先府君古學先生行状

子長胤 謹■

先君子、諱維驕A字源佐。初の名維貞、字源吉。幼名源七。姓は伊藤氏。其の先世泉州堺津に住す。高祖道慶諱某。妣某氏。曾祖了雪諱某。妣某氏。祖了慶府君、諱長之。妣榎本氏、空心居士直治の女。久保氏、大原の人某の女。府君本姓長澤氏。攝州尼が崎に居す。曾祖君の家に養はれ、遂に伊藤氏を冒す。元龜天正の間、攝泉二州の間大に亂る。閭里ならず。遂に京師に遷り、近衞の南堀河の東街に住す。廢著し家を作こす。考了室府君諱長勝、字七右衞門。妣壽玄孺人、里村氏法眼玄仲の女なり。男三人有り。先君子其の長子なり。寛永四年、丁卯秋七月二十日甲申牛の刻、先生堀河の宅に生る。幼にして深沈競はず、常兒に異なること有り。甫十一歳、師に就て句讀を習ふ。初て大學を授かり、治國平天下の章を讀む。謂く今の世亦許の如き事を知る者有らんや。既にして稍詩を屬す。語を出すこと凡ならず。衆共に嘆異す。十九歳に逮んで、先考に從て琵琶湖に遊ぶ。詩を賦して云ふ。古來云へり此水、一夜平湖と作る。俗説尤も信じ難く、世傳■しくも亦迂なる。百川流て已まず、萬谷滿て相扶す。天下滔滔たる者、憐に應じ異ヘに趨ふ。又園城寺の絶頂に登る詩に云ふ。山行六七里、往て杳冥の中に到る。船遠にして顯閧ニして去り、天長にして漠漠として空し。嶺は環る邨落の北、湖は際る寺門の東。男子空死すること莫かれ、請ふ看よ~禹の功。皆長老の爲に記せらる。時に李延平答問を購て之を讀む。熟復釋せず、紙爲に爛敗す。是自り心を伊洛の學に覃す。專ら性理大全朱子語類等の書を讀み、日夕研磨す。其の凹に詣り、無極の吟を作て云ふ。本未だ曾生せず、豈又死せんや。悠悠たる葢壤吾身を共にす、人有り若し斯心の柯を問はゞ、無極の一圖是れ箇の眞。時に心學原論、太極論、性善論を著す、皆二十八九歳の間に在り。其の居する所、自ら誠脩の二字を掲て以て自ら警む。俄にして羸疾に罹る。驚悸寧からざる者、殆ど十年所、首を俯し几に傍り、門庭を出ず。左近の里人、多く面を識らず。其の與に語る所の者は、井上養白一人のみ。時に儒學未だ盛ならず。其の學ぶ者、專ら詞賦記誦を以て務と爲て、道學を講ずる者稀なり。故に親舊知識、多く勸む醫と爲るのは售れ易からんと。催督甚だ苛にして、先生のみ聞かざるが若し。千辛萬苦、始て志の如くすることを得。宅を仲弟に附して、松下巷に■居して書を讀む。間之を佛老のヘに求む。嘗て白骨觀法を修す。之を久ふして山川城郭、悉く空想を現するを覺ゆ。既にして其の是に非なるを悟て醇如たり。寛文壬寅京師地震、遂に家に還る。是より先宋儒性理の説、孔孟の學に乖くを疑ふこと有り。參伍出入、沈吟年有り、是に至て恍然として自得す。略條貫に就く。乃ち謂ふ大學の書、孔氏の遺書に非ずと。及び明鏡止水、冲莫無朕、體用理氣等の説、皆佛老の緒餘にして、聖人の旨に非ずと。始て門戸を開き、生徒を接延す。來者輻湊して、戸■常に滿つ。信ずる者は以て間世の偉人と爲、疑ふ者は以て陸王の餘説と爲。先生其の間に處て、是非毀褒、恬として問はず。專ら往を繼ぎ來を開くを以て自ら任ず。時に年三十六、始て論孟古義、及び中庸發揮を艸定す。又同志會を設く。夫子の像を北壁に掛け、鞠躬して拝を致し、退て經書を講説し、過失を相規す。又許氏月旦の評に倣ひ、人物を品第し、生徒を倡勵す。或は私擬策問をして、以て書生を試す。經史論題を設け以て文を課す。月ごとに率ひ以て常と爲。延寶癸丑五月、京師大に火あり。先生災に遭ひ、京極大恩寺に僑居す。是より先母孺人膈噎を患ふ。奉養愼至、引て三年に至る。時細川越中侯幣召す。侍養人無きを以て辭す。是歳七月十一日、孺人遂に僑居に終す。終に臨んで合掌作禮、先生孝養の篤を謝す。視る者感涕す。先生朞の喪に服す。是歳越藩の大安侯、其の名行を欽で、將に使幣海物を致さんとす。左右言ふ源吉方に母の喪に居れり。甘旨の味、恐らくは■嘗せず。侯の曰く獨り父の在す有らずや。乃ち之に賜て祖考に供せ使む。冬に及んで宅成る。越て明年九月十日、了室府君亦卒す。喪に服すること前に通じて凡四年云。丙辰の歳に及んで服■む。十月始て論語を開講す。月ごとに三八日を定む。是自り論孟中庸の三書、反覆輪環、終て復た始む。傍ら易大學近思録等の書に及ぶ。ヘ授倦まざる者、四十餘年。講ずれば必ず直に主意を明す。間己が見を述べ、務て學者受用の地を爲さんと欲して、末義を研究せず。聖賢の言を述ぶること、自言を述ぶるが如く、從容厭飫、■點を事とせず。聽者竦動して、警發する所多し。名望日に隆んに、遠邇に達す。■紳家左を虚して待を以てす。乃至士庶の往來して京に過ごす。稍志有る者は、有學無學を問はず、一たび其の面を識り一たび其の講を聽くことを願はざること莫し。道要を叩問し、疑難を質正し、虚にして往き實にして歸す。歎服せざること莫し。刺を投じて來謁する者、録に著るゝこと凡そ三千餘人。其の生徒をヘ導する、未だ嘗て科條を設け、督察を嚴にせず。而して其の侯國に友ヘし、邑里を訓化する者、各其の材を成す。皆人の爲に知らるる。平日學者に勸むるに、道術を明し、治體に達し、有用の實材爲るを以てして、空文に■せ、記誦に流るることを戒む。一も字を識らざるの人と雖も、之に告ぐること諄諄反覆、唯其の意を傷ふことを恐る。其の言を聽て各得る所有り。其の文辭理平穩、務めて曉り易きことを欲して、繁文綺語を事とせず。時に宗匠を推し、一篇出づる毎に、傳播咀嚼、人以て楷と爲。又譯文會を創め、國字を以て古文を換寫し、學者に與へて、復するに漢字を以てし、其の添減順逆の別を校へて、以て文法を諳ず。甚だ初學の弘益爲り。貞享中、豊の中津の僧道香都に到る。將に歸らんとし文を請ふ。先生序を贈て云ふ。人自り之を視れば、固に儒有り佛有り。天地より之を視れば、本儒無く佛無し。吾道師道、豈二有らんや。人或は其の儒佛を一途に混ずるを疑ふ。後乃ち云ふ釋迦と雖も今日の天地を離て獨り立つこと能はざるときは、則ち自ら儒道の離る可かざるを見ん。此に因て膾炙日に盛に、四遠に流布す。對州の醫人大塔貞安■し到るに因て、朝鮮國に流はる。其の府使安愼徽甚だ歎賞して、以為らく其の旨趣固に古人と異なり、而して文辭甚だ佳、日本未だ許の若き文有ることを聞かず。携て其の國都に歸す。元禄の季に逮んで、遂に宸聽に達す。其の文を宣索せらる。兵部の大輔藤原の貞維朝臣に因て以て進む。士林榮とす。平生未だ嘗て京邑の外に出ず。唯南京大坂丹の保津、皆門生の爲に招かるる。時に或は一たび至る。元禄中、鳥居播磨侯忠救の欽待に因て、江の水口に到る者再び。其の論説を聽き、歎異する所多し。爲に其の六世の祖長源侯元忠の墓碑を撰定す。其の學專ら論語を以て主と爲て、孟子之に次ぐ。以為らく論語はヘを言て、道其の中に在り。孟子は道を言て、ヘ其の中に在り。其の古義を著す。論語毎卷の首に、最上至極宇宙第一の八字を安ず。以て崇重の意を致す。門生或は其の甚だ聽聞を駭くことを言ふ。後乃ち削り去る。嘗て言ふ論語孟子を本經と爲、詩書易春秋を正經と爲、其の餘三禮三傳等を雜經と爲。總て之を名て羣經と曰て、爲に總序を作さんと欲す。天和癸亥、稻葉石見侯正休巡察して京に到る。爲に語孟字義を著す。既にして長澤純平の請に因て、大學定本を著す。專ら古本の敘に據り、稍刊定を加えて云ふ、格物本闕に非ず。葢し八者各其の序を得るを以て物を格ふすと爲。格を訓じて正と爲。本文に所謂誠意は特に一項を擧るを以て證と爲。其の中庸發揮を述ぶる、以らく喜怒哀樂等の四十七字、本古樂經の脱簡にして、中庸の本文に非ず。其の鬼~を論ずる巳下、亦本書に非ず。故に此章自り巳下を斷じて、定て下篇と爲。其の辨正甚だ多を以て名て發揮と曰ふ。其の詩に於るや、以為らく詩の作、皆直に人情を敘す。凡そ悲歡憂樂、物情世態、皆是に於て寫す。故に之を讀むときは則ち人を待して恕、物に接して寛、徒に勸懲黜陟を見すのみにあらず。其の之を讀む者、皆章を斷じて義を取り、遊戲自在、本是事を賦するなり。而して讀者の見識如何といふに隨て、千變萬化、一に拘はる可からず。嘗て詩傳を著して、古人詩を引く者を各章の下に擧て、以て詩を引くの活法を見んと欲す。志有て未だ果さず。其の書に於るや、朱子呉文正の説に從て、專ら今文を取る。以為らく古文始て晉隋の間に出づ。皆後儒經傳引く所、韋昭杜預等闕て逸書と爲る者を■拾して以て成る。眞の古文に非ず。今文は則ち伏生口授する所にして、最も信用す可し。其の大禹謨に云はるる、人心道心等の語、本荀子解蔽篇に出て、舜禹授受の本語に非ず。而して其の大要夫子無爲自化の説を黜て、專ら唐虞自り以下を斷じて始と爲るの意を知るに在り。其の易に於るや、以為らく古者易學自ら二家有り。儒家の易有り、筮家の易有り。彖象文言は、專ら義理を説き、繋辭説卦は、專ら卜筮を言ふ。今日孔子のヘに從て、易を以て義理の書と爲るは、則ち當に彖象に從て以て其の義を見るべし。故に專ら程傳に據て主と爲。司馬遷揚雄等の諸儒、始て十翼を以て孔子の作と爲。歐陽永叔陸象山趙南塘等皆之を疑ふ。先生亦其の説に從て、以為らく彖象の作、葢し孔子に先だつ。嘗て易の凡例、乾坤及び文言大象等の傳を述ぶ。其の春秋に於るや、以為らく直に其の事を書し、美惡自ら見ゆ。甚だ公羊穀梁穿鑿の説を斥け、專ら左氏に據て説を爲す。嘗て經傳通解を作す。左氏の文を節し、之を經に繋げ、以て其の意を明す。其の書未だ成らず。先儒甚だ獲麟の説を重んじ、諸説紛紜たり。先生以為らく此公穀二家の脱簡にして、然れども本大義繋がる所に非ず。左氏記する所、獲麟の後、尚二年の經有り。葢し孔子身を終るまで續書し、以て四月の前に至る。遊夏の徒、其の夫子の成す所を爲すを見んと欲し、爲に四月己丑の一句を記す。故に哀公の一篇亦解を作す。其の禮記に於るや、以為らく漢儒附會の手に出づ。然れども間確言多し。嘗て彙めて之を録せんと欲して、未だ果さず。其の天道性命の説に於る、皆專ら氣に就て言を爲して、未だ嘗て理と説かず。大要以為らく天の元氣有るや、猶を人の元陽有るがごとし。是自り巳上、聖人其の説無し。故に易に唯乾元坤元と言て、未だ嘗て其の然る所以の理を説かず。又謂らく仁義禮智は天下の達コなり、惻隱羞惡辭讓是非は人の本心なり。人苟も擴て之を充ることを知るときは、則ち能く仁義禮智のコを成すことを得。此れ孟子ヘを立つるの本旨にして、達と曰ひ充と曰ひ、皆學者受用の方なり。惻隱羞惡等の四者は、仁義に至るの端本なり。仁義の端緒に非ざるなり。漢自り巳來、宋の周子に至るまで、猶を其の説に仍る。程朱子出るに至て、始て仁義を以て性と爲て、四端を情と爲。是に於て體用内外、持敬主靜の説興て、擴充存養の方疎なり。嘗て言ふ天下道より尊きは莫し。而してヘ之に次ぐ。性は則ち道を成しヘを受くるの地なり。晩年童子問三卷を述べ、以て其の意を明す。專ら修齊治平の要を述べ、最も學者受用の功を備ふ。又嘗て言ふ聖人は人に因て以てヘを立て、ヘを立て以て人を驅らず。又言ふ人倫に害あり、日用に遠ざかり、天下國家の治に益無き者は、皆之を邪説と謂ひ、皆之を暴行と謂ふ。又言ふ儒者の王道に於る、猶を孫呉の兵に於る、盧扁の醫に於るがごとし。人以て確言と爲。凡そ纂述の書、遂旋修改、未だ嘗て手を停めず。故に其の書未だ嘗て刊刻せず。門人傳録、亦異同多し。其の古人に於る、最も范文正公明道先生及び許魯齋三人に服す。嘗て魯齋心法を序して、之を刊布す。以為らく實コ有て後實材之に從ふと云ふ。其の文を爲す、專ら唐宋八大家を宗として、文選浮靡の習、明氏鉤棘の辭、皆取らず。明に在て、唯唐荊川順之、歸震川有光、王遵巖愼中三家を取るのみ。其の詩を爲す、專ら杜詩を祖とす。以為らく詩の聖なる者、嘗て鶴林玉露、詩人玉屑等の書を愛し看、又嘗て桓寛が鹽鐵論を稱す。以為らく其の王道を論ずる、孟子に合ふと。又謂らく陸宣公が奏議、眞西山が衍義、皆治道に益有りと。性資寛厚和緩、人其の疾言遽色を見ず。城府を設けず、邊幅を修めず。未だ嘗て古怪迂僻矯激の行を為し、以て駭異を取らず。人少長と無く、之に接するに誠を以てす。厭怠の色無し。其の大義の關する所に及んでは、之を誘ふに萬鍾を以てすと雖も、而れども奪ふ可からず。常に字を書することを好んで、未だ嘗て法帖を模臨せず。毎旦晨に起す。先づ几に憑て楷艸數紙を亂書す。家人餐を促すこと頻頻にして始て罷む。率以て常と爲。間意適ふに遇れば、或は和歌を賦す。眞率興を遣し、巧緻を要せず。常に天氣明媚の候に値へば、子弟三數輩を拉さへ、杖■■佯、吟詠して歸す。家本寒薄。伏臘支へ難し。先生之に居て泰然。儉素自ら牧ひ、贏餘を求めず。仕を求めざるに非ずして、仕を求むるの計を爲さず。禍を避けざるに非ずして、禍を避くるの謀を爲さず。利害得失、一も懷に介さず。嘗て壁に題して云ふ。天空海闊小茅堂。四序悠悠春色長。笑殺す淵明が卓識無きことを。北窓何ぞ必ずしも犧皇を慕はん。又新正に遇ふの詩に云ふ。家本十餘口。既に尺寸の田無し。幸に太平の日に逢て、自ら米鹽の■を免る。道は唐虞を以て準じ、學は鄒魯に從て傳ふ。眼前兒女侍る。萬事醉て陶然。其の囂囂自得の境、葢し此の如く云ふ。嘗て仁齋と號す。居する所堂前海棠一株有り。因て又棠隱と號す。著する所論孟古義十七卷、中庸發揮、大學定本、周易乾坤古義各一卷、語孟字義二卷、童子問三卷、文集三卷、詩集一卷、春秋經傳通解、日札、極論、讀近思録鈔、皆未だ書を成さず。緒方氏を娶る。玄安の女。繼で瀬崎氏を娶る。豈哲の女。子、男五人。長胤、長英、長衡、長準、長堅。女三人。仲は小見山氏に適く。餘未だ嫁せず。寶永二年乙酉三月十二日丙午未の時、家に終る。享年七十有九。越て望日己酉、小倉山二尊院先塋の側に葬る。墳の高四尺。以て馬鬣に擬すと云ふ。私に諡して古學先生と曰ふ。將に以て文を大手に乞ひ、以て幽堂に表せんとす。是歳八月下澣孝子長胤謹で状す。

正コ丙申、將に本集に附刻せんとす。時校定一過す。



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