慶應義塾アジア基層文化研究会臨水夫人の儀礼と「物語」

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1.臨水夫人媽廟の法事

0.概観

 台湾では男性は樹木から、女性は花から生命を得ていると信じられている1)。そこで女性が子供を望むとき、また健康がすぐれないとき、あるいは赤子の発育がおもわしくないとき、花を通した儀礼がおこなわれる。
 その際、具体的には花の橋を通り、花を授かり、またイエに花を持ち帰って育てることがみられる。こうした行為は今日、台南では臨水夫人廟2)(ビデオ1)で典型的にみられる。そこで、以下では、まず臨水夫人廟についてその背景を概観し、次に実際の諸儀礼を追いつつ、それらが東アジアにおいて、どのような意味と広がりを持つのかを追究してみたい。あらかじめいえば、ここにみられる「生命の花」の観念は済州島や日本においてもさまざまなかたちで伝承されていた。そして、それらは根を同じくするものといえるだろう。

台南の廟

 台南市は、現在、人口726,007人、戸数228,800、面積175,645キロ平方メートル、主要産業は農漁商工3)で、規模では台湾第四の都市とされる。ただし、1885年までは台湾の首府があったところで、当時まではまさに政治・経済・文化の中心地として知られていた。日本の統治時代、政経の中心は台北に移ったが、現在なお、台湾社会を動かす太い人脈は台南に通じるともいわれ、また台南出身者の文化的な矜持は並々ならぬものがある。
 ここは古都の趣をたたえている。古い町並みがよく残り、そのあいだに多数の寺廟が調和している。人びとの寺廟詣では日常頻繁であるが、そのかたちにはごく自然な雰囲気がある。人びとは、まるで日々のあいさつをするかのような感じでやってきては祈り、去っていく。
 『台湾廟神大全』(1985年)によると、台湾市内の寺廟数は215、また1999年に筆者が市政府に問い合わせたところでは267であるが、このなかには土地公廟や有応公廟(無縁仏にあたる霊をまつった小祠)など、いわゆる路傍の廟や個人の神壇などは含まれていない。これらを含めると、この倍以上の数になるだろうと考えられる4)
こうしたなかで女性の信仰をとくに集めるのが臨水夫人廟である。この名の廟は台湾全体ではそれほど数多くはなく、台南市内においても人びとのよく知っているものはひとつだけである5)。ただし、女性を対象とした廟がここしかないというわけではない。台湾の女性は、一般に子宝を願うときは、註生娘娘6)というカミのもとへいく。台南においても同じで、この女神はいたるところにまつられている。
 次に安産を願うときになると、臨水夫人がとくに選ばれる。そして子供が生まれたあとでは、七星娘娘というカミのところへいく。このカミには特に16歳にいたるまでの子女の成長を祈願する。こうした各段階に応じる三種のカミを一廟にまつるところとしては台南市中山路の開隆宮が名高い。
 ただし、女性たちがいつもこのようにきちんと拝み分けをしているかというと、けっしてそうではない。わたしは臨水夫人廟で何日間か、さまざまな女性の祈願を観察した。その結果わかったことは、ここではさまざまな祈願がなされているということであった。既婚の若い女性が子を望むのはいうまでもないが、そのほか、女神のおかげで妊娠したことのお礼参りもある。また、赤子が病気しがちなので関(厄)を除去してもらうとか、中年の女性がすでに青年になったものの知恵の遅れた息子を連れてきてその元辰(生命力)を活性化してもらうことなどがみられる。
 元来、産を助けるカミであった臨水夫人の前で関を取りのける類の儀礼、つまり治病儀礼をなぜするのか、やってもかまわないのかと、訊ねると、林俊輝道士は「臨水夫人がみまもってくれるのでだいじょうぶ」といった。臨水夫人は、その生涯の伝承をみると、白蛇の精などの妖怪を除き、また旱魃による人びとの苦しみを除くために、祈雨の法を実践し、雨を降らせている。すると、この廟で諸種の治病儀礼をし、人助けをするのはむしろカミの意にかなっているということになる。
 ところで臨水夫人というのはどういう女神なのか。いつごろからどこで信仰されはじめたのか。日本はもちろん、中国内でもあまり知られていないので、これについてもう少し、詳しく探ってみたい。

 臨水夫人の生涯

 臨水夫人の伝承は清朝のはじめごろにできたかとおもわれる7)『臨水平妖伝』という書の冒頭の解説8)に記されている。
 本名は陳靖姑。唐の天佑2年(905)、1月15日に、福建省福州で生まれた。その生涯は『都別記』9)によると、生まれたとき、景雲が部屋を覆い紫気が庭に盈ちた。幼くして聡明で賢淑、端荘であった。13歳のとき、閭山の許真君の門下にはいり道法を学び3年間で学を成した。帰郷してから親の薦めを入れて古田県の劉杞公のところへ嫁した。そして
この地で閭山の法を発揮して、ときの魔精を攝伏し、人びとの厄難を救った。
 陳靖姑が24歳のとき、大旱魃が生じた。懐妊中の身であったが、これを除くべく、奮然と脱胎し、祈雨の法を施して雨を降らせた。しかし、仇妖の乗ずるところとなり、尸解し、帰天した。ときの人は陳靖姑のために古田に廟を立て、これをまつった。そののち夫人の英霊はふたたび閭山に赴き、救産保胎の術を学んだ。そして救産扶嬰、治病駆邪の誓いをたて世人を済度した。
 以上が『都別記』の内容である。つまり清代において信じられた伝承である。そして『臨水平妖伝』はつづけて、この人の霊が世に顕れ、宋、元、明を経て清のはじめに臨水夫人としてまつられたこと、また(福建)の人びとは臨水陳太后と称していることを述べている。

【図版1】 台南市臨水夫人廟の奥の法場にまつられる三夫人。出産のほか、子供にかかわるもろもろの願いをかなえる女神。
【図版2】 近年作られた臨水夫人像。臨水夫人廟の入口をはいると、正面中央にまつられている。この奥の空間にもまつられている。

 一方、このカミは一般に三夫人としてまつられる(図版1図版2)が、そのいわれについても説いている。すなわち、陳靖姑は生前、多数の仲間と姉妹の関係を結んで人びとを救い済世をおこなった。そのうち李三娘と林九を合わせて、南と台湾の人士はこれを三夫人というのだと10)(ビデオ2)。
陳靖姑の死後の霊験が顕れたものとしてよく知られているのは次のような話である。すなわち、ある女性が妊娠して17ヶ月になったのに子が生まれない。そこで祈ったところ、陳靖姑が現れて治療をした。するとその女性は蛇数斗を生んだが、女性には何ら障りがなかった。また古田に白蛇洞という洞穴があった。ここの大蛇が付近の人びとを苦しめていた。ある日、赤い衣をきた女が現れ、その大蛇を斬り殺した。ムラ人が名をきくと、福州の下渡の陳昌のむすめだといって消えた。そこで人びとはこの白蛇洞の上に廟を立てて陳靖姑をまつった。このゆえに臨水夫人といわれる。別伝では、古田県の臨水洞でカミになったので臨水夫人というのだと11)
 これらを踏まえると、臨水夫人とは、10世紀のはじめごろ、福建省の古田で活躍したカミに仕える女で、死後に地域の人びとに崇拝されて大きなカミとなったということになる。陳靖姑伝承は明清代に成長したため、美化されていく。明の万暦年間の『道蔵』に記載された臨水夫人になると、すでに道教の仙霊とされていた。すなわち、陳靖姑は嫁さずして死去した。あるいは童子によりついてものをいう。人びとが水を請い、禍福に関連して祈願すると霊験がある。それで廟を建ててまつったのだと12)。道教がこの女神を取り込んだことは明白で、そのおかげもあって信仰は広がったのだろう。
 しかし、一方で、そのイエは代々巫師であったという『古田県志』の伝承もある13)。こちらのほうがやはり先であろう。そしてこの女神のもとでおこなわれる儀礼の核心は古田あたりの民間信仰を反映したものだったと考えられる。その地方の女性たちは、元代以降のことだが、臨水夫人の像を閨房に掛けて子供を授かることを祈った。また自己の順産や産後は子供に福を授かること、さらに、およそ一切の災いよけを祈った14)。こうした家庭の信仰があったためであろう、臨水夫人廟は明代にあってなお、儒者により「淫祠」として批判されることもあった15)
福建省における臨水夫人廟は江流域を中心としていて、他の地方にはあまり広まらなかった。そしてこの地域の人びとの台湾への移住がさほど多くなかったので、台湾全土においても廟の数は少ない。しかし、臨水夫人信仰の根柢には南一帯に古代から広がる「母親崇拝」16)があり、この基盤の上に媽祖も臨水夫人も崇敬されたとみるとき、その意味の大きさはおのずと推測される。ここには、福建の一地方信仰というだけでは片付けられないものがある。

 台南市の臨水夫人廟  台南の臨水夫人廟は1736年に福州人がここにきて臨水夫人を主神として小廟宇を立てたのにはじまる。そののち、1852年に林紗娘(林九、林九娘)、李三娘を加えて建て替え、さらに幾度か重修した。現在のものは1983年に作られた(図版3)。三夫人のほかに、註生娘娘(図版4)、花公花婆(図版5)、大聖爺(丹霞大聖、孫悟空)、福徳正神(土地の守り神)、三十六宮婆姐(図版6)などをまつる17)。現在の廟は次図のような構造である。これをみればわかるように、数年前に新しい廟宇を立てたのに伴い、かつての神像をさらに奥の空間にまつったので、二重の構造になっている。各種の法事は奥の空間でおこなう。

【図版3】 【図版4】 廟の奥の法場、三夫人の右側にまつられる註生娘娘。子授けの女神。
【図版5】 花園を管理する花公花婆。 【図版6】 三十六宮婆姐の神壇の前に置かれた関?や供物。法事のときに、請神や星祭をするときはこの神壇に向かう。


▲臨水夫人廟略図

注釈

1)この観念は臨水夫人を奉じる三派の法師の科儀書によるものである。それがどのていどの広がりを持つのかは検証されていないが、一般にこうした観念が受容されていればこそ、多くの人たちがこの廟にやってきて儀礼を依頼するのであろう。科儀書は民間の習俗なしには成立しなかったであろう。
2)夫人媽というときの媽は母親の意味で敬称、廟の入口にはこう書かれている。
3)以上の数値は1999年9月に筆者が人を介して問い合わせたのに対して、台南市政府側の教示してくれた内容である。
4)単位面積あたりの寺の数は全国でも一番多い。高橋晋一「台湾都市社会における寺廟信仰の現状」『民俗宗教』第四集、東京堂出版、1993年、232-233頁。
5)台南市内にもうひとつあるかもしれないというので、何人かの道士、法師に尋ねたが、はっきりしなかった。仮にあるとしても、市内建業街にある臨水夫人廟ほどさかんではないのだろう。
6)この女神の機能は臨水夫人と同じである。台湾でことに信仰されているといい(窪徳忠『道教の神々』、平河出版社、1986年、104頁)、その臨水夫人との境界ははっきりしない。数の上では註生娘娘のほうが多い。このことは臨水夫人廟が少ないことの理由にもなろう。そしてまた両者をあわせてみるとき、台湾社会でいかに求子のための女神崇拝がさかんであったかが知られる。
7)劉枝萬『中国道教の祭りと信仰』下、桜楓社、1984年、412頁。これによると、撰者も未詳。
8)この解説は台湾で出版された『臨水平妖伝』(後述)に付されたものである。
9)清の中期に、何求により編纂されたもので、小説形式で福州の社会生活を全般にわたってえがいている(葉明生『民俗曲藝叢書 西上杭高腔傀儡與夫人戯』、財団法人施合鄭民俗文化基金会、1995年、161頁)。
10)『臨水平妖伝』耀古堂三元地理擇日舘、(刊行年無記載)、1頁。
11)窪徳忠『道教の神々』、平河出版社、1986年、215頁。
12)徐暁望『福建民間信仰源流』、福建教育出版社、1993年、332頁。
13)同上、徐暁望『福建民間信仰源流』、334頁。
14)同上、徐暁望『福建民間信仰源流』、329頁。
15)同上、徐暁望『福建民間信仰源流』、332頁。
16)前引徐暁望はの地に古来、太老山、太母山という信仰の山があることをあげつつ、この地に古代から「母親崇拝」があったこと、それが後世の媽祖や臨水夫人の信仰の母胎となっていること、また各種の伝承において女性が男性を圧倒することの淵源であるとその著書の各所で述べている(前引、150-152、329、337頁参照)。さらにこの延長上には観音を女神として信仰することも位置づけられる(同書、443頁)。
17)『臨水夫人媽簡介』、臨水夫人媽廟、7-8頁。


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