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4.堂主迎え−核心の儀礼1

( VTR List,photo1,photo2,photo3,photo4,photo5,photo6,photo7)


 2週間にわたる神クッの次第は前節に表示したとおりであるが,ここで神クッの核心の儀礼である「堂主迎え」を少し詳しくみてみたい。それはどのようなものかといえば,神房の祖先あるいは先生たちの霊を迎え,その前で新たな神房の誕生を告げ,やがてその霊をよきところへ送り出しつつ,感謝のことばを贈る一連の次第である。神房たちはいずれ多難な人生を歩んできたのであるが,その祖にあたる先人たちも並大抵の一生ではなかった。それは何よりも神房がみずから口にする「よい前生を損ねる」という表現に集約されている。

はじまり


 10月22日,午後2時50分。これから2日間にわたる堂主迎えがはじまる。堂主とは神房のイエのなかに設けられた巫祖神のための祭壇であり,またそこにまつるカミのことでもある。このカミはまた三十王ともいい,この儀礼を「三十王迎え」あるいは「三十王霊迎え」とよぶこともある。要するに,これは巫祖神あるいは巫祖霊をよびもてなす儀礼である(なお巫俗では時間がたてばカミといい霊といい,両者のあいだに特に区別があるわけではない)。
 まず李忠春 神房がチョガムジェをはじめる。天地開闢祭日・祭場語りを経て,まつりの次第語りまでで約2時間,厄払い神宮門開き神意伝達五里亭神請じ入れまでで約3時間を要した。まつりの次第語り,これはもうすでに幾度もきいたものだが,きくたびに身につまされるものがある。金允洙氏は父母の離別により学童時代に屈辱の日々を味わった。また夫人李貞子氏もやはり神房のイエに生まれ,貧困のなかでむすめ時代からクッに従った。そして高氏オモニのもとで金允洙氏と李貞子氏は夫婦の縁を結んで,人一倍誠実に神房の仕事をしつつ子育てをするうちに,かれらには運が回ってきたのだが,2年前,高氏オモニがなくなり,この夫婦はその追悼のクッを催すことになった。以上のようなことがヨンニュタックムでは淡々と唱えられた。
資料2.コンシップリ参照
 そして夕食後,午後8時20分からは,韓生昭神房が「死霊慰撫」を唱える。とくにここでは,神房の先霊たちが極楽へ往生できるようにという意味で祈る。午後9時45分,つづけて「神饌献上」があり,この日は午後10時30分に終了した。
 翌10月23日,午前7時。呉方健神房が,昨晩につづいて死霊慰撫と神饌献上をする。1時間20分所要。ここまではいわば堂主迎えの前置きである。

三十王霊迎え


 午前9時15分,李忠春神房による「三十王霊迎え」がはじまる。例により,ここでもチョガムジェ(VTR)からはじめる()。迎えクッとしての「まつりの次第語り」をし,次に,祭場への入口に,笹竹と白紙を用いて三十王都宮門が立てられる(図版1)。この門は「十王迎え」のときにはみられなかった。初公本縁譚に語られる巫祖神や神房の先霊たちがやってくる道は特別だということなのであろう。


図版1 三十王都宮門。

 午前9時40分から,李忠春神房が香炉を携え,酒を献じ,初公本縁譚をとなえていく(図版2)。これは1時間半を越える,長いものである。この途中で李忠春神房は本主夫婦に正装して三十王都宮門の前に座るように指示する。本主らはかしこまって座す。


図版2 三十王霊迎えで初公本縁譚を唱える。

 11時20分すぎ,初公本縁譚が終わりに近づく。人間世界で最初の神房となったのは,柳政丞のむすめであった。李忠春神房は唱える。

 柳政丞のむすめは,七つのとき,病が生じて目がよくみえなくなったが,十七で目があき,二十七になると,また目がみえなくなり,三十七になると,目があき,五十七になると,目がみえなくなり,六十七になると,目があき,目がみえなくなってはあき,あいては閉じ,目がみえなくなっては泣き,からだが痛くて泣き,やがて神房になろうとしても,榎の上の茂みではないが,やったことのないことでなにもわからず・・・
資料 1.薬飯薬酒参照
 だが,柳政丞のむすめはなんとかクッをやるすべを会得して,やがて七十七の年に死んで十王のもとにいった。

注1
 チョガムジェは漢字で初監祭と記されてきたが,秦聖麒氏は招神祭だとする。いずれにしてもこれはカミをよびまねく前段階の神話語りで,ひとまとまりの儀礼ごとにくり返して唱えられる。その構成は天地の始まり,祭儀の日にち語り,祭場褒め,祭儀をするにいたった事情語り,神宮門開き,占いと神意伝達,厄よけ,カミの呼び招きを骨子とする(玄容駿『済州島巫俗の研究』1985年,274頁以下参照)。

薬飯薬酒と御印打印

( VTR1, VTR2, VTR3, VTR4, VTR5, VTR6, VTR7)

 李忠春神房はここまで唱えてくると,本主夫婦にソンナクという被り物を着けるように指示する。ここから本主らが新たに神房になることを披露する儀礼「薬飯薬酒」「御印打印」が,50分にわたっておこなわれる。これは本主らが柳政丞のむすめの系譜に連なることを如実に示すものであろう。その次第は次のとおりである。
 李忠春神房がまず三十王都宮門( VTR1, VTR2, VTR3, VTR4)を開ける。すなわち笹竹を引き抜くことで,巫祖霊三十王の来臨を示す。次に三十王の膳の前に本主夫婦をひざまづかせ,神房の仲間いりをさせる。すなわち李忠春神房は巫祖霊に本主夫婦を紹介しつつ,一方では,夫婦に向かって薬飯と薬酒をまぜたから,これを飲めと勧める。そこで二人は,水の中に米粒をいれたものを順次飲む(図版3)。このとき,夫人の李氏はとりわけ感じやすい人らしくひとしきり声をあげて泣いた。


図版3 薬飯薬酒を飲む。

 ひきつづいて李忠春神房は「御印打印(VTR)」をおこなう。これは,李忠春神房が本主のうしろにまわり,三十王に代わって天門 ,算盞 といった巫具を本主の肩,背中に押しつける儀礼である。玄容駿氏は,巫具そのもののなかに潜む巫祖神の霊力を「肩から身体の中に」こめる意味があるのではないかというが,そのとおりであろう(玄容駿『済州島巫俗の研究』,1985年,116頁)。
 ところで,こののち,李忠春神房のはたす役割には興味深いものがある。第一には三十王と本主のあいだをとりもつ仲介者の役割がある。たとえば「姓は金氏,連れてきました。姓は李氏,三十二歳も…三十王さまのところに連れてこられて伏せっております」などという。そして第二には三十王に成り代わって,「(祭場に)連れてまいれ」とか「おお,明斗も出してやりなさい,百尺ものアガン布も出してやりなさい」などとことばを発することがある。さらに第三には,本主の側に立ってことばを,直接伝えることもする。たとえば「四十一歳,三十二歳は修得もよく,威厳もある,話術も上手だというようにさせてください」とか「(三十王に)初めての役礼,役価(報酬)をさし上げようとおもいます」などということばを発する。このことから済州島の神房はけっして単なる仲介者ではなく演戯性を帯びているともいえよう。
 さて,御印打印がすむと,本主夫婦は三十王に膳を献上する。そして次には立ちあがり,三十王来臨の道である「橋(タリ)」つまり木綿の布をからだに巻きつける。このとき小巫たちはカバンの中に巫道具と楽器をいれ,これをかついで門の外に出ていく(図版4)。本来なら,このとき本主らの一行はあらかじめ打ち合わせをしておいた付近の家にいき,新しい神房として模擬的にクッをするのだが,今回は外に出かけるまねだけして,門を出るやいなや戻ってきた。小巫たちと本主夫婦はそのまま室内にはいる。


図版4 模擬的なクッにでかける。

 このとき,とくに本主夫婦が「堂主」の前にきてぬかづくと,かたわらにすわっていた李忠春神房が本主に代わり,三十王に謝意を伝える(図版5)。その間,本主夫婦は肩に木綿の布を巻いたままでいる。つまりかれらはこの堂主の祭壇のところまで巫祖霊をかつぎ入れたことになる。やがて,李忠春神房は小巫たちにクッの報酬を分配すると称して,何なにクッはいくらだ,といいつつ,千ウォン札をくばる。もちろんこれは模擬的な分配である。


図版5 クッをして戻った本主夫婦は堂主に向かって報告する。 堂主の棚には巫具,香炉,果物などが置いてある。

 以上は,本主夫婦が新たに巫覡になったことを象徴する儀礼である。同時にこの間,李忠春神房はたえず新入巫になり代わって口をきく。本主夫婦は新入巫としてこれをじっとみつづける。そこには先輩神房たちが,新入巫にクッの演行とそののちの分配の仕方を教えるという教育的な意味もこめられていたであろう。
 正午すぎ,ナッカドジョンチム。呉方健神房がナッカシリ(甑餅)を少しちぎって辺りに投げ,また大きな甑餅を頭上に投げ上げ,それを両手に受けとめる(図版6)。供物として献上すると同時に巫祖霊をあそばせているのであろう。これは室外の膳の前でもやり,また堂主の膳の前でもやる。
 午後12時半,呉方健神房が10分ほど「チジャン本縁譚」をとなえる。チジャンは幼少のころから親族を次々と失い,さらにむすめとなり結婚をしても亭主の家族すべてに先立たれ,死しては鳥の身となったという,それこそ薄幸を絵にかいたような女性である。クッの場には必ず寄ってくる,はかなく死んだ女の霊を象徴したものであろう。
 こののち昼食休憩にはいる。


図版6

高氏お母さんを迎え送る

 午後1時半,堂主の来臨のために「道ごしらえ」をする。ここから,本主金允洙氏にとっては直接の巫祖霊となる,高氏オモニを迎え,あの世へ送る段となる。その手つづきは基本的には十王迎えの道ごしらえと同じである。ただ,このときによぶ霊は高氏オモニのものだけなので,その霊の通過する道もただ一本だけこしらえる。十王迎えと同様,まつりの次第語りからとなえはじめる。六十六歳の女性の首神房秦夫玉氏は疲れもみせずに約90分,鈴と笹を携えたまま,踊り,唱えつづける。このいでたちでカミによびかけ,祭場への来臨を促すのである。
 午後3時からは神宮門開きを40分つづける。門も「初グンムン」「二グンムン」「三十王都グンムン」と三種があり,なかなか簡単には開かない。この観念,神々は門の向こうにいて,開門してこそ来臨できるという観念は中国南部の巫俗にもあり,注目される。
 さて,午後3時40分,門が開いたところで神意伝達(VTR)がおこなわれ,本主夫婦および高氏お母さんの親族たちが涙をながしながらききいる。秦夫玉神房は高氏お母さんになりきり,遺族たちに向かい,「生前の厚誼に報えなかった,申しわけない」などという。すると,この場にきていた高氏の遺族の側から,どうかそんなことをいわないでくれという涙声があがる。
 午後4時半,高氏お母さんのための狭義の道ごしらえ()(VTR)。これは十王迎えでもくり返してみられたもので,要するに石ころや草木の多い道を均し,通りやすい道に変え,無事にあの世に送り届けることなのである(図版7)。


図版7 高氏お母さんの霊の来臨の前に道均し。

 午後5時50分,差使に変身した首神房が十王門に人情 (白紙)をかけ,霊がこれらの門を無事通過できるようにと唱えごとをする(図版8)。

図版8 あの世の差使に変身した首神房。

 午後6時10分,差使の導きのもと,十王門を解き放つ。すなわち門の下に敷いた布ともどもすっかり巻きあげる。これで高氏オモニは差使に導かれていったん極楽と称するところ「あの世」へと旅立った。この間,約50分。そして本主らが祈願をこめた焼紙(白紙を燃やすこと)をあげて,堂主迎えの核心部分は終了した。のち夕食。 午後8時25分,時間が余ったとのことで,閻魔大王の使者となったカンニム差使の来歴譚,差使本縁譚を2時間半,唱える。
注2
 道ごしらえは直接には,石や凸凹の多い道を均す仕種をすることで表現されるが,一方では,これを含む前後の儀礼を総称して「道ごしらえ」とよぶこともある。これは「○○迎え」という名の儀礼の核心部分で,この直後にカミは祭場に来臨する。

巫祖霊に謝す


  明けて10月24日は午前中,金允洙氏と息子たちへの「魂入れ」の儀があり,午後,コンシップリ(VTR1,VTR2,VTR3)がおこなわれる。イエの上がり口,庭に面したところに膳をしつらえ,本主金允洙氏が約1時間,このクッの由来から身の上語りまでをとなえていく(「2.神クッの主催者」参照)。
 神クッがはじまってから11日目,ここでやっと本主は人びとの前で神房らしいすがたをみせる。
 この金允洙氏の語りはわたしにはことのほか印象的であった。巫覡の一生はどこできいても身につまされるものがあるが,杖鼓ひとつを前に置いて,ふつうの子供がいかにしてカミの子とならざるをえなかったかを,かたりつつ,うたう,その一場は先に世を去った無数の神房先生たちへの敬虔な告白の場のようで,胸打つものがあった。ここでは巫儀の伎倆がいかんなく発揮される。允洙氏は座したままであるが,語り口は,生彩に富み,多彩である。その詳細は「2.神クッの主催者」に記した。
 金允洙氏は時折,杖鼓をたたく手を止め,みずからの来歴を振り返っては声をつまらせる。そしてまた,神クッをやるに至った事情を唱えていく。最後は,10月12日のチョガムジェ以下おこなった,一連のクッをいちいち列挙し,巫祖霊すべてにどうか盃を受けてくださいとよびかけてコンシップリを終える。

巫祖霊たちを迎え送る

 昼食をとってから,午後2時15分,李忠春神房による「堂主道ごしらえ」がはじまった。前日(10月23日)にも道ごしらえがあったが,それは高氏お母さんひとりだけの霊の来臨と極楽への旅立ちが表現されたのに対し,ここでは,初公本縁譚にかたられる巫祖神三兄弟や先輩神房の霊が堂主に迎えいれられる。
 このときの道ごしらえでは,障害物をのぞく仕種はごく簡単に演じられた。やがて「橋」を庭から堂主まで渡しておいて,1時間半ほど長ながと初公本縁譚をとなえた。このとき,初公迎えのなかでみられたのとほぼ同じような僧のものごい,黄丹楓紫朱明王姫の施し(VTR),またその場面の演戯などがみられる(図版9)。そして占いの結果,堂主の道は浄められたということがわかる。


図版9 黄金山からきた僧に施しをするアギシ。

 午後4時50分,浄められた「橋」を李神房と本主が持ちあう(図版10)。このとき,李神房は巫祖神および先輩の霊たちに,なかにおはいりくださいとよびかける。5時半,「橋」が徐じょにせばまり,堂主のもとに収斂されておわる。
 午後5時40分,「祖先担い入れ(VTR)」。ふたたび本主金允洙氏が担当する。正装姿となり,「橋」を体に巻きつけ,家の外からなかへ,激しく舞ってはいり,神をあそばせる(図版11)。そして堂主の前でぬかづいて,「橋」をほどく。この担い入れは10月18日,二公迎えの終わったとき,また22日,十王迎えが終わったときにもみられた。大きな迎えのクッが終わると,当のカミは室内の居場所に安置されるのである。現今では神房が完全に憑依することはほとんどないようだが,激しい舞は憑依の名残なのであろうか。この間,約40分。
 のち梁昌宝神房による「贖い(VTR)」の儀礼。これは腕に巻かれた布を解くもので,すでに二度,三度とみられた。


図版10 障害物を除いた橋を堂主のところまでかけ渡し,これを堂主側にたぐる。


図版11 巫祖霊をあそばせる。

祖先のこころを解く

 午後6時40分,金允洙氏によるソクサッリム(VTR1,VTR2,VTR3)がおこなわれる。ここで允洙氏は立ったまま,まつりの次第語りからはじめて,「軍雄徳談(VTR)」,また「高典籍(VTR1,VTR2)」「李氏ハルマン(VTR)」「梁氏令嬢(VTR1,VTR2)」などの祖先本縁譚を延びのある声,済州島独特の節回しでしみじみとうたいあげる。允洙氏のうたう祖先本縁譚は実に人を魅せるものがある。
資料3.祖先本縁譚,図版12参照)


図版12

 ソクサッリムはイエの祖先神の来歴をかたり,同時に祖先とともに踊りつつその結ぼれたハン(恨)を解いてやることである。家門のあるイエ,名門の名を残すイエ−それはある意味で制度を維持することと同じで,その陰には抑圧されたモノたちのハンが積み重ねられる。そうしたモノの声を直接,一人称交じりの文体でうたい伝えたものが済州島の祖先本縁譚である。
 たとえば,高典籍のむすめは海の向こうから流れ着いた服を着てから,「アクセンイよ,右肩に青い百足がはうようだわ。左肩には黒い百足がはうようだわ」といって,たちまちもの狂いになり,クッの場で踊ることが唯一,救いの道であったが,家門の体面のために許されず,室内に閉じこめ置かれる。そして,のち「お嬢さんの部屋を開けてみると,真っ青になり,トンイ(甕)のようにうずくまって死んでいたのでした」という。魂は失せたまま,ついにむすめの身の上に戻らなかったのである。
資料3.祖先本縁譚
 その他,資料をみればわかるが,祖先本縁譚の多くは強いられた死を遂げた女たちの物語である。そして,通例,士大夫のものす歴史にはこのモノたちの死のいきさつはおろか,その名前すら,書き記されることがなかった。それは文を貴ぶはずの社会においては,謔闊層,無情,苛酷なことである。そうしたなか,かれらを救ったのが,この種の本縁譚なのである。それは,一見,「非歴史的」であり,家門や政治とはまったくかかわりがない。なにしろ,そこには気の病があるだけであり,死なねばならぬいわれなど少しもないようにみえた。そして実際そのような死に動揺する両班は少なかったようである。そこには深い裂け目がある。そして,ふつう,この厳然とした裂け目に気づくのは身内に「痛み」を感じるときだけであった。そのとき,はじめて神房がよばれたのである。

軍雄というカミ

 ところで,ソクサッリムのはじめにかたられる軍雄とはどういうカミだろうか。これは叙事的な物語は伴わないが,ふつうは帝釈の孫としてかたられる。三人兄弟の末っ子で「八字」「四柱」()を損ねたために,僧の姿でクッをしてまわった。このことはソクサッリムのなかで神房が袈裟をかけ,パランを両手にしておどることによって表現される(図版12参照)。軍雄の三兄弟のうちふたりは「東の海」「西の海」をおさめ,末っ子は朝鮮半島にきてクッをしたと,「軍雄ポンパン(マンパン)(VTR)」でかたられる。これをみると,どうも海を越えてやってきた祝福者,門付けの遠い記憶を引きずっているかのようだ。これがイエの祖先,しかも不幸な死を遂げた霊たちの守護神とされるのは,どうしてなのか。さしあたり仏教の影響を巫俗が取りこんだというほかはないが,それだけではどうも説明になっていない。巫覡とは別に,そうした法体のモノも,その慰霊のクッにあずかった名残なのであろうか。
 ところで軍雄をあそばせ,つづいて祖先の来歴を説くソクサッリムは文武秉氏も資料の解題でいうように,独特の唱法で演じられ,まるで芸能の場である。だが,僧の身で,さらには巫としてさまよった軍雄をはじめ「高氏のむすめ」や「梁氏のむすめ」を祭儀のたびにうたうことでイエの繁栄が保証されるとすれば,イエとはかくも矛盾をはらんだものかとおもい知らされる。済州島の女はクッの場で,こうした語りをわがこととしてきいて受け容れる。その理解の深み,これこそは,一般に「強い,たくましい」といわれる済州島の女たちの淵源なのであろう。


 サジュ(四柱)とパルチャ(八字)は人の一生を左右する運。生まれた年・月・日・條ヤが四柱で,これを二字のえと(干支)で表したものが八字。

米びつを解く

 とはいえ,ときに,祖先のその語りを身に負いきれないばあいが生ずる。それは直接には身病として現れる。済州島の金氏,高氏のイエでは容易に癒されぬ病の最後の治療法としてトンイプリをする。金允洙氏は「高典籍」の末尾,むすめが死んだあとで,こううたう。

ああ ふびんな子 わが子よ こんなふうにして 死んだのか かわいそうに 死んだのか ああ うらさびしい えーへ ふびんな子だ せめて形見でも 残しておくれトンイテップリをし 盛大なクッをし トンイテップリでは 十二席 小さなクッでも 六席をして こころを解いてやろう
 小さなクッなら 六席で こころを解き 座しての祭なら 三席で 結ぼれたこころを解いてやろう。
資料3.祖先本縁譚

 本縁譚「高典籍」にもとづき,祖先の亡きがらをトンイ(甕)を用いてこしらえ,これをイエの庭で舞わす。舞わすことが解くこととなるのだ(図版13)。それを子孫の病者がじっとみて,みずからもおどり,祖先のこころの痛みをふたたびおもい起こす(図版14)。そうしてイエを身に負ったみずからのいわれのわからぬ痛みを克服していく。これを,わたしは1995年3月に朝天面臥屹里でみる機会を得た。


図版13 トンイを舞わす金允洙神房。


図版14 祖先を象るトンイの前で踊る本主。

 テジョンさんは40代後半,若いときから女手一つで息子二人を育ててきた。気苦労,次男の事故死などからか,心臓の痛み,ひどい発汗に苦しみつづけて,どこの病院にいってもなおらなかった。本土からきた菩薩という巫覡に依頼して小さなクッをしても,はかばかしくない。よくよく困ってたいそうな費用を負担して大クッを催した。
 五日かかるところを三日間にし,だが誠意をこめて神房と祖先をもてなし,みずからも幾度か,米びつ(祖先)の前で踊った。そして後日,きけば,すっかり体調を取り戻し,今は島の外に働きに出ているという。
 確かに米びつをくわえて踊るなどというのは,あやしげな旧習にみえるかもしれない。だが,これは庶民の歴史における痛みのひとつの伝え方である。10年以上も痛みから解放されなかったという女性,それは実は祖先とともに苦しんでいたのではなかろうか。それゆえ,あの女性は精神科の対象療法を何年受けてもいっこうによくならなかったのではなかろうか。
 民俗世界の癒しは祖先の痛みを共有することでとげられる。しかも高氏のイエで起きたことは金氏のイエでもありうる。それは祖先本縁譚がけっして特定の家族に限定されないことを意味する。軍雄というカミがすでに血縁の上の祖先ではなかった。ひよっとすると,高氏のむすめ,梁氏のむすめ,これらも実在の人物ではないかもしれない。しかし,それはまちがいなく済州島の人びとの祖先のひとつの典型なのである。

高典籍のむすめ

(VTR1,VTR2)

 金允洙氏のうたった三種の祖先本縁譚は女を主人公とした物語である。主人公たちはいずれも気の病を病んだだけでなく,死に至る。それはいったい何を意味していたのだろうか。物語の全容は資料として提示した。それはさまざまな読みを可能にしてくれる。ここでは死ぬ女を中心に据えて読んでみる。
 高典籍のむすめは父の顔もろくに知らなかった。父高氏は両班家の秀才として二十歳で結婚し,むすめをひとりもうけるや,その年にソウルの科挙にいき,合格。そのまま官吏となり,居残り,典籍の位を得,やがて地方官として赴任する。物語にはないが,妻も連れていったのであろう。一方,赤子の女の子は関心外だったのか侍女アクセンイとともに済州島のイエに置かれる。
 父は旧習に従い,この赤子を縁組みさせてでかける。みずからは優秀な官吏として地方民に慕われ任期を延長する。そして故郷に戻ることになる。おそらく順風満帆の意気で。ところが,船に乗って帰る直前,高氏たち一行の前をよぎるうら若い女がいた。年のころ,十七,八。高氏はいう,「女というのは,夢に現れても不吉な者なのに,こともあろうに女が男の一行に交じりきて行く手をふさぐとはなにごとか。さあいそいで,あのむすめをつかまえてきなさい。」
 しかし,その女は松林のなかにまぎれ行方しれず。代わりに五色の箱があったので,下男たちは主人に内緒でそれを船のなかに持ちこむ。そこには深緑の上衣に黒藍の裳,銀の簪や真鍮の簪,銀の指輪に真鍮の指輪,青色の糸や黒い糸に朱黄の唐糸で作った蝶結びがはいっていた。ところが船は百日ものあいだ,船出にいい日がなくて進まない。そこで占うと,船底に隠された五色の箱があるから,それを波の上に浮かべて太鼓をたたけばよいという。はたして箱がみつかり,そのとおりにすると,船は出ていく。この間,高氏のむすめは成長し,おそらく十七,八になっていたのであろう。侍女アクセンイが港の近くで洗濯をしていると,飾り箱が漂ってきた。「おや,これはきっといわれのある物だろう。わたしに縁のある祖先なら,わたしの前にきてください。」すると近づいてきた。拾いあげると,服がある。そこでこの服を持ち帰り,むすめに着させる。
 ところがこののちむすめのからだは変調をきたす。失神し,気がふれて行方不明となってしまう。巫歌では「霊岩トクジンタリへ あそびにゆこう 太い松の林に あそびにゆこう 細い松の林にあそびにゆこう」とうたわれている。高氏のむすめにはあの松林のなかに消えたむすめの霊が降りたのであろう。
 そうこうするうちに父親がもどってくる。アクセンイがありのままに告げる。すると,高氏は「みつけなければ殺すぞ」とまでいう。アクセンイが必死になってさがしまわったところ,むすめは許嫁 の梁氏のイエのそばにいた。むすめは完全に狂ったすがた,着髟ィも投げすて血だらけのかっこうで踊っていたと土地の人たちはいう。
 アクセンイはこれをみつけ背負ってイエに連れ帰ったが,父親はなぜか,むすめの気の病そのものを許さない。むすめが憎いのでなく,理に叶わない病,狂気ということそのものに我慢がならなかったのだろう。食べ物も与えずに鍵のついた部屋に閉じこめておく。そうしておいて父親が神房のところにいってたずねたところ,クッをすればなおるという。高典籍は,両班のイエでクッなどはできないと,これを拒否する。しかし,親類の勧めもあって,渋々クッをすることにする。しかし,肝心の場面で,父親はむすめには踊らせず,侍女のアクセンイに代わりに踊らせた。
 そのとき神房はいう。「この祈祷を終えてから,三日,四日,五日,七日がたって,村に近いところから,招魂の声がしたら,お嬢さんは,一度なくなってまた生き返るものとおもい,招魂の声がしなかったら,部屋の戸の鍵をおあけください,おわかりになるはずです」と。クッが終わったあと,招魂の声はついにきこえなかった。はたして高典籍のむすめはうずくまって死んでいた。
 そればかりか高典籍その人もまたアクセンイも,やってきた神房もみんな死んでしまう。巫歌はいう。

 えーへ アクセンイが 死にゆけば 県監 さまも死に 県監さまが 死にゆけばアクセンイも死に アクセンイが 死にゆけば 李元信(神房)も死に ひとりが死ぬところを 四人が死んだね。
資料3.祖先本縁譚

 こうした来歴がもととなり,高氏のイエではトンイテップリ(盛大なトンイプリ)をすることにしたが,大きなクッをすれば,それに見合っただけの畑を手に入れることになる。イエの祖先の思いのたけはこうした次第で解かれるのである。
 以上が「高典籍」の概要である。ここでこの物語に読みとれることをいくつかあげておこう。

  1. 海の外から訪れるモノ,ここでは流れきた衣服についてきた霊威が若いむすめに憑依したこと。
  2. むすめには何の罪,とがもない。その精神の不調はよりきたった霊威をもてなすことでしか癒せない。
  3. しかし,儒教を旨とする制度,規範に忠実なあまり,父親は,元来はいたわりのあるはずの人柄であるにもかかわらず,むすめの病を救おうとしない。そこには「合理的な」理由のない病への嫌悪感がある。
  4. むすめは餓死同然のかたちで苦しみぬいて死んだが,それは訪れてきた霊威をないがしろにしたことの代償であった。
  5. その祟りで父親が死ぬだけではない,周囲の者たちも巻添えの死をとげる。それはみとられない霊の荒びを意味し,放っておけばイエそのものが崩壊する。
  6. このように,イエ存続の危機を経験したのちに,訪れてきた霊威はようやく,不幸な祖先の霊とともにもてなされることになった。トンイプリ(甕を解くこと)というかたちの慰霊がそれである。もてなされると,そのよりきた荒ぶる霊威は大いなるさちを与える。
 このようなことが指摘できるが,それにしてもその訪れてくる霊威とは何なのだろ うか。もう少し祖先本縁譚をみていく必要がある。

母,李氏ハルマン

(VTR)

 高典籍の次に金允洙氏は「そればかりではありません。もうひとつ祖先がございます」といいつつ,李氏本縁譚をとなえる。これもまた高典籍のイエにまつわる物語である。

 済州市の高典籍のイエには子を持てない正妻がいたが,そこへ李氏ハルマンが後妻としてやってきた。李氏は毎日水を変えて子を持つことを祈り,とうとう息子をひとり授かる。巫歌はいう。

 朝,明け初めると,赤ん坊を願って,冷たい水を一杯汲み東に向けて置き,東の方に向かってぬかづくこと,三度,また日がくれるときは,お月さまの光にも三度の拝礼をし,そうして祈って神の霊を授かったのでした。
(資料3.祖先本縁譚)

 おそらく李氏ハルマンは長い年月,後妻という不安定な地位にあったことからも一心不乱に日月のカミに祈りをささげたのであろう。そして「神の霊を授かり,そうして,三年後には大きなクッをし,それでもって息子がひとり生まれました」とあるので,仏道迎えのクッをしたにちがいない。
 やがて,李氏ハルマンには,子供の誕生,生育にかかわる呪力が生じた。子供のない女たちのために祈ると子が授かり,子供に病があっても,このハルマンがひとこと口をきくと,たちまち良くなるのであった。同時にクッをするとそれに応じて畑を買い入れることもでき,辺りに並ぶ者のないカネ持ちになった。
 だが,あれだけ必死の思いで授かったひとり息子が,実は長じては母のクッに反対することになる。息子たるや,中国の書を読み,「学問」を修めるべきであり,そうすればするほど,鬼神のことには否定的になる。作男や近所のむすめたちには不思議な力を発揮する李氏ハルマンにもそれはどうしようもない。
 ある日,李氏ハルマンのイエで火事が起こった。そのとき李氏ハルマンは火のなかに飛びこんでいく。

 李氏仏道お婆さんは 浄らかな納屋に 祖先を まっつているので それが燃えていくので このおばあさんは みかねて 炎のなかへ 飛びこんでいく 浄らかな納屋に飛びこんで 祖先さまの箱を 持って出るよ
(資料3.祖先本縁譚)

 しかし,息子はそれを取りあげ「お母さん,これはなんのまねですか。もっとだいじな財産もごっそり燃えてるのに,こんなものなんになるのですか。これよりもたいじな財産がすっかり燃えているというのに,こんなものを持ってきてどうするというんです」といって,火のなかに投げこんでしまう。こののち李氏ハルマンは病んでついに死んでしまう。
 こうして高氏のイエでは「李氏仏道お婆さんを,一方では日月 (一族または一家の守護神)としてあそばせ,一方では仏道としてもあそばせ」,また「おなかに赤ん坊を授かったときには,このお婆さんの膳にお供えのご飯を一膳載せて祈ると,霊験もあらたかで,修めた徳もある,そんなお婆さん」だといい伝えている。
 この物語で特徴的なことをあげておきたい。

  1. 李氏ハルマンは済州島,いや朝鮮朝のイエにみられるもっとも典型的な母の像を呈している。生命を授ける霊威を身に受け,イエの存続,経済的な蓄えに貢献するが,鬼神に対する「無駄な」出費をすることで咎められる。
  2. その出費はイエのためにするものではあったが,儒教的な制度,合理性のなかにつかっていた息子にはそれがまったくみえなかった。おそらく一人息子としてハルマンからはふんだんに愛されて育ったのであろうが,息子の厳格さが結果的には母を苦しめ,死にいたらす。
  3. 火事,財産消失,ハルマンの死をへて,おそらくこの一家には深刻な危機が到来したのであろう。そしてそのときはじめて,ハルマンの身に降りていた霊威がハルマンを含めた祖霊とともにまつられることになったとおもわれる。

 ここには生命を授ける霊ー母親と朝鮮朝のイエの主とのあいだの矛盾がものがたられているといえよう。

西天花畑を追われるむすめ

(VTR)

 李氏ハルマン本縁譚を終えると,金允洙氏はさらに「もうひとつ,祖先があるのです」といって,梁氏令嬢本縁譚をとなえる。

 梁氏アミは両班の家に生まれたむすめ,「顔をみれば天下一,声は一品なのでした」。七つ,八つのときから神房のまねごとをし,将来のことをよくいいあてる。それで友だちからも「お前は神房にでもなればいい」といわれる。
 15歳のとき,母が死ぬ。そのとき梁氏アミは「ああ,うちのお母さんが土のなかにはいるのでしたら,わたしもいっしょにはいりたい」という。兄にたしなめられたが,イエで母の弔いのクッがあると,やってきた神房について出ていってしまう。神房からはいさめられて,追い返されるが,梁氏アミはイエには戻らず,漢への道行のためのクッをまねる。
 梁氏アミは山中で死境をさまよっていたが,そこへ兄弟がやってきて,「さあ,うちに帰ろう。うちに帰ったら,お前の望みどおりにしてやるから」となだめてイエに連れ返る。しかし,梁氏アミはこころねの悪い長兄により,なんと5年ものあいだ開かずの門のついた部屋に押しこめられる。物語にはないが,梁氏アミはおそらく正気を失っていて,ともするとイエの外に飛び出し,あらぬ姿で踊ろうとしたのであろう。長兄にとって,それはこの上もなく恥ずかしいことだったにちがいない。
 蟄居の間,梁氏アミは次男,三男のなさけにより,かろうじて水と食べ物を窓穴から得て部屋の中で生きながらえたが,21歳になったある日,長兄は妹を部屋から引きずりだした。梁氏アミは沐浴をするものとおもい,喜びいさんで出たが,あにはからんや,兄は犬の肉のはいった汁を飲めという。しかし,アミ氏はとうてい飲めない。すると兄は頭からその汁をアミ氏に浴びせかけ,ふたたび閉じこめてしまう。やがてアミ氏は部屋のなかで死んでしまう。しかもアミ氏は服をきたままの姿で簡単に畑に埋められてしまう。
 さすがに気の毒におもった次男,三男が,長兄に内緒で墓を作ってやる。ようやくのことで梁氏アミの霊魂は西天花畑にいく。だが,梁氏アミには肉の臭いという不浄がついていた。
 ある日,花の監督官つまり花の仙人さまがきて,花のでき具合をみてみると,他の花はみな萎れてないのに,梁氏のむすめにやった花だけは,なぜか萎れてしまっていた。それゆえ梁氏アミは「お前は不浄なことこの上もない。お前は早く人間の世界に帰りなさい」といわれ,追い返されてしまう。そうしてさまよい出た梁氏アミの霊魂はこの世に戻ろうにもからだが無くてもどれず,霊界をさまよう。そのときに,高典籍翁の霊に出会う。アミ氏が「どちらにいかれる県監さまですか」とたずねると,高典籍は「子孫の家の数天諸米(神饌)の振る舞いを受けにいくところ」だという。そのとき梁氏アミは死んだいきさつをかたって,ッ道することになった。
 だが,はじめ梁氏アミの霊はだれからも招かれない。とはいえ,霊験があらたかで,甥の身に降りた。

 そこで梁氏のむすめ,痛ましい祖先さまは神威を顕し,今は梁氏の大お婆さんとよばれているけれど,当時は梁氏のむすめ,これが甥っ子にとり憑きたちまちもの狂いになったのでした。
資料3.祖先本縁譚

 そして,身の上の語りをし,予言する。それによると長兄の一家はすべて滅びるが,2番目と3番目の兄は3年に1度大きなクッをすれば,それにみあうだけの畑を手に入れることになるだろうという。

 この本縁譚に基づき,高氏,梁氏どちらのイエでも梁氏アミのためのクッがおこなわれる。梁氏アミについて特徴的なことは

  1. 幼いむすめの身の上にすでに寄りきたっていた,ある霊威がさまざまな兆候を示していたのに,制度と化した兄たち,とくに長兄にはそれがまったく無意味なことにみえた。
  2. 梁氏アミは母の死に際して,明らかに巫病にかかる。これは以前から憑いていた霊威の一層の発現ともみられる。しかし,梁氏アミは5年ものあいだその霊威のもとで苦しんだのちに,死に,みずからも済度されない女の霊となった。それは花を育てることのできない女ということで象徴される。
  3. 高典籍翁との出会いの物語に示唆されるように,梁氏アミはおそらくクッのたびによりきたる雑鬼となっていたのであろうが,あるとき,梁氏の一族に重大な危機が生じ,その霊の身の上話があったのであろう。それがきっかけで,この霊威は祖霊としてまつられ,さちをもたらすようになった。

イエのもつ矛盾

 金允洙氏は以上,3種の本縁譚を,座して杖鼓をたたきながら1時間にわたって唱えた。それはこの上もなく興味深い語り物におもわれた。それらに共通することをまとめれば,次のようになる。

  1. 高氏と梁氏のむすめは,いわゆる巫病をわずらった。その原因はよりきたるモノにあった。一方,李氏ハルマンは病があったかどうかは述べられていないが,それに近い状態で神霊を身に受けた。
  2. しかし,これらの霊威あるいはカミは無視され,家門という名のくびきの下で限りなく圧しつぶされていった。その究極は身に受けたの女たちの死であった。
  3. このような死はおそらくいくらでもあっただろう。そして,その多くは士大夫支配の数百年の歴史のなかに埋没したのである。しかし,一族,一家に重大な危機が生じると,この死の意味がクッを媒介にしておもいだされ,弔われた。
  4. そののち,イエのまつりごとのたびにその弔いは反芻されることになった。一族が今日,無事にあるのは,過去に無残な死をとげた女がいるからだ,その加護があるからだということを神房はそれこそ,うまずたゆまずにクッのなかで説いた。
  5. 過去に女たちをおそった病とは,何だったのか。巫俗の考え方でいえば,それは身におりた,とある霊威の発現であるが,別のことばでいうと,このばあいはイエの持つ矛盾そのものだったのかもしれない。科挙のための学問,家名を挙げるための競争,長い別居,母を含めた女たちの男への奉仕,そして年ごろの女に生じる性への憧れと抑圧。今日こうしたことを挙げることはやさしく,きりはないが,どれひとつもかつてはクッの場で「解くこと」しか方法がなかった。この民俗世界での解法,それは一般にプリとよばれた。

5.コブンメンドゥ−核心の儀礼2


神クッ−カミと人のドラマ