう.

では,学術雑誌はどうなのかと思うひともいるであろう.科学哲学にもっぱら関係する学会は,現在日本には科学基礎論学会と日本科学哲学会がある.それぞれの機関誌である,『科学基礎論研究』,『科学哲学』は研究論文が多く掲載されているから,目を通して最近の動向を垣間見るのもよいだろう.

また,外国語の文献も挙げていない.他の哲学のテキストに比べれば科学哲学の外国語の文献は比較的読みやすい.だから挙げていないというわけではないが,次の点をわきまえた上で,原点講読や研究会で教師から具体的に話を聞いたほうがよいだろう.

  1. テキストを丹念に読むことで,表現から内容を読み取る訓練をする.
  2. 結論のみでなく,論証のプロセスを追い,議論の仕方を学ぶ.

外国語の文献を読みこなす近道はないが,一冊精読し,他は多読,乱読という方法が意外と効果的である.

さて哲学の雑誌は三田の図書館の3階に置かれている.科学哲学に関係する雑誌の数は予想外に多い.主なものを以下に挙げておくが,どのようなものか実物を自分の眼で確かめておくのも科学哲学を知るのに意外と役に立つのである.

(一般的なもの)
(科学哲学)

このほかにも論理学,言語学,認知科学の分野の雑誌が随分あるので,それらも眺めておくとよいであろう.

以上が 2, 3 年生への入門文献と案内である.といっても,最後の専門雑誌がすぐに理解できるようになるというわけではない.そこでこれら専門誌を理解するためにも,3, 4 年生,大学院の修士の諸君を対象にした文献を挙げてみよう.

(4)科学哲学に没頭してみたい人のために

自分の関心に忠実にその分野に踏み込んでいけばよいのであるが,それでも事前に教師に尋ねるのが得策である.関心になっている問題が現在どのような状況にあるかを大まかに把握しておかないと,思わぬ迷路に入り込んでしまうからである.ここでは個別の案内は出来ないので,科学哲学とその周辺部分について,哲学者から関心を持たれてきた文献を挙げておきたい.科学哲学とその周辺部分といってもはっきり分離できるわけではないので,題名から科学哲学らしからぬものも入っている.あくまでも私の主観的な選択である.単行本になっていない重要な論文も数多くあるが,ここでは単行本になっているもののみを挙げておく.

(シリーズになっているもの)
(ed.) G. Floistad, Contemporary Philosophy vol. 1-6, 1981-1990.
(今世紀の哲学の主要な問題が集められている)
Studies in Logic and The Foundation of Mathematics, North-Holland.
(現在も続いている論理学,数学基礎論を中心とするシリーズ)
(ed.) Robert Cohen, Boston Studies in the Philosophy of Science, Reidel.
(現在も続いている科学哲学を中心とするシリーズ)
(ed.) C. Wade Savage, Minnesota Studies in the Philosophy of Science.
(Boston Studies に対抗する科学哲学のシリーズ)
(単行本)
  • Michael Dummett, Frege and the Philosophy of Language, Harper and Row, 1973.
  • Michael Dummett, Truth and Other Enigmas, Harvard Univ. Press, 1978.
  • (『真理という 』藤田晋吾抄訳,勁草書房)
  • Rudorf Carnap, The Logical Syntax of Language, Routledge and Kegan Paul, 1937.
  • (ed.) Paul A. Schilp, The Philosophy of Rudolf Carnap, Open Court, 1963.
  • J. L. Austin, Sense and Sensibilia, Oxford Univ. Press, 1962.
  • (『知覚の言語』丹治,守屋訳,勁草書房)
  • Peter Strawson, Individuals, Methuen, 1959.
  • (『個体と主語』中村秀吉訳,みすず書房)
  • Pierre Duhem, Theorie Physique, son object et sa structure, 1914.
  • (英訳 The Aim and Structure of Physical Theory, Atheneum, 1962.『科学理論の目的と構造』小林他訳,勁草書房)
  • Michael Polanyi, Personal Knowledge, Univ. of Chicago Press, 1957.
  • (『個人的知識』長尾史郎訳,ハーベスト社)
  • A. Newell and H. Simon, Human Problem Solving, Prentice-Hall, 1972.
  • Larry Laudan, Progress and its Problems, Univ. of California Press, 1977.
  • Richard Rorty, Philosophy and the Mirror of Nature, Princeton Univ. Press, 1979.
  • Nelson Goodman, Ways of Worldmaking, Hackett, 1978.
  • Clark Glymour, Theory and Evidence, Princeton Univ. Press, 1980.
  • Alvin Goldman, Epistemology and Cognition, Harvard Univ. Press, 1986.
  • David Hull, Science as a Process, The Univ. of Chicago Press, 1988.
  • Richard Gregory, Mind in Science, Penguin Books, 1981.
  • Roger Penrose, The Emperor's New Mind: Concerning Computers, Minds, and the Laws of Physics, Oxford Univ. Press, 1989.
  • David Hodgson, The Mind Matters, Clarendon Press, 1991.
  • W. V. Quine, The Ways of Paradox, Random House, 1966.
  • Hilary Putnam, Philosophical Papers, vol. 1-3, Cambridge Univ. Press, 1985.
  • Hilary Putnam, Representation and Reality The MIT Press, 1988.
  • John Searle, Intentionality, Cambridge Univ. Press, 1983.
  • Donald Davidson, Inquiries into Truth and Interpretation, Oxford Univ. Press, 1984.
  • (『真理と解釈』野本他訳,勁草書房)
  • Saul Kripke, Naming and Necessity, Harvard Univ. Press, 1972.
  • (『名指しと必然性』八木沢,野家訳,産業図書)
  • David Lewis, Counterfactuals, Basil Blackwell, 1973.
  • Gilbert Harman, Thought, Princeton Univ. Press, 1973.
  • Richard Montague, Formal Philosophy, Yale Univ. Press, 1974.
  • Jerry A. Fodor, The Language of Thought, Harvard Univ Press, 1975.
  • (eds.) Evans and McDowell, Truth and Meaning, Oxford Univ. Press, 1976.
  • Jon Barwise and John Perry, Situations and Attitudes, The MIT Press, 1976.
  • (『状況と態度』土屋他訳,勁草書房)
  • Paul Churchland, Scientific Realism and the Plasticity of Mind, Cambridge Univ. Press, 1979.
  • (『心の可塑性と実在論』村上他訳,紀伊國屋書店)
  • Fred Dretske, Knowledge and the Flow of Information, The MIT Press, 1981.
  • Daniel Dennett, The Intentional Stance, The MIT Press, 1987.
  • Paul Grice, Studies in the Way of Words, Harvard Univ. Press, 1989.
  • このところの科学哲学の一般的な傾向として,従来の物理学を基本とした科学哲学がその射程範囲を広げて言語や認識の分野に進出してきたと言えないこともなかろう.それも,言語や認識を自然科学的,認知科学的に扱うという方向が比較的鮮明に見て取れるのである.上記の文献はそのような傾向を意識して選んである.

    最後に次の一見相反する文を付け加えて,諸君の学習の成果を心から期待したい.

    文献で哲学するのではなく,哲学するのは人間である.

    哲学するのは人間であるが,それには文献が必要である.

    (西脇与作)

    宗教の哲学

    1. 分析的宗教哲学の形成

    現代における宗教哲学の発展は〈言語分析〉linguistic analysis という現代の哲学運動の内部で起きたものである.これは1900年以降におけるイギリス哲学,あるいは1940年以降のアメリカ哲学の一般的傾向,あるいは一つの方向をさすのであって,けっして哲学における一つの学派をいうのではない.言語分析に従事する哲学者たちに共通なものは哲学的な方法(method)ではあっても,哲学的な理論(doctrine)ではないからである.こうした経緯を知るためには,次の文献が役に立つ.

    分析としての哲学運動は,一般に〈論理経験主義〉logical empiricism といわれる.〈論理(的)〉logicalといわれるのは,ラッセルやフレーゲによる論理研究の成果をふまえて言語的表現の正確さや精密さを追求し,言語の意味を問題にするからであり,また〈経験主義〉empiricismといわれるのは,知識の真理性の基準を感覚的経験におき,この経験との関係において,文あるいは言明の事実的,あるいは認知的な意味を求めようとするからである.したがって,この立場において哲学するとは,神仏とか,精神とか,霊魂とか,実体というような超越的な存在物を要請して超科学的に諸物を説明することではなく,科学と良識とをもって諸物をいかに思考するかに ついて思考すること,つまり〈思考の思考〉thinking about thinking という,メタの立場からする〈二次的活動〉second-order activity を行なうことになる.現代における言語分析の化身ともいわれるウィトゲンシュタインは,あの「アフォリズムの集積」といわれ,あるいは「一種の哲学的詞華集」として知られる『論理哲学論考』の中で,哲学の成果を問題にして,「哲学的な諸命題を得ることが哲学の成果ではない.それらの命題を明晰にすることが哲学の成果なのだ」と明言している.「命題を明晰にする」とは命題の意味を問い,命題の意味を明らかにする,ということである.この引用は,次の典拠によるが,ウィトゲンシュタインについては,全集の邦訳があるので,これを利用するとよい.

    L. Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus(奥 雅博訳『論理哲学論考』4. 112 ウィトゲンシュタイン全集 第1巻 大修館).さらに,山本 信・黒崎 宏編『ウィトゲンシュタイン小事典』(大修館,1987年)も役に立つ.

    ウィトゲンシュタインの哲学的態度と方法を受け継ぎ,これを発展させたのは論理実証主義であった.それはあらゆる形式の形而上学を攻撃し,伝統的なほとんどあるゆる哲学的研究を批判した.そして,哲学は論理学と自然科学だけを論じるべきだとする確信から,哲学を「科学の哲学」に還元しようとした.つまり,正しい知識とは,必然的に真であって偽とはなりえないような論理学や数学のアプリオリな真理と,経験的な世界を吟味することによって真偽が経験的に決定されるようなエンピリカルな真理との二種類に限定されると考えたのである.この考えに基づいて,〈意味の検証原理〉verification principle for meaning がたてられた.「命題の意味は検証の方法によって与えられる」という意味基準がそれである.この基準に従えば,ハイデガーの「無が存在する」という命題も,キリスト教の神のような「神の存在」に関する命題も,ともに検証不可能な,それゆえに無意味な命題であるといわれる.「無」とか「神」とかは,形而上学的な用語における「無」とか「神」とかであって,そうしたものが存在すると述べることは真偽決定の不可能な,まがいものの命題を述べることにほかならないからである.こうした一連の議論については,次の文献を参考にするとよい.

    A. J. Ayer, Language, Truth and Logic, London, 1936.(吉田夏彦訳『言語・真理・論理』岩波書店).さらに,カルナップの論文「言語の論理分析による形而上学の克服」(永井成男他共編訳『カルナップ哲学論集』紀伊国屋書店 所収)にも,エイヤーと同じ立場が表明されているので,同論文も参考にするとよい.

    有意味な語らいの領域を「検証原理」のおよぶ範囲に限るとすれば,われわれはただちに困難を引き込むことになる.なぜなら,われわれはいつでも検証(あるいは反証)可能な,事実的な内容を持つ断定だけを行なっているわけではないからである.われわれは論理実証主義者たちが考えたものよりもっと豊かで,もっと多様な言語生活を営んでいる.物のあらわれを記述するだけでなく,これを評価したり,出来事について思考をめぐらし感想を述べたり,感謝したり,呪ったり,讃美したり,祈ったり……という具合に,ことばとことばの使用は豊かで,多様性に富んでいるのである.こうした点に反省を加え,『論理哲学論考』の著者と論理実証主義者たちの思想を鋭く批判したのは,当のウィトゲンシュタイン自身であった.論理実証主義者が意味基準を検証原理に求めたのに対し,後期ウィトゲンシュタインはそれを厳しく批判して,かれの後期思想を代表する著作,『哲学探究』の中に新しい意味基準を明示した.それは〈意味の使用原理〉use principle for meaning といわれ,「命題の意味はその使用によって与えられる」という意味基準である.これによって,有意味な語らいの領域が倫理道徳や宗教にまでもおよび,分析としての哲学運動には大きな展開がみられるようになったのである.上に述べた後期ウィトゲンシュタインの思想については,次の文献が参考になる.

    L. Wittgenstein, Philosophical Investigations(藤本隆志訳『哲学探究』43, 340, 353, 559, 560. ウィトゲンシュタイン全集 第8巻 大修館).Garth Hallett, S. J., Wittgenstein's Definition of Meaning as Use, Fordham, 1967; Dallas M. High, Language, Person and Belief: Studies in Wittgenstein's Philosophical Investigations and Religious Uses of Language, Oxford, 1967; Alan Keightley, Wittgenstein, Grammar and God, Epworth Press, 1976.(星川啓慈訳『ウィトゲンシュタイン・文法・神』法蔵館).Patrick Sherry, Religion, Truth and Language-Games, Macmillan, 1977.

    分析の方向が倫理道徳のことば,宗教のことばを含む日常言語の分析におよぶに至って,哲学と宗教の間には新たな交通が開かれることになった.というのは,哲学的分析が人間の使用するあらゆることばの形式を分析して,その形式に特有な論理の発見に向かうことになったので,宗教との対話の共通の基盤とも言うべきものが求められるようになったからである.この種の真摯な,誠実な,知的な対話は,次に示すいくつかの論文集において展開されているが,そのなかで最も重要なことは,この「分析としての哲学」と宗教(特にここではキリスト教)との対話を通じて,現代における分析的宗教哲学の形成は行なわれていった,という事実である.

    Antony Flew & Alasdair MacIntyre (eds.), New Essays in Philosophical Theology, London: SCM, 1955; Basil Mitchell (ed.), Faith and Logic: Oxford Essays in Philosophical Theology, London: George Allen & Unwin, 1957; Alasdair MacIntyre & Ronald Gregor Smith (eds.), Metaphysical Beliefs: Three Essays, London: SCM, 1957. これらの論文集に言及している私の二つの論文「キリスト教と分析哲学」(『教義学論座』第3巻 日本基督教団出版局,1973年),「現代の宗教哲学」(『宗教の哲学』現代哲学選書第11巻 北樹出版,1989年)も参考になるだろう.

    2. 宗教言語と意味

    宗教言語の問題は日常言語の宗教的使用から生じるという見解があるが,そこには日常言語に対する一つの仮定がこめられている.それは,言語は事実なり事態なりを記述している場合に限り有意味であるうる,という仮定である.しかし,このような仮定に基づく言語観は現代の分析哲学者たちによって〈記述主義の誤り〉descriptivist fallacy として退けられることになった.というのは,言語は機能上,記述的なものに限られないからである.現代イギリスの日常言語学派に属する言語分析哲学者,オースティンは,1930年代における論理実証主義の有意味性をめぐる議論や,その影響下に展開されたエイヤーの見解などを「不幸な独断による定式化」と非難して,いわゆる〈行為遂行的〉performativeといわれる日常言語の有意味な使用を明示した.この考えは,後期ウィトゲンシュタインの〈使用としての意味〉meaning as use という考えと深く結びついて,宗教言語の意味分析に大きな影響をもたらしている.以下に掲げるものはオースティンと,オースティンの影響をうけて宗教言語の意味分析を行なっている著書である.

    言語は機能上,記述的なものに限られないで,非記述的なものとしても広範囲にわたる機能を持たされている.〈行為遂行的〉

    performativeとか,〈評価的〉evaluativeとか,〈情動的〉emotiveとか,〈指令的〉prescriptiveとかの,多様な機能がある.そこで〈多元主義的な言語観〉pluralistic view of language が迎え入れられることになったのである.宗教言語の問題に対する非記述主義からのアプローチは,記述主義の直面する困難な問題,すなわち言明の真偽を決定する検証(あるいは反証)の問題を回避することができる.そして,このアプローチにおける主要な課題は,宗教の言明がどのような実践的性格を備えたものであるかを分析してみせる,ということにある.こうした課題に則して,宗教言語の分析を行なっているものには,次のような文献がある.

    この部分には同論文につづいて,三 の論評が所収されている.また,こ れ と は 別 の 論 評 と し て,

    の「宗教のことばの問題」の章をも参考にするとよい.さらに,

    ヘアーの分析に関しては,John Hick, Philosophy of Religion(『宗教の哲学』,前出)の「検証の問題」の章を参考にするとよい.

    しかしながら,ブレイスウェイトやヘアーによる宗教言語の意味分析は,いわゆる〈還元主義〉reductionismであり,そこには,宗教言語はその言語が独自な話題領域として存立しないことを示せば,それで解決されたことになる,という考えが含まれている.しかし,それでは宗教言語の問題の解決にはならない.というのは,還元主義は宗教言語のもつ自律性,つまり宗教言語が独自な話題領域として存立することを失わせてしまっているからである.したがって,宗教言語の意味分析における還元主義は,端 的 に 言 っ て,誤 り な の で あ る.私 は こ れ を〈還 元 主 義 の 誤 り〉reduc-tionist fallacy と表現しておきたい.これに関する文献としては,次の私の論文を参考にされたい.

    宗教言語の自律性を確定しようとする運動は,〈ウィトゲンシュタイニアン・フィデイズム〉Wittgensteinian fideism のなかに顕著にあらわされている.そこでは,宗教言語は特定の〈生活形式〉form of life に根差し,これを表現しているのであるから,この特定の「生活形式」にコミットする者だけが宗教言語の意味を正しく理解しうるのだ,といわれる.したがって,必要なことは信仰のことばで表現される「生活形式」の中へと回心することなのである.そうすれば信仰の外部にいたときには閉ざされていた意味が,その言語によって開かれたものになるのである.この種の強い主張は,次のような文献のなかに見ることができる.

    さらに,星川啓慈『ウィトゲンシュタインと宗教哲学--言語・宗教・コミットメント』(ヨルダン社,1989年),同『宗教者ウィトゲンシュタイン』(法蔵館,1990)も参考になる.

    3.〈何かを何かとして見る〉seeing-asと宗教的経験

    人であれ,物であれ,対象の存在を意識してこれを知るようになるのは,経験によるか,推論によるか,である.神認識の場合は,一般に,経験によるといわれる.神の存在が意識されるのは,神が生きたリアリティとして私の経験のなかに参入してくる,といわれるからである.そこで神は経験されたリアリティとして記述されるのである.しかし,物的環境や社会的環境をぬきにして,神的なるものが直接に,それ自体として,認識されることはないだろう.われわれの〈認知的経験〉cognitive experience は,物的世界の意識に媒介されて成り立つものだからである.そこでこの認知の働きの点から見ると,神認識はどのようなものとして理解されうるか,という問いが生じてくる.これは宗教認識論における重要な課題であり,その手がかりはウィトゲンシュタインの〈見る〉to see の分析に求めることができる.というのは,何かを〈見る〉to see ということは,それを何か〈として見る〉to see as ということであって,そこにはかならず解釈がともなわれている,ということを彼,ウィトゲンシュタインは明らかにしているからである.この分析をうけて,ヒックはこれをただ視覚の領域にとどめないで,統合的に機能する知覚の全器官によっても働くところの,〈何かを何かとして経験する〉experiencing-asという考えにまで拡大する.そして,信仰も人間の経験内における解釈的要素と同一視しうる,ということを示そうと試みる.つまり,有神論の立場でいえば,宗教的信仰とは自分の人生を神との出会いとして経験することだ,ということになるのである.こうした一連の議論については,次のような文献が参考になるだろう.

    そして私の論文

    4. 宗教多元主義

    仏教,キリスト教,イスラム教,ヒンドゥ教等々と,歴史的・社会的・宗教的実体が多々あるが,そのどれもが独自な信条を保持しているので,その宗教的信条に生きる人々は互いに排他的な群れに属する.かれらはそれぞれに救いの真理性を主張するので,その真理性の主張の多元性のゆえに,それでは一体どの宗教が真なる宗教といえるのか,という問いが尋ねられることになる.事実,こうした問いに答えようとする者は,自分の属する宗教だけが真なる宗教であると確信し,その宗教の教える教理の独自性と,その結果具体化される道徳的優越性とを誇示しようと努める.しかし,人類の宗教的生をこのように対立したものとみる見方が,唯一の可能な見方であるわけではない.確かに,宗教の累積的伝統は内的・外的な諸要因から成る豊かな複合体であり,信念体系,生活様式,聖典と注解,典礼,儀式,神話,音楽,詩歌,建築,聖伝等々を含む特異なパターンを構成し,それぞれ独自な歴史とエトスを持ち合わせている.けれども,それが必然的に排他主義を含意しているはずはない.そこで,一方の,神的なるものに対する人間の応答としての信仰と,他方の,この応答の生じる宗教的伝統との間の関係,つまり一方の救い・解放・悟り・ 見けん 性しよう と,他方の累積的な宗教的伝統との間の関係が問いただされることになるのである.そうすると,救い・解放・悟り・見性を特定の宗教的伝統に限定する〈排他主義〉exclusivismと,それらを特定の宗教的伝統に吸引する〈包括主義〉inclusivismと,そしてそれらをいずれの宗教的伝統にも生じつつあると認める〈多元主義〉pluralismとが見出される.これら三つを宗教的類型として論じている文献には,次のようなものがある.

    「この人による以外に救いはない.この名を他にしては天下の何ものにも救いは与えられていない」という主張,No other name !--これは激しい排他主義である.古いキリスト教の立場でいえば,他宗教はみな霊的な暗黒地帯であり,そこには救いもなければ,神についての知識もなく,また容認されるべき礼拝行為もない,ということになる.これに対して,他宗教の人々でもその熱心な真理の探究のゆえに,〈無名のキリスト教徒〉anonymous Christian として神に受け入れられ,神の救いの道に就いているものと認められうる,と言うならば,これは宗教的に寛容な包括主義である.が,しかしそれは,たとえば熱心な仏教徒は,根がキリスト教の,いわゆる「無名のキリスト教徒」であった,というだけの,要するに穏やかな排他主義にほかならない.そこで,包括主義をも越えて,遂には宗教多元主義に行き着かねばならないのである.救い・解放・悟り・見性がすべての偉大な宗教的伝統内において生じつつあることを認め,したがって究極的な神的実在に対する人間の側からの応答の多様性をも率直に認めるということ,言い換えれば,〈自我中心から実在中心への人間存在の変革〉the transformation of human existence from self-centredness to Reality-centredness がすべての偉大な宗教的伝統内においてさまざまに異なるしかたで生じつつあることを認めるということ――,これが〈宗教多元主義〉religious pluralism なのである.この強い主張は,次の文献に見ることができる.

    さらに,宗教多元主義に対する賛否両論の考察,およびジョン・ヒック研究に関しては,次のような文献がある.

    そして,宗教多元主義に関する私の諸論文(拙著『エコフィロソフィ提唱』法蔵館,第III部,および拙著『現代の宗教哲学』勁草書房,第II部に所収)も参照されたい.(間瀬啓允)

    論理学入門のための Personal Guide

    §1. 論理学をチラッと眺めるには

    本格的に論理学の入門書を開いたり,論理学の授業を聴講するまえに,チラッと論理学の雰囲気を知るには,次のものがよいかもしれない.

    これは,現代論理学の創始者の一人であるバートランド・ラッセルによる解説書である.論理的観点から科学基礎論を論じたものの中にも,現代論理学の問題意識を見ることができる.

    ゲーデルの集合論についての論理哲学的立場をもとに,論理学の一分野である集合論を解説したものとしては

    がある.又,ゲーデルの「不完全性定理」についてのおもしろい解説が論理パズルを解きながら説明されていく.

    も面白い.論理パズルの古典的な大御所はルイス・キャロルであるが,彼の「記号論理学」“Symbolic Logic" は,その中でも特に論理学の訓練のために作られたものであった.

    哲学的雰囲気の謎めいた論理的な文章に触れるには,ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」(法政大学出版局)をみられるとよい.

    §2. 論理学入門書の読み方

    「不思議の国のアリス」の著者ルイス・キャロルは,又の名をチャールズ・L・ドジソンという,19世紀後半のイギリスの論理学者でもあった.彼は上に挙げた「記号論理学」というテキストの冒頭で,新たに論理学を学ぼうとする読者に対して,いくつかの従うべき規則を提案している.このルイス・キャロルの規則は,今日でも有益なものだと思われるので,ここで簡単に彼の規則を紹介し,さらに少し解説を加えておこう.

    〔規則1〕 Begin at the beginning. つまり「始めから始めよ」である.

    時々,小説を読むのに,どんな話の結末かを確かめてから,読みはじめる,というような人を見かける.「ああ,ハッピーエンドなんだ」とか,「こいつが真犯人なのか」とか前もって確認してから,安心して小説を読み始める,というタイプの人がいる.小説の場合はそれも許されるかもしれないが,科学的な本,特に論理学の本では,そのような読み方は不可能である.一段一段,概念を積み上げていくのが論理的議論の特徴であるので,途中をスキップして読むと意味が理解できなくなる.だから,論理学の本をはじめから読む前に,中味をチラッと見てみようなどと企んで途中のページを開いてみても,結局「何が書いてあるのだか分からない.どうにもこの本は難しすぎて自分の手に負えそうにない」.と非観的になるのが常である.

    〔規則2〕 「完全にその章が理解できるまで,次の章に読み進むな.」

    どんな大天才でも,途中で分からなくなったまま先に進んでは,論理学や数学等の本は理解することはできないものである.それが論理的議論の特徴である.大天才でもそうなのだから,あなたがもし単なる秀才程度なら,なおさらそうなのである.だが逆に,各ステップを一段一段理解していけば,最初には夢にも思ってもいなかったような高い見晴しのよい地点まで普通の人間ならだれでも到達できるのも,又論理的議論の特徴なのだ,ということを忘れないでおいてほしい.

    〔規則3〕 分からない部分に出くわしたら,そこをもう一度読んでみること.それでも分からなかったら,もう一度読み直してみること.

    もし,三度読んでも分からなかったら,あなたの頭が疲れている可能性が強いから,そこで読むのをやめて,その日はほかのことをした方がよい.そしてゆっくり休んでから次の日に読み直してみると,「なんだ,簡単なことじゃないか」ということになる可能性が強いのである.

    次の規則は私が最も気に入っている規則である.

    〔規則4〕 できれば,論理学が得意そうな友達をみつけて,いっしょに読むとよい.そして,難しいところを話し合いながら読み進めるとよい.話すことは,問題解決の最大の方策である.

    ところで,以上のドジソンの4つの規則にもう一つ私が加えるとすると,それは次のような規則であろう.

    〔規則5〕 体を使って練習を充分行なうこと.即ち,頭だけを使って論理学を理解しようなどとは思わず,練習問題を実際に紙に書いて解いてみること,である.論理学のような知的な学問分野の習得は,純粋に頭だけを使ってなされるのであり,体を動かす必要はない,等と誤って考えられがちだが,実は論理学のような知的学問の習得は,手を動かして練習問題をくり返し解いていくことにより体で習得していく方が近道なのである.それは,運動選手の練習や,楽器の演奏家の練習や,語学学習者の練習がそうであるのとまったく同様なのである.

    §3. 論理学入門書の種類

    論理学に限らず,他のどんな分野でも同じことだが,自分にとっての未知の分野の入門用テキストを選ぶ基本は,(本屋や図書館で)ぺらぺらとページをめくってみて,自分が一番気に入ったもの,自分と相性の合ったものを選ぶことに尽きるだろう.(これは,食べ物や衣服や友達や恋人を選ぶときの基本とまったく同じだ.)自分で気に入ったと思う本を見つけることが,その本と仲良くやっていく秘訣である.ただ,こう言ってしまうだけだと何のアドバイスにもならないので少し付け加えることにしよう.なるべく薄っぺらな本を選ぶこと.薄っぺらな本を完全にマスターする方が厚い本の途中で挫折するよりどんなに自信がつくか知れない.例題や練習問題が豊富で,又それらの解答が出ているものを選ぶこと.前にも述べたように,論理学の理解の早道は自分の体を使って練習問題を解いていくことである.節ごとの練習問題はその手助けをしてくれるものである.次に,いくつかの入門書のタイプについて紹介しておく.論理学の入門書のタイプは,どんなスタイルの論理体系をはじめに導入するか,又論理体系をもとにした構文論と,真理関数(真理表)やモデルをもとにした意味論とをどのような順序で導入するかによって分けられる.

    1. ゲンツェンの自然演繹 (Natural Deduction)体系を基本にするもの

    私自身及び私の同僚は現在このスタイルのテキストである拙著「現代論理学入門」のプレプリントを使って論理学の入門の講義を行なっている.この自然演繹と呼ばれる論理体系は,Gentzenが1934年に導入した論理体系である.原典は G. Gentzen Untersuchungen uber das logische Schliessen, Math. Ann. 1934 であるが,英訳はSzaboによる Collected Works of Gerhard Gentzen (North Holland, 1972) の中に収められている.又,Gentzenの自然演繹の体系は,その後Prawitzによってより体系的に研究された(Prawitz, Natural Deduction, 1964, Stockholm).又,Dummett, Elements of Intuitionism (1973, Oxford Univ. Press) をはじめとして,直観主義論理と言われる研究分野の入門にも,この自然演繹体系が使われるのが常である.このGentzenの自然演繹体系の変形が Quine, Fitch 等北米の哲学系の論理学者達によって与えられ,しばしばその系統スタイルを採った入門書も見受けられる.例えば

    もこの系統である.Gentzenのオリジナルな形(及び上述のPrawitz等の形)は論理的な議論の道筋にあたる「証明」を樹構造で表現するのであるが,この Quine, Fitch,大出等においては,我々人間の実際の議論の進め方に近付ける意図で,樹構造の論理の流れを線形に並べ直して示す,という表現法を採っている.例えば,2つの前提1と2から結論3が論理的に導出されることを,Gentzen流では,

    1         2 
       
      3 
    

    のように表わすが,一方Quine流では

    1
    2
    3
    

    とか

    2
    1
    3
    

    継起的に表わすのである.一人の人間の頭で同時に二つ以上のことを議論することはできないから,順番を決めて一つ一つ一列に議論の流れを表現する,というのが後者の意図である.一方,前者は全体的な論理の流れを自然に表現できる,という利点がある.又,自然演繹体系はタイプ付ラムダ計算と呼ばれる計算理論や情報科学において重要な計算体系と深いかかわりを持つのだが,この対応関係を考える上でも前者のGentzen流の樹構造の表現方法が重要である.

    2. ゲンツェンの式計算(Sequent Calculus)体系を基本とするもの

    これも前述のGentzenの1934年の論文(又,Szaboによる英訳本)で導入されたものである.この体系は,上記の自然演繹体系ほどは我々の日常無意識に行なっている論理的推論の直観と一致はしないが,数学的な定式化という観点からすると,自然演繹よりもむしろ美しいし,すっきりしている.よって,抽象的な思考法に慣れている読者に向いている,と言える.この体系をもとにした入門テキストとしては,

    がある.式計算体系は日本とドイツでは伝統的によく用いられていたが,その他の国,特に北米などではほんの十年前までは,ほとんどだれにも知られていない体系だった.日本とドイツ以外で式計算体系に触れた教科書は,私の知る限りオランダのBethが出した(1959年,North Holland)ひどく読みにくいテキストを除くと,アメリカのKleeneが1952年に出した長年の論理学のベストセラー “Introduction to Metamathematics" (Van Nostrand, Addison Wesley)(後述)だけだ.この本は,1964年にSheanfieldが“Mathematical Logic"という教科書を出すまで(後述)ずっとベストセラーを維持し,ほとんどすべてのseriousな論理学の学生がこの本を手にしたのだが,式計算はこの本の最後の章で取り扱われていたため,ほとんどだれも式計算の章までたどり着くことができなかったようである.欧米でほとんどだれにも知られていなかったこの式計算体系も,10年前あたりから始まった論理プログラミング言語のブームとともに注目されはじめた.この論理プログラミング言語は,AI(人工知能)や自然言語処理等の目的で開発されたコンピュータ言語である.このプログラミング言語と式計算の表現とが似ていることから,情報科学や計算機科学のための論理学のテキストには式計算が好んで用いられるようになったのである.(もう一つのAI(人工知能)用言語は関数型プログラミング言語と呼ばれる言語であるが,この関数型言語はラムダ計算や自然演繹体系を基本としている.)

    3. 公理系を基本とするもの

    上記の2つのタイプはどちらも推論規則と呼ばれるものをもとに定式化されている.これに対して,Gentzenの仕事以前の論理学の一般的な定式化の方法は公理系をもとにして(それに最小限の推論規則を付け加えることにより)なされるものであった.代表的なのはHilbertのグループによる定式化である.例えば,ヒルベルト/アッケルマン「記号論理学の基礎」(大阪教育図書)は今世紀の初期の代表的な論理学入門書であった.又,ノヴィコフ「記号論理学」(東京図書)や坂本・坂井「現代論理学」(東海大学出版会)もこの系統である.公理系を基本とした論理体系の特徴は,できるだけ少ない数の推論規則,通常は,modus ponens と中世以来呼ばれてきた推論規則一つだけを用いて命題論理が与えられ,又述語論理はこれに一つ又は二つの推論規則を加えることによって与えられる.

    4. セマンティクス(意味論)をもとにして論理学を展開するもの

    日本の論理学の入門書は,一般に構文論の分析手法を中心に解説されているものが多い.セマンティクスに関しては,命題論理の真理表及びトートロジー概念の説明と,命題論理及び述語論理の完全性定理の証明をするために必要な最小限のセマンティクス概念の導入を行なうだけ,ということが多い.一方,欧米の論理学入門書では,シンタクス(構文論)よりもセマンティクス(意味論)をもとにして,命題論理及び述語論理の種々のメタ定理を展開する場合が多い.最近私が中級の論理学の授業で使ったMendelson “Introduction to Mathematical Logic" (Addison-Wesley) もそのような入門書の典型である.又,Kreisel-Krevin “Elements of Mathematical Logic" (North-Holland) も一貫して意味論的立場から論理学を展開している.

    5. その他のタイプの入門書

    先に挙げたKleeneの本はそれまでの構文論と意味論の説明をもとにした他の入門書と違って,計算理論(帰納的関数論やチューリング機械)を正面から取り上げた最初のテキストであった.Kleeneは読者の要望に答える形で,さらにこれより易しい入門用テキストを同じスタイルで書いている.Kleene “Mathematical Logic" (John Wiley & Sons). この本は明治図書から翻訳が出ているが,残念ながら訳が非常に悪く勧められない.Kleeneよるテキストにかわって1960年中ごろ以来,70年代まで広く読まれたのが,Sheanfield, “Mathematical Logic" (Addison Wesley) である.これは構文論(又はしばしば証明論とも呼ばれる),意味論(又はしばしばモデル理論とも呼ばれる),計算論(又はしばしば帰納的関数論と呼ばれる)に加えて集合論を含めたテキストである.この4つの分野が論理学の主要分野と考えられている.

    §4. 論理学史上重要な文献

    アリストテレスの論理学は近世に至るまで約二千年もの間,論理学の中心的著作と考えられていた.アリストテレスの論理学はオルガノンと呼ばれる論理学書群を一般には指すが,現代の論理学との関係が一番深いのは分析論前書・後書である.20年くらい前までは,「論理学のテキスト」と言うと,このアリストテレス論理学を中心に書かれたものが数多くあった.現在では見つけるのが困難となってきた.そのような古典的なスタイルのテキストの一例として次のものを挙げておく.

    アリストテレス以降,ストア派の論理学,中世のヒスポヌス,アベラルドゥス等の中に大変重要な論理学の進展があったのであるが,この入門用文献案内の範囲を超えるのでここでは中世の論理学文献に触れるのはやめることにする.又,現代的な論理学への夢は,ルルスやライプニッツの普遍記号学の構想として文献中に現われてきた.そのような夢の実現は前世紀末から今世紀初めにかけての新しい論理学の開花とともになされた.フレーゲ,ラッセル,ペアノ,タルスキー,カントール,ヒルベルト,……といった人々の初期の現代論理学のオリジナルな文献は,

    に収められている.

    ラッセル=ホワイトヘッドの“Principia Mathematica"は今世紀初頭の論理学のモニュメントであり,しばしば論理学のバイブルと考えられたが,本当のバイブル同様,ひどく厚いものであり,だれも全てを読み通した人はいない(と私は信ずる).前世紀末から今世紀初めにかけての論理学革命を通して,現代論理学は3つの方向に向かった.その一つはフレーゲ,ラッセル,ウィトゲンシュタイン等による言語分析哲学への結びつきであり,もう一つがヒルベルト学派を中心にした数理哲学(又は数学基礎論)への結びつきであり,他の一つがチューリング,チャーチ等による計算理論(コンピュータの論理学的基礎付け)である.この三つの方向を象徴する文献を各々一つだけ挙げておこう.

    現代論理学上の今世紀の最大の事件の一つはゲーデルの「不完全性定理」であろう.初学者がゲーデルのこのオリジナルな論文を読むのは胃が痛くなるような作業かもしれない.実際ゲーデル自身この論文を書いている途中で大変胃を悪くしたと聞く.わりあいに読み易い形で,しかもゲーデルの定理の厳密さを欠くことなく,読むには,例えば,先に挙げたKleeneのテキスト及びSheonfieldのテキスト及び Takeuti “Proof Theory" (North Holland) 等が良いであろう.

    §5. 新しい論理学

    現在論理学は新しい変化を見せている.アリストテレスによる形式論理学の出現が第一期の論理学革命で,フレーゲ,ラッセル,ゲーデルといった人達を中心にした前世紀末から今世紀初めにかけての記号論理学の誕生が第二期の論理学革命だとすると,実は現在この1990年代から21世紀初めにかけてはまさに第三期の論理学革命のまっただ中であると言えるのである.これまでの論理学は,数学や科学法則をはじめとした静的な永遠不変の真理の構造を分析することを第一の目標としてきた.このような永遠不変の知識は,ギリシア哲学以来エピステーメと呼ばれ,「知識」の理想と考えられてきたわけである.このような立場に立った論理学は,数学の基礎や科学理論の基礎,我々の日常言語の基本的な論理的枠組の理解,計算論の基礎,といった成果をあげてきたのである.しかし,日常の生活の場における我々の知識や思考は不確かであったり,新しい情報をもとにして修正されたりというように,よりダイナミックに変化するものであり,またわれわれの生活の場としての社会もダイナミックに変化している.特に「情報」というレベルでダイナミックな知識を捉え,われわれの思考の一面をダイナミックな情報処理として捉え,われわれの行為世界における言語行為の論理的側面をダイナミックに捉えることにより,論理学は情報科学や認知科学や言語行為論等の新しい観点と結びついてきた.ここでは,それらの文献の多くに触れることはできないが,情報科学特にその中でも計算機科学の論理的基礎付けに関わるものを一つだけ挙げておく.

    又,人工知能論の論理的アプローチのいくつかの試みが次のものに紹介されている.

    自然言語意味論の論理的アプローチの例としては,次のものがある.

    又,これらの新しい論理学の方向を見るには拙著岡田「情報科学のための論理学」(産業図書)及びその文献表も参照されたい.(岡田光弘)