慶應義塾大学アジア基層文化研究会台湾法師の儀礼とシャーマニズム

2・「打城」法事について


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(1)「打城」法事とは何か

  「打城(撲城、破城)」とは、法師(あるいは道士)が、通常タンキーとともに「落地府」(地府=陰間=冥界に落ちる)の法術を用いて陰間に赴き、地獄の「枉死城」に閉じ込められている亡魂(多くは凶死した冤魂)を、東嶽大帝の赦しを得た後、五営兵馬を招請して、城中から救い出し、さらには西天極楽世界へ超度させるという筋書きを持った法事である(注10)。「打城」とは文字通り「枉死城の城門を打ち開く」ことを意味しており、「打城」法事とは平たくいえば、亡魂の地獄(枉死城)からの救出と超度の物語といってもよかろう。

 

(2)「打城」法事が行われるまでの経緯

  それでは「打城」法事が行われる経緯は一体どのようなものであろうか。

  台湾では、社会生活の中で何かトラブルが発生したときに−例えば自分や家人の病気がなかなか治らない、家族に交通事故など不運な出来事が続く、子供が非行に走ってしまった、事業がうまくいかない、など−その原因の判断および問題への対処法を神様の託宣に委ねようとする傾向が強い。このような問題に直面したとき、人々はタンキーと呼ばれるシャーマンの所へ行く。タンキーは、本人の護持する「神壇(シンタン)」や地域社会の特定の廟において、定期的に「問神」とよばれるセアンスを行っている。タンキーは守護神を自らの体に憑依させ、自ら神として一人称で語り、依頼者の災厄の原因を指摘し、その解決法もあわせ示す。例えば、災いの原因は墓の風水が悪いことによるものだから、墓の位置を変えるとよい、などといった指摘がなされるのだが、「問神」の結果、トラブルの原因が「凶死(事故死、自殺、夭折など)した先祖の鬼魂の崇り」によるものであり「その鬼魂が現在、地獄の枉死城に閉じ込められている」ということが判明すれば、「崇りを除くためには『打城』法事を行い、亡魂を枉死城から救出・超度しなければならない」旨の指示が出される。これが「打城」法事が行われるに至る典型的なケースである。すなわち、「打城」法事は一般にタンキーの託宣に端を発するのである。

 

(3)「打城」法事の行われる場所

  「打城」法事は、個人の家に法師(あるいは道士)を呼んで行われることもあるが、東嶽大帝(俗称「嶽帝爺(ガクテエイア)」)ないしは地蔵王菩薩(俗称「地蔵王(チエツオンオン)」)を祀ったいくつかの廟で挙行されることも少なくない(注11)。なぜなら、台湾漢人社会の民俗宗教のコスモロジーにおいて、これら二神はいずれも陰間(冥界)を支配する神として位置付けられているからである。東嶽大帝(封号を取って「仁聖大帝」ともいう)は陰間の長官であり、人間の賞罰や生命を司り、現世と来世をともに管理する神とされている(注12)。また地蔵王菩薩は[幽冥教主」とも呼ばれ、「十八地獄」を分掌する十殿閻羅王の統率者とされている。人間の生前の善悪を監察し、行いの善い者は西天に、行いの悪い者は地獄に落とし、また横死者を超生させることができるとされる(注13)。

  台湾南部地方では、以下に挙げるような廟において特に、「打城」法事が頻繁に行われている。

「東嶽殿」

「西港慶安宮」

  「打城」法事は、これらの中でも特に東嶽殿(注14)、西港慶安宮の二つの廟で盛んに行われている。南部台湾のみならず、台北、台中など台湾各地から多くの人々が「打城」法事を行うために連日これらの廟に集まってくる。

  これらの廟内には、冥界の長官たる東嶽大帝(photo7)や地蔵王菩薩とともに、十閻羅王、城=爺、文判・武判、六司、牛爺・馬爺、謝将軍、范将軍など、多くの「陰司(イムサイ)」(陰間=冥界の神々・官吏たち)(photo8)が祀られている。

「東嶽大帝」

「陰司(イムサイ)」

 

(4)「打城」法事を司る人々

  「打城」法事を司るのはプリーストたる法師または道士(注15)(photo9)であり、さらにそこに法事の進行を補助する助手(必ずしも法術の心得を持っている必要はない)、シャーマンたるタンキー・アンイイが加わる。ただしこれは理念型であって、実際の法事においては、必ずしもこれらのメンバーがすべて揃っているとは限らない。最小限の場合、法師一人だけで「打城」法事を進行することも可能である。タンキー・アンイイのいずれかが欠けているケースもみられる。タンキー・アンイイの存在は、「打城」法事全体の構造から見ると、付帯的部分なのである。

「道士による打城」

 とはいうものの、実際には多くの場合、「打城」法事にタンキー・アンイイが加わっている。つまり、「打城」法事の本来の目的を達成するためには、タンキー・アンイイは必要不可欠の存在ではないのであるが、実際には様々な理由によって彼(彼女)らシャーマンの存在が「必要とされている」のである(この間題については後ほど考察を加える)。

  法師とタンキー・アンイイの関係は密接であり、普段からお互いによく連絡を取り合っているようである。法事を行う場所・日程なども、依頼者がタンキーを通して法師に連絡を取り、決定することが多い。法師とタンキー・アンイイは個人的なネットワークによって深く結び付いている。そのため、法事を行う法師とタンキー・アンイイの組み合わせは、いつもほぼ一定しているように見える。一方、法師間の横のつながりは、廟ではお互いによく顔を合わせるものの、ほとんど見られないようである。

  タンキー・アンイイは、「打城」法事においてはそれぞれカミオロシ・ホトケオロシに携わる。本来、タンキー・アンイイは機能が異なるので、それぞれは別の人物であるはずなのであるが、最近では一人のシャーマン(特に女性)がタンキー・アンイイを兼ねているケースが多く見受けられる。

 

(5)祭場(法場)のしつらえ

  法師が法事を行う祭場を、道教でいうところの「道場(トオテイウ)」(道教儀礼を行う祭場)になぞらえて「法場(ホアッテイウ)」と乎ぶことがある。ここで「打城」法事の法場のしつらえに目を向けてみよう。

 「打城」法事には、二つの壇(卓)が使われる。向かって正面(奥)には、法師の守護神である「恩主公(オンツウコン)」を祀った壇(本稿では仮に「恩主壇」と呼んでおく)−ここでは諸神に関連した儀礼が行われる−が置かれ、その手前に、少し距離を置いて、亡魂に関連した儀礼を行う壇(仮に亡魂壇と呼ぶ)が置かれる。

 このような壇が、東嶽殴では、廟内のいたるところに十数ヵ所、西港慶安宮では後殿内の五ヵ所余りにあらかじめセットされており、同時に多くの法事を進行させることができる。

  「恩主壇」は、「恩主公」の神像、法事に用いられる様々な道具(法器)−法鑼(銅鑼)・法鼓(長い柄のついた小鼓)・法鈴(法師が手に持って振り鳴らす鈴)、法螺(角笛。根元に赤い布が巻き付けてある)・法索(木彫の蛇頭の付いた鞭)・七星剣(刀身に駆邪の機能を持つ北斗七星の模様が彫り込まれた剣)、紙銭・庫銭・古仔紙(黄色いザラ紙)をコヨリ状に丸めたもの、香炉などが置かれている。一方「亡魂壇」の上には、枉死城(photo10)、魂身(紙製の人形。一つ一つが亡魂を象徴している)、薬王紙像(香炉に挿してある。法事中の「吃薬」の段において、亡魂に薬を処方する)(photo11)、薬壷(煎じ薬が入っている)、酒杯、香炉、供物、疏文(神々に届けるメッセージ)などが置かれている。

「枉死城と魂身」

「薬王」

  亡魂壇上に安置された「枉死城」は、紙と竹ヒゴで作られた高さ五○センチメートル程の直方体の箱である。上部には紙が貼っておらず、そこから魂身を出し入れするようになっている。正面上部には「枉死城」という文字が書かれており、その下に城門が描かれている。門の両側には鬼の紙像が貼られている。西港慶安宮の枉死城には、四つの面にそれぞれマジックで「西門」「南門」「北門」「中門」と書かれている。枉死城の数は、救い出される亡魂の数に応じて増やされる(通常は1〜3個程度であるが、時に数十個に及ぶことがある)(photo12)。



「多数並べられた枉死城」

 

(6)「打城」法事の儀礼過程

  「打城」法事の儀礼過程については、東嶽殿(台南市)における調査を基にした呂理政の詳細な報告がある(注16)。ここで、「打城」法事の儀礼過程を、呂の報告を参考にしながら、筆者の東嶽殿、西港慶安宮後殿での観察に基づいて見ていきたい。両廟における「打城」法事の儀礼過程は、細部においては法師による個人差などがあるものの、大枠においてはほぼ同一である。なお、ここでは「打城」法事の全過程を10段階に分けて説明するが、これは呂の区分に倣ったものである。

  「打城」法事はたいてい午前9時30分頃に始まり、昼食時間をはさんで、午後2時頃まで続けられる。法事の中でも、かなり時間がかかる方の部類に入る。儀礼と儀礼との間に随時休息を取りながら進めるので、法事にかかる実際の時間は3−4時間程度である。

1準備

  助手は法場のセッティングを行う。法師は各種疏文に必要事項(依頼者の住所氏名、亡魂の氏名など)を筆で記入し、法事を行う服装に着替える。といっても私服の上に「ホアツクン」と呼ばれる麻のエプロンをつけ、頭に赤い鉢巻(ゆえに法師は俗に「紅頭仔」と呼ばれる。その上にさらに「額眉」と呼ばれる冠を被ることもある)をし、裸足になるだけのことである。この法師の服装の三原則(紅頭・ホアツクン・裸足)のうち、最近では「裸足」というのがだいぶ怪しくなってきた。若い法師の中には、足が汚れるというので、靴を履いて法事を行う者が多くなってきたのである(残りの二点は現在も守られている)。

  法事を始める前に、法師は東嶽大帝の神前で疏文を読み上げる(video1)。読み終わった疏文は炉に入れて焚化する。焼くことによって疏文を天界にいる神に送り届けるのである。

請神

「請神」

2請神(チアシン)

  「請神」儀礼では、天界の諸神および五営神将(東営・西営・南営・北営・中営の五つの連隊からなる「神軍」)を法場に招請し、法事への協力を請う。

  法師は恩主壇に向かって立ち、古仔紙をコヨリ状に丸めたものに火をつけ、恩主壇・自分の身体・法器などを浄める(video2)。続いて法師は手に持った法鈴を一定のリズムで鳴らしながら、コヨリ状の古仔紙を香炉の火で次々に燃やし、天界の諸神・五営神将を招請する(photo13video3)。

3召魂(ティアウフン)  

  地獄の亡魂を、「魂身」紙像に乗り移らせる。  

 

召魂

法師は亡魂壇の方に向き直り、「請神」儀礼のときと同様、法鈴をならしながら唱え事をする(photo14video4)。亡魂が呼び出された後、依頼者の家族は亡魂壇の前で紙銭を焼いて拝拝をする。法師は、亡魂壇上に並べてあった魂身をすべて枉死城の中に入れる。

4拝懺(パイツァム)

  法師は亡魂壇の前で経文を読み上げ、亡魂の超度を助ける(video5)。

5行路(キアロオ)

 法師(およびタンキー)は五営神将を率いて地獄に赴き、東嶽殿にいる東嶽大帝に謁見する。

  タンキーは、このあたりで「上童(チウタン)」(神憑りの状態になる)することが多い。



「トランスに入る女タンキー」

  以下は東嶽殿における筆者の観察(1992年9月22日)である。まずタンキーは目をつぶり、廟備え付けの長椅子に両足を大きく開いて座る。両手は膝の上に置かれる。最初のうち、「オエーッ」と嘔吐するような声を連発する。そのうち体が小刻みに震え出し、その震えが次第に部分から全身に及ぶようになる。足の指先の震えが、次第に足全体の震えへと広がっていく。また首をグルグル回し始めたかと思うと、動きが次第に大きく激しくなっていき、しまいには上半身全体を腰から振り回すような形になる。このような動きがピークに達すると、タンキーはその場で蛙のように何回も激しく飛び上がる(この瞬間、神が入ったものと判断される)。このときの動きは余りに激しく、タンキーが後ろに倒れて頭を打たないように、長椅子の両側を法師や助手が支えてやらなければならない。その後、長椅子から立ち上がったときには、すでにタンキーは「神附身(シンフウシン)」(神憑り)の状態になっている。タンキーが男である場合、回りにいる法師や助手がタンキーの上着を脱がし、赤い腹巻き(タンキーのトレードマークだが、最近は付けない人も多くなった)を付けさせる。タンキーが長椅子に座ってから「上童」に至るまでの時間は、個人差があるものの、意外に短く、10分程度である。なお、タンキーの「上童」を助けるため、側で法師(あるいは助手)が法鼓を一定のリズムで叩き続けることがある(photo15)。

  法師(手に法鈴と法螺を持っている)とトランス状態のタンキー(手に七星剣を持っている)は、亡魂壇の回りをゆっくり回る。法師は法鈴を鳴らし、時折法螺を吹きながら唱え事をして回る(video6)。地獄に至るまでの長い道程が、亡魂壇の回りを何十回も(時間にして30〜40分くらい)回り続けることによって象徴的に示される。

 「行路」儀礼の後、もしくは「開城」儀礼の後に、タンキーが神として託宣を下したり(注17)(video7video8)、法師を通訳として依頼者と対話(「問神」)をしたり(法師は脇にいて、タンキーの話す「神語」を「人語」に通訳する)、符を書いたりすることがある。符はタンキーが、恩主壇の上に置かれた数十枚の古仔紙ないしは金紙に、朱を付けた筆もしくは火のついた線香で一般人には解読できない文字を書きなぐったものである。

  儀礼が一段落するとタンキーは恩主壇の前の椅子に座り、うつぶせになるが、しばらくすると正気に戻る(「退童(チエタン)」)。タンキーの背中を法師が強く叩いて、正気に戻す場合もある。

6ト赦旨(パクシアチイ)  

ト赦旨」

  法師・タンキーは依頼者の家族を東嶽大帝の神像の前に導き、線香を上げ、拝拝する。法師は東嶽大帝に対して、亡魂の赦免を求める疏文を読み上げる。

  その後、依頼者の代表が神前(ないしは亡魂壇の前)でポアポエ(注18)をおこなうが(photo16video9)、シンポエが三回連続して出た場合に、はじめて東嶽大帝の許しを得ることができたとされる(シンポエが三回連続して出るまで、何回でもポエを投げ続けなければならない)。亡魂の赦免が確認された後に、先に読み上げられた疏文を炉に入れて焚化する。

7出城(開城)

  「打城」法事全体を通じてのヤマが、この「出城(ツッシア)」儀礼である。法師(おょびタンキー)は枉死城を打ち開いて、中に閉じ込められていた亡魂を救出する。

  法師は助手の法鑼・法鼓のリズムに合わせて唱え事をする。法師は七星剣を右手に持って踊るような所作をして、法索を床に打ち付けて鳴らし、五営神将を将来し、法事への助力を請う。

  5の「行路」の段ではなく、この「出城」儀礼の段になって初めてタンキーが「上童」するケースも少なくない。

  助手の法鑑・法鼓の演奏が一段と激しくなると、法師は法鈴を打ち振り、法螺を続けざまに強く吹き鳴らす。法師(あるいはトランス状態のタンキー)は七星剣によって「枉死城」の城門を切り開き(西港慶安宮の例では、枉死城を東門―南門―西門―北門―中門の順に剣で突き刺して切り開く)(photo17video10)、城の中に閉じ込められている亡塊を救い出す。法師は城の中に入っている「魂身」紙像を取り出して城の前に並べる。

  この後、法師と依頼者は亡魂壇に焼香して拝拝し(video11)、依頼者の代表が亡魂壇の前にひざまづいてポアポエを行い、亡魂が救い出されたかどうかを確認する(video12)。「ト赦旨」の段における、東嶽大帝の神前でのポアポエと同様に、三回連続してシンポエが出た場合、亡魂が救出されたとされるが、やはりここでもシンポエが三回連統して出るまで何回でもポエを投げ続けなければいけない。

  亡魂の救出が確認された後、法師は筒状に巻いたムシロを地面に五回(東西南北中の五方に対応している)叩き付けて法場のケガレを祓い(photo18)、さらに枉死城を地面に払い落として壊してしまう。

「出城」

「ムシロで法場のケガレを祓う」

  続いて、法師は再び亡魂壇に向かって唱え事をするが、これは法師・タンキーが亡魂を引き連れて、地獄から法場へと再び戻って来る過程を表している。

8吃薬(チアイオ)

吃薬

  法師はあらかしめヤカンに入れてあった薬湯(煎じ薬)を小さな茶碗に注ぎ(この薬湯は薬王から賜ったものとされるが、実際には薬屋から一包30〜40元余りで入手した漢方薬である)、それを魂身の口にあてがい、魂身の頭部を2、3回傾け、あたかも薬湯を飲ませるような仕草をする(photo19video13)。さらに古仔紙を丸めたものを薬湯に浸し、薬を魂身の全身に塗り付ける。内服と外用の両面から、亡魂の抱えるあらゆる病気の苦しみを癒そうというのである。

  次に法師は魂身を依頼者の家族に持たせ、法師と家族の間で、次のような定型化された対話が交わされる。法師「汝的病ロン総好了没?」(お前(亡魂)の病気はみんなよくなったか?)−依頼者の家族「瀧総好了!」(みんなよくなりました)。

  この後、魂身を再び亡魂壇上に戻し、薬王紙像は炉に入れて焚化する。

9拝飯(パイプン)

  亡魂壇の脇に水を入れた洗面器を置き、その周囲を「開城」の段で使用したムシロで囲む。救い出された亡魂に沐浴をさせるのである。また壇上に亡魂のための様々な食べ物を並べる。法師は亡魂壇の方を向き、「太上召魂沐浴科儀」などを唱える。

「牽亡(カンボン)」

  この「拝飯」儀礼のあたりで、アンイイ(同一人物がタンキーを兼ねている場合もある)は亡魂を降ろし(「牽亡(カンボン)」)、依頼者の家族と直接、台湾語によって対話をする(添付のビデオ映像では、「開城」の直後にアンイイの牽亡が行われている)(photo20)。アンイイのトランスへの入り方はほぼタンキーと同様であるが、トランスに入るとアンイイは恩主壇の前へ行き、壇をゆっくり拳で叩きながら神歌のようなものを歌う(video14)。その後、椅子に腰掛け、激しく壇を叩く。やがて気を失ったように壇の上に顔を伏せてしまうが、ややあって顔を上げたときには、アンイイは亡魂それ自身として、一人称で語り始める(video15)。アンイイの表情や声色は普段のそれとは全く変わっている。

  「牽亡」の所要時間は、呼び出される亡魂の数にもよるが、通常30分〜1時間程度である。アンイイの言動は非常に感情的であり、途中で泣き出したり、依頼者と抱き合ったり、興奮して椅子から転げ落ちたりすることもある(video16)。

  なお牽亡は、7の「開城」の直後に行われることもある。法事に参加するシャーマンがタンキー兼アンイイである場合、そこで速やかにタンキーからアンイイへの役割の切り替えが行われるが、この役割転換は意外になめらかで自然である。

12過橋(コオキオ)

  廟備え付けの長椅子の上に、長さ30センチメートル程の紙製の橋(橋の上部には、二つ折りにした金紙が数十枚挟み込まれている)を載せ、地獄の「奈何橋(ナイホオキオ)」とする。「奈何橋(奈河橋)」とは、地獄に流れる川「何河」に掛かる橋の名であり、人が死んで鬼(亡魂)になった後は、必ずこの橋を渡らなければならないとされている。しかし橋は非常に狭くて険わしいため、在世で悪事を働いた者は川に落ち、虫に食われてしまうといわれる(注19)。

 この橋の上を、法師・タンキー・依頼者の家族(救出された「魂身」を捧げ持っている)の順にまたいで渡る(これは西港慶安宮のケースで、東嶽殿では橋の周りを回る)(photo21video17)。これを二回繰り返す。橋を渡り終わると、今度は紙製の橋を長椅子の上から地上に降ろし、火をつけ、さらにその上を法師・タンキー・依頼者の家族の順に二回またいで渡る。これで亡魂は無事に奈何橋を渡ることができた、つまり地獄を出ることができたとされるのである。

過橋

13.送亡(サンボン、シオツウ、コオシイ)

  「過橋」の後、法師・タンキーは依頼者の家族を連れて焚炉(金紙などを焼く専用の炉)の所に向かう。魂身は炉の側まで「ツォアキオ」(亡魂を載せる「輿」)に載せて連ばれる。まず魂身とツォアキオを、続けて大量の庫銭・紙銭(死者があの世で使うお金)・ツオアツウ(紙と竹ヒゴで作られた、死者があの世で住む家。高さは50―70センチメートル程。最近では家のデザインも、かつての中国宮殿風からマンション風へと変わってきた。あの世での生活に困らないようにと、ツオアツウの中には、紙でできたミニチュアのテレビ・電話・冷蔵庫などの電化製品、乗用車、召使の人形などが入れられる)(photo22)・冥用衣服(死者があの世で着用する、ミニチュアの衣服)などを次々に炉に投げ入れて焼き(photo23video18)、亡魂を天に奉送する。

「ツオアツウ

送亡」

  その間法師は炉の脇で、法鈴を一定のリズムで鳴らしながら、亡魂が無事神仙界に昇り付くように誦を唱える。最後に法師は法鈴を打ち振り、法螺をやや長く上り調子で吹き、「打城」法事の全過程が終了する。

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注釈

注10)呂理政「台南市東嶽殿的打城法事」『中央研究院民族学研究所資料彙編』第2期、南港(台北)、1990、3−4頁。

注11)ただし、東嶽大帝・地蔵王菩薩を祀ったすべての廟で「打城」法事が行われているわけではない。

注12)東嶽大帝は、中国にある五つの霊山「五嶽」(東嶽泰山、西嶽華山、南嶽衡山、北嶽恒山、中嶽嵩山)のうちの一つ、東嶽泰山(山東省)の神である。泰山は死者の魂が帰る山とされており、民間では東嶽大帝は人間の生死を司る神とされている。

注13)鍾華換『台湾地区神明的由来』台中・台湾省文献委員会、1987(再版)、76頁。

注14)東嶽殿の他にも、台南市内では府城=廟(青年路)、二天府(南区湾裡)などで「打城」法事が行われている。

注15)筆者が東嶽殿および西港慶安宮で観察した範囲では、道士の主持する「打城」法事の割合は、法師のそれの一、二割程度であった。

注16)呂、前掲論文。

注17)タンキーの代わりに、背もたれと両腕のついた小さな椅子「キオアア」を用いて神託を得る場合もある(二人ないしは四人の手によって支えられた椅子の脚が、机の上に神託を自動筆記する)。

注18) 「ポエ」とは長さ10センチメートル前後の片面がふくらんだ三日月型の占い道具で、二個一組となっている。神前で祈りをあげた後二つのポエを前方に投げ(ポアポエ)、その目の出方で占うのだが、一個の平面が上を、他の平面が下を向いた場合(一陰一陽)を「シンポエ」といい、願い事が神に嘉納された印とされる。

注19) 王景琳他編、前掲注(注8)、469頁。


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