【図版8】 儀礼のたびに造られる花欉(花園)。左に花婆、右に花公がみえる。 |
1998年3月8日の夕刻、わたしは臨水夫人媽廟で林俊輝道士のおこなう「梗花」の儀をみることができた。小法事で2時間余りの儀礼であったが、果たして、生命の根源としての花に対して台湾の女性たちがいかに共感を寄せているか、そうしたことをつくづくと考えさせるものであった。やることは簡単だが、花をめぐる諸種の儀礼に込められた意味はなかなか奥が深いといえるだろう。
花欉について
既婚の女性で子供が授からないのは、陰間にある、その花(花園)の養分が足りないからである。これを強く壮んにするのが梗花の儀である。だから、これは梗花ともいう23)。女性には花があり、男性には樹欉がある。女性のからだが弱ければ梗花欉が、男性のそれには梗樹欉が必要である。しかし実際には男性のための梗樹欉の儀はほとんどおこなわれない。
この世で花を育てるには土と水が必要だが、三奶夫人は米の盆の上で花を育てたという。それゆえ、この梗花の儀では、米の盆の上に置かれた花欉(図版8)を強化したあとで、「栽花」がおこなわれる。それがすなわち子授けの儀となるのである。今回の儀はこれに当たる。
依頼者
依頼者は30歳になる既婚女性Aさんで以前に一度流産の経験があった。それ以来、子供が授からず、健康状態もあまりよくないことから、母とともに臨水婦人廟にやってきた。ふたりは子供を祈願するだけでなく、みずからの健康をも祈願した。
梗花の次第
この儀は請神・浄壇からはじめて先に概観したとおりの次第で進められた。その内容は次のようである。
【図版9】 百花橋の上に置かれた法索。悪しきモノを追いやる鞭でもある。五方の兵をよび集める力があるともいう。 |
請神・清壇、祭花欉、祭関煞
助手の曽文徳が頭を紅い布で包んだ「紅頭法師」のいでたちをして臨水夫人に向かって立つ。背後には依頼者の母子が立っている。法師は暗誦した唱えごとで諸種のカミ、将兵をよび、金古紙に火をつけ、これで祭場を浄める。
次に、右側に移動して、やはり曽文徳が臨水夫人の部下となった三十六婆姐、大聖爺(孫悟空)の神像に向かって(図版6参照)、花および関をまつる。これらは科儀書の読誦を中心にしておこなわれる。関とは科儀書によると、各種の「星君」であり、この段はまた「祭星君」とか「祭関限」ともよばれる。
祭場にはすでに橋が用意されてある。橋は腰掛けの上に黒い布を覆うことで即席にできあがる。その上には法師の用いる法索が置かれてある。法索は騰蛇ともいう。蛇の頭を付けた繩鞭で、のちにこれがを打ち払うのに活用される。林俊輝道士によると、この鞭はまた金鞭聖者ともいう。蛇の頭の方向が橋頭、尾のほうが橋尾となる(図版9)。
【図版10】 道士が七星剣を振るいつつ橋を巡ってを祓う。 |
造橋過限
林俊輝道士が七星剣を持って道士の独特の歩みであるを踏みつつ舞い、橋の周囲を右回りに三回巡る(図版10)。五方に向かって聖化するもので、舞剣と水(口に聖水を含んで吐くこと)をくり返す。(ビデオ5)
五方すべてに向けて聖化が済むと、道士は橋のたもとに立つ。そして、牛角(龍角)を吹いて、橋造りが終わったことを天に告げる。このあと、脇に立ってみていたAさんと母親が橋のところによばれる(図版11)。
ふたりは林道士に導かれてまず、橋の周囲を、それから橋の上を通過する(ビデオ6)。ふたりと道士のあいだを法索がつないでいる。これは百花橋まで道行をし、やがて百花橋を通過することを意味する。同時に、次の改厄の前提となる。Aさんは身代わりの人形(替身)を衣服で包み込んだものと線香を両手で持つ。この橋を通過することは、Aさんや母親の「花園」がこの橋とかかわることを意味するのだろう。いや、観念的には、女性の花園はここにあるのだといえる。付き添いの母親もみずからの健康増進のために橋を渡るのだといった(図版12)。とにもかくにも、ふたりの女性はみずからの花園にいきついたのである。
改厄
百花橋を通過したあと、Aさんは百花橋の端に腰をおろす。ここでAさんは道士から、「関」を象ったものを渡される。ここから「犯関」を取り除く儀がはじまる。Aさんがこれを膝の上で抱えているあいだ、道士は唱えごとをし、次に七星剣で関を破り、そのなかにあらかじめ入れてあった替身を取り出す(図版13)。そして道士は人形を手に持ち、これを振り、Aさんの口元に当てる。Aさんは道士に命じられてハーッと息を吹きかける。これでAさんは体内に溜まる悪しき気を人形に向かって吐き出したことになる。このとき、林俊輝は法索をしきりに振り回して地をたたく。そのピシッとした鋭い響きはひじょうに印象的で、いかにもこの周囲に漂う悪しき気を追い払う感がある。
次に、助手の曽文徳の立ち合いのもと、Aさんは夫の上着を両手で広げて、厄除けの儀を施してもらった。このときも夫の代わりとなる人形が活用された(図版14)。このとき、曽文徳も法索をたくみに振り回して地をたたき押をする(図版15)(ビデオ7)。
花脚枯走黄蜂
次に林俊輝道士はAさんに花公花婆のつかさどる花を持たせる(図版16)。そして本人と母親のみまもる前で蜂や蝶、天狗の取りついた花を折り曲げ、花園を整えたことを確認させる(図版17)(ビデオ8)。これがあったため流産もしたということなのであろう。
梗花、栽花
道士は花を臨水夫人の前の卓上に置く。そしてAさん親子を促して場所を移動させる。Aさんは、正面に臨水夫人を拝む位置にすわる。そしてこのあと、林俊輝は、Aさんに花を持たせ、祝福のことばを与える。それは、梗花の科儀書に従っていて、一年十二ヶ月にそれぞれ特定の花があること、花をだいじにすると、五男二女にめぐまれることなどの内容である(図版18)。また「天狗や白虎、紅目、缺嘴…独脚…奸臣」のようなむさくるしい、嫌なやからがAさんにまとわりつかないようにといった内容の呪言もあり、これをきくと、Aさんと母親はおもわず笑い出してしまう(図版19)(ビデオ9)。
林道士はひとしきり笑わせたあとで、仕上げの栽花の儀を施す。これは文字どおり花をAさんに授けてやるもので、本物の花を折り取ってきてはAさんの右耳の上にかざしてやった。花の数は特に決まりはないが、中国社会でも好まれるのは「一姫二太郎」ということで、赤い花が一つ、白い花が二つ、かざされた(図版20)(ビデオ10)。
送花、進銭、祈福
花を授かったAさんは花を祭壇の上にもどし、神がみへの感謝の意味で金紙の施しをする24)。一方、そこには鉢植えの芙蓉が置かれてあった(図版21)。道士はこれをAさんに授ける。芙蓉は同音の「扶陽」を意味し、これをイエに持ち帰り、育てることを勧める。陽を扶助して子供を得るようにとの意味からである。
百花橋の儀の広がり
梗花の儀がおこなわれた翌日、3月9日にも、これと似た儀礼がおこなわれた。ここでは1歳ほどの赤子を連れた若い母親がきて、子供の発育を祈る儀礼をした。
林俊輝によると、その儀に特別の名称はなく「小孩祭関」と「添加元気」を組み合わせたものだとのことである。これも2時間ほどの小法事で、それは
請神・清壇ー祭関限ー造橋過限ー改厄ー梗四柱ー梗元辰ー祈福ー謝壇
という次第であった。
曽文徳による「請神・清壇」は型どおりであるが、この冒頭に依頼者の関係者が「禅師菩薩」を神輿に乗せてかついできて、その加護を祈願したのは前日とは違うところであった(図版22)。
この次に「祭関限」とあるのは祭星のことである。曽文徳はうしろに母子を立たせて、天狗や白虎、太歳、五鬼など関を意味する各種の星君をよび、供物を献上する。これでもって依頼者の身に災いをおよぼすことなく諸星君に帰ってもらおうとする。
次の「造橋過限」は林俊輝が担った。やりかたは梗花の項で掲げたものと同じで、橋の周囲の浄化があり、次いで母親そして赤子が道士に導かれ橋の上を通過する(図版23)。
赤子の「改厄」は形式はおなじだが、厄の除きかたは前日といくらか違っていた。すなわち、百花橋の端に母親と子供が腰かけると、道士が刀で関を破り、替身を取り出す。ここまでは同じだが、このあと、道士が10センチほどの長さの模造の弓箭を取り出し、これを七星剣で断ち切った(ビデオ11)。これが「抽刀箭」で子供の厄除けではしばしばおこなわれる(図版24、図版30も参照)。
林俊輝によると、子供のからだのなかにはいくつもの関がある。そのうちのひとつが「将軍箭」25)であり、これは祖父母を死に至らし、父母を損ない、さらに自分や兄弟をも病そして死に陥らせる危険なものなので、これを除去する儀をおこなうとのことである。さらに、道士は、泣きじゃくる赤子の手を引き、その爪に剣先を立てた(図版25)(ビデオ12)。これは何のためにするものかと訊ねると、子供の身体中にたまった悪しき気を爪のあいだから発散させるとのことであった。
次の「梗四柱」「梗元辰」は臨水夫人に向かう位置に場所を移しておこなわれた。卓上には四柱亭と十二元辰の象徴である赤い十二個の饅頭および光明燈を意味する七本の蝋燭がみえる。四柱亭のなかには米が盛られ、また鏡も置かれてある(図版26)。この鏡を使って林俊輝は太陽光を反射して子供の顔を照らした。これは活力を高める意味があるのだろう。
林俊輝は臨水夫人に向かって、赤児の元辰を盛んにするべく祈願の唱えごとを奉り、それが終わると、赤い紙に何やら墨書したものを読み上げ、これを畳んで子供に持たせた。そこには、この赤子を神々の孫にすることを認めるといった内容が書かれてある。これを「誼子書」という(図版27)26)。そして最後に、子供の首に首飾りをさげてやった。これはお守りであろう。このときにはむずかっていた子供の機嫌もすっかりよくなっていた。
23)林俊輝のもとには『梗花科儀』という書があるので、この語は道士の用いる正式な語とおもわれるが、他書にはみられない。劉枝萬は、同じ内容のものを「進花園」の巫術と一般化し、さらに「拱花脚」という語を提示した(前引、劉枝萬『中国道教の祭りと信仰』下、381頁)。しかし、林俊輝はこの語を用いないといった。
24)金紙は廟の入口であらかじめ買っておく。その代金、少なくとも数百元は臨水夫人廟の収入となる。
25)咸豊10年(1860)刊の『星平要訣百年経』(徐瀛洲所蔵)の版本によると、小児の関は32種類もあげられていて、そのそれぞれに対応の仕方が略記されている。これは占い師などが用いた本のようであるが、中国の法師はこうした占いに基づいて除厄の儀を施したのであろう。
26)ここでこの赤子は、この世の母親だけでなく、臨水夫人の加護を受ける者となったということが約束されるのである。
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