第2章 祭神と歴史


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 銀鏡神社は、 龍房山(りゅうぶさやま、 1021m)の西側の上揚(かみあげ)・銀鏡・八重(はえ)に、 東側の中尾を加えた4つの大字(旧村)を氏子圏とする。 行政村の旧東米良村は、 これに尾八重と中之股を加えた範囲であった。 大字には、 それぞれ狩行司(狩行事)という役職がいて、 狩猟や行政にも携わった。 この役は家で世襲で伝えられ、 現在では中尾の奥畑家だけが残っている。


 銀鏡神社は龍房山を御神体と仰ぐ遥拝所が神社になったのであり、 現在の社殿の後方のいちい樫が御神木であった。 祭りでは根元にマウギ(小さい木桟の七つ橋)を置く。 宮司であった浜砂正衛が昭和44年に書いた 銀鏡神社神楽由緒記」(『西米良村史』349、 350頁)によれば、 祭神の最初に龍房大神を挙げ、 山上に奥の宮があるとしている。 この記録では、 祭神を三種に分けて、

    一、(イ)龍房大神・二柱大神・天照大神・大山祇神・岩長姫命
        (ロ)宿神三宝荒神・火、水の神・二十八宿
        (ハ)六社稲荷大神・日向地主神・田の神

    二、       御神体は、 龍房山、 山上に奥の宮あり」
とする。

 伝承によれば、 大山祇命(オオヤマツミノミコト)の娘、 木花之開耶姫(コノハナサクヤヒメ)と岩長姫(磐永姫、 イワナガヒメ)が山に住んでおり、 ある時に岩長姫が鏡に自らの顔をうつすとひどく醜くかったので、 恥じて投げ捨てると龍房山の大木の枝にかかり、 山の西方を照らしたという。 岩長姫はこれを捜しにきて山麓に住んで田を開いた。 銀鏡とはこの鏡が光り輝いた所の意味で、 鏡を御神体として祀り岩長姫命と大山祇命を祭神とする。 別の説では、 肥後から米良に入山した菊池氏伝来の「割符御鏡」を「西宮日向国鏡」と称して祀ったという。 これは後醍醐天皇が征西将軍の懐良親王に下賜した鏡とされる(『西米良村史』348頁)。

 鏡自体は前漢様式の白銅鏡だという。 主神の西之宮大明神は懐良親王であり、 征西宮の略だとされる。 祭神には、 神体山、 山神、 女神、 鏡への信仰、 天皇の御子神の信仰などが複合し、 現在では、 大山祇命、 岩長姫命、 懐良親王の三柱を祀るとされるが、 その背景は複雑である。

 南北朝時代に、 懐良親王は正平16年(1361)に太宰府に下向したが、 筑後の矢部で弘和3年(1383)に亡くなった。 肥後の菊池一族の石見守重為が、 その子の爵松丸(後に良宗王)を奉じて入山し、 米良氏を名乗ってこの地を支配下に置いたという。 西米良村大字竹原字元米良がその入山の地であるとされる。 伝説によれば、 懐良親王を偲んで文明3年に大王宮を建立して、 生前に好まれた神楽を奉納したとも伝える(中武雅周『伝承 米良神楽』1983、 112頁)。 この地は菊池氏の後裔が支配する米良荘となった。

 最古の史料としては『熊野那智大社米良文書』が寛正2年(1461)に日向国の菊池一族に言及し、 現地に残る古い棟札としては、 天(あめ)氏重続の名称で、 村所の大王社には文明3年(1471)、 銀鏡には長享3年(1489)のものが残り、 その当時は社があったと推定される。 菊池氏の入山にあたっては、 在地の豪族の鈴木七郎民部少輔惟継が迎えたという。 鈴木氏は紀伊の熊野から銀鏡に入り、 神社の別当として26代続き(千葉徳爾『狩猟伝承研究』風間書房、 1969、 413頁)、 境内にはその氏神を矢村神社とし別社にして祀る。 浜砂家は鈴木家の子孫だという。

 銀鏡神社神楽由緒記」によれば、 「紀州矢ハズ村より移したる鈴木家の氏神なり、 今より約八百年前入山」とある。 別伝では、 黒木家の先祖が熊野から分霊を勧請して、 龍房山上に祀り山伏として仕えたともいう(石塚尊俊『西日本諸神楽の研究』慶友社、 1979、 221頁)。 主神の西之宮大明神は龍房山の西方の宮の意味かもしれない。 伝承では、 かつてハナヤには、 西之宮の右手に熊野権現、 左手に三身稲荷として三身仏(法身、 報身、 応身)が祀られていたという。 龍房山を御神体とする銀鏡の信仰は、 熊野系修験の影響を受けていた。



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