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6.松聖の験力


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 冬の峰の松聖の修行は、形式化した近世期の史料しか残っていないせいか、その中心眼目がなかなか捉えがたい。また現代の松聖の修行も表に見る通り、やはり簡単なものである。これに対して松例祭当日の神事はかなり古式を残している。ところで、すでに明らかにしたように、この松例祭の諸神事は、古来松聖の験競べとして行なわれてきたものであった。それ故、両松聖は冬の峰の修行によって体得した験カを、この験競ペ(松例祭の諸行事)で顕示していると考えられよう。とすると当然松例祭の諸神事の内容を検討することによって、冬の峰の修行の中心眼目を把握することができるということになる。そこで以下こうした視点に立って、松例祭の行事を分析することにしたい。まず松例祭の行事全体をその順序に従って大別すると、大松明丸き・間縄・綱さばきなど準備に関するもの、験競べと松引出、国分けと定尺俸の三つの部分に分けることができる。今、その一つ一つについて眺めて見よう。

 まず第一の準備に関するものの中では、大松明丸きが中心をなす。この時、松聖によって大松明に祈念がこめられている。間縄・綱さばきの両行事には特に宗教的意味は認められない。第二段階は験競べと松引出である。験競べは既述のように、神前に向かい合って左右に並んだ位上方、先途方各6人の修験者による烏とびから始まる。戸川安章の説明によると、烏は羽黒権現の神使であると同時に太陽を象徴する。次の兎の神事の兎は月山権現または月を象徴する。この兎を中心として位上方、先途方6人ずつ計12人の山伏が験を競うのである。その際、中の二人は陰陽、中央は1日、周囲を回るのは1ヶ月、12人は12ヶ月を示すという。そして、この羽黒御本殿内部の験競べは、1年間の吉凶禍福を占うもので、全体として年占い的なものであるとされている。とすると、この烏とびと兎の神事は松聖が1年間の吉凶を知り得るヒジリ(日知り)としての能力を獲得したことを示す験競へとも考えられよう注42)

 この兎の神事で興味深いのは、第五番目の役者の所作である。五番目は位上方、先途方とも松聖直属の小聖が勤める(その他はいずれも神官)。第四番目の役者が験競べを終わるとすぐ、正面の神官がこの時のみ南松聖の名を呼びあげる(その他の時には役者の個人名を呼ぶ)。と同時に外に向かって法螺が吹かれ、提燈が振られる。これを合図に大松明が引かれるわけである。一方、屋内では二人の小聖が扇子で兎の両脇の小机をたたき、兎が反応する。

 このことから考えると、本殿庭の大松明引きは、本来は本殿内部の両松聖〈実際は小聖が代行)の験競べのひとこまとして行なわれていたと解することができる。しかも現在のように庭で大松明引きをするようになったのは明治以降で、以前は大松明は本堂外陣から引き出されたという。当の験競ベ(兎の神事)が行なわれていた場所から引き出されたのである。とすると、本来の験競べは、単に扇子によって小机をどちらが早くたたくかということではなく、むしろ扇を操作することによって、どちらがより早く大松明を引き出し、見事に燃え上らせ得るかを競ったものとも推定できないでもない。しかもこの大松明の火は、災厄除去のために焚かれている。それ故、さらに推測をおし進めるならば、両松聖の験競べは、除災能力の優劣を競うものであったといえよう。別の視点から見ると大松明引きは、両松聖が除災の力を持った火をどれだけ見事に操作し得るかという、火の管理能力に関する競争であると考えられないでもない。

 なお兎の神事にしろ大松明引き出しにしろ、両松聖の験競べといわれているにもかかわらず、松聖は補屋に籠ったきりで競争の現場には姿を現わしていない。これは『木葉衣』に引かれた浄蔵の験競べや、現在吉野山の金峰山寺で行なわれている蛙とびなどのように、修験道の験術が、あるものに自己の超自然力を憑依させて、これを自由に駆使して所期の目的を達するという憑祈祷的性格を持っていることに基づくと考えられる。それ故、松例祭の験競べも、松聖が12人の衆徒(内二人は小聖)や若者組の成員を自己の超自然力を用いて操作することによって、その験を競っていると解し得るのである。

 第三の部分では、まず神社本殿前にしつらえられた鏡松明(神鑑堂・柱松ともいう)に松打によって火がつけられる。この明かりのもとで、羽黒山の東北における支配権が確立した国分けの故事を再現した神事がなされる。羽黒一山の始源への回帰がはかられているわけである。次いで「羽黒三所大権現加護処」と書き、四方に小さな御幣を下げた小板を頭上に置き、赤と白で顔を塗りたくった二人の松打が現われる。松打は鏡松明の周囲を3回まわった上で、数十メートル離れた所に立っている、かど持ちの持つ、ヒナゴゼに火口で火をつける。この間の所作は、現在妙高山麓関山で行なわれている、二人の山伏が火口を待って2本の柱松によじ登って火をつける戸隠修験の験競べに類似している注43)。いずれにしろ、国分と松打は羽黒一山の始源にたち帰って、新しい火を作る験競べと考えられるのである。

 以上の大松明丸き、験競べと松引出、国分けと松打の三つに大別される神事を全体として眺めてみると、大松明に祈念をこめた上で、それを焼いて除災をはかる。その上で一山の始源にたち帰って新しい火を作り出すという構造を読みとることができる注44)。しかもこれらはいずれも、両松聖の験競べとして行なわれているのである。別の視点からいえば、この間の諸神事は松聖による火の操作能力(作製および火による魔の消除力)に関する験競べの形をとっていることが注目されるのである。こうしたことから、松例祭は全体として火を支配的なシンボルとする祭りであると解することもできよう注45)

 松例祭が松聖の火の操作能力に関する験競べとすると、冬の峰はこうした能力の獲得を目指す修行であるとの推定が成立する。そこでこの推定に立って、今一度冬の峰の儀礼を検討してみることにしたい。

 冬の峰を宗教的なものに限定して注46)その内容を見ると、まず第一に羽黒権現(東)、玉泉寺(南)、光り堂(西)、両所権現(北)の諸社を拝する四方拝、第二に松聖の自坊での修行、第三に松聖の羽黒権現(12月17日)および荒沢通夜(12月23日)に分けることができる。このうち四方拝は『松聖行法旧例式』(戸川安章所蔵)の玉泉寺参拝の時の記載に「鬼ヲ追入レ」とある所などから推測すると、修行に先立って四方を結界することを指すと考えられる。

 第二の自坊での修行はいうまでもなく最も重要な部分である。その行態は浄火を守り、諸神霊を操作するカを体得する行人の修行とほぼ同じものであった。すなわち水行・死や出産なかんずく死の穢れの禁忌・五辛類や肉など食物の禁忌・言葉の禁忌・別火など一連の禁忌に関するもの、御開山・五大尊の幣・興野(ママ)聖などへの勤行、浄火を作りまたこれを消す修法、この三種類のものがその主なものである。つまり松聖の修行は自己の浄化、勤行、火の管理を中心としている。そして特に「湯殿行火立略法」「湯殿行火結願作法」は独自のものとして重視されていた。

 このうち「火立略法」は、修験者が日天をはじめ四方の神々の加護により常火堂の火口を用いて、炉に火を作るもので、「火結願作法」は水天の庇護のもとに、清浄な塩水によって炉の火を消すものであった。なお両者共根本印には日天の印が用いられている。それ故、この修法から見ると、松聖は自己を清浄にした上で浄火を作り、それを管理することに修行の眼目をおいていると推定することができる。

 第三に年もおしせまった12月17日の羽黒権現参籠と12月23日の荒沢の通夜がある。両者共、松聖のみでなく松打も一緒に行なっている。羽黒権現参籠は山上衆徒の行事に松聖と松打が参加するものであるが、この時御開帳が行なわれている。また荒沢では、羽黒山奥の院の秘仏である地蔵菩薩を祀った地蔵堂で勤行し、常火を管理している聖の院で通夜、翌朝常火堂で鍛冶が作り、行人が加持をした火口が授けられている。現存の史料からは、この折の修行についてこれ以上のことを知ることはできない。しかし私は、この両神事は修行が成満した松聖に対して、羽黒山本堂および奥の院の秘仏を開示し、浄火を作り、管理する秘法を鍛冶や行人が伝授する部分と推測してみたいのである。

 冬の峰全体は以上の結界、修行、秘仏開示と常火堂の火口の伝授(本来は秘法伝授と推定される)の三部分から成っている。そしてその中核をなすのは、松聖が浄火を作り、操作する能力を得るために行なう修行(自己の浄化と修法〉と常火堂でのこのことに関する秘法の伝授にあると考え得るのである。こうした修行がなされているからこそ、験競べとしての松例祭において、両松聖の火の操作能力が争われているのである。また本殿内部で行なわれている烏とびや兎の神事も、既述した五来重の聖は火の管理能力(火知り)と、日の吉凶を知る能力(日知り)を兼ね備えた宗教者であるとの解釈に従うならば、火の操作能力を獲得した「ひじり」が、1年間の日の吉凶を知り得るカを得たことを示す験競べであるということになる。そしてさらに大松明引き出しや新しい火の作製が年占に結びついていることも、松聖が火の操作能力と日の吉凶を知る能力を得た結果、予兆力を体得したことを示していると考えられるのである。

 さて最後に冬の峰と松例祭を合わせた全体の構造を眺めて見よう。すると全体が結界−−浄火の操作能力の獲得を中心とした修行−−火口の伝授−−大松明への超自然力の付与−−大松明を焼くことによる除魔(験競ぺ注47))−−新しい火の作製(験競べ)という構造になっていることがわかる。その際、このうちの中核をなしているのは大松明を焼くことによる除魔と新しい火の作製の部分であることはいうまでもない注48)。こうした火の操作能力を得るために、結界、修行、火口の伝授などが存在するのであり、大松明への超自然力の付与も、その前提となっているのである。

 ここで松例祭終了後のことについてふれておきたい。火の打替に用いられた火口、興屋聖の種籾、綱さばきでまかれた縄などの処理の問題などである。これらは、火口は羽黒権現(勝った方の松聖のもの)か玉泉寺(負けた方のもの)、勝った方の松聖の籾は土檀那注49)、縄は手向部落の若者というようにそれぞれ配られていた。このように松聖によって超自然力を付与された諸物は、儀礼修了後、宗教的な目的で使用されている。松例祭当日の大松明引きやヒナゴゼへの転火が、松聖が修行中に体得した超自然カのすべてを集中した行事とすれば、これらの諸物の配布はその超自然力の拡散を意味しているといえよう。そうしてこの拡散された諸物を通して羽黒一山の人々は松聖の超自然力にふれているのである。

 位上述べてきたように、羽黒山の冬の峰で獲得される験カは、火による除魔と新しい浄火を作る能力や、験力を操作して小聖や若者を自由に操作する能力を中心的なものとしていた。これらのうち浄火を作る営みは、最初に紹介したように現在でも、厳島の晦日山伏の神事、熊野新宮神倉の御燈祭、戸隠の柱松などに見られるものである。また火による除魔は現在も、「鉄火大事」「(明+火)松貫き秘法」などの火を用いる憑きものおとしや調伏の作法として伝えられている。また験力による小聖の操作は、第五章第五節でとりあげた修験者による護法の操作と同しものである。こうしたことからも、この冬の峰が験カの獲得を目指す修験道の峰入の古型を示すものとして注目されるのである。

 ところで本節では直接ふれなかったが、この羽黒山の冬の峰で無視し得ないものに興屋聖がある。興屋聖はその中に五穀の種籾を入れ、入口に鍬と鎌を飾った小さな苫屋であるが、位上、先途の両松聖は祭壇にこれを祀って冬の峰の期間中祈念をこめているのである。こうした点からすると、松聖の修行ではこの興屋聖に納められた穀霊の力を体得することをはかっているとも思えるのである。また勝った方の松聖の籾を開山田からとれた種籾と混ぜて土檀那に配っていることからすると、松聖が種籾に聖なるカを付与して豊穣をはかっていると解釈することも可能である注50)。私はこうした作法や信仰は中世末期以来、修験者が積極的に農民の中に入っていくに伴って生み出され、彼らの信仰に支えられて存続したものと推測している。そしてそれに対して、本節で解明した火の操作能力の獲得とその行使は、それ以前の修験道における験カの性格を示すものと考えているのである。

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注42)一般に聖(ひじり)は日の吉凶を知っていた原始宗教者のことを日知りと呼んだことに基づくとされている。しかし五来重は聖は「火知り」とも解し得るとしている。そして神聖な火を管理する宗教者が、同時に日の吉凶を知っていたと推測している(五来重、『高野聖』、33−34頁)。ちなみに言語学者の田中克彦は、日本語の火と日は起源的には別の語である。しかし、両者を共に「ヒ」と発音することは、太陽と火の間に観念上のつながりを前提とした自然観があったことを物語っているとしている(田中克彦、「火に関するものの起原」、大林太良編、『火』、社会思想社所収)。

注43)和歌森太郎、「柱松と修験道」、日本民俗学会報37、昭和40年。

注44)和歌森太郎は、各地の柱上の神事と対比した上で、火の行替神事は元来大松明への点火の遅速を争ったもので、大松明引出しと火の打替の両神事は元来一つのものであったと推測している(和歌森林大郎、「柱松と修験道」、日本民俗学会報37、昭和40年)。しかし私は本文にも記したように、むしろこの両神事は本来除災のために火を焼きつくすことと、その上で新しい火を作るという二段の構成になっていると推測したい。

注45)松例祭を考える時に、火と並んで、興味深いシンボルに松がある。松例祭、松聖、松つくり、松引出し、松打ち(以上、松には傍点)というように重要な事項はすべて松の名で呼ばれている。しかし実際には松は一本も使用されていない。彦山修験でも、柱松が立てられる一山で最も重要な行事を松会といっている。このように松例祭に限らず、修験道の重要な行事に松というシンボルが重視されているのである。周知のように松は神霊が憑り来るものと考えられているわけであるから、ここからも、神霊の力を体得し、それを操作する者としての、修験者のあずかる儀礼の特徴を読みとることができよう(高嶋雄三郎、『松』、法政大学出版局参照)。

注46)松聖の勧進先および笈酒の際の参加者なども、きわめて興味深い問題を含んでいるが、ここでは割愛したい。詳細は、宮家準、「羽黒山の松例祭」、吉田紹欽編、『仏教の社会的機能に関する基礎的研究』、創文社、昭和52年、252−257頁参照。

注47)大松明焼きは同時に古い火を焼き尽くすことを意味している。ちなみに大松明は、補屋にある火を移した提燈の火から点火されている。これに対して火の打替の時には、新しい火口によって新たに火が作られているのである。

注48)大松明焼きと新しい火の作製に類似した行事は民間の正月行事でも行なわれている。また古い火を焼き尽くし、新しい火を作ることは世界各地でも見ることができる。それ故、松例祭もこうした広い脈絡の中に位置づけねばならないことはいうまでもない。世界各地の例については、清水昭俊、「火の民族学」、大林太良編、『火』、社会思想社所収参照。また我が国の例は「火とまつり」まつり4号、昭和37年参照。

注49)山形県庄内地方の羽黒権現の信者をいう。

注50)戸川安章、「羽黒山における穀霊信仰」、日本民俗学2−3。


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