1. 西洋哲学倫理学史
  2. 諸特殊哲学
  3. 倫理学
  4. 美学美術史学
  5. 社会学
  6. 社会心理学
    (およびコミュニケーション研究)
  7. 文化人類学
  8. 日本研究(民俗学)
  9. 心理学
  10. 教育学
  11. 人間科学

西 洋 哲 学 倫 理 学 史

(2)17世紀の哲学

課題に直接に向かう以前に,最初に以下に掲げられる文献の性格について一般的な注意を述べておきたい.編集部からの依頼によると,‘基本文献を’ということだが,17世紀の西洋の哲学史に関する基本文献と課題の範囲が極めて狭く制限される場合でも,そもそもどういう角度から見て〈基本的〉なのかという考慮を抜きにしては,選択することもできない.西洋哲学史の基本文献があって,これらを読みさえすれば,西洋哲学の辿った歴史について通暁できるといったごく安易な常識的期待はあろうけれど,この場合ですらすでに何らかの価値観や選択基準が働いているのだ.ただ,それらについて明確な自覚がないというだけにすぎない.あるいは時流が提供してくれている観点に無批判に寄り掛っているにすぎないだろう.

それはともかく,西洋の近世の哲学史という一般称によってカバーされたまさに茫漠たる領域とこれに関する大海の水のごとくおびただしい文献を目前にして,私たちは特定の価値関心と志向態度にもとづいて解釈を施こし,明確な主題に導かれた取捨選択を行なわなければならない.しかも,西洋人が自らもその伝統の一部である自らの過去に対して採る態度とはいちじるしく異なった,日本人としての立場でこれをなさねばならない.筆者はこの点で以下のような関心の角度で臨むつもりである.

最初に,西洋の近代の哲学史の歩みを私が一般的にはどのような過程と見なしているかについて簡単な言及を行なっておこう.私たち日本人ですら現代,ヨーロッパの近世思想の流れのなかで成立してきたいわゆる世俗ヒューマニズム的世界観の強力な影響下に,またこの世界観に導かれてなった社会の諸制度に取り囲まれて生活している.日本の過去の伝統や生活態度がいまなおいろいろの場面に色濃く影を落としていることは事実であろうけれど,しかし私たちには西洋伝来のものにより身近なものを感じているのではなかろうか.すなわち,私たちは通常人間をこの世界における最高の主人公,主体と考え,自分たち以外の自然,客体をこの人類という最高目標に任える一手段,道具と見なす世界観に生きている.例えば自然を目前にしたとき,私たちは,それらがそれ自体において(つまり,神などの命令によらず)何らかの利用可能な規則性を含み,合理的な説明が可能で,したがって私たちはそれらを方法的に究明し認識することによって,効果的な制御と支配を達成できる,と考えている.また知識を考える際にも,一応道徳的ないし宗教的ないわゆる規範的な知識とは画然と区別して,事象の合理的な説明や予見を許し,それらを有効に制御できるような種類の知識を分離し,これを真なる知識と表象する.つぎに人間や社会に関していうなら,私たちは一般的な表象からするなら,個々の人間個人を本質的に平等で,自律的で,手段視されてはならない人格的尊厳を担う自由な主体と見なしている.したがって社会とは,こうした個人からなる集合体で,それはこうした個人の自己裁量の空間と権利を最大限に保証するものであって,それゆえこれらが侵害される場合には,個人自らの意思によって是正されるべきものと考えられている.社会の制度のいずれもがこのような尺度で測定されて,価値評価がなされるというわけである.

西洋の近代思想の歩みにはさまざまの余曲折があったことは事実である.また伝統に由来する特殊な問題やそのつどの社会の偶然的な事情,さらには問題解決の極めて特異な方位から,ひじょうに狭い特殊な主題を成立させることもあった.にもかかわらず,大ざっぱに割り切ってしまうなら,西洋の近代哲学の歩みは,うえに述べたような世界観の確立に向けて動いた歴史と解釈してしまうことができる.ここに掲げられる文献はこの確立の運動史に焦点を当てようとしたものに絞られている.したがって,別の特殊な観点からすればいかに重要な思想家や彼らについての参考文献であっても,それらはここには含められていない.

第二は哲学思想の取扱い方に関連するものである.高度に抽象的な哲学上の諸議論でさえも,一般的な社会的ならびに文化的な文派から遊離して,それだけで自足的に存在し機能しているものでない点が,何よりもまず強調されなければならない.過去から伝統的に引継がれた概念装備や思考素材が,そこで相対的に完結しているかに見える思想体系が,以後の思想家の思索のそのつどの重要な出発点をなすがゆえに,思想の歴史はともすればそれだけで完結した自律的で内在的な経過のように見なされがちである.しかしながら,個々の思想はどれほど抽象的な趣きを呈していようと,現実には,そのつど与えられるあるいはつくられつつある歴史的社会のいっそう広い具体的な制度文化の脈絡から問題や主題を受け取り,このいわば外的な刺戟のもとで伝来の思考素材に改良や修整を加えつつ,自らを展開していくものである.いちじるしく抽象的な主題や議論を取りあげる哲学ですら,それを制度文化的な具体的文脈から孤立させられてしまったなら,その動機,意図,目標等々や,その社会的機能や意味は了解のつかないものになろう.特に近代初頭にあっては,社会から形式的に分離され,アカデミー的関心事にのみひたすら没頭することを許すいわゆる象の塔はできていない.そして思想家それ自身が一般的な制度=文化的事件の直接間接の関与者なのだ.私たちはこの事実をけっして忘れてはならない.私は勿論,一思想を歴史社会的な文脈から遊離して,それらを多少とも偶然的な関心の角度で解釈し,研究することが無意味であるなどと主張する気は毛頭ないが,ここではこうした態度は採らない.

さて,ここでめざされている事柄は,私たちに近代の西洋の哲学思想がどのような動機と目標に駆られて発展していったのかを理解させるような基本文献を挙げることにあるのだから,ここでは特に,個々の思想家と必要な著作と,それらを一般的な歴史的社会的関連のなかで把え,その動機,問題,意図,社会的機能等を究明することに力点を置いた文献を主として取りあげる.哲学史というと通例,私たちにとっても,思想史的にもさほど重要とも思えない思想家と学説をむやみに網羅的に記述する通史的なものが思い浮べられよう.明確な問題史的視点や文化史的視点を欠くこうしたいわゆる実証的記述にもそれなりの意味はあるのだろうけれど,いまの目的には不適切なので,これらには触れない.

最後に,ここでは欧文の文献にのみ範囲を絞った.最近は,勝れた邦訳等が見受けられるようになっているが,西洋の近代思想やその参考文献に関していえば,ヨーロッパの言語を解さずして,その研究を志すということ自体が無謀のそしりを免れないであろう.思想家の著作それ自身の場合,例えばデカルトのそれのようにかなり勝れた邦訳もあることは事実であるが,残念なことに,その多くが邦訳だけで読んだのでは,理解しがたい.私たちは早晩原語で読むことに習熟せざるをえない.そこでここでは原語の文献のみを掲げた.その幾つかのものには,邦訳もある.ところで,現在では他のヨーロッパの言語と比較して相対的に英語が普及しているところから,英語の文献を比較的多数挙げておいた.また比較的入手し易いということも考慮したつもりである.

1) 近世の(ここでは特に17世紀の)ヨーロッパの哲学思想の全般的理解を得るうえで有益な歴史,社会思想史,科学思想史等の一般的な関連文献.

その1) 近世のヨーロッパの哲学思想をその提出されている特殊な問題の側面からだけではなく,全体的な内面から,いわば実感的に理解するためには,それらの展開の歴史的な舞台となったヨーロッパの近代史にある程度通暁していなければならない.これに関連して,分量も性格も異なりはするが,それぞれ適切と思われる二著を挙げる.

前者は,Sir G. Clark の監修のもとに編まれた全19巻からなる近代(世界)史の大著であるが,“ルネッサンス期”(第1巻)から“ヨーロッパ権力の絶頂期”(第10巻)までのそれぞれの必要箇所を拾い読みすることは,ヨーロッパなるものの理解に著しく資する.本書はいわば反省期に入ったヨーロッパの所産であって,他の世界と比較してヨーロッパの特性がどこにあったかを特に注意の中心に据えて記述しているので,私たちにとってヨーロッパ理解になかんずく有益である.おまけにヨーロッパの地域差を比較史的に鮮明に教えてくれる.この歴史書は狭い意味での政治・社会の歴史にとどまらず,広い文化・思想の歴史にも詳しい言及を行なっているので,哲学を専門とする学徒にもいろいろの示唆を与えてくれる.

後者のレオ・コフラーの小著は,その副題で〈近代の了解的解釈の一試み〉と謳われているように,ヨーロッパの近代市民社会がどのような経緯をりながら成立していったかを,これら運動を担った人びと(例えばさまざまの宗教的セクトの運動)の精神を内面から理解することを通して,究明しようとした試みである.この書物は,後に種々の抽象的な認識論的なあるいは社会哲学的な主題となった論議が,元来はどのような具体的な社会問題に根差したものであったかをわかり易く説明してくれる.

その2) ヨーロッパにおける近代の誕生とともに哲学思想も大きな方向転換を経験するわけだが,この社会構造の変革が思想の性格や方向にどのような影響を及していったかの研究も極めて重要である.

1) すでに古典の一つと見なされるような有名な著作だが,そのなかの一試論〈物化とプロレタリアートの意識〉が特に重要である.この研究は,商品流通の開始とこの関係への人間の組入れが人びとをどのような思想の方向とその解き難い矛盾とに駆り立てているか,またその解決の方位はどちらに探られるのか,といった究明である.しかしながら本書は,貨弊流通が人間の意識にもたらした変化についての古典的な研究であるG・ジメル〈貨弊の哲学〉などとともに,近世ヨーロッパ思想の本質の理解に有益である.

2) は上述の書物の強い影響のもとに書かれたものであるが,近代初頭のマニュファクチャー的な生産関係が近代思想家の発想のうえにいかなる発見的示唆を与えているかの研究である.おうおう科学的知識の内在的発展史として把えられる近代思想の発展の一面に対してすら,社会関係よりくる刺戟がいかに強いものかを立証している点で貴重である.

3) は,17世紀および18世紀の若干の哲学者たちの認識および人間の本質についての学説に関する一種独特の知識社会学的角度よりする分析である.知識社会学がおうおう単なる図式主義に堕しているのに対して,社会が提出する問題と思想家の問題提起とのあいだの対話がいかに行なわれたのかが,生き生きと描かれている.この際,例えば「神」といった観念に方法的にどんな役割が与えられているかといった問題に新しい光が当てられている.小著である.

その3) ヨーロッパの近代思想の発展を知るには,同時代の科学技術の状況についても多少は通暁している必要がある.ここでは,レベルはまちまちだが,最少限のものを掲げる.

1)は,この分野におけるパイオニア的労作で,17世紀の科学の勃興の社会的背景(宗教,経済,軍事技術等々)をイギリスという国民的舞台を例に取りながら,明らかにしようとしたもの.5)のホールによる批判などがあるが,今日でも十分読まれる価値がある.2)もやはり科学者集団の社会学とも目されるべきものである.今日日本でもステレオ化された〈パラダイム〉なる用語は本書に由来する.いろいろと批判はあるが,通常,科学と呼ばれているものの問いがどのように発生しているかを考えるうえで,種々の示唆を与える.筆者がたまたま手にした3)を取り上げた理由は,ケンブリッジ科学史叢書の一冊として出されている本書が,入門書として極めて適切で,それ以後のもっと立ち入った研究の出発点になってくれるからである.最初はこうした書物から始めるのがよい.いま取上げている主題が問題なら,この分野の先駆的研究で,いまなおもっとも影響力の大きい全3巻よりなるA・コワレの〈ガリレオ研究〉などの諸著作をなぜ挙げないのか,といぶかられるむきもあろう.が,それらは大著に過ぎるうえ,あまりにも専門的で細微にわたりすぎている.そこでここでは4)と,やや難しいが5)とを挙げておきたい.いずれもが主として17世紀を扱い,手頃である.

2) ここから本来の課題に立ち向かうわけだが,読者は,近世の哲学者とその諸学説とを羅列的に紹介・概説している通史的書物をさしあたり期待されるかも知れない.そして古いところでは,邦訳もあるウインデルバントやフォルレンダーのもの,さらに邦訳はないが,つとに有名なクーノ・フィシャーの大著〈近世哲学史〉全10巻(最近の復刻版あり),あるいは比較的新しいところではコプルストンのものなど,即座に幾つもの書物を想い起こすことはできる.しかし,私は意図的にこうしたものを挙げようとは思わない.これらはいずれもが,自らの解釈を最少限に抑えていわゆる客観的記述に終始しようとめざしているものだが,しかしこのためにかえって自らの立場や選択基準に関して無批判的になり,まちまちのレベルのものが雑然と網羅されるような結果になっている.読者はこれらを通読してみて,個々の哲学者が何ゆえに,また誰にとって重要なのかが皆目わからず,ただ雑然とした印象が残るのみであろう.これらと比較するなら,主題が遙かに確定的な,例えば Cassirer, E. “Das Erkenntnisproblem in der Philosophie und Wissenschaft der neuern Zeit". Hildesheim/New York 1971, などの方が遙かによい.これは大へんな大著(全4巻からなる)だが,認識の前提をなす概念の基本的粋組みの変化が認識の内容と方向に対してどのような変化をもたらしたかを近代の各思想家について追求している研究である.思想史をあまりに内在的に考え,文化史的に綺麗に割切りすぎている感がしないでもないが,今世紀頭に出た本書はいまもって読まれる価値がある.

それはともかく,哲学の通史や個々の哲学者の思想について知るためには,今日大へん便利な書物があるので,これを挙げておく.Totok, W.“Handbuch der Geschichte der Philosophie" Vittorio Klostermann, Frankfurt am Main. この便覧は1963年にその第1巻が出て,今日まで(1986)に18~19世紀の分を収めた第5巻が出版されている.私たちは哲学史上の思想家について書かれた研究について知りたいとき,これによってそれら研究を,それがどのような研究かといったことをも含めて,網羅的に検索できる.ちなみにいま話題の17世紀については,その第4巻が宛てられている.

ところで,先の通史的なものにもう一度立ち返るとすれば,一般的には激しい異論が唱えられることは十分予想しているけれど,私は,過去の大思想家が自分流に彼以前のないし同時代の諸思想を整理と概観したものがあれば,それが一ばんよいと思っている.彼が呈示する過去の思想は,むろん,いわゆる哲学史家の眼に映る事実としての過去の思想ではない.それは哲学史家が,丹念に発掘した資料にもとづいて再構成した過去の思想家の全体像でもない.むしろ,彼が受け止め,誤解し,重要と考え,あるいは反撥した過去の思想像である.さらには,そのつど歴史的文化的脈絡のなかで優勢な見地に色づけされた思想像である.けれども,これはどうあろうと,一思想が一歴史社会のなかで機能する仕方である.そしてそれらが一文化史的文脈のなかで果した機能的意味と現実の重要性を一ばんよく示しているだろう.私は,後世にまで重要な影響をもった大思想家がその歴史的過去を解釈した像は,過去の思想の真意を一ばんよく示していると思う.

こうした意味では,私は,例えばヘーゲルの講義録,Hegel. G. W. F. “Vorlesungen uber die Geschichte der Philosophie",などはいまなお熱読玩味されるべきものをもっている.決定版といったものは出ていないが,Suhrkamp社の20巻の著作集に収められていて,容易に入手できる.また17世紀に関してなら,Feuerbach, L. “Geschichte der neuern Philosophie, von Bacon von Verulam bis Benedikt Spinoza",なども面白い.これはヨーロッパ近世思想のなかで「神」のもつ重大な意味を否定的にせよ肯定的にせよ私たちに理解させてくれる.これも W. Schuffen-hauer 編の“L. F. Samtliche Werke, Berlin 1969 年に収められている.

おなじく多くの異論を呼ぶだろうけれど,現代のものではもう一つ,Russell, B. “A History of Western Philosophy",つけ加えておこう.邦訳(みずす書房)を含めて,いろいろの版本がある.〈私版西洋哲学史〉とでも訳すべき本書は,かなり乱暴極まる論議が展開され,公平を欠くという印象を与えるかも知れない.実際,主題の選択,呈示,評価などいずれの面でも著者個人の私見や好みが強く滲み出すぎていて,首をかしげたくなることも多い.けれども,上述したような事情に由来すると思われる数々の誤解は別にして,本書は殊に私たち日本人などには有益である.〈…政治的ならびに社会的環境とのそれの関連〉との副題がつけられているように,それはヨーロッパの哲学の展開をそのつど固有の文化環境との具体的関連のなかで考察しており,異質の文化的世界に帰属する私たちに,ヨーロッパ哲学がなぜ現にもったような問題性を機軸に展開されたのかを,興味深く教えてくれる.

以上が通史的のものについてであるが,以下においては個々の哲学思想家の作品とそれらについての重要と思われる研究ないし参考文献をできるだけ絞って,直接にあげる.ところで,さまざまの哲学思想家の所説を知るには,当り前といえば,当り前だが,当該思想家の作品を直接に熟読玩味するに如くはないのである.残念なことに,おうおう正反対の安易な風潮がまかり通っている.デカルト,カント,ヘーゲルの作品を直接に読んだこともないのに,彼らについての参考文献,おまけに受け売りの受け売りといった参考文献だけに目を通して,彼らの思想について語るようなことが公然と行なわれている.たしかに,いずれの思想の一般的な,もしくは思想史上の意義や評価を事前に予備的に知りたいようなとき,通史的な文献や種々の概説書はいろいろと役立ってくれるだろう.また自らの読書によっては気づかないような特殊な諸側面に照明を当ててくれるのも,他の研究家によるそれぞれ特殊な専門研究である.しかしながら,思想家の思想を直接に自らのものにし,自らなりの思想家像をつくりあげるには,所自らの眼で当の思想家の作品を読む以外に途はない.既成の常識的な思想家像やその評価などを正してくれるのも,また自らの眼による吟味でしかない.

もう一度ここで,欧文の文献を掲げたことの重要な理由に立ち返っておこう.ヨーロッパの思想家の諸著作に対して,信頼するに足りるとともに,十分理解することのできる邦訳があれば,私たちは通常の範囲なら,何も故意にあるいは衒学的に原典に当る必要はないだろう.しかしながら,デカルトの諸作品などの少数のものを例外にすれば,日本語の範囲で読んで理解のつくものはあまりにも少ない.邦訳で読んで理解できたと思いこむことには,あまりにも多くの危険がともなうのである.そのうえ,一思想家の思想を理解するのに必読でありながら,邦訳はまったく存在していないものが多い.参考文献や特殊研究についていえば,元来商業ベースに載らない古典的哲学者の特殊な研究文献など邦訳があることのほうが奇蹟に近いのである.西洋の哲学思想を学習しようと思うなら,古典語とはいわないまでも,幾つかの近代語についてはある程度通じていることが絶対に必要なのだ.この文献案内にはこの意味の警告も含まれていることも了解してほしい.

2) - 1 F・ベーコンについて.明確な近代哲学思想はある面では Fr. Bacon をもって始まる,といってよいだろう.この過渡期の多方面的な思想家の作品はいままでのところ,“The Works of Francis Bacon", collected and edited by James Spedding, Robert Leslie Ellis, and Douglas Denon Heath. 15 vols. New York 1863~1871 にまとめられ,これが最良とされている(これには,Friedrich Frommann Vlg. Stuttgart-Bag Cannstall 1963 のファクシミリ版がある).これらのうち1巻から7巻までが哲学上の著作,8巻から10巻までが英訳,11巻から15巻が文学(このなかに哲学上の重要な著作《古代人の知英》なども収められている)および法律上の著作が収められている.しかし,いろいろの遺漏の多いことも事実だが,通常の使用に関しては “Philosophical Works of Francis Bacon", ed. by J. M. Robertson, New York 1905 が便利である.全文英訳である.個々の作品については,Francis Bacon, “The Advancement of Learning and New Atlantis", ed. by Arthur Johnston 1974 (Oxford Paperback English Text) や Everyman's University Library 10 に収められた,Francis Bacon “Essays", intr. by Michael J. Hawkins, London. 1972. のようなものがあり, これらには古語についての詳 があって便利.また特殊なものとしては, 〈時代の雄々しき誕生〉,〈思索と看取されたもの〉および〈諸哲学への反駁〉の現代英語への翻訳を含む Farrington, B., “The Philosophy of Francis Bacon", U.C.P. 1964 のようなものもある.

ベーコンの哲学思想(その道徳思想を含む)の全貎を知るためには,〈学問の進歩〉,〈新オルガノン(“大復活”を含む)〉,〈随筆集〉,〈新アトランティス〉,および上述のファリントンの書物に含まれる翻訳を読むことは欠かすことができない.が,逆にまた,彼の思想について特殊な角度から特別の関心を寄せるのでもないかぎり,この程度を精読すれば一応は事足りるといえよう.最後のものを除けば邦訳もある(final cause を究極原因などと訳したものもあるので,時に注意を要するが.).いずれも特別の難解さはないので,割合に短期間に読了できよう.

ベーコンの研究についていえば,彼の思想のもった,永らく忘れられていた真の意義が再発見されたのは,比較的最近である.特殊な研究を除けば,以下のようなものによってベーコンについての研究のおよその糸口を得られるだろう.

1)は,帰納法論理の発見をめざした空しい試みという,新カント派流の矮小化されたBacon像から,Bの哲学の全貎を復権させようとした先駆的な試み,主としてBが対決しようとした過去の思想的潮流のがわから,Bの貢献を評価しようとする.このためもあってか,後の貢献がその源との関係で評価され,彼の同時代における過去の扱われ方や過去が彼の当代において果している役割(例えば当代の新プラトン主義など)などが十分考慮されていないかに見える.2)は,彼の思想の方向づけや動機づけについて影響のあった社会的事件を中心にしたもっとも十全な伝記.上記のロバートスン編の著作集に収められた〈The Life of the Honourable Author, by Dr. W. Rewley〉op. cit, pp. 1~11 と併せて必読.3)もBの正当な理解のための先駆的著作であるが,Bの新しさを強調しようとするのあまり,Bがその影響下にあったルネッサンス期の神秘学や(自然)魔術などとの りが疎かにされている.4)はおなじ著者による前者の弱点の克服をもめざした小著だが,彼の思想の社会思考的な面を浮き彫りにしている.5)は当時の思想状況を全範囲にわたって考慮し,当代の魔術やなかんずく弁論学がBの自然解釈の方法の案出に当っていかに発見的示唆を与えているかの研究.幾つもの改訂および,初版以降のB研究の現状を紹介した序文のついた新版がよい.直接的なB研究ではないが,ルネッサンス期(その後期を含めて)の科学の現状や思想状況を知るのには,まったく異質の二著 〈Boas. M. “The Scientific Renaissance. 1450~1630". New York, 1962〉 および 〈Yates, F. A, “The Rosicrusian Enlightenment", London, 1972〉 も示唆的である.6)はある意味では5)に含まれる特殊な主題のより突っこんだ研究である.これは,16世紀の論理学の伝統がベーコンの哲学の全分野にいかに深く滲透しているかを具体的に追求している.以上のようなものを読めば,Bの研究の単なる糸口以上のものは めるはずである.

2) - 2 T・ホッブズについて.Bのつぎには,彼の対極と考えられているデカルトが取り上げられるのが普通だが,ここではそうしたいき方はとらない.こうした考え方の背後には,ブリテンでは経験論が,そして大陸では合理論が発展し,これらがカントによって綜合されるという奇妙な(特に新カント流によって唱えられた)図式が置かれているが,私はこうした図式は無意味と考えるからである.第一にBは少しも経験論者ではないし,第二に実験や経験の重視という点ではデカルト自身Bに全面的賛意を表しているからである.機械論者であり唯名論者になり切っているHとこれら多くの点で異なるBとは,気質,関心や接近の方向,得られた成果の点でひどく異なるが,まだ共通点も多い.唯物論的な傾斜,アリストテレス等に向ける敵意,言語への関心,社会に向けられる実践的関心などいくらでも拾いあげられる.

Hの著作集で現在までのところ一ばん完全なものは “The English Works of Thomas Hobbes Malmesbury", ed. by Sir William Molesworth, 11 vols.; Thomas Hobbes Malmeburiensis opera philosophica quae Latine scripsit omnia", st. ed. lab. Gulielmi Molesworth, Londini 1839~1845である.これはさいわい1966年にドイツの〈Scientia Verlag, Aalen〉 からリプリントが出版されている.なお目下 H. Warrenderの監修のもとに,Clarendon Press, Oxford においてホッブスの “New Critical Edition" の準備が進行中と聞いているのが未見である.個々の著作に関しては,“The Elements of Law, Natural and Politic, ed. by F. Tonnis, London 1889 (これは,M. M. Goldsmith の序論つきで London, 1969 に再版されている)を別にすれば,〈Leviathan〉には英語では二つの版本がある.〈“Leviathan", ed. with an introduction by C. B. Macpherson, Harmondsworth 1968.〉と〈“Leviathan", ed. with an introduction by M. Oakeshott, Oxford.〉,前者にはマルクス主義の立場よりする,そして後者には,後に増補して〈“Hobbes on Civil Association", Berkeley and Los Angeles, 1975〉の標題で単行本として出版された序文がつけられている.またHの哲学のさまざまの側面に関して,Hの著作からいろいろの必要な箇所を適宜に抜粋した〈Thomas Hobbes, “Body, Man and Citizen, Selection from Hobbes's Writings"ed. and with an Introduction by Richard S. Peters, New York, 1962〉のようなものもある.これはHの哲学の考え方の全容を知るために極めて手頃である.

ホッブズは極めて体系的な著述家で,論争的著述を別にすれば,著作にはいずれも大部である.専門的な研究を志すなら,三部作の〈哲学の諸要素〉を読んだり,ラテン文と英文との差異を詳細に検討するようなことも必要だろうけれど,彼の思想にある程度通じるだけなら,けっして十分ではないが邦訳もある〈レヴァイアサン〉と,先にあげたリチャーズ編の〈ホッブズ抜粋集〉を読めば,かなりのところは物足りよう.それ以上は個々人の関心のもち方によって決まるだろう.概していって,Hの論議は粗っぽいけれど,大へん明解で読み易い.

彼の研究書も数が多いが,Hの思想を一般的に呈示して,その内容や含む争点を理解させてくれるもののみを挙げる.

まず入門的なものとしては,

を挙げる.1)は,彼の哲学の方法的側面から彼の体系の全容を明らかにしようとしている.2)は,まさに入門書であって,彼の問題,方法,形而上学,道徳,政治といった分野に関するHの思想を紹介するとともに,それらをめぐってどんな論議が行なわれているかを概観している.もっとも優れているのは3)である.これもHの思想の全分野に関して簡潔な概観を与えているが,彼の関心はHの心理学に特に強く置かれている.政治思想等については手薄である.4)はやや古いが,これもHの思想の全面に触れている.しかし本書の特色はHが受けたと思われる,そして逆に及ぼしたと思われる影響に関して広く考察している点で,哲学史的観点から興味深い.

あとはやや専門的な研究に言及しておこう.

5)はHの形而上学,彼の自然学に対する貢献を中心にした研究.したがって,倫理や政治のテーマにはほとんど触れていない.すでに半世紀以上まえに出版されたものだが,今日でもHの理論モデルを研究するには欠かせない基礎文献で,政治思想の研究にも役立つ.これとは性格をまったく異にするのが6)である.おなじく古い研究である,Hの政治思想をめぐるその後の研究や論議の出発点になっている.通常Hの政治思想はガリレオ由来の機械論的モデルにもとづくものと解釈されているが,この研究は,Hが歴史研究を通じて得た人間心理についての新しい洞察が,近代的市民と政治的権威との両立を可能とするような革新的な結論に導いていることを論証しようとしている.ポランの7)はさまざまの論拠を挙げることによってなされる,いわばシュトラウスの見解に対する反論で,伝統主義者としてのHを浮き彫りにする.この両見解はHの政治思想をめぐる議論の基軸をなしているともいえよう.8)は大へん手堅いきめの細い研究で,Hにおける人間の心理に関する論議と,自然法の伝統に連なる彼の義務論とを直接には関連のないものと見なしている.9)はWの論議の再検討を試みるが,それ以外にHの政治権威に関する見解を詳細に究明している.

2) - 3 R・デカルトについて.デカルトの著作集でもっとも完全なものはアダンとタヌリによる全集 “Oeuvre de Descarte", par Charles Adam et Paul Tannery, XIIt. Paris 1897~1913 がある(何度も再版されている).このうち1巻から5巻までが書簡,6巻から9巻までが著作,10~11巻が小品,ノート,遺稿で,12巻はアダンによるデカルトの伝記〈“Descartes: Sa vie et son Oeuvre"〉(これは,1937にパリのボワヴァン書店から単行本でも出版されている)を収めている.この全集には別個に Index general がついており,大へん便利である.けれども,この全集は何分大部なので,もっと手軽なものが要求されよう.この要求を満たすものとしては,ラテン文もすべて仏訳されている,プレイヤード叢書の一冊をなす選集 〈Descartes: Oeuvre et lettres, textes presentes par A. Bridoux, Paris. 1953〉 がひじょうに便利である.彼の著作の注釈つきの単行本,対訳書,翻訳等は欧米ではおびただしく出版されているので,これらをいちいち挙げることはできないが,〈Discours de la methode, Textes commentaire, par Etienne Gilson, Paris, 2 ed. 1926〉 だけは挙げておこう.これは,Dの思想と中世思想との りを具体的に跡づける文献学的に極めて詳細な 釈を含み,大著である.だが,こうした面に強い関心を寄せない者にはわずらわしすぎよう.

デカルトに関しての場合,さいわいなことに,その主要な著作はかなり質の高い邦訳が揃っていて,専門研究をめざすのでもないかぎり,邦訳を通してDの思想のおよそのところは理解できよう.ただし,デカルトの文章は明晰判明という伝説がなぜか生じているが,その典型とされる〈方法叙説〉の文章すらも,実際には何か奥歯に物のはさまったようないい回しが多く,そうした伝説を真に受けないほうがよい.デカルトの研究者を志ざすのでもないかぎり,〈方法叙説〉,〈省察--これをめぐる往復書簡を含む--〉を中心にして,第3・4部は断片で,それ以降は中断している〈哲学原理〉,未完の遺稿〈精神指導の規則〉を,そして彼の人間観や道徳思想を知るために〈情念論(魂の受動)〉を読めば,大たいは事足りる.ここで大たいといった理由は,近代初頭の情報交換の重要な媒材である書簡に触れられていないからである.筆者はその重要なものを拾い出せるほどの知識をもち合わせていない.それゆえ例えば上述のプレイヤード版に収められているようなものから手を着けることをお勧めする.いずれにせよ,Dの著書はいずれも大部ではないので,多少辛抱すれば,短時日で読了できる.それゆえ何度か読み直すとよい.

デカルト研究の数は,その関心の角度の多様性を考えるとき,あまりにもおびただしく,概観できるものではない.概観を得たい者がいるなら,上述のトトークの書物を別にして,もっとも完ぺきなものでは 〈Sabba, G. Bibliographia Cartesiana: A critical Guide to the Descartes Literature. 1800~1960, Hague, 1964〉 を参照されたい.ここでは,いまの目的に合わせて最少限のものを挙げるにとどめる.

まずごく入門的なものを選べばつぎの2冊が適当である.

このうち1)は,彼の伝記的な諸段階を追いながら,彼の諸著にひとわたり触れるという体裁をとっている.小冊ながら,Dの科学的,形而上学的,数学的,方法論的諸見解にゆき届いた記述が与えられている.2)もおなじく大へんな小冊であるが,その標題の示す通り,Dの合理主義的方法とそれが後代に及ぼした影響について扱っている.厳密にいえば,本書は単にDの学説に限られた記述ではないが,ヨーロッパの偉大ないわゆる合理主義たちのそれと比較されることで,かえってDの特色が浮き彫りにされている.

つぎにもう少し立ちいった専門研究的なものを若干挙げておく.

1)はすでに古典的になっている小著である.本書はDの形而上学を彼の自然学と切り離して,独自の重要部分として論じ,それが後世の思想に対してもった含みに論及している.2) 500ページ近い大著で,中世的伝統のなかでDの思想が近代精神の形成にどのような役割を果したかの研究である.それは,この形成的な影響をDの学説の細部にわたって追求しており,厳密にはDの思想そのものの研究ではないが,その歴史的意味を考えるうえで有益である.3)相対的に新しいD思想の研究で,そのテーマの中心は「省察」である.本書は「省察」の内部の諸命題に単に「省察」の狭い範囲ではなく,Dの他の諸著作との関連で解釈されるべきであるという立場から,定説となっているD解釈にいくつもの異見を提出している.6)ジルソンの本書はその後のD研究の出発点となっている古典的な名著である.本書は詳細な文献学的証拠にもとづいて,近代的といわれるDの思想がいかに中世的なものに根差したものであるかを跡づけている.この研究を読んでいると,そうならばなぜデカルトが必要なのか,という気になってくる.7)はそう大部とはいえないが,神,世界,人間の全範囲にわたるDの形而上学の問題を取りあげている.特に機械論的な見地からすべてを論じ尽そうとする際に,それが人間の生とのあいだにどんな相剋を生み,どのような方向で解釈が探られたかといった視点を中心に論議が展開されている.ブレイエやジルソンによるD研究を踏まえて,いっそう新しい見解を打ち立てようとしている.8)はかなり大きな書物である.著者によれば,思想体系の背後にはかならず世界に関する何らかのヴィジョンがあり,これが一定の思想的表現を得るのだとされる.またこのヴィジョンは思想家の生きた環境と切り離せないともされる.こうした前提に立って本書は,Dがいかなる新しいヴィジョンをもつにいたり,これがDの形而上学の細目としていかに表現を得るにいたっているかについての究明である.

2) - 4 B・スピノーザについて.スピノーザの思想の淵源は複雑で一義的に決定することなどは到底できないが,それがデカルトの思想の一面を創造的に誤解することによって成立したものであることはたしかであろう.真に独創的であり,かつ後世に影響力の大きかった思想家として,つぎに彼を取りあげる.

まずスピノーザの著作についてであるが,現在まで出版されている原典のテキストで最良のものはやはりカール・ゲープハルトの編纂になる “Spinoza Opera", in Auftrag der heidelberger Akademie der Wissen-schaften hrsg, von Carl Gebhardt, 2te Auf. Heidelberg, 1925 (これは,1972年に写真製版で再版されている.)このうち第1巻は〈神,人間とその幸福についての小論〉などの小著と〈ヘブライ語文法便覧〉,第2巻は〈エーティカ〉と〈知性改善論〉,第3巻が〈神学=政治論〉と〈政治論〉,第4巻は〈書簡〉と小品を収めている.しかし,目下オランダのWereldbibliotheekより1977年以降,ゲープハルト版よりもっと厳密なテキスト校訂にもとづいたオランダ語訳の全集が進行中とのことであるが,未見である.しかし,現在この際の校訂からの便益をえて,エドウィン・カーリイの個人訳による英訳の “The Collected Works of Spinoza", ed and tr. by Edwin Curley, 2 vols. Princeton, 1985, が出ているが,これが今日もっとも入手しやすい最良のテキストということになろう.この著作集には従来どの全集にも収められていなかった新発見の書簡が収められているということを別にして,いろいろの特色をもっている.最大の特色は,書簡をも含めて,スピノーザの著作をすべて執筆の順序で配列していることである.また個人訳であるために,異なる著作に対しても,重要な用語訳の統一が計られており,したがって訳文であっても,作品相互の比較が容易になっている点も,その一つであろう.用語の訳語(蘭語,英語)と原語(ラテン語)との対照表も極めて便利である.スピノーザの種々の著作には対訳書を含むいろいろの欧文の翻訳があるが,これをいちいちあげない.畠中氏の手になるSの哲学書のほぼ全訳を含む,幾つかの邦訳も行なわれている.かなりの忍耐は要するが,邦訳によってもある程度までの理解は可能であろう.

スピノーザ哲学の理解のためには,やはり何よりも〈エーティカ〉を読むことがぜひ必要である.けれども,これは飛び切り読みにくい著作の一つである.「幾何学的秩序で証明された」と表題に記されているように,公理,定義,証明,系等々といった形で論議が展開しているが,しかし,内容は見かけほど厳密に導出されているわけではないので,形式にそれほどこだわらなくてよいだろう.むしろ,各部の最初や最後に付された形式張らない文章を理解することから始めるほうがよい.つぎにSの知の方法的なものに目を向けるなら,未完ではあるが,〈知性改善論〉を読む必要がある.というより,Sになじむ順序を重んじるなら,これから着手するほうがよいかも知れない.そしてこの点で考えれば,もっとも読み易いのは書簡で,その数も多くはない.どれが最要な書簡かは選択はむずかしいが,私の意見では,ゲープハルト版の番号で 2, 12, 19, 21, 23, 30, 32, 34, 35, 37, 42, 43, 44, 50, 56, 58, 60, 64, 67, 73, 76 はぜひ読まれる必要があろう.ちなみに,これらの著作を読む際に注釈書の必要を感じるようなら,すでに古典的な名著 〈Joachim H. H. “A Study of the Ethics of Spinoza", New York, 1901〉 と〈“Spinoza's Tractatus Emendatione. A commentary by the late H. Joachim"〉 を座右に備えることをお勧めする.ところで,またSの宗教・政治思想や彼の実践的側面に関心をもつのであれば,当然のことながら,〈神学=政治論〉と未完の小著〈政治論〉はぜひひもとかなければならない.これらは,相対的にいって,ひどく難解というものではない.この両著に関しては,英語の対訳つきの素晴らしいテキスト 〈Benedict de Spinoza, “The Political Works", ed. and tr. with an introduction notes by A. G. Wernham, Oxford, 1965〉 がある.この〈政治著作集〉は前著の主としてSの宗教・道徳思想に関連する部分の抜粋と後著の全文とを収めている.聖書解釈の細目に関心をもつ者には物足りないかも知れないが,この点でもSの主要な見地は十分わかるように工夫されていて,避けられているのは反復である.したがって手頃なうえ,訳者による序論および本文に付された注釈も極めて示唆に富んでいる.

つぎにSの一般的ないし特殊な研究文献であるが,これまた膨大な量にのぼる,もし概観を得たい者がいるなら,〈Oko A. S. “The Spinoza Bibliography", Boston, 1964〉 および 〈Wetlesn J. “A Spinoza Bibliography 1940~1970, Oslo, 1971〉のようなものをご覧になるといい.が,ここでは,Sがいかなる哲学者であるかを知り,本格的にSの思想に取組む手引きとなるようなものを若干あげるにとどめる.

Sの思想への第一歩は,と問われるなら,躊躇しないでこの二つを挙げる,いずれも極小である.1)は全集の編者であるゲープハルトの著作で,Sがどのような環境と問題とに格闘していたかを伝記的に草したもので,まず読みものとして大へん面白い.ゲッシェン文庫の一冊として戦前に出版され,注意されることも少ないうえ,たしかに時代遅れになった面のあることは事実だが,私は少なくとも最初にはいまでも読まれるべきだと思っている.2)これとは性格を異にし,簡単に伝記的事実に概観したうえで,むしろSの思想の骨旨を極めて簡潔に概説している.政治思想にはほとんど言及はないが,Sの思想の歴史的影響に触れている.

本書は本来の意味でのS研究ではない.というより,近代リベラリズムの勃興の有力な一環としてのSの政治思想の研究である.この研究のユニークな点は,Sを取り巻いていた宗教的・政治的・経済的環境を詳細に極めることによって,従来Sをめぐって打ち立てられていたセンチメンタルな伝説の数々を証拠にもとづいて破壊していることである.今後のS理解に大へん役立とう.

Sの本来的な思想理解をめざそうと試みる者には,いい意味でも悪い意味でも,本書を強く勧める.これは,今日の私たちの立場から見て,Sの哲学が何を問題にしようとしていたかを,その全部門にわたってできるだけ平易に解説しようと試みたものである.S解釈の正統論の目で見れば首を傾けたくなる面もあろうけれど,機械論的な決定論者と見られがちのSの(往々これと矛盾する)別の側面をあらためて浮き彫りにしてみせる.

つぎにやや専門的な研究を若干挙げよう.

この研究は,フロイデンタールやファン・フローテンの諸著とならんで,後の思想の全貎のとらわれない研究や評価の先駆となった著作である.これは過去,当代,そしてその後の諸思想との関係,時代背景,Sの思想の特色などを,入念に資料を漁りながら究明する.本書に収められている資料は特に貴重である.今日では特に戦後の諸研究によって,多くの点で時代遅れになっているが,やはりS研究には欠くことができない.このポロクの研究を踏まえてさらに先をゆこうとしたのが,

で,この著者はSの思想の根源を古典的思想,なかんずく中世のユダヤ神秘主義のなかに求めようとする.彼はSの主張を例えばアリストテレス,マイモニデスや他の中世のユダヤ哲学者,そしてデカルトのうちに探り当てる.デカルトに関するジルソンの研究と同様に,これでは何のためにSを,といいたくなる.こうした一面性を免れるためにも,上述の3)は必読である.またこうした文献学的索 を一切離れている.

のようなものを読むことも必要である.本書は,Sが直接に自らの方法に触れている書物のみでなく,ほとんど全著作をその方法論の観点から研究した書物といってよい.この書物では例えばSにおける神の問題が詳しく論じられるが,その源泉を過去に求めるようなことは一切せず,それをSの方法的立場からの必然的帰結として示そうといった具合である.デカルトに絡んでジルソンがカトリック中世擁護の論陣を張るのと同様,S哲学も中世ユダヤ思想の卓越性の証しとして利用されがちの研究の現状では,こうした方向の研究は解放的効果がある.本書はSの方法一般を論じた部分と,それが特殊領域で整合的に用いられているかを問うたいわば応用的な部分に分れている.

2) - 5 John Lockeについて.J・ロックの哲学の事実に即した研究は,奇異なことといってよいだろうが,ようやく第二次世界大戦後にその端緒が開かれたといってもよかろう.上述したように,ブリテンの経験論と大陸の合理論とが,ドイツのカント哲学において総合されるという乱暴な図式が,永らく哲学史記述の基本線をなしていて,ロック哲学は牽強付会にもこの図式に押しこめられて考えられてきたからである.それゆえ,ロックについては,大雑把にいって,三つの像が従来つくられている.第一は,ロックが取り組んだ問題がなお色濃く息づいていて,したがってそのおなじ空気を呼吸しながら,彼の提言に直接に賛成したり,反対したりした人びとのロック像.第二は,もはやそうした時代の問題性が忘れられて,単に哲学史的あるいはその他の関心から,その目的に合わせて構成されたロック像.最後に,資料が整い始めたうえ,彼の当代の歴史的な問題性も十分に考慮に入れて研究が進められ始めたロック像.残念なことに,我が国でロックの哲学が語られる場合,いまなお旧態依然の第二のロック像についてのことが大部分だが,ここではこれをまったく問題にしない.第三の像の究明が進むにつれて,第一の像の正当性もしだいに明らかになりつつある.

このようなロックの研究の現状では,彼の研究については比較的新しい参考文献を選ぶのが望ましいであろう.それはともかく,まず彼の著作と,そのうち何を読むべきかについて触れておこう.ロックの著作の完全な全集はいまだに出版されていない.校訂もゆき届き,語彙解説つきの 〈“The Clarendon Edition of the Works of John Locke", General Editor: P. H. Nidditch〉 が目下(1975 以降)進行中であるが,現在までのところ 〈“John Locke, An Essay concerning Human Understanding", ed. with an introduction, critical apparatus and glossary by Peter H. Nidditch, Oxford, 1975〉 と全八巻よりなる 〈John Locke, “The Correspondence", ed. by E. S. De Beer〉 のうちの7冊としか出版されていない.こうした現状のもとでは,不完全な著作集に頼るか,単行本として出版されたものに頼る以外にはないわけで,この種のものでは 〈“The Works of John Locke", A New Edition, Collected in ten vols, London 1823〉 があり,これは1963年にドイツの Scientia Verlag, Aalen からリプリント版が出ていて,入手し易い.なおロックの著作にどんなものがあるかを知りたい者には,〈The Works of John Locke-A comprehensive Bibliography, from the seventeenth century to the present, compiled by John C. Attig〉 があって便利である.

ところで,Lの著作の何が読まれるべきかについて述べなければならないわけだが,読者がLの思想のどの側面に関心を寄せるにせよ,上記の〈人間の理解についての小論〉は絶対に読まなくてはならない.これは小論(Essay)と名づけられているが,4部からなる大著で,しかも読み易い英語ではない.ともかく,第一部一章のIntroductionをまずよく読んで,著者の意図を十分咀 して,この理解のうえで第一部および第二部の全体を読み,かつここに立ち止まらないで第三部および殊に第四部を入念に読むことが,大切である.これは,まるでLが本書を二部までしか書かず,しかも関心の中心が認識の経験的性格を論証しようとすることにあったかのような解釈が,わが国では現在でもなおまかり通っているだけに,重要である(ロックといえば,すぐに経験者だ,といわれるのはここに由来する).総じていって,Lの議論は割合に常識的に整合性を欠き,立てた前提から極端な結論にゆき着きそうになると,これを避けてつぎの主題に飛び移るようなことを平気で行っている.この点で全体としての脈絡をいつも心に留めておくことが必要である.ちなみに,本書と平行して,ライブニツの〈人間の理解についての新しい幾つかの小論 (Leibniz G. W., “Nouveaux Essais sur L'entendement humain")〉 を読むことをお勧めする.本書は,ロックの議論をほとんど遂語的に取り上げながら,これらに対話の形式でコメントするという体裁をとっているが,同時代者の立場からなされた現代でもなお最良の 釈書である.それはともかく,ロックのこの尨大な書物の全文を読む負担に耐えきれない者がいるとすれば,〈“An Essay concerning Human Understanding", Abridged and Edited by A. S. Pring-Pattison. Oxford. 1924〉 のようなものがあることを付記しておこう.

つぎにいま挙げた本書以上に影響力の大きかったロックの社会=政治思想について関心を寄せる者がいるとすれば,それと平行して〈統治に関する二つの論説〉のうち,それの Book 2 は必ず読まなければならない.そしてこのためには現在までのところ,〈“Locke's Two Treatises of Government", a critical edition with introduction and notes by Peter Laslett, London, 1967〉 を利用するのが最良である.歴史家でもある P. Laslett の手になるそのintroductionも,本書の成立の事情,それを取り巻く歴史的環境,その及ぼした影響などを克明に知るうえで,ひじょうに役立つ.ここには数々の新しい発見や見解が含まれている.Lの宗教および宗教道徳上の考え方について知りたい者は,少なくとも 〈The Reasonableness of christianity, as delivered in the Scriptures〉 と 〈Epistola de Tolerantia (A letter on Toleration)〉 は読む必要がある.論争に巻き込まれて,これらに対する反論の反論として書かれたこれらの続編と比べると,短いうえに,著者の思想の骨旨が要約されている.ちなみにこの後者については,現代英語による対訳のついた 〈John Locke, “Epistola de Tolerantia-A Letter on Toleration", Ed. by R. Klibansky, Tr. by J. W. Gough, 1968〉 がある.ただし,本書簡が歴史的に真に影響を及ぼしたのは,色々問題があるとされる W. Popple による英訳を通してだったという点も,考慮する必要があろう.ところで,筆者は,Lの丸ごとの原典に直接に立ち向かうまえに,J. W. Yolton がLの思想の全般の骨旨を知るために手際良く編集している 〈The Locke Reader, Selections from the works of John Locke with a general introduction and commentary〉 をぜひ勧めたい.このSelectionsは,Lがどのような範囲の主題を問題にしようとしていたかについて概観を得るためにも,また現代英語の知識だけでは極めて読みにくいLの英語にまずなじむためにも,適切な入門書たりうるだろう.このintroductionも大へん短いものだが,簡にして要を得ている.

つぎにロックの思想の研究文献に関してだが,Lの公正な研究が本格的に始まったのが戦後のことであるとはいえ,かなり尨大な数にのぼる.それゆえ,この概観が得たい者がいるなら,〈Jean S. Yolton and John W. Yolton, “John Locke, a reference guide", Boston, 1985〉 が役に立とう.ここでは,もっとも有益と思われる若干だけを挙げておこう.

1)は取り分け優れているというものではないが,小冊であって,最初に入門的なものを読むとしたら,ごく手頃であるというにすぎない.本書は,戦後のL研究の成果を踏まえながら,彼の政治思想,理解力論,言語観,認識論,宗教観(神)を彼の思想の各部門を手際よく解説している.最後に,ごくわずかではあるが,Lのテキストの抜萃を載せてあるのも便利である.

Lの思想の各分野にわたる,現在でもなお最良の入門書にして解説書は2)である.L思想の参考文献を一つ挙げよといわれれば,筆者は躊躇せずにこれを挙げるだろう.本書は,上述したような偏狭な解釈からLを救い出す決定的な一歩を踏み出した書物なのである.現在の目で見れば,Lの論争の相手,伝記的事実,思想評価などの点で若干誤まりと思える点も散見されるが,このことを含めてその後のL研究の出発点をなしている.本書の初版は1937年に出ているが,版を重ねるごとに改訂が施されているので,多くのノートや追加の加わった第三版以降のものがよい.

Lの伝記には1876年(1969年にリプリントがある)に出版されたHenry Richard Fox Bourne の〈ロックの生涯〉,などといった極めて大部のものがあるが,限られた資料をもとにしたこれらは,今ではすっかり色褪せている.3)はこの面で,今日可能なかぎりの資料を渉猟して,人間ロックに迫ろうとしている.といっても,文学的にヴィヴィッドな伝記といったものではない.けれども,例えば異常なまでに秘密主義や吝嗇に徹する彼の性格の一面などが興味深く描かれている.Lの思想に触れた箇所などで首をかしげたくなるところも散見されるが,概して優れた伝記に算えてよいだろう.単なる理論家としてのみLを扱う研究の通弊に対して,平衡を取り戻させてくれるだろう.

上述のアーロンと並んで,4)はぜひ読まなければならない.本書は,Lの〈理解論〉が元来,当代のイギリスで問題にされていた道徳上・宗教上の論議にいかに適切な答え方ができるかという動機に発したものであるという基本的見地のもとに,Lの認識論 (the Way of Ideas) を再検討しなおしたものである.この際Lの論争の標的がどこにあったかを具体的な証拠を挙げながら,詳しく説明し,彼の論議の真の意味と射程を明らかにしようとする.ともすれば,時代の文化的脈絡や問題性から思想書を切離し,思想一般として取り扱おうとする傾向に対して,本書は思想史研究がどうあらねばならないかを,説得的に教えてくれる.10)は,おなじ著者による〈理解論〉の選択的な 釈書である.これは上述の著者の基本的観点に立って,伝統的な解釈の再吟味を企て,それらがLの実の主張や見解とひどくかけ離れたものであることを示している.

6)は小著であるが,その初版がロックの政治思想のその後の研究の出発点となった重要な基本文献である.この第2版は,初版以後のロックの資料の発見やその後の批判を考慮して広範な改訂が施されている.しかしながら,Lの〈統治論〉の歴史的重要性が立憲政体の護持と絶対君主制への反対にあるという著者の主張は変化を受けていない.副題で8つの研究と銘打たれているように,本書はLの政治思想の全体を取り扱うものではなく,著者のこの信念にもとづいて,自然法,人権,所有,分離,寛容などといった今日でも重要な8つの主題を,思想史的に,またLの思想発展史の脈絡で追求している.好著である.

7)はこれとはあくまで性格を異にする.本書は政治哲学者としての彼の学説とその体系性を問題にするのである.という意味は,上述のようなゴフの信念やこれに反対するおなじくうえに挙げたラスレットの見解にも反対して,Lが当代の政治事件に触発されながらも,これを越えた一政治哲学を構築しようとしたことを跡づけている.Lの論議は一見矛盾だらけに見えるが,その政治思想は彼の一定の人間観や道徳観にもとづいてそれなりの一貫性をもつことを,本書は示そうと試みる.

残りの8)および9)は極めて特殊な研究である.Lは色々の角度で研究されて毎年おびただしい文献がものにされているが,Lの政治に対する考え方を全面的に考察したものは少ない.セリジャーの8)はLiberalistの理論家としてのLの,テキストを詳細に跡づけた研究である.概して政府は,それが自由主義を標榜する政府であれ,権威的であるし,また権威のない政府は自由を有効に守ることはできない.とするなら,統治府の権威と人びとの自由はどのように両立するのか? またどのような統治府なら許容できるのか? Lの原典を詳しく り,こうした側面に関する彼の複雑な理論を解明しようとしたのがこの研究である.大著である.9)は厳密にはLプロパーの研究ではなく,ホッブスからロックにいたるいわゆる自由民主主義の理論のルーツに関する研究である.おそらくマルクス思想から多大な影響を受けたと思われる著者は,いわゆる Possessive Individual を生み出した市民社会の成立から,これら理論を解釈しなおそうとする.いろいろと論議の多い書物だが,このような視点もぜひわきまえておくことは必要であろう.

2) - 6 G. W. Leibnizについて.この途方もない巨人,人間のほとんどの知識領域でそれぞれの専門家以上のまたはこれに匹敵する知的貢献をなし遂げた稀有の天才の全集は,今日までなおほんのわずかしか出版されていない.遺稿が尨大過ぎるのである.実際,彼の全集 〈Gottfried Wilhelm Leibniz Samtliche Schriften und Briefe〉 は戦前の1923年に始められ,その後旧東ドイツの Deutsche Akademie der Wissenschaften zu Berlin に引継がれた(その後刊行のゆくえがどうなったかは未詳である).現在までのところ大型本の20冊が出版されているだけである.すなわち,第1シリーズの 〈Allgemeiner Politischer, und historischer Briefwechsel〉の13冊,第3シリーズの〈Mathematischer, Naturwissenschaftlicher und Technischer Briefwechsel〉 の2冊,第4シリーズの 〈Politische Schriften〉の2冊,および第6シリーズの 〈Poilosophische Schriften〉 の3冊が,それらである.その完成の見通しも立っていないようである.

こうした現状のもとでは,ライブニツの諸著作に触れるには,不完全ながら著作集として,あるいは何らかの単行本として出版されたものを利用する以外にはない.統合的な個人の思索のうちある分野に関するものだけをどこまで画然と切離せるかは疑問であるし,また哲学的思索に関しては殊にこのことは強くいえると思うが,さいわいなことに,〈哲学的著作集〉も名づけられるややまとまったものは幾つか出ている.古いところではエールトマンの手になる 〈G. W. Leibniz, “Opera Philosophica Omnia", instruxit J. E. Erdmann, 2 Bd, Berlin, 1840(これには一冊にまとめられた1974年のファクシミリ版がある)〉があるが,しかし現在までのところ一ばんまとまっているのはやはり,〈Die philosoplischen Schriften von Gottfried Wilhelm Leibniz, hrsg. von G. J. Gerhart, 7 Bde. Berlin 1875~90〉 であろう.これは1965年にHildesheimのGeorg Olms 出版社から写真製版で再版が出されている.なお今日もっとも入手しやすいものとしては Insel Verlag から 〈Gottfried Wilhelm Leibnitz: Philosophische Schriften, hrsg, und ubste von Hans Heinz Holz, Frankfurt a. M. 1965~90〉 が出版された.これは,原典がドイツ語以外の言葉で書かれているものにはすべて平易な現代ドイツ語の対訳(長文の原文を短いドイツ語に変えるなどの工夫がこらされている.全部に目を通したわけではないが,若干の誤訳が散見される)と簡単な 解がついており,しかも小型本なので,大へん便利である.またこれにはゲープハルトに収められていないものも収められている.

ライブニツの著作の単行本は,全集が不完全なだけに,かなりの数にのぼる.しかしここでは,どの著作集にも収められていないので大へん重要と思われるものもあるにもかかわらず,それらを割愛する.その代りに,ここでは,L. E. ロウムカーの編集になる英訳の著作集 〈Gottfried Wilhelm Leibniz, Philosophical Papers and Letters, A Selection trs. and ed. with an Introduction by Leroy E. Loemker, 2 nd ed. Dordrecht/Boston, 1969〉 を1つだけ挙げておきたい.この著作集には,Lの大著〈神義論〉や上述の〈新理解論〉などは収められていないが,いろいろの意味で大へん勝れた書物だからである.さて,私はこの大哲学者の哲学思想のバランスのとれた理解のために,どのような著作ならびに書簡を読むべきかを自信をもって勧められるほどの知識をもち合わせていない.この面でいうなら,この訳書は適切なSelectionを提供してくれるかに見える.しかも本書は,Lの諸作品を各分野にわたって年代別に編集しており,この点で彼の思索の歩みを仔細に知ることができる.第二に,本書には新書版の書物およそ一冊に相当するぐらいの 〈Introduction: Leibniz as Philosopher〉 が前置されていて,これが大へん有益なのである.この手引きは,むろんこれにつづく抜粋と深く関係しているわけだが,しかしこの役割を越えて,Lの多方面な活躍,彼の哲学の広がりとその核心等々に関して一面に偏らない勝れた紹介になっている.またその末尾に付された短評つきの L. Bibliographyも極めて便利である.これは,L哲学に関するもっともバランスのとれた最良の入門書といってもよいかも知れない.

つぎのL哲学に関する研究文献であるが,これらも尨大すぎて概括できるものではない.うえに述べたロウムカーのBibliography(同著者にはまた 〈Leibniz in our Time, Philosophische Rundschau 13 (1965~66) のようなものもある〉は別にして,もし概観を得たい者がいるとすれば,〈Leibniz Bibliographie, Die Literatur uber Leibniz bis 1980 begrundet von Kurt Muller, hrsg. von Albert Heinekamp, Frankfurt a. Main, 1984〉 を参照されることが勧められる.それゆえ,ここでは重要なわずかに制限される.

入門的なものとしては,比較的小著である.

がやはりまず勧められよう.これは,全体が2部にわかれ,前半では時代背景を考慮しながら,Lの思想発展の歩みを追い,後半では彼の思想を体系的にスケッチする.入門書とはいえ,あまりやさしくはない.フランス人の著者らしく,Lをデカルト哲学の批判者として描く試みの準備段階として書かれている.イギリス思想との関係などが手薄といえる.伝記的なものとしては,

これはやや古くなっているが,いぜんとして最良の伝記だろう.この第5版には,W. Kabitz の手になる補遺が付け加えられており,そこで,これまたかなり古くなった1920年までのLの伝記的研究の詳細な報告がなされている.ところで,ライブニツの研究の古典といえば,カッシラー,ラッセル,クーチュラによる研究が挙げられるのが普通である.これらは今日にいたるもなお陰に陽に影響をもちつづけているが,ロウムカーのIntroductionのなかで指摘されているようにかなり一面的である.それゆえ,これらを概観的に知り,かつそれらがどのような難点を含むかを知るには,

などを参照されるのが適切だろう.前者は1990年以来の重要なL解釈に対する批判的吟味の点で欠くことができない.著者自身は個体主義と普遍主義とのLによる統一を現象論のうちに見ようとしている.後者もまた伝来の諸解釈の一面性を知るうえで重要である.本書は,明白に別々の接近の統合を試み,特にLの形而上学におけるdynamiqueの重大な役割に注意を向けようとしている.おなじ意味で,一面的解釈を避けて,Lの広範囲にわたりながら,断片的に見られる思想を統合的に把握しようと努めている著作に,

がある.本書は,Lの思想の由来等々に関するいわば歴史的究明をきっぱり断念し,それぞれのLの着想をLのテキストに厳格によりながら,内在的に理解しようと試みる.それは,Lの思想のそれぞれ異なる諸要素の統一が,それらの根底に潜むいわゆる system of constitutive law に依存すると一貫して解釈するのである.すでによく知られる諸命題がこの光のもとでまったく新しい意味づけが与えられている.

以上で17世紀哲学史上の基本文献の遺漏の多い紹介を終る.大へん重要だが,専門誌に載せられたような論文(articles)は一つも取り上げられていないことは,この紹介の最大の欠陥である.(三浦和男)