生きている王爺

1.6 船送りの淵源

台湾に移住した漢族が17世紀以来、今世紀はじめに至るまで、いかに悪疫に苦しんだかは、すでに劉枝萬が詳細に述べたところである30)。そこではまた実際に海の向こうから王船が漂ってきた。大陸福建省の海岸部のばあい、漂着されたムラでは王船を丁重にもてなしてふたたび送り出すか、または燃やしたという。そこでは、王爺送りというよりはむしろ「瘟神流し」が目につく。明代、17世紀のはじめに成った『五雑俎』の次の記述は王爺に関連してよく引用されるが、今、前島信次の訳文を引用してみよう。

y俗最も恨むべき者、瘟疫の疾一たび起るや、即ち邪神を請じ、香火もて庭に奉事し、惴々然として朝夕拝礼し、許賽己まず。一切の医薬、之を聞くなきに付す。(中略)病む者十人にして九人は死す。もし幸にして病癒ゆれば、又巫をして法事を作さしめ、紙を以て船を糊し、之を水際に送る。此船、毎に夜を以て出づるがため、居人皆戸を閉ぢて之を避く31)

この記述は福建省の瘟神流しの実態について批判的であるが、それはともかく病を癒すべく個々のイエで疫神を丁重に迎え、しかも巫による祭儀のあとでこのカミを船に乗せて送り返したことを告げている。今日、これとよく似たものは済州島の病気治しにおいてみられる。そこではヨンガムというカミだけではなく、およそ治病の祭儀をしたあとでは「船流し」をして終わりとする。この船には土地の名産物や肉類などを積んでできるかぎりの誠意を示す。しかもそれは人目に触れぬように流しにいくのがふつうである32)
一方、台湾ではこれを忌み嫌うのではなく王爺として自分たちのところでまつることがよくあった。それらの事例は、前島信次がかなり詳しく述べている。個々のイエだけでなく多数の者が集まり立派な船を作って流す習いがすでに17、18世紀の台湾の県誌などにみられる。これらになると多くは王?の行事となり、したがって送られるものは王船となる。このうちとくに注意すべきは「請王」である。『台湾県誌』によると、「台の俗、王?を尚ぶ。三年一挙、送瘟の義を取るなり」とあり、瘟王三座のしつらいのもとで道士の儀礼が二、三日あり、その「末日を以て盛に筵席を設けて演戯す。名けて請王とす」33)という。この演戯がどういうものだったのか記述はないが、おそらく、王船の航行を妨げる魔障を取り除く類のものであろう。
ここでいえることは要するに、大陸では瘟神流しに主眼があったものが、台湾では瘟神をまず迎え、演戯をもってしかるべくもてなしてから送ることが重要視されたということである。なかでも台南の南uv廟はよく知られた例であり、また1903年に台湾の苗栗地方の外埔庄に漂着した神船は吉事として当地で篤くもてなされている。それは福建省泉州府晋江県南門外富美郷の福神である蕭太傅の意向で鬼神の祟りや疾病を送るために流したものであった34)。この泉州府の蕭太傅は強力な王爺で台湾の各地にその分霊を送りつけている35)
かつての大陸における瘟神流しと台湾における王爺船のこの違いはかなり意味がある。もともと台湾の漢族も故地は大陸であったから、大陸の漢族と台湾の海岸部に定着した人びとのあいだに本質的なカミ観念の違いはありそうもないが、おそらく移住の歴史とかかわるものかもしれない。海を越えてやってくるモノへの恐れと渇仰が、台湾では顕著なのだ。あちこちの漁民が海上の船をみるときに、そこに妙なる楽音をきく36)などというのは、共同幻想が作用しているとしても、実際に頻繁に流れ寄るものがあってのことだろう。流れ寄るもののなかには死体もあり、これなどは廟にまつられて海上安全のカミとなる。そうしたなかの一つとして王爺はあったのであり、もとはただ船とともに寄りつくモノあるいはカミということにすぎなかったものとすべきなのである。従って、台湾の王爺の問題は瘟神の故事来歴をいくら詮索してもそれは十全な叙述とはなりえない。
 人びとにきけばきくほど王爺像から「病のカミ」は遠ざかるだけであろう。王爺のすがたは台湾や中国南部以外の地域の民俗世界で船とともにくるモノをどのように考えているか、とくにその実際の行為を対照させて捉えることが必要なのである。

1.6.1 朝鮮の船の来往

災いあるいはその源と考えられるカミを船に乗せて送り出すことは、劉枝萬もいうように東アジアにかなり広くみられる民俗である。それは王爺にかぎったことではない。ここでまず朝鮮民族が伝承してきた船の来往に関する心意と具体的な行為をみておきたい。
今日の韓国の民俗世界では船を迎え送ることがほとんど姿を消してしまっている。ただ、かつてはソンニムというカミが江南から船に乗ってくると考えていた。ソンニムとはふつうは「お客」の意味であるが、実は天然痘のカミを畏怖してよんだものである。この点を振り返ってみよう。
かつて朝鮮の巫俗儀礼のなかでソンニムクッといえば天然痘のカミを迎え、送り出すことを主眼としたもので全国的に広くおこなわれてきた。とくに慶尚道のものは叙事的な内容でよく知られている。このソンニムは三人連れで江南大王国を本国とする。そこは着るものにはめぐまれているが、食べるものはとぼしい。一方、朝鮮国はその逆で食べるものは豊富である。そんな朝鮮国へいこうと三人のソンニムは鴨緑江のほとりにまでくる。ところが、船が無くて渡れない。ようやくみつけた船があるが、船頭がめんどうなことをいって乗せてくれない。するとソンニムはこの船頭を殺してしまう。やがて船に乗り朝鮮国内にはいりソウルまでやってくる。そしてあるイエで冷遇されたときに、ソンニムは怒ってそこの息子を一度は死にいたらしめるが、のちにそのイエの者たちがこころを入れ替えたので死んだ子を蘇生させる。そしてソンニムは馬に乗せられてもどっていく37)
ここには船の来往という要素はごく一部しかみられない。ところが、韓国南部珍島のシッキムクッのときにうたわれる巫歌をみると、ソンニムが江南から船に乗って朝鮮にやってくることがうたわれている。それによると、江南大旱国を本国とするソンニムが朝鮮国にやってくるとき、船が無い。船頭がいるのをみつけて、「船を貸してほしい」と頼むと、船頭は「この船は国王の乗る船だ」という。代価は高い。ソンニムの子供を置いていけというので、ソンニムは怒ってみずから船を作り、それに乗ると順風を得て朝鮮にやってくる。そしてこころねの善いイエには赤い点をつけ、こころねの悪いイエには黒い点をつけていく38)
東海岸ではソンニムは馬に乗って北方に帰っていくようであるが、珍島のばあいはどうなのであろうか。現行のシッキムクッでは「送り」のかたちについてはうたわれないので、確かなことはいえないが、江南の本国まで船に乗ってもどっていくと考えたほうがよいだろう。それとともに、ソンニム送りに際して、別の伝承では「ソンニムを送りましょう。このクッを受けにいらしたソンニム、クッを受けにいらしたのですから、餅という餅をたらふく召し上がり、家事の心配憂い、十二の不浄をまとめて持っていかれるソンニムを送りましょう」39)とうたわれている。この帰りの船に載せた憂いと不浄は注目すべき点である。
実は船に乗ってやってくるものは天然痘という一つの病気だけではなかったということなのだろう。ソンニム神を満足させれば、あらゆる災いを海の向こうに持っていってくれる、あるいは子供がよりきれいに成長し、福が与えられもする40)というのは、民俗世界特有の表現であろう。要するに船とともに天然痘もくるが、サチもくる、そしてまたさまざまな心配と憂い、さらにいえばその集約点である「死」も船で海の向こうに運ばれていくという観念がこれらの根柢にはあるのだ41)
朝鮮の民俗世界における船の訪れについては巫歌のなかに探るほかにはあまり明確なものが残っていないが、船を送る民俗は近年までかなり広く残っていた。たとえば済州島でも台湾の王爺と類似した船送りが知られている。
済州島のヨンガムまたはトッケビ(トッチェビ)とよばれるカミは、富のカミ、船のカミ、豊漁のカミ、また堂神(ムラのカミ)など複雑な性格をみせるが、そのうちの一つに疫病のカミとしての性格がある42)。このカミは好色で女性にとりついて病を引き起こすという民間伝承もいくつか採録されている。
玄容駿の記述のなかには王爺との対照という観点からみるときいくつか注目されるものがある43)。すなわち

1.ある伝承によると、それは三人兄弟で人間に富を与えるにもかかわらず、のちに斬られて流される。そして海を越えて済州島ほか、各所によりつく。つまり、はじめに不条理な死と海彼からの来訪ということがかたられている。王爺もまたそうであった。
2.両神ともによくまつれば富を、さもなければ災いを与える。
3.供物とともに送られることもあるし、ムラのカミとしてまつられることもある。この事例は何か所か知られている。個々のイエで祖先神としてまつることがあり、これが多くなればおのずとムラのカミとなるのであろう。王爺もまた台湾ではムラの守り神となる。
4.船の王、船でやってくるという性格が顕著である。44)

▲[図版57]船流しのために海上に出たヨンガム。チルモリ堂のヨンドゥンクッでは最後にヨンガムノリを演じる。寄りついたヨンガムをもてなして模造の船とともに送り出す。戻られては困るので流れ去ることをみとどける。ふつう済州島ではヨンガムは疫神とされるが、これをムラのカミとしてまつるところもある
▲[図版58]韓国全羅北道扶安郡の「藁船流し」。旧正月三日、海岸で死者の霊を済度する「竜王祭」をし、藁船を海に送り出す。災厄を流す意味もあるが、漁民たちは船送りを豊漁祈願としておこなっている。撮影金秀男

こうしたヨンガムに対する儀礼はヨンガムノリとしておこなわれている。それは漁船を新造したとき、またムラのまつりとしてもおこなわれたものだが、今日伝わるのは病気治しとしてのヨンガムノリだけである。
ヨンガムノリは紙や布で作った仮面を用いて複数のヨンガムに扮した神房(巫)がまずもてなされる。そしてそのことに満足してかれらが船に乗り帰っていくさまを演じるものである([図版57])。その船にはヨンガムが乗るだけでなく、あわび、さざえ、ワカメなど済州島の海産物や肉などがいっぱいに積まれている。このヨンガムとは「令監」と表記するが、これは正三品と従二品の位をよぶことばである。ところで済州島の最高位はかつては「牧使」といい、これは正三品の位である。要するにヨンガムとは済州島の最高位をいうことばなのである45)。まさに「王爺」のような存在である46)
このヨンガムの送り方と同時に朝鮮半島の南端全羅南道の島嶼部でも船を流すことがみられて注目される。たとえば大屯島水里では豊漁祭の意味のケッチェ(干潟でのまつり)という行事を正月にやるが、このとき1メートルほどの藁人形で竜王を象り、これを箱舟にのせて遠い海に流しやる。このときムラ人のうちの祭主が竜王に向かって

お爺さん、今はもう出ていかなくてはなりませんよ。あらゆる不浄、厄と禍を持って遠くいってください。そしてたくさんの福と魚の群れを追ってきてください。

という47)。この種の船送りは同じく全羅南道の黒山島などにもみられる48)。これらのばあい藁で神体を作って送り出すことが特に注目される。
 そればかりでなく朝鮮半島の西海岸沿いの漁村でもかつて正月のはじめに豊漁を願って藁船を流した。その代表的なものは旧正月3日に全羅北道扶安郡蝟島南部大里の海岸でおこなわれる「藁船流し」である。大里ではあらかじめムラのカミに一年の安全を祈願したあと海岸で死者の霊を済度する「竜王祭」をし、そののち長さ2メートル余りの大きな藁船を海に引き出し送り出す([図版58])。この船が戻ってくれば縁起が悪いというので、災厄をともに流すという意味も背後にはあるだろう。だが、担い手である漁民たちはこの船送りを豊漁祈願としておこなっている49)
さらに、これと同じ趣旨の船送りは黄海道の島嶼部および海岸地帯の漁村でもおこなわれていた。金錦花万神50)の伝える黄海道のムラまつり「大同クッ」は今日、文化財の指定を受けてよく知られているが、この多彩な巫儀の最後は「川べりのスサル51)・竜神クッ」といい、内容は茅船流しなのである。スサルもヨンシンも雑鬼雑神の一つで放っておけば災いをなす。これらはいうまでもなく、その他、随陪とよばれる随行の神霊たちも饗にあずかったからには今はすみやかにもどってほしいという唱えごととともに船に乗せられ送りだされる。これらを引き連れて帰るカミは、公主さま、霊山大監さま、船玉仙官とよばれるカミであるが、かれらはかつて王命により船に乗せられ流された者たちであった。しかもその船が「風浪に見舞われひどい波に出遭っても」かれらは溺れることもなく、海上を漂いつづけ海で天寿をまっとうしたといわれている52)。つまりその船は戻ることもなくどこか陸地にたどりつくこともなかった。
こうした船を人びとはまつりの最後に送り、「次の大同クッをするときまで無事に穏やかにくらせるように見守ってください」という([図版59])。この船からは太鼓の音がするものと観じていたようだ。53)送るときにはこんな歌もうたわれる。

ありとある厄運を 茅船に載せて 船送りします
舳先の帆には 霜の花咲き艫の帆には挽章54)が垂れている
いく先々で 打つ 太鼓の音は このムラの船が 打ったもの
おうおう 月の明るい晩に どぶろくをかもしておいて
瓢箪に 酒を詰め めざましい鼓の音を かなでていくよ55)

 ムラまつりの最後に船送りをするのはどうやら神々およびその周囲に群がるモノどもにもときたところへもどってもらうためのようであるが、これと同じ趣旨で個々のイエで催す弔いの最後にも船が用いられる。巫俗における死霊祭の場がそれで、とくに東海岸のオグクッ(また別神クッ)では竜船が漕がれ、死者の霊魂の送りを具体的に再現する。また全羅南道のシッキムクッでも布橋の上にノクタンソクというものが載せられ、これが巫女の唱えごととともに行き来した。ノクタンソクは「霊の籠」というほどの意味であるが、そのかたちは舟形であった([図版60])。

▲[図版59]黄海道の大同クッの最後におこなわれる茅船流し。もてなしに与った雑神たちにはすみやかに退散してもらいたいという意味である。撮影金秀男。 ▲[図版60]全羅南道のシッキムクッではノクタンソクが用いられる。これは霊魂を盛る容器で船のかたちをしている。『珍島巫俗現地調査』より。


1.6.2 日本の船の来往

 

▲[図版61]西表島祖納のシチでは年の切り替え時の翌日、浜辺に弥勒が現れ、人びとのユークイをみる。
▲[図版62]ユークイのとき海上では船漕ぎの競争があり、浜では「ウマシ世、みりく世」が漕ぎ奇せられることを祈る。

さて、日本では船の来往はどのように表現されているのであろうか。日本のばあいは神事として船漕ぎ競争、カミの臨幸のかたちをとったり、また災厄を人形に負わせ船もろとも流すことなどが目につく。カミが船とともにやってくるものとしては、和歌山県の熊野速玉神社の御船祭り56)、流すものとしては秋田の鹿嶋流しなどがよく知られている。それらの事例はかつて想像以上に多かった57)ようで、おそらく朝鮮半島の西海岸や中国南部の海岸にある船の来往と淵源を同じくするものであろう。
ただ現在、台湾の王爺のような時を経て来臨する船とそのカミを盛大に迎え、送るものはみられない。とはいえ、たとえば琉球八重山の世乞いは根柢を同じくする船迎えだといえるだろう。西表島祖納と干立のシチ(節)におこなわれる「船漕ぎ」は今日よく知られている。それはこの地方の一年の終わりである「トゥシヌユー」、つまり年の切り替え時の翌日におこなわれるものであるが、この時に当たって、浜辺には福々しい面相の弥勒が座し、またアンガーとよばれる女性たちが立っている。アンガーや他の女性たちは太鼓や銅鑼の音に合わせてユークイを盛り立て、同時に両手を差し出し船を乞いまねく仕種をする。船漕ぎは競争のかたちで二回くり返されるが、そのこころは「ウシマ世、みりく世」58)が早く漕ぎ寄せられることを祈るものである([図版61]、[図版62])。そして船が浜についたあとは、女たちがこれを迎える「アンガマ踊り」がくり広げられる。
西表島のシチは「迎え」に重点が置かれていて「送り」のほうはこれといって行事がない。では日本の琉球では「船送り」はなかったのかというと、そうではないようだ。この痕跡は「流れ舟」にみることができる。それはむすめたちの「三月あそび」の一環としてみられた。琉球では旧三月三日に浜降りという行事が広くおこなわれていた。これは地域ごとの特色もあり、一概にはいえないが、浜辺でおどりつつ厄を海の向こうに追いやるというのがもとのかたちのようである。
とくに島袋源七の次の記述は示唆するところが多い。

 (村々の乙女たちが)浜に円陣の座席を設け、鼓に合わせて歌いかつ踊り狂うので、その一日は文字通り天下御免の自由な日である。興が尽きれば小舟に乗って船遊びをする。これを「流り舟」という。渚に悠々と竿をさし乍ら鼓に合せて歌う。若い男達はこの様子を見る事は許されても近ずく事はしない。

これにつづけて、このあと、三月三日の習俗の起源伝承として、むかしあるむすめが相手不明の男と通じて子を宿したので、隣家のお婆さんの勧めで浜に降りたところ、無数の斑蛇の子を流産し、これでむすめの厄が払われたからだということを記している。そして「おそらく、災厄を乗せた小舟を流す古風の名残ではないか」と結論づけている59)
簡単な記述ではあるが、ここには浜辺で船迎えをし、かつ送り出すことが一日のうちにおこなわれたことがうかがえる。むすめが浜辺で流産し、厄が解けたというのは海の向こうから厄神がきてむすめにとりついていたが、今やそのカミがもてなしに満足してもどっていくということを示すものであろう。またむすめたちの浜辺の踊りは、カミの迎え、送りにかかわるものなので、男たちの接近が禁じられていたのであろう。
このあそびが災厄の祓えとかかわりがあることは次の記述からも知られる。すなわち島尻郡国場の浜降りは弥勒の前に供物を置き、歌をうたい豊年祈願をしたあと踊りの列が御嶽までつづき、かつては観る人びとで広場が埋まったという。ところで、明治40年、都合によりこのあそびを中止したところ「悪疫が流行した」ので翌年から、また催したという60)。また山原や奄美大島の浜降りもイエに鳥がはいるなど、不吉の前兆があったときにおこなっている61)ので、船やカミは直接、述べられてはいないが、海の向こうにその原因となる神霊をもてなしつつ送るという観念がやはり根柢にはあったのだろう。
日本の本土では宝船の訪れが知られている。宝船の習俗は本来は厄払いの習俗であったが、江戸時代になると七福神が乗るものとなり福の招来の意味で一般庶民に広まったようであるが62)、より根源的な民俗としては愛知県北設楽郡の田楽や花祭に現れる翁をとりあげるべきであろう63)。とくに田楽の翁がこの種の船の来往とかかわりがある。早川孝太郎の記す古戸田楽の翁詞章は「こてとり」なる役の者と対話式に進められるのだが、それによると、翁は天竺唐土、島国64)「我が朝」の宝を数え上げ、それらを「つくしのはかたに大か朝の船あり小が朝の船あり」といって、めったにこない船だからといいつつ、この船を進ませて当地にきて人びとに宝を分け与える。
 ここまでは通常の宝船の来訪だが、このあと

もどりの船につむべきものあり
にか水とにか風と。がい病とれきとけかちと
丸と船ぞこゑはらと入て
(おきなこの丸はいつもこぬものなれば)
(ふねの五更むずとふんで)
南海へ下たらば。どこやにくかろ翁殿
よふよなる事かな。けふもなる事かな。

と対話が進められ、最後に「今世の舞又よん直しの舞なれは /一舞まをうよ万歳楽万歳楽」といって終わっている65)
 ここには海の向こうへもどる翁が、病、けかち(不浄)を船とともに運び去ることが期待されていて、それをまっとうしてこそ「世直し」が成就されるのだとみていたことがはっきり示されている。いうまでもなく苦水、苦風とは、洪水や台風の類のことでムラの危機をもたらすものであろう。
 こうした翁の出所が天竺唐土といわれるのは民俗言語の上でのいいかたにすぎないので、より包括的にいえば海彼ということであろう66)。日本の翁の根源をめぐっては定説もなく多様な議論がつづけられそうであるが、出自に限っていうならば、それが不吉な水や風、不浄とともに帰っていくというのであり、実は死者の霊と同じところからきていることを示唆していよう。
 このことを踏まえると、海彼とこの世とが年の切り替え時に船によって結ばれることがよりよく理解できるだろう。海彼からくるものははじめは名も無いモノだったにちがいない。それはおそらくただの死霊だったのだろう。だからまた、三重県志摩あたりでお盆のときに笹舟を流すことはひじょうに古い習わしの名残だといえよう。須藤功によれば、笹舟を海に流すとき主婦が「早く帰っておいで」といったそうだが、この舟は正月とかお盆にはもどってくるものだったのだろう。ただ、現在伝わる習俗としては舟迎えはない。とはいえ、正月さまは海のかなたからくるといい伝えているし、実際、藁船でこの正月さまというカミを送り出している67)。しかも、より注目されるのは身寄りのない霊魂のために志摩では1月15日の夕方、あるいは16日の朝早く、ふたたび舟送りをした。これなどは朝鮮半島南部でやはり1月におこなわれてきた藁船送りとよく似ていて、根柢に潜む観念は同じものであったとみなされる。

1.6.3 船と霊

▲[図版63]台湾台南市の「正統鹿耳門聖母廟」に安置された王船。1912年に福建省?田から流されて澎湖島を経て漂着したものといわれる。人々を助けたことからこの地にまつられるにいたった。
▲[図版64]「正統鹿耳門聖母廟」にまつられるいかめいしいカオの王爺。

 台湾の王爺の迎えと送りは船の来往で特徴づけられる。この船の来往はわたしの知る限り、現在、東アジアでもっとも生彩のあるかたちでおこなわれている。王爺は船に乗って海の向こうからやってくる。台湾ではあちこちの廟で漂着した王船をたいせつにまつっている([図版63]、[図版64])。その一方で、時を経てまつりをし王船を海彼に送ろうとした。
 その海の向こうとはどこなのだろうか。台湾の漢族は、多くは大陸の福建省を故郷とする。それゆえ一次的には大陸の方から王爺の船がくると考えらる。実際、福建省からやってきた王船の例はいくつもある。しかし王爺は実はそうした実態としての故郷からくるだけではなく、より根源的には死者霊の集まるところからきたものであろう。そこは雑鬼雑神も集うところであり、当然、疾病や悪運の根源も含まれる。その根源とは他でもない、看取られぬ死霊、もてなされぬ死霊であろう。つまり死霊を媒介に王爺と瘟神が重ねられもしたのだろう。
 王爺はそれ自身が疫神ではなく、災厄とともにくる死者霊なのである。王爺のほかにも船に乗って来往するモノはそれこそ無数にいた。中国では、お盆の施餓鬼に法船がみられ、また船がこの世の者を迎えるべく空を飛んできて家に落ちた話、夢に鬼船が現れて、これに乗ったところ、後日、当人が死んだ話など類話は数多い。これらの挿話については劉枝萬の詳細な記述がある68)
 中国の民間ですでに船はさまざまなモノを乗せて来往した。そのモノの名は所が変われば、ヨンガムにもなるし、あるいは翁、正月さま、歳徳神にもなるであろう。それゆえ、それらの名称をめぐってその地だけでつきつめようとしても帰するところは「海彼からくるモノ」ということになるだけであろう。さかのぼれぱ死霊なのであるから、名前はない。この名のない霊魂がもどってこなければならなくなる時期とは、この世またはイエの秩序が崩壊の危機に瀕したときであったが、やがてはこれが毎年の変わり目すなわち年の夜、また霊まつりのときなどに転じた。
 このようにいうとき、危惧されるのはこれではどれもこれもが同じものとなってしまいかねないということである69)。しかし、あらかじめいえば、根源が一つということだけを指摘してもあまり実りはないだろう。ことはこれで済むわけではないのだ。船の来往にかかわる習俗や儀礼には上に簡単にみただけでも、各地域ごとにやはりかなり独特の想像力が付け加えられている。台湾南部で王爺の来臨を「代天巡狩」などと表現しているように、王爺が天の使わしめにまでなること、そしてそのまま居着いてムラやイエの守り神になること、済州島ではヨンガムがふんだんに飲み食いしておどりつつ送られること、沖縄では三月三日女の身の上に危機がきたときに浜でおどり明かすこと、また日本本土では翁が壮大な饒舌を披露して帰っていくことなど、これらはいずれもムラ共同体やイエの危機において発しつつ、なおそれぞれに独自の表現行為を伴っている。
 たとえば日本のムラを時ならず訪れる船にはサチ、タカラが積まれていた。食うや食わずのきびしい暮らしに耐えていた人びとにとって何よりも望まれたのはやはり米だったのだろう。それがもたらされることを愛知県北設楽郡辺りの民俗世界では「よなふねをこぐ」と伝えていた。その神楽は江戸の末期に実施してから絶えたのでどういうことをしたのか詳細はまったくわからない。早川孝太郎の解説によれば、人が稲穂の意味で扇子をくわえ、また背には米俵を負う。そして俵の両端にはやはり扇子を当てる。これは翼の意味らしい。このときの唱えごとは「京から来るおほどりご 何をくわいて持て来た 大きな稲穂くわいて持て来た 稲三把で籾が八石 ぎいんこぎいんこ」とある70)。要するに人が米俵を背負って鳥のまねをし、しかもそれ自体が舟であるかのように漕ぐ仕種をしてみせたらしい。
 なぜ鳥なのか。「天の鳥船」の要素も当然考えられるだろう71)。ただ、いきなり古墳時代や古代の鳥船の観念にさかのぼると、よな船の場が何やら巫女の祭儀の場のようなものになってしまう。そうではなく、ここでは、そうした淵源はみとめつつも、なおかなり芸能化したものをみてとるべきではなかろうか。先にも述べたが72)、これはどうも滑稽な演戯としておこなわれた感じがあり、船の来往をかたる田楽の翁と結局は同じことを演じてみせたのだとおもわれる。
 王船、ヨンガムの船、翁の船、よな舟などをめぐる人びとの思いは絶えず死霊へのまなざしと一体となっていた。船の到来が人びとに死霊をおもい起こさせたのか、死霊の跋扈と災厄の発生が船をおもい起こさせたのか。それはどちらもありえたであろう。いずれにしても東アジアの人びとはかつてせっぱ詰まったときにもこうした再生の装置を準備し得た。そうしたことを知るにつけても、わたしは民俗世界のしたたかな想像力に驚かざるをえない。その根柢にあるものは先霊へのいとおしみだろうか、生きる側の傲慢さのゆえに秩序を失うにいたったという怖れなのだろうか。いずれにしても、人びとの培ってきた想像力はなかなか豊かなものであったとおもう。
 船が来り、船がゆく。東アジアにおいて、このことの意味と広がりは大きくも深い。未明の浜辺で燃え上がる台湾南部の王爺船はそれを今日に生き生きと伝えている。


注釈

30)劉枝萬「台湾之瘟神廟」『民族学研究所集刊』第二十二期、1966年、61-70頁。
31)前引、前島信次「台湾の瘟疫神、王爺と送瘟の風習に就いて」、48頁。
32)人目に触れぬように夜、海岸までいくということはトンイプリを実見したとき、その最後に神房(巫)から直接きいた話である。済州島の治病儀礼の代表的なものとしてトンイプリ(甕を解く儀礼)があるが、この次第と最後の船流しにいたる過程は、拙稿「トンイプリ−甕を解く儀礼」『日吉紀要 言語・文化・コミュニケーション』No.19、慶応義塾大学、1997年、とくに134頁を参照のこと。
33)前引、前島信次「台湾の瘟疫神、王爺と送瘟の風習に就いて」、48頁。
34)前引、前島信次「台湾の瘟疫神、王爺と送瘟の風習に就いて」、58頁以下。
35)前引、沈継生「従蕭太傅崇拝看?台王爺信仰之異同」『泉州道教文化』、1995年10月、および鄭国棟「蕭太傅崇拝与富美宮的歴史作用」同誌、1995年10月参照。なお、この論文は福建省の民俗に明るい台湾の研究者徐瀛洲の好意によって入手しえた。
36)前引、前島信次「台湾の瘟疫神、王爺と送瘟の風習に就いて」、28-29頁。
37)拙著『韓国の民俗戯』、平凡社、1997年、144-146頁。
38)池春相・李輔享・鄭モ浩『珍島シッキムクッ』重要無形文化財調査報告書、伝統舞踊研究会、1979年、103-105頁。
39)国立民俗博物館編集『珍島巫俗現地調査』、国立民俗博物館全羅南道、1988年、103頁。
40)前引、拙著『韓国の民俗戯』、146頁。
41)なお、上記『珍島巫俗現地調査』によると、ソンニムの前には帝王というカミが立ち、これもともにやってくる。それは実は新たなる生命を人間に授けるカミである。
42)玄容駿「ヨンガム本縁潭とヨンガムノリ」『巫俗神話と文献神話』、集文堂、1992年、236頁。
43)以下の記述は、玄容駿、前引書、228-238頁を参照のこと。
44)これについては特に、前引、玄容駿「ヨンガム本縁潭とヨンガムノリ」、234頁。
45)前引、玄容駿「ヨンガム本縁潭とヨンガムノリ」、247頁。もっとも玄容駿はこの呼称にそれとない「諷刺」をよみとっている。済州島の最高位もヨンガムもやることは人びとにとって同じように過酷だというのである。そうともいえようが、それよりもここには中国南部の「王爺」信仰のようなものが潜んでいたということではなかろうか。
46)王爺はもともと日本語の親王に当たることばであり、またその別称の千歳は皇帝の臣下を意味する(前引三尾祐子「<鬼>から<神>へ-台湾漢人の王爺信仰について」、247頁)。「王爺」もヨンガムも同じように高い身分の者をさしていたことがわかる。
47)崔徳源『多島海の堂祭』、学文社、1984年、93頁。
48)崔徳源、前引書、100頁。このほか、船は用いなくともカミである藁人形を海に流すことは各所にみられる。
49)任ル宰・金秀男『蝟島ティベックッ』、悦話堂、97頁、1993年、『韓国民俗大辞典 2』、民族文化社、1114頁、1994年参照。
50)巫女のことを黄海道では万神とよぶ。
51)水殺と記すこともある。本来は水の凶威を意味し、次いで水の悪霊をいう(秋葉隆・赤松智城『朝鮮巫俗の研究』下巻、大阪屋號書店、1938年、90頁)。この災いを防ぐために、部落の入口に石や木を立てておく。そしてまた天然痘などがはやったときにもこれをまつる。
52)金錦花『金錦花の巫歌集』、文音社、1995年、307-311頁、また船の伝承については347頁参照。
53)これは先に述べた、王爺の船から妙なる音楽がきこえたという伝承と通じる点がある。
54)挽章とは死者を弔うとき故人を悼む詩文を記したもの。葬列にはこの挽章を記したものが伴う。従って、この歌には「死霊」を弔う船の趣も感じられる。
55)前引金錦花『金錦花の巫歌集』、311頁。
56)このときのカミの属性については宮家準「熊野速玉大社の御船祭」『稲・舟・祭−松本信廣先生追悼論文集』、六興出版、1982年参照。
57)本山桂川『日本の祭礼』八弘書店、1942年によると、代表的な船祭だけでも17個所があげられているし、さらに今はなくなった船祭の記事もいくつか記述されている。
58)比嘉康雄『神々の古層H 世を漕ぎ寄せる』ニライ社、1991年、66頁。
59)島袋源七『沖縄諸島の古謡と舞踊』、また本田安次『沖縄の祭と芸能』、第一書房、1991年、218-219頁も参照。
60)前引、本田安次『沖縄の祭と芸能』、219-220頁。
61)前引、本田安次『沖縄の祭と芸能』、1991年、220-221頁。
62)平凡社『大百科辞典』9、1985年、217頁「宝船」の項参照。
63)鈴木道子は花祭の翁には船の要素があまりないことを述べつつも、田楽の翁には船とのかかわりがよくみられることを指摘し、それらとこの地の大神楽にかつてあった「よなぶねをこぐ」こととの結びつきも示唆した。もっとも鈴木は「よなぶねをこぐ」に関しては、五通りの解釈の可能性をあげていて、そのうちの一つとして「一種の宝船」の可能性もあるというのであるが(『奥三河・花祭と神楽』、東京書籍、1989年、137頁以下)。大神楽のよな船がどのようなものだったのか、だれが演じたのかは今となっては知りようもないのだが、わたしには、翁が天竺唐土から船に乗ってきたモノであること、この翁が米の船を漕いでくるような演戯をしてみせたのではないかとおもわれる。これについては「まとめ」の項も参照。
64)文脈からみて、日本にくる途中の島という意味らしい。
65)『早川孝太郎全集 U』、未来社、1972年、306-307頁。
66)もっとも、そのばあいの海がどこの海かというと、かつてこうした民俗がやってきた海路ということで実は東シナ海あたりの記憶をひきずっていたのかもしれない。
67) 藤功『葬式 あの世への民俗』、青弓社、1996年、160-162頁。須藤によると、三重県の国崎では1月17日に女たちだけで藁船を作り歳徳神(正月様)を乗せて藁に火をつけ海に送った(160頁)。
68)前引、劉枝萬『中国道教の祭りと信仰』下、322-348頁。
69)何もかも同じになってしまう一つの例は鈴木満男のマレビト論である。鈴木は王爺の祭儀からマレビトの要素を取り上げ、日本のマレビト論を再構築しようとした。その際、朝鮮の風雨の神ヨンドゥンに注目し、さらに琉球のニライの神をも結びつけた。これらは、要するに「東海浄土」から訪れてくるという点でくくることができるという(前引『環東シナ海の古代儀礼』所収の「東海浄土論」)。ところで、この枠組は折口のマレビト論に修正を迫ることにはなるのかもしれないが、王爺像の位置づけには寄与するところが少ない。鈴木によれば、ヨンドゥンはハルマンという朝鮮語を媒介に八幡や媽祖とも重なってしまい、だとすると王爺も媽祖も根は同じことになってしまう。台湾のカミとして双璧をなす王爺と媽祖がマレビト論のなかで同じものとされたところで、これは何かをかたったことになるだろうか。媽祖や済州島のヨンドゥンは海上をうしはく女神として、これはこれでまた別の枠組みを設定し、東アジアの海上をめぐる人びとの想像力の個別性を追求するべきではなかろうか。
 鈴木の立論は、わたしには折口マレビト論批判として興味深く受け取れる面もあるが、結局は折口論の呪縛のなかにあるとしかおもえない。端的にいうと、これは王爺について、あるいはまた朝鮮半島と済州島のヨンドゥン婆さんの風神性そのものについては寄与し得ない論である。そもそも、鈴木の設定する東海浄土はやはり無理で、王爺が信仰の上で東海からくると一概にいえるものなのか。またヨンドゥンはどうだろう。三品彰英がいっているからといってヨンドゥンが新羅の脱解神話の特殊型だというようなことが無条件でいえるのかどうか。朝鮮半島の各地に広がるヨンドゥン信仰の故地を東海に限定するのはやはり至難のわざである。
70)前引、『早川孝太郎全集U』、90-91頁。
71)前引、鈴木道子『奥三河・花祭と神楽』、135頁では五つの解釈の可能性を併記し、そのうちの一つとしてあげている。また萩原秀三郎はこれを「他界で神(祖霊)の加護を得た神子が、鳥の姿をしてこの世に豊穣を持ち帰ったと読み取ることができると思う。その場合、他界は川向こうにあり、往き来は舟により、先導したのは鳥という構図が考えられる」とする(萩原秀三郎「銅鐸とシャーマニズム的世界観」、諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』1998年、264頁)。
72)注63参照。


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