慶應義塾アジア基層文化研究会:オグクッ

4.3. オグクッの芸能性

 オグクッは通例、悲哀にうちしずむ家族のためにおこなわれる。家族たちはそれぞれの千々に乱れた思いに浸っていて、家庭はいわば混沌としている。そんな場に持ち込まれたオグクッとは何なのか。いうまでもなく第一義的には霊魂済度の儀礼であり、けっして演戯をめざしたものではない。しかし、オグクッとはそうした場に一定の構成された場パンを設定し、悲哀の感情に筋道を付ける。その筋道の付け方は音楽と踊り、唱えごと、そして歌謡によるものである。ここにみられる身体演戯がまさにはじめの芸能なのである。故人の霊の去来を中心に振り返ってみよう。

1.故人の霊はコルメギの段で神竿とともにまずよばれる。しかしこの段階ではまだ遠いところからの発話のようなもので生々しさがない。
2.この霊の来臨をより明確に鶏を用いて表現しようとしたのが請魂クッである。トリを用いて失踪した霊魂を探し求めるのはひじょうに古いやり方だとおもわれる。たとえばシッキムクッでは、海で溺れた人の霊魂を探すに当たって鴨を海に投じた(図51)。鴨が海中に彷徨う霊魂を探し当てることを期待してのことである。一方、オグクッでは僧をおもわせる姿の男巫が鶏を投じた。
3.請魂クッでよばれた霊魂がまず受けたもてなしは結婚式であった。これ以上の歓待はないといってよいだろう。そして共寝の時間が用意される。
4.この霊魂の安眠のあいだに、巫女たちは祖上クッ、招亡者クッ、ノットンイクッ、パリ
テギ、シム念仏(道を均す念仏)、降神ノルムなどを演じる。この一連の流れのなかでしばしばくり返されるのは死者の霊魂の飛翔である。その軌跡はいくつもの螺旋のような曲線である。死者の霊は胡蝶のように飛びかけるのだともいえようか。巫堂はこのさまをシンテチプを持って舞うことで表現する。
5.慶尚北道のオグクッでは霊魂そのものを洗い浄めることは通例みられない1)。それよりは一体に巫覡に降神巫的な要素が強いというべきなのか、霊魂を直接よび、部分的には口寄せをし、あの世へ送り出してやる。ノットンイクッなどでは、形式化した演戯とみられる部分もあるが、また唇が硬直して蒼くなることもある2)というから、半ばは霊力の発揮でもある。
6.この霊力の発揮の部分が反映されているのか、巫堂たちは、死によって引き起こされた当事者たちの悲哀を積極的に克服しようとする。最後に組み込まれる一連の唄のクッは近代的な悲哀の感情に照らすとき、一見そぐわない。肉親を失って、悲しみに浸っている家族の目の前で花の唄や燈の唄をうたい、にぎやかにおどるというのは並大抵のことではない。この部分だけを取り上げれば、たいへんな不調和のようにもみえる。しかし夜を徹してのクッの流れを踏まえると、こうしてさまざまな手をつくして、故人をあの世へ送ることがまごころの証なのだということがわかってくる。こうして家族の者たちには、確かにこころを尽くしたということ、それも故人ばかりか祖先とともに歓んでもらえることをしたという思いが残ることになる。 

注釈

1)ただし、慶尚道でもこれをやることがある。注37参照。
2)世襲巫の宋明姫の談話、筆者聞書。


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