神クッ−カミと人のドラマ

1.神クッとは

 韓国の巫俗において神クッといえば、通例は、一人前の巫覡として認められるための入巫儀礼を意味する。すなわち、多くは病や生活苦などから円満な日常生活ができなくなった者がカミによる試練の日々を経験する。そしてそれを克服し、同時に師と頼む巫覡のもとで修行のときを経、やがてカミに仕える者となるべく、披露をする。これが神クッであり、これは今日、ソウルなどではそうめずらしくはない。
 ところが、済州島の神クッは事情が異なる。済州島の神クッも、神房[シンバン](巫覡)として認められるための儀礼という意味では、なんら他の地方のものと変わるところはないのだが、済州島だけの特異な点がいくつかある。
 第一に、少なくとも、数日のあいだ、数名の先輩神房をよびまねいて、済州島の巫儀をすべて演じてもらわねばならず、しかも、その間、招待客も大勢やってくるので、その費用負担が並大抵ではない。済州島では、子供を授かることやその成長を祈ってする仏道迎え[プルドマジ](photo1,photo2,photo3,photo4,photo5, VTR List)、また一家の祖霊供養である十王迎え[シワンマジ]などがあるが、神クッにおいてはこれらがおこなわれることはいうまでもなく、その他各種のカミの来歴「本縁譚」[ポンプリ]も唱えられる。
 第二に、済州島の神房は生涯に三度、神クッをやり、その度に、カミに仕える者としての位が上がるとされる。それはとりもなおさず大神房になる道でもあるが、一方では神房としての来し方を振り返る絶好の機会でもある。
 第三に、ふたつの特異な儀礼が含まれる。それは、済州島でも神クッにおいてだけみられるものである。すなわち、ひとつは巫祖神「堂主[タンジュ](三十王[サムシワン])」および神房の祖先「巫祖霊」を室内の祭壇(これも堂主という)までよびいれる「堂主迎え[タンジュマジ]」(photo1,photo2,photo3,photo4,photo5,photo6,photo7,photo8, VTR List)、そしてふたつめは神房の道を原点に戻ってただすコブンメンドゥ(VTR List2)あるいはコブンジルチムという演戯的な儀礼である。
済州島の神クッは大きくいえば一応、上記の三点において特色があるといえるが、補足していうと、次のことは注目しておきたい。それは第一に、本主[ポンジュ](主催者)が、一方では神房としてではなくふつうの生活者として自分のイエの先霊のために「十王迎え」をきちんとおこなっていることである。第二に、堂主迎えのなかで本主が新たに神房となる儀礼がみられることがあげられる。すなわち薬飯薬酒[ヤクパプヤクスル](photo,VTR1,VTR2,VTR3,VTR4)を飲み、かつ、占いの巫具を肩に押しつけられる御印打印[オインタイン]VTR)を施してもらうこと、そして、のちに模擬的なクッをするが、これは明らかにイニシエーション(成巫儀礼)を示唆している。そして第三に、コブンメンドゥでは神房がこともあろうに巫具をなくすという設定をするのだが、それは理由はともあれ、カミに仕える者にも秩序の混乱がありうるということを意味し、そしてそれを克服する過程はおもしろおかしく演じられるのであり、ここに芸能の原初のかたちが示唆されているということである。

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