5. 温かい道士の一家―鹿港地域文化研究


 
5.1. 通夜の雰囲気

 


故人施議萬氏。道士であった。

孫二人も道士。左は施宣熹、右は長兄廼宣氏。改葬の前夜。


酒で洗い浄め撿骨された故人。これが体を象徴する。

故人は壺(金斗)のなかで生きているかのようだ。

 2007915(旧暦85)の夜、道士の施宣熹氏の家を訪問した。二日前に、鹿港での法事の現況を尋ねに寄ったとき、この日に洗骨後の儀礼があることをきいていたからである。施道士は、1972年生まれ、今年35歳。気さくな若い道士である。また、にぎやかな通り菜園路に面したその家も開放的であった。奥さんも家族もにこにこして、みな温かい感じである。

 当日、夜9時ごろいってみると、祖父施議萬氏の遺骨はすでに細長い壺「金斗」*[1]に入れられて卓前に安置されていた。上から覗くと、頭骨を包んだ白い布の上に顔がえがかれている。それが妙に現実感を与える。そうしたところへ、親族や近隣の人たちが次つぎとやってくる。そして、線香を上げ、冥福を祈る。それはまるで故人のお通夜のような雰囲気である。祖父に当たる施議萬氏はやはり道士で、1979年に68歳で亡くなった。およそ30年も前に亡くなっているというのに、この家では改めて心づくしの葬をおこなうのである。

*[1]  鈴木清一郎『台湾旧慣 冠婚葬祭と年中行事』、台湾日日新報社、1934(復刻版、南天書局、1995)266頁。

 これは洗骨に伴う儀礼で、いわゆる第二次葬である。台湾ではこれを撿骨(ジェングー)という。この日のために施家の祖父の骨はあらかじめ旧暦4月に掘り出されていた。酒で洗い、壺に納める。ただし、その骨の収集と遺骨全体をもとの通りにするのに時間がかかった。施議萬氏27年前に亡くなり埋葬されたというので、骨がかなり風化していたのだろう。そしてまた、鬼月(7月)を除いて埋葬にふさわしい日を選んだため、埋葬までに三ヶ月余りの時間を置くことになった。

 遺骨は撿骨の専門家により、みごとに再構成され、壺のなかにしゃがむような形で安置される。長さ数十センチの壺のなかに、まるで故人が安座しているかのようである。

 その壺の前には故人が好んだ煙草や酒、肉などが置かれる。親族はもちろん、知り合いの人びとも手みやげなどを持ってやってくる。いずれも普段着のままで、近くに住んでいる人たちのようである。

 15日の夜は12時ごろまで人びとの拝礼を受ける。そして、翌日の午前中には墓地に運ばれ、埋葬される。

 

 5.2.  骨壺を埋める


骨壺を埋める前に紙銭を焚く。冥土の路銀。

最初の供物や紙銭はむすめたちが用意する。

むすめたちのまごころのこもった供物。骨壺はまだ埋葬されない。

 


安置された骨壺。頭骨は南北の線上に置かれる。

地理師が北向きを見極める。


骨壺の上にかぶせられる石蓋。「施公議萬霊骸」と記されている。

 916日、朝7時半ごろ、施家の人たちは金斗とともに家を出る。墓地は鹿港の南側、ほど近いところにある共同墓地である。ここでの金斗の埋葬は午前8時ごろからはじまった。

 まず墓穴に紙銭を入れてこれを盛んに燃やす。冥土への路銀である。そして金斗を墓穴に入れる。そのあと、地理師がきて、故人が北に背を向けて座っているかどうかを計器を用いて測る。

 北向きが確認されると、壺の上に土をかけていく。骨壺が完全に埋葬されるまで、遺族の拝礼がつづく。はじめはむすめたちだけで、供物を供えて紙銭を焚く。これが済むと、一度、供物を片付ける。そうして次に息子たちが供物を並べて、同じことをくり返す。
 なお、供物を整えるのに先立って、墓穴のなかに金斗が納められる。そして土をかぶせたあと、墓の上に「圧墓紙」を置く。赤い紙と白い紙が何枚も用意されている。白い紙は手分けして、いくつも土に差し込まれる。施宣熹道士は、これは故人の使うカネだという。ただ、台湾の一般的な説明では祖先のために屋根を葺くという意味である*[1]。いずれにしても、故人の冥土の暮らしが安泰であるようにと願ってのことであろう。
 

*[1] 「台湾大百科全書」(ウェブサイト版)の墓紙(古仔紙)の項参照。

 供物を別々に用意するというように、男女の別が厳格なのは鹿港だけではない。台湾では一般に、死後、四十九日までのあいだに何度かやる葬礼のうち、ある回は女性の負担*[1]で、また、ある回は息子たちの費用負担で儀礼をおこなうということがみられる。

 なお、息子たちの用意した供物をよくみると、冥府の使者のための食べ物が別途に置かれていた。こうした使者への配慮は朝鮮半島の葬礼においても、別のかたちで現される。根柢においてつながるものがあるだろう。


結婚したむすめたちは赤い花をかざす。未婚者はかざさない。


墓地の地主(「地基主、先住者の霊」)への供物。

土地公への供物。土地公は地基主より格が上。

儀礼の最後に人びとに分与される五穀の種、銅貨、釘。


土盛りに置かれる白紙「圧墓紙」。これはカネの意味。また墓石の上の赤い灯は子息の繁盛を祈念するもの。

親族の老若男女、一同が拝礼する。祖父は墓石のうしろに座ってこれを見守る。


墓石の供え台の上、右側に使者への供物がみえる。

地理師がきて器のなかの物を蒔き、かつ人びとに授ける。



地理師の授ける銅貨は財運、釘は子息(丁、ディン)が授かることを意味する。誰もが進んで手を差し伸べる。

 墓の祭儀では、まずはじめに墓所の先住者「地基主」への拝礼がある。新たな墓地を作る以前、ここに住んでいた人、あるいはここに埋葬されていた人を「地基主」といって敬うのである。また墓所を司る土地公への供物もある。こうした配慮は朝鮮半島と共通する。

 家族は拝礼を終えると、地理師を待つ。地理師は金斗を墓のなかに入れるとき、同席していたが、そののち、どこかへいっていた。皆が待つなか、やや遅れて11時すぎにやってきた。そして、まず家族を並ばせ、唱えごとをする。次に、あらかじめ用意した木製の器のなかのものを人びとに分与する。それは穀物の種や銅貨、釘などである。

 これらのうち、穀物の種は墓の上に蒔かれる。墓の上に草が生えて墓と子孫が繁盛するようにという祈りが込められている。また銅貨は財運、釘は男の子の誕生を期待してのことである。

 

 5.3.  台湾の二次葬


大将爺廟に並んで撿骨の看板がみられる。骨は霊魂の拠り所。整除して金斗に収める必要がある。

  施家は代々道士の家系で施宣熹氏の代で五代目になるという。鹿港の中心部に家があり、諸種の法事を依頼する人たちがよく出入りしているようすである。施宣熹氏によると、近年、洗骨をする家庭は減っているという。しかし、家庭によくないことがあるとき、これをやることが多いという。施宣熹氏の家ではとくにそういう理由ではなく、長い時間をおいたので、洗骨をすることにしたという。

 鹿港の道士の家の撿骨の儀は、故人に62女がいて、孫たちも大勢いたため、にぎやかな雰囲気に包まれていた。道士の家という境遇のゆえか、墓前に集まった人たちはみなこの儀礼に意味をみいだしているようであった。午前11時半ごろ、人びとは和やかな雰囲気のうちに帰っていった。昼は天后宮の前にある香客大楼で会食とのことであった。 台湾のばあい、撿骨はかなり一般的である。鹿港での聞書によると、骨を洗い整えるのは、いずれは大陸の故地に戻り、そこに骨を埋めたいという意向が働いているからだという*[2]。しかし、今日、台湾人意識が強くなったこと、火葬が普及してきたことなどにより、撿骨の儀は減少している。とはいえ、鹿港ではまだ「撿骨」の看板がみられる。それもなかなかユニークなものである。いわく「七代撿骨世家躍上国家地理頻道」などとある。

 洗骨の風習は沖縄や朝鮮半島にも広くみられた。また大陸では、吉林、湖南、湖西、貴州、四川、雲南、広西、福建においておこなわれた*[3]。 

 東アジアにおける洗骨、そして骨を整えての埋葬の儀礼は話には聞いていた。しかし、目の当たりにみるのは今回がはじめてであった。そこでは、この儀礼が故人との再会の場であることが実感される。目前の金斗のなかに祖先がしゃがんでこちらをみている。それが確かであればこそ、生前の好物が供物として置かれるのだろう。このとき、子や孫たちはともに会食する喜びをかみしめることができる。
 東アジアの人たちにとって、これはもっとも確実な一族会同のための方途だったのだろう。
  
 付記  台湾の伝統儀礼を取り巻く場では当然のことながら、台湾語によって会話がなされる。その活気に満ちた世界にはいっていくことが重要だが、そう容易ではない。今回の調査、とくに施宣熹道士の家庭の行事では、台湾大学大学院生陳珏勲(タン・カフン)さんにその案内役となってもらった。この案内なくしては参与は不可能であった。感謝する次第です。野村伸一記。


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*[1] 施宣熹氏によると、三七(21日目)はむすめたち、五七(35日目)は孫むすめたちの負担でやるのだという。

*[2] 平敷令治「台湾漢人社会の墓制」渡辺欣雄編『祖先祭祀』(環中国の民俗と文化 3)、凱風社、1989年、260頁にも同様の指摘がある。

*[3]  同上、260頁。