台湾民俗誌(図説)-鹿港から(鹿港地域文化研究)

                                           野村伸一
                                       (2011.10補遺)
                                       (2012.9.9補遺)

 Ⅰ ひとつの象徴


註生娘々(台北 徐瀛洲氏蔵)
      (※写真はすべて拡大できます。)

 2007年の台湾旅行の最後に目にした母と子の神像。数年間抱いてきた東アジア民俗世界のひとつの象徴として目に焼き付いた。
 中国漢人社会の寺廟で註生娘々は普遍的にまつられている。ただし、こうした素朴な母親像はめずらしい。これは民俗社会の原点に位置する神像だろう。かつて観音菩薩がこうした次元に至った。
 しかし、今日ではこの神像は忘れられている。

 Ⅱ 鹿港

 1. 2007年9月、鹿港への旅


現在の鹿港。左下は媽祖をまつる天后
宮。南側に市街地が広がる。中央、樹木のあるところは
中山路。
          


 鹿港はかつて台湾中部では第一の港町として栄えた。清代には、「一府二鹿三艋舺」とよばれた。すなわち、第一が台南府、第二が鹿港、第三が艋舺(マンカ、台北の一地域)という意味である。
 鹿港に最初に定着したのは福建省の興化(莆田)の人びとである。彼らの建てた興安宮(1684年)は鹿港で最も早く創建された媽祖廟である。次いで泉州、漳州、また広東省などから移住する人がつづいた。彰化地方の米を積み出し、大陸との貿易で富を蓄積した。鹿港では寺廟を中心に独特の市街が形成された。最盛期は18世紀後半から19世紀前半である。
 しかし、その反映は次第に衰えていった。すなわち河川の氾濫とそれによる港湾環境の悪化、また19世紀後半、清朝が列強に対して淡水、基隆、安平、打狗[高雄]を開いたこと、さらに鉄道が鹿港にまで及ばなかったことなどが主要な原因とされる*1。

  *1 黄柏勲『鹿港 旅遊精神』、文興出版、2006年、10頁。

ところが、歴史のなかに置き去りにされたような趣がむしろ今日、台湾の人びとの注目を浴びている。鹿港は経済的な繁栄は失った。しかし、かつての福建(とりわけ泉州)、台湾の精神生活が凝縮して伝わっているかのようである。とくに大きな行事がないときにでも、天后宮(媽祖廟)には進香の一団が詣でるし、またあちこちの小路には観光客が少なくない。
 鹿港は、2006年12月、007年9月、2011年10月、2012年3月、2012年8月と五度訪問した。それぞれが一週間以内の短い滞在であったが、鹿港のさまざまな光景をみて、相応のものは感じ取ることができた。以下は、初回、第二回の訪問の際のノートを中心に整理したものである。

 初回の旅の主題は、とにかく、数多い廟の現況をみることであった。小さな町には至るところに神がまつられている。それは「三歩一小廟、五歩一大廟」といわれるとのことである。
 この第一回目の旅では神がみの多さに圧倒された。なるほど、地域に根付いた廟が多い。そして、以前、台南市で感じたのと同じような雰囲気に包まれている。いや、市街が狭い分だけ、台南市以上の密度で人びとの神詣でぶりが感じられる。
 次に第二回は媽祖や夫人媽、あるいは孤娘とよばれる女神に注目した。同時に、可能な限り、廟内の神とそれをめぐる人びとの感情を聞いてみたいとおもった。
 第二回の滞在中、媽祖への進香団の具体的なかたちをみることができた。鹿港では媽祖だけでなく、数多い王爺廟や観音を主尊とする龍山寺も注目される。しかし、何といっても、天后宮の存在が大きい。
 天后宮の媽祖のかたちと進香団の様相は次のようなものであった。

 2. 媽祖の神像

    2.1. 天后宮の媽祖


天后宮門前

天后宮俯瞰

中庭


正殿中央の媽祖像

中央部の三体の媽祖。中段の媽祖は湄洲島から将来のものという。


 ここの媽祖像は香煙のため黒々としている。その顔色が有名なのだが、もとは赤みがかった色であった。

 2.2. 媽祖文物館

 参拝客のための宿所「旅客大楼」の三階に媽祖文物館がある(2012年8月現在閉鎖中)。特別に許しを得て媽祖のいくつかを写真に留めた。いずれもなつかしい感情を抱かせる。


ふくよかな清代の聖母

清代の聖母


清代の聖母

清代。土製の聖母

 媽祖文物館には媽祖のほかにも興味深い像がいくつもみられる。そのうち、以下の千里眼と順風耳の像は、今日、漢人社会の廟で一般にみられるものとはいくらか異なる。それは朝鮮のチャンスン(路傍に立つ厄除けの柱、鬼面を持つ)のような表情である。これらは共通の文化背景を持っているとみられる。

順風耳

千里眼

 3. 進香団

 2007年9月15日、土曜日ということもあり、午前中から各地の進香団がやってくる。午後4時半ごろからは台北県三重市の慈心堂の信徒たちがやってきた。慈心堂の主神は瑤池金母。媽祖や三太子を伴って進香にきた。 


進香団の来臨。楽隊の太鼓の響きがにぎやかである。

旗持ちにつづく護衛。


進香団にはつきものの武将。


神を先導する童乩。

瑤池金母をまつる童乩。静かに歌を口ずさむ。


童乩、脱力。

瑤池金母(右)と媽祖(左)。


天后廟の香炉の煙と一体化することを祈願。


一体化したのち持参した香炉をだいじにしまう。

慈心堂持参の護符。車で帰っていく。

 4. 頻繁な童乩の活動

4.1. 放兵


玉渠宮の主神田都元帥。蟹に救われたという伝承があり、口元に蟹の模様がある。戯神。

 鹿港では王爺廟をはじめ、各所の廟に童乩がやってくる。彼らは地域の人びとの日常的な願い事に応じて神のことばを告げる。子供の勤め先での仕事がうまくいくかどうか、商売を大きくするにあたっての先行きの見込みなど、さまざまな相談がある。
 2007年9月13日、市場近くの大有里玉渠宮(ユーチィゴン)ではふたつの行儀がみられた。いずれも童乩によるものである。ひとつは「放兵」で、もうひとつは童乩による小法事(個人祈祷)ある。

 玉渠宮  玉渠宮は李府王爺を主神としていたが、のち童乩がいなくなり、田都王爺に取って代わられた。そしてさらにのちには田都元帥(相公爺)が主神となった。大陸では6月11日を生誕の日とするが、ここでは6月16日が祭日である。田都元帥は戯神として知られる。よく知られた伝説は次のとおり。すなわち、赤子のとき、黒い顔であったため、田のほとりに棄てられた。だがアヒルと蟹に助けられた。のち農民に拾われ、養育された。名を雷海清とする。やがて宮廷の楽師になった。時の玄宗皇帝に感心され「梨園大学士」となる。しかし、安禄山の乱により、玄宗は落ち延び、雷海清は安禄山に演奏を強いられる。雷海清はこれを拒否したため斬殺された。また雷海清はいつも金鶏、銀犬とともにいて、彼らは玄宗の危難を幾度も救った。乱中、彼らの幟の雷の字が雲に覆われて田の部分しかみえなかった。玄宗はそれをみて「田都元帥」の名を贈った(陳仕賢編著『宗教鹿港』、鹿水文史工作室、2009年、125-126頁。)
 この伝承に基づき現在、廟内にはそれを伝える置物と絵がみられる(図版1-4 2011年撮影)。


1 雷海清の幟が雲に覆われて田の部分がみえる。

2 雷海清は小さいときから金鶏、銀犬と生活をともにしていたという。廟の入口に左右に犬と鶏とが置かれる。

3 田都元帥は 戯神。この廟の右壁には南管(南音。泉州の古楽)の一団がえがかれる。
 4 左壁にえがかれた北管(北方音楽要素に由来するもの)。玉渠宮では北管も伝える。

 放兵  放兵は2007年9月13日(旧暦8月3日)午後5時半過ぎからおこなわれた。台湾では旧暦7月中は鬼神(無祀孤魂)が徘徊する。彼らは7月1日、地蔵王廟の鬼門を通過して人間世界にやってくる。このとき鹿港は威霊廟の大将爺のもと、孤魂を統制するが、彼らは家々を訪れては飲み食いする。しかし、8月になると、王爺その他の主神(玉渠宮では田都元帥)が五営(東西南北、中央)の天兵、天将をそれぞれの位置に送る。こうしてもとの秩序を回復する。
 なお、玉渠宮では旧暦6月28日に「収兵」をする。これは、五営を撤収することで、陰界の鬼(「好兄弟」とよばれる)が以後一ヶ月、自由に動き回れるようにとのことである。
 ところで、大陸でも収兵、放兵の儀礼をやるが、「兵」のとらえ方が少し異なる*2。

  *2 ただし、この「収兵」と「放兵」は民間の儀礼なので、地域差がある。たとえば、湖北省蘄州では、7月はじめに「放兵」をして、7月15日の夜に「収兵」をする。この間、鬼兵は人間のもてなしを受ける。つまり、湖北省のばあい、「兵」は鬼神とともに自由に歩き回ることになる。胡孚琛主編『中華道教大辞典』、中国社会科学出版社、1995年、1531頁参照。


祭神一覧

王爺の配偶者什三夫人媽、ほかに洪夫人媽も祀られる。鹿港には夫人媽という女神が至るところにみられる1月20日にまつる。


玉渠宮前面鹿港鎮車圍巷1号(車埕)。

収兵、放兵を知らせる紙


五営の乗る馬と飼い葉

鬼月(7月)が終わり、巷間に送り出される五営


五営をよびだす童乩

蛇を用いて悪しきものを追いやる。

田都元帥の力も借りる。


 4.2. 童乩の託言

 玉渠宮では同日の夜9時過ぎから童乩による託言の儀礼がおこなわれた。この宮には7、8人の童乩がいて、夜間は年中、託言がなされている。興味深かったのは、玉渠宮の近所の10歳の女の子が簡単に童乩の真似をしたことである。この子は、童乩の行儀が好きなので、学んでいるとのこと。
 女の子の次に現れた青年の童乩は音楽と歌がつづくなか、椅子に座ってじっとすること30分余り、徐々にからだがゆれはじめ、ついに立ち上がった。それからは神前の卓に向かい、神のことばを吐きつづける。脇にいる卓頭がこれを周囲の者にわかりやすく説き聞かせる。卓頭の前には、これを書き写す者がいて、紙に要点を書いていく。最後には依頼者にこの紙を渡す。


10歳の見習い童乩。おとなたちが温かく見守る。

神咒が唱えられるあいだの瞑想おそ30分つづく。

音楽とともに周囲で唱えられる神咒。普庵(廟の祭神のひとつ)の名がみえる。

神が降りた童乩。

託言の寸前。


神の指図を告げる童乩

廟前の卓上で祈願者への託言

 5. 温かい道士の一家―鹿港地域文化研究
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