与那国の豊年祭-2006年の図録および小考
                                              野村伸一

 1 はじめに

 2006年7月20日から22日にかけて与那国島祖納(ナンタ、波多ともいう)で豊年祭を見学した。与那国では二年に一度、大綱引きがあり、豊年祭をにぎわしている。残念ながら、2006年は綱引きのない年であった。
 もっとも、東アジアのなかの豊年祭の現場をみることに主眼があったので、綱引きの光景がみられなくてもあまり差し支えはなかった。
 八重山の豊年祭は棒踊りや舞踊、狂言だけでなく、弥勒や獅子が登場することが多い。しかし、2006年の与那国の豊年祭では弥勒の行列と獅子舞はなかった(かつてはどちらもあった。後述)。狂言もウブンダ(後述)のほかにはなかった。一方、棒踊りは六尺棒、三尺棒、櫂、鎌、刀など、採り物の種類も多く、力強いものがあった。首里の幸地氏が与那国に漂着してから広まったという伝承がある。これは文献資料はないが、組踊も伝来しているので、ありうることだろう。
 以下は、当日の記録ノートを補う図録である。

 2 日誌

 2006年7月20日  (旧暦6月25日。なお、かつては旧6月の「第一吉日」(池間栄三『与那国の歴史』))


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    (*図版は拡大できます。)


 祖納の十山ウガン  夕刻から祖納の十山ウガン(お嶽)でツカサと公民館長らによる祈願がある。これは翌朝までつづく(図版1)。また芸能を奉納する地区の旗頭がウガンに勢揃いする(図版2)(図版3)(図版4)。

 与那国は2006年現在、人口約1700人。集落は祖納、久部良、比川の三つからなる。そそれぞれの集落で豊年祭をおこなう。ちなみに、2006年は7月10日に久部良、比川の豊年祭、7月21日に祖納の豊年祭が予定されていた。今年(2006年)、比川は事情により祈願だけとなったが、例年は各地区で豊年祭をおこなう。
 祖納は役場などのあるところで、東、西、島仲に三分される。それぞれの地区に公民館があり、芸能も各公民館単位で組織される。そして、祖納の豊年祭の当日はこの三地区の芸能が十山ウガンに集まり、東、西、島仲の順に奉納される。

 2006年7月21日


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 前夜からつづく祈り。ウガンの庭には13の膳が並ぶ(図版5)。与那国にある13のウガンのための膳である。ただし、この膳の上の供物は13回取り替える。すなわち、ひとつのウガンに向かって祈りを捧げるたびに膳を改めるのである。
 トゥーティークン  ウガンの敷地には「トゥーティークン」の祠もある。これは敷地の神。供物が置かれる(図版6)。中国の土地公tudigongと同じ意味のものである。
 獅子と弥勒の面  獅子と弥勒の面(図版7)(図版8)。これは現在の豊年祭では用いない。ただし、かつては比川邑では女が、島仲邑では男が弥勒面をかぶり、舞子の一隊を連れて登場した。そのときは弥勒節を歌った。また、祖納邑の東部落と西部落は弥勒面がないので、代わりにウプンダが登場した(図版9)。つまりウプンダと弥勒は本質的には同じなのである。一方、獅子の面は9月のシティにおいて用いる(池間栄三『与那国の歴史』、琉球新報社、1972年再版<1957年初版>)。


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 祖納集落東地区のウブンダ(図版9)(図版10)。沖縄本島などでの「長者の大主(ウフシュ)」に相当する。長寿(120歳)で子孫(330人余り)に恵まれた老人によって、祝福のことばが伝えられる。こうした冒頭の挨拶は、中国地方劇の儀礼的な演戯(八仙や加冠など)と同じ性格のものであろう。
東地区。棒を持つ男たちの勢揃いスナイ(揃い)(図版11)。
 東地区。女性三人によるミティ唄(図版12)。
 東地区。イララ六尺(図版13)。イララは鎌、六尺は棒。
 東地区。ちでぃん口説(図版14)。農作物を植え付け、豊作を祈願する。同時に豊年を迎えた喜びをも表す(2006年、現地の配布物)。ちでぃんとは太鼓のこと。


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 西地区。ダング棒(図版15)。ダング(櫂)を持つ漁師を野武士が急襲する。野武士は刀を持つ。
 西地区。ティンバイ(図版16)。二人の男がそれぞれ長刀(なぎなた)、陣笠・刀を持って踊る。
 島仲地区。高那節(図版17)。八重山民謡高那節に合わせて優雅に踊る。
 島仲地区。4人の女性による「ながく節」(図版18)。大国から福禄寿が与那国にきて、今からは「ミルク世果報」。福禄寿に五穀の豊饒を祈願すると同時に、島の繁栄と喜びを祝う((2006年、現地の配布物)。


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 各地区の奉納芸能が終わったあと、ウガン前の広場でドゥンタが歌われる(図版19)(図版20)。大勢の人が篝火の周りに集う。老若男女が進んで手をつなぎ、左に巡りつつ「今日か日ドゥンタ」を歌う。輪の内側には太鼓を叩く者がいて、興を盛り上げる。これは奉納芸能とはまた別の趣があった。
 なお、東アジアの祭祀の最後は大体、こうした群舞である。沖縄のカチャーシ、奄美の六調、朝鮮南部のホットゥンチュム(仮面戯のあとの乱舞)など、これらは中国原初の農耕感謝祭の系譜の上にあるものかもしれない。

2006年7月22日


 アンタドゥミ(神別れ)。朝、8時過ぎ、十山ウガンにツカサと各地区公民館長が集まり、別れのことばを唱え、最後の祈願をする(図版21)。

 3 小考

 1.  与那国はかつては各ウガンにツカサがいて、神事をとりしきっていた。しかし、2006年現在、ツカサは一人だけである。88歳の高齢であり、後継者は石垣島に一人いて祭事のときには通ってくるという。伝来の神事はかろうじて維持されているという状況である。
 ただし、豊年祭においてみられた各地区の人びとの熱意は健在である。ツカサの役割の多くは公民館長にとって代わられたが、奉納芸能を通して一年の農事に区切りをつけようとする心意はなお共同体の中核に生きている。


7月21日の朝、ツカサは五穀豊穣と村人の健康祈願をする。前日来泊まり込みである。これが今日の神事の姿である

 2. 中国との繋がりが確かめられる。
 ①トゥティークン
をまつること。
 ②芸能の冒頭に長者が登場すること。弥勒や長者が冒頭に現れて祝福するのは、中国の八仙に相当する。八仙は中国地方演劇ではつきもので、一種の祝福儀礼を演じる。
 ③棒踊りがさかんに演じられること。棒術は八重山の豊年祭では人びとの注目を集める演し物である。それは獅子舞と密接な関係がある。いうまでもなく祓いの直接の表現であろう。この格闘の演戯は古代の蜡祭あるいは臘祭にすでに含まれていたとみられる。そして、それは今日の中国でもやはり重要な演目である。たとえば広東省汕尾市の正月の芸能でもみられる。
 ④与那国には「与那国の(ユナグニヌ)猫(マヤ)グワー」という民謡がある。ネズミ取りの巧みな猫を王府に献上して親雲上(プーチン)の位を授かったときの喜びの歌という(『沖縄大百科事典』)。猫を讃える発想は蜡祭に由来するものだろう。
 3.  与那国には「ウブンダ」をはじめとして、かつては数多くの狂言があった(与那国町教育委員会編『与那国島の祭事の芸能』、与那国町教育委員会、1988年)。今日では、年末年始のマチリのときに比川で狂言がおこなわれているていどである。狂言(ウェブサイト「波照間島のムシャーマ」の「狂言にみる豊年祈願」参照)は方言による言語伝承を中心としたものなので、維持がむずかしいのであろう。なお、この対話の演戯の淵源は中国の参軍戯、さらに遡って「百戯」に求められるであろう。それは12月の総合的な祝祭「臘祭」のなかですでにおこなわれていたとみられる。
 4.  与那国では旧暦9月に十山ウガンでシティ祭をする。これは「悪魔払いの祈願祭」である。獅子舞、棒踊り、さらにかつては組踊もおこなわれた。ここで注目すべきは、干魃や疫病など、集落の危機においてはシテガン(結願)をおこなったことである。かつては民力の回復を待って、「七年に一回」、シティ祭と一緒におこなわれていたという。それは「豊年祭とシテ祭とが合したようなもの」ともいう(前引、池間栄三『与那国の歴史』)。
 この伝承は注目される。すなわち、旧6月収穫後の豊年祭、年の切り替わり時のシティ(例年の厄払い)およびシテガン(危機のばあいの願掛け)という一連の祭祀は古代中国の年末の臘祭、儺儀および儺戯のつながりに相当するだろう。残念ながら、シテガンというこの「大掛のお祭」は現在はおこなわれない。

 (2013.4.30 補遺)
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