慶應義塾アジア基層文化研究会臨水夫人の儀礼と「物語」

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5 臨水夫人という女神

 台南の臨水夫人媽廟を中心にしたいくつかの儀礼をみるとき、わたしには、臨水夫人と百花橋のかかわりがとくに重要なものとおもわれる。「百花橋」については、劉枝萬の引用した『臨水平妖伝』第十七回の次の箇所が印象深い。すなわち

 死んで神になった陳夫人が、…ある日、ふと見知らぬところにやってくると、…下界では想像もつかない、すばらしい景色で、…黄金の河に、緑の水が流れ、虹のような橋がかかり、…色とりどりの花が咲き乱れていた。すると、突然ふたりの武神が現れて、「何者だ、百花橋へ闖入してくるとは」と怒鳴った。…「われは福州・下渡の陳靖姑ぞや」と陳夫人がいえば、…二神は聞くなり平伏して、「…ここは上界の百花橋でございます。下界のあらゆる赤子は、すべてここより出向いて誕生いたします」と説明した。陳夫人は大いに喜び、「…おふたりが我が教門に帰依なさるならば、自今、ここをわが駐泊所とし、ひとりは金盆もて子を送る高元帥と名乗り、ひとりは子育てのケ大神と名乗り、わが義妹たちと百花橋を守られよ」と指示した30)

 この引用箇所からわかることは

1.百花橋は花咲き乱れる生命の源であること
2.百花橋は天界ではないが、上界にあること
3.そこは下界(人間界)とは異なること
4.臨水夫人陳靖姑の以前に百花橋があったこと31)
5.臨水夫人陳靖姑はその橋をみいだした者であること
6.百花橋には厳重に花を守るカミがいてここにはいるのは容易ではないこと

などである。
このことをさらに一般化していうならば、福建省において千年余り前に、もともと民間に漠然としてあった百花橋の存在を広く説いた者が現れた。それが陳靖姑とその仲間たちだったということであろう。陳靖姑が道教の法に通じたとか、観音菩薩の化身だとかいうこと32)は、そののちに仏教、道教の影響が及んで伝承がふくらんだので、おそらくもとは巫の集団だったとおもわれる。ちなみに、福建省の研究者徐暁望も、このカミの原型を「難産で死んだひとりの女巫」だと述べている33)
 また、このこととの関連でいえば上記の伝承では、百花橋はふたりの武神が管理しているのだが、一般には花公花婆という男女が花の管掌者である。おそらく民間伝承としてはこちらのほうが古いものであろう。そして花公花婆こそは生命の元締めなのであり、それは大陸の儺戯などで崇敬される儺公儺母のような者、原初の夫婦であったと考えられる。それゆえ、栽花の儀のとき、「花」の両脇に花公花婆の姿が依然としてみられるのはより根元的な意味があった。かれらの存在は臨水夫人以前にあったので、消すことはできなかったのであろう。
ところで、花の橋に降り立った陳靖姑はその以前に一度、死んで昇天している。つまり清まった身となった。そしてその上で百花橋をみいだしたのである。一方、民間の花の儀では、この世の多少とも疲弊した身体を持つ女性たちが百花橋を通過し、その端のところで、身に付いた関を改める。ここでは限城が打破され替身が取り出されるが、それは汚れを脱ぎ捨てることであろう。すなわち古い身体の死があり、そしてのち再生した身体は霊魂の居所である花園をみいだす(模造の花園を膝の上に抱える)。そこで、霊魂の活性化を意味する花の手入れの儀があり、さらには花園そのものの強化が呪詞を用いておこなわれ、最後に、新たなる生命の授与を意味する裁花の儀がある。
こうした儀礼を含む原初の花園の観念は済州島の二公本縁譚や仏道ハルマン本縁譚の世界34)とも通じるし、また日本の花祭などにおける新生の拠りどころとしての花35)にも通じるとみられる。済州島の花畑には死の花、いさかいの花、滅亡の花もある。人びとに生命を授与する仏道婆さんは花育ての競争をして勝ったのだが、負けた女性クサムスンは死を管掌する。これらは現実の花畑がそうであるように死(枯れた花)と新生(開花した花)がひとつところにあるという発想によるものである。一方、花祭の花についても、死と新生が隣り合わせに観じられていた。すなわち、奥三河の花祭をかつて同地でおこなわれた神楽にさかのぼらせるとき、そこには浄土入りによる仮死があり、そしてのちに生命の花を媒介として再生を得ていた。
 こうした生命の連鎖にかかわる観念は東アジアにおいてはかなり根元的な民俗として存在していたとおもわれる。ところで、台湾における死者のもてなし方はどういったものなのだろうか。生まれ出る生命とどうかかわってくるのだろうか。このことをみるためには、やはり葬礼全般について、みておく必要があるだろう。

注釈

30)前引、劉枝萬『中国道教の祭りと信仰』下、380頁。太字は野村によるもの。
31)原初の百花橋の所在はそう明確ではなかったとおもわれる。道教の影響を強く受ければ「上界」となるであろうし、童@や法師の影響下では「地府」となるであろう。また済州島では類似のところを「西天花畑」ともいう。これらを要するに、百花橋や花?はこの世でないところ、河や海を越えたところに位置していたというべきだと考える。そしてそれは原初の「あの世」つまり「死」の所在と同じ範疇にあった。
32)前引、『臨水夫人媽簡介』、1-2頁。この典拠は清の時代の『都別記』のようである。この書では陳靖姑の伝奇部分だけでも20万字にのぼるという(徐暁望『福建民間信仰源流』、福建教育出版社、1993年、335頁以下)。臨水夫人廟は清代に大いに発展した。その廟に三十六宮婆姐をまつることなども清の時代になってからのことのようである。これはもともとは?江流域の女神たちであった。この流域の女神崇拝、ひいては女性の巫俗への傾倒は中国のなかでも特異な様相を帯びている(同書、337-338頁)。
33)前引、徐暁望『福建民間信仰源流』、342頁。
34)鈴木正崇・野村伸一編『仮面と巫俗の研究』、第一書房、1999年、338-339頁参照。
35)「花の舞」や「花育て」の花とは新しい生命のことであろう。


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