2.神クッの主催者


神クッはカミに仕える者がみずからの来し方を振り返りつつ、先輩の神房を招いて済州島の神事をすべて再現する儀礼である。その主催者本主[ポンジュ]は先輩たちをもてなし、かれらがくり広げてくれる儀礼に感謝し、またその占いの結果に謙虚に耳傾ける。従って、みずからが儀礼をすることはほとんどないのだが、コンシップリ(VTR1,VTR2,VTR3)という亡くなった神房らを迎え供養する儀礼、および祖霊を歌と踊りでもてなすソクサッリム(VTR1,VTR2,VTR3,VTR4,VTR5,VTR6,VTR7,VTR8)(軍雄マンパン)という儀礼においては、本主がこれを引き受けることがある。
コンシップリをする金允洙神房
コンシップリをする金允洙神房

 1986年陰暦9月、朝天 面新村 里でおこなわれた神クッのなかで、本主の金允洙氏は「堂主迎え」という核心儀礼のなかのコンシップリで、自分のイエの伝承とみずからの来歴をかたった。儒教合理主義の支配する朝鮮朝から現代韓国にいたるまで、巫覡は社会的には低くみられてきた。そしてその来歴は通例、病と貧困、周囲からの蔑視という厳しい条件のもとで葛藤をくり返したことを物語る。金允洙氏のばあいもそれに漏れるものではなかった。

 金允洙氏は杖鼓をたたきながらいう。41歳金允洙は、必ずしも神房になるべくしつけられたわけではなかった。4歳のとき、突然、家庭が崩壊した。こころ優しい祖父のもとで育てられたが、カネがつづかず小学校を中退し、クッの場に出入りしたがまったく気が向かなかった。

 神の子、受け継いだ姓は金氏、丙戌の生まれ、四十一歳、父母のおかげで生まれまして、はじめ、姉さんが生まれ、六歳のとき、水浴びしていて世を去ってしまい、神の子を継いだ四十一歳は、長男として生まれたのでした。ひとつ、ふたつ、三つの年、四つになったとき、生んでくれた母と別れることになって、母は、この子を置いたまま、陸地へといってしまい、海女の仕事にいくといって、このわが身を捨ておいて、陸地のほうへいってしまったので、父方のお爺さんの胸にだかれて、人となり、四歳、五歳、六歳の年になり、母方の安氏の家のお婆さんの世話になり、そうして暮らしていったけれど 七つ、八つになっては、実の父が新しいお母さんをめとって、暮らすことになったので、伯父さんがそのとき「お父さんはほかのところにいるのだから、さあ訪ねていって暮らしなさい」といったものの、父方のお爺さんを置いたままいくことができず、お爺さんを、父みるように、母みるようにし、そしてお爺さんは孫と手を取り、小川のほとりの大岩の上に座り、休みつつ、「いっしょに住もう、允洙よ」(泣く)。
 そうしてお爺さんの手を取り、孫が泣きだせば、お爺さんも泣きだし、お爺さんはご飯があまると、食べたふりして、孫が「食べてません」といったら、さてどうしようとおもう。夕ご飯のときになると、お爺さんの胸のなかで寝ようとそばまではっていってくっつき、お黷ウんの寝ている部屋の門をたたくと、「允洙めがきたのか」と門をあけ(泣く)、壁の、ちょっとした隙間にご飯が入れてあって、これを食べろとくれて、幼かったけど(忘れもしない、あのとき)、「これはとっておいたんだ、やるよ」といってくれて(泣く)、布団のなかにはいり、伯父さんが気づくかと、もぐって食べ、そうして寝て夜が明けると、白む前に抜け出、道なかで目がさめては、ヨワンジェ(龍王祭)をし、そうして暮らしながら、苦労しつづけお爺さんの寝る部屋にはいれなくなると、どこにもあそぶところがなく、よその家のオンドルの焚き口にいって、座っては、耳の穴をほじくり、東門市場にいっては、じゃがいもの袋を取ってかぶり寝もし、そうしつつ、八歳になり、学校に上がろうと、東門路の東国民学校に入学して通っていたが、二年二学期になって、だれかが育成会費を払ってないといって、学校にいけば、会費を持ってこなかったといい、気合を入れられ、先生にも殴られ、そうして、「学校へいけば、先生に殴られるな」とこわくて、学校の門の前に立ちすくみ、毎日、ヨワンマジ(龍王迎え)などですごし、退学となり、四年の一学期になると、文氏である、伯父さんの嫁さんが高いお金を出してくれて、また学校に入学し、四年二学期になると、やっぱり会費が払えなくて退学となり…(資料2.コンシップリ参照

 こののち、金允洙氏は警察の夜間学校でなんとか教育を受けて軍人にはなったものの、軍隊でも虐げられた。そこで、士官になろうとして訓練を受けることになったが、途中、脂コ傘の事故で死に損ね、除隊後は職も、援助者もなく、26歳のとき、拾われるようにしていったのが、クッの場であった。允洙氏は時折、感にむせつついう。

 二十六になった年、三月十三日、除隊し、故郷の山川のもとにきたけれど、どこにも住むところがなく、ゆくところも戻るところもなくて、どうしようかとおもい、今年二十歳の子の母親(李貞子氏以前の連れ合い)といっしょに、高氏お母さんがシンチョン(新村)に住んでいるころだったので、新村にきて住もうとおもい、当時金氏一門には寄る辺がなかったので、訪ねていってあいさつし、ある日、ワサン(臥山)にクッをしにいくことになり、高氏お母さんが「いっしょにいこう」というので、いっしょにいきました。  そのとき、今の連れ合いと夫婦の縁を結び、除隊後は立派な神房になるつもりもなかったけれど、いざ帰ってきてみれば、食べていけず、どこのだれもカネ一銭めぐんでくれず、服を買ってくれる者もなくて、「ええい、どうなろうとかまうものか、また神房をしよう」とおもって、臥山のクッにゆき、高氏お母さんと神房になる約束をし、はなし合い、心配もしてもらい、そうして、戻り「お前、とにかくわたしと母と子になろう」「では、どうかそうしてください」それからは父母のごとく頼り、済州市にいって住み、また新村にきて、あの西のところに敷地を準備し、二十九になった年に、高いカネを出し、この家を買い、きて住むと、愛しい子供たちも生まれ、ともに暮らすことになり...(資料2.コンシップリ参照

 こうして金允洙氏は29歳のとき、「母」とたのむ高氏お母さんに出会い、それからはあれほど厭だった神房としての仕事に専念し、やがて新村に家を買い、息子も生まれた。金允ェ、神の子のイエは六代の祖がなくなったとき、五代の祖が風水師にきくと、クェットゥルに埋葬すれば神房の子が生まれるといった。だが、代々、子がひとりしかなく、たとい神房でも子があればいいといって、そこに葬った。すると果たして曾祖父が「良き前生 を損ね」、神房となり、やがてその曾祖父は済州島でその名を馳せたのであった。金允洙氏はいう。

 神の刑房(神房)も、草や葉なら遺伝もしようが、子弟だからとて伝わるものではないけれど、わが六代の祖のお爺さんは三代つづいて一人っ子で、その六代の祖のお爺さんがこの世を去り、高祖父が(その父を)あの、クウェットゥル35)に埋葬するとき、知り合いの風水師が通りすぎて、いうには「ここに棺を置き、ここに墓を作れば、子孫は広がらない代わり、神房の子孫は生まれよう」というので、そのころも子孫はだいじなので「神房でもいいです」というと、「あした、巳の時になって、西のほうからクッの音がきこえたら、棺を下ろしなさい」といったところ、翌日、まさにちょうど巳の時になったとき、クウェットゥルのほうからクッの音が遠く響いてきたので、棺を下ろし埋葬してまた高祖父も一人息子として暮らしてこの世を去ってしまい、曾祖父は、そのときからよい前生を損ね、済州島でも威厳と品位のある神房となり...(資料2.コンシップリ参照

 金允洙氏は昨年(1985年)、高氏お母さんがなくなり巫業を受け継いだので、大きなクッをやろうとしたが、できなかった。しかし高氏お母さんの結ぼれた肝臓を解いてあげる意味もあり、連れ合いのからだの調子の悪いこともあるので霊迎え(神クッ)をやることにした。

 チョガムジェ(VTR1,VTR2,VTR3)をいたしました。チョガムジェでお招きしておいて、またこうしてつづけて、ああ、十二日にはシワンヨンマジ(十王霊迎え)をはじめまして、祖先の祭壇をこしらえ、あの世へいく道の障害を取り除き、ならしました。

(中略)
亡き先生たちもいらしてくださいとお招きし、こうして三十王、三ハヌルさまに祝願をいたし、神の刑房夫婦、この夫婦は御印打印をしてもらい、薬飯薬酒をいただいて飲みました。今日、朝には提灯の火のもと、明刀命監三差使さま(あの世の使い)には膳をもって差し上げたところです。さてシンコンシデップリをする番となりました。えー。

 金允洙氏は時折、杖鼓をたたく手を止め声をつまらせながら、神クッをやるに至った事情をこのようにとなえてコンシップリを終える。
 神クッの主催者はこのような生い立ちを持った者である。

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