正月の農楽の映像(1987年の堂山クッ) 

 一、映像とその概略


 全羅南道宝城郡筏橋邑大浦里(テッポリ)の堂山(タンサン)クッ 。
 朝鮮半島南部稲作地帯で盛んな農楽はカミゴトである。そして、労働を助ける律動であり、宴席の楽しみをかき立てるあそびでもある。
 元来の名はクッ、埋鬼(メギ、メグ)、地神踏み(ジンパプキ/ジシンパルビ)、豊物(プンムル)、乞粒(乞粒、コッリプ)など。
 大浦里の堂クッは上堂(タンサンハルモニ、女神)・下堂(タンサンハラボジ、男神)での祭祀、多彩な農楽、またムラ人の熱心な参加などの点で出色であった。
 
 収録映像(2分19秒)

  1.門クッ 
  2.堂山クッ(大堂山、祭神堂山ハルモニ(婆さん)) 
  3.二日目の農楽
  4.下堂祭。広場の夜のあそび 
  5.水死者の霊の供養 
  6.広場の儺戯。盗っ人捕らえクッなど。
  7.下堂祭の最後。龍王への供物奉献。

 以上の堂山クッについての詳細は以下の文「二、 儺戯としての農楽」を参照のこと。

 朝鮮半島南部の年初の農楽は多彩である。それは、死者霊の供養、儺戯、農耕予祝などの性格を帯びる。これらを総体として説明しうるのは中国古代の儺戯・臘祭である。その系譜上に位置づけることで視野は格段に広がるであろう(野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、第一、二章参照)。

 

  

▲1996年の大浦里略図。以前はムラの会館(左側、道路右)はなく、そこが広場で、農楽はここからはじまりここで終わった。


 二、儺戯としての農楽
 
 朝鮮の農民にとって農楽はまず第一にカミゴトであり、労働を助ける律動であり、宴席の楽しみをかき立てるあそびであった。ムラには「農楽」という語はなく、単に「クッ」とか「埋鬼」「地神踏み」、あるいは「豊物」「乞粒」などとよぶものがあった*1。この名称に示されるように、それはムラの一年の節目に用いられ、また流浪する者たちにより用いられた。要するに、農楽は朝鮮半島の民俗世界にとって不可欠のものであった。
 こうした農楽にはどのような表現行為がみられたのだろうか。ここでは、農楽のもっとも本質的なかたちとみられる年初の堂山(タンサン)クッ*2を例として、その実況からみていきたい。

  農楽の場としての堂クッ

  朝鮮半島の村落の神域は、ソナン堂、山神堂、堂、堂山などとよばれ、いずれも神木または木叢だけで、建物はないことも多い。南部全羅道(チョッラド)では堂、堂山が多い。ムラのなかにいくつもあるのがふつうで、ときには十二堂山などとよばれるほど多くの堂山を持つムラもある。
  さて、全羅南道宝城郡筏橋邑大浦里の堂クッは1987年旧正月8日、9日の二日間にわたっておこなわれた。これは上堂・下堂*3での祭祀、多彩な農楽、またムラ人の熱心な参加などの点で、けだし全羅南道では出色のムラのクッといえるであろう*4。村名からしてわかるように、このムラは海辺に面している。宝城郡の東側の中心地筏橋邑からバスで20分ほど南東方向に下ったところにあり、1987年現在、90戸、520名ほどが住み、およそ半々の割合で農業、漁業を営んでいる。毎年、旧暦正月10日前後の吉日を選んで、堂山婆さん・堂山爺さん・龍神をまつるのだが、その祭祀は厳粛であり、しかも農楽のあそびには祝祭気分があふれている。
  伝承によると、ここには、もと、十二の堂山があったというが、現在、ムラに存在する堂山は四つだけである。ひとつは堂舎を備えた大堂山であり、他の三つは建物も特別な神樹もない、神域としての堂山である。ただ、このうちのひとつはムラの広場である。そこでは「入り堂山」「出堂山」という農楽の儀がおこなわれるのであるが、本来はここに神域としての何らかの標示があったかもしれない。
  大浦里では正月のはじめに、祭官を選び同時に祭日を決定する。祭官は、生気福徳の備わった夫婦を堂主(タンジュ)として選び、ほかに、祝官、献官が各一名、都合四名である。このうち、堂主に対する禁忌事項は厳格で、三が日は一族間で葬礼もできない。また、臨月に当たる女性がいたら、ムラの外で出産しなければならない。里長によると、この禁忌を犯したために、堂主の夫人が憑きものに捉われたようになり、また、産後三日で子供が死ぬという事件が70年代のはじめに起きたともいう。
  堂主は祭日の三日前からは大小便のたびごとに身を浄め、服を着替えなければならず、その煩を避けるため、食を抜くことも普通だという。祭儀に用いる米も、かたちのこわれた米粒をひとつひとつ取りのぞく。それが精誠の証なのである。
 さて、大浦里の堂クッは以下のように進行する。農楽隊の動きを中心にみていこう。

 あいさつのクッ  正月8日の午前11時ごろ、ムラの広場に農楽隊が集まり、あいさつのクッをはじめる。三支槍に令旗*5を付けたものを2本立て、二人の雑色(チャプセク、おどけ役)を従えた楽隊の編成は、鉦4人、銅鑼2人、太鼓10人、杖鼓1人で、総勢20人を越える。途中で、これに小鼓を持った婦人たちや、もう2、3名の倡夫(雑色)を加える。これだけの人数があると、なかなかの迫力である。
 庭踏みクッ  広場でのあいさつのクッが、20分ほどで終わると、一行は行進をはじめ、個人のイエの庭踏みクッ*6にとりかかる。まず、門前で横1列に並び(図@)、農楽隊の到来を告げ、次にイエのなかにはいる。すると、主人側は小さな食台に米とカネ、水を供えて出す。慶尚道ではこの膳を成造(ソンジュ、家宅神)の膳というが、大浦里では精華水膳という。ここで一行は庭クッをする。長円を描きつつ、リズムのほうは一チェから三チェまでをくり返す。これは、七チェまで変えることができるというが、庭踏みでは三チェまでのなかから、おもしろい部分をくり返すとのことである。
 竈王クッと祝願  庭のあそびが一段落すると、一行は台所にはいり、竈王クッをする。台所でも釜蓋に米と紙幣、精華水が供えてある。銅鑼と杖鼓が鳴る。しばらくして主婦が「埋鬼よ!」と叫ぶと、砲手が「おう」とこたえる。そして、砲手は米粒をつまんで三回、精華水のなかに入れ、その器を持ってイエの正面にまわる。そこで、倡夫と掛け合い萬歳をするかのように、家族の健康を祝福し、「命と寿福の長からんことを」といってから、手にした精華水を屋根に向かって撒く。
 門クッ  以上が庭踏みクッの基本であるが、イエによっては、庭のあそびの際に雑色が主人を背負って回ったり、また門(ムン)クッをする*7。大浦里の門クッでは、農楽隊が母屋の玄関や板の間の前で二本の令旗を交差させ、主人側に門を開けなさいと要求する(図A)。具体的にはカネをせびるわけだが、もちろん楽隊のほうでは、すぐには門を開けない。サンセ(農楽隊の頭で鉦を持つ)ほか、二、三の者がサンモ(被り物の頂に付けたリボン状の物)を回しながら、その先端の房を槍の交差した箇所にかけて、開けようとする。が、カネが少ないのか開かない。この間、見物のほうからは絶えず、やんやの喝采が浴びせられる。人びとは、門クッとはいわばシッキムクッ*8のようなものだという。農楽隊の来訪を浄化、カミ和(なご)ませの儀とみていることがわかる。
 入り堂山クッ  庭踏みクッは三時間ぐらいつづけられた。このあと午後二時半ごろ、広場に出て、入り堂山クッをする(図B)。楽隊は三十人を越えている。ここから、ムラ全体のクッにはいる。入り堂山クッの趣旨は堂山へのあいさつである。ふつうは堂山の前に横一列に並び、それから行路の楽、あいさつのクッなどがおこなわれるのだが、先にも述べたように、大浦里の入り口の広場には堂山に該当するものがなく、従って横一列に並ぶ光景もみられなかった。
 小堂山他  30分後、楽隊は浜辺の小堂山の前にいく。ここでは基本通り、横一列の整列からクッをはじめる。小堂山は堂山爺さんというが、特に伝承はない。以下、船着き場での「潟祭」、個人の船の上での「船告祀」が連続しておこなわれる(図C)。これが済むと、楽隊のうちから三組の舞童が形成され、あそびを盛り上げる(図D)。
  こののち一行は埠頭からもどり、小堂山の裏手、ちょっとした茂みの付近でもう一度、堂山クッをおこなったが、この堂山についてはカミの属性は一切伝えられていない。ただ「堂山」なのだそうだ。一般にこういう堂山は多い。
 庭クッ  こののち、楽隊はふたたび庭踏みクッをし、夕食時にいったん解散したが、午後8時すぎになると、得主(トゥクジュ)のイエに集まり、やがて五、六十人のムラ人が12時近くまで篝火のまわりで、庭クッをくり広げた。得主は祭官ではないが、このまつりのために毎年選ばれる生気福徳のある人で、いわば初日の晩の宴席を用意する主(あるじ)である。
  この晩のクッでは中ほどで、ホーホーと声を立てながら、速いテンポで庭を巡るホーホークッ、また楽の音を止めて静かになったところで「九九打令」をうたう唄クッ、それに終幕近くになって演じられた盗っ人捕らえクッ(後述)が芸能性の濃いものであった。九九打令は中国の故事を九九の表現に合わせて、うたい連ねながら、結局、若いときにあそばなければ、あそぶときはないぞと諭す内容の民謡である。
 堂山クッ(祭儀)  得主のところでのクッののち、人びとはイエにもどる。しばらくすると、通行禁止の合図であるラッパの音が鳴りひびく。うかがってみると、一メートル以上もある長いラッパを持った吹手がゆっくり歩きながら厳かなときの到来を告げるいる。堂主らが大堂山にいく道を祓い浄めるかのようだ。外部の観察者であるわたしはもちろん、一般のムラ人も堂主らをみてはいけない。これは厳格に守られる。
 祭官らによる堂山クッは20分ぐらいで終わる。里長の厚意により、直後に祭祀を再現してもらった。供物の膳は三種類、堂山爺さん、堂山婆さん、地神のために用意してあった。堂主夫婦、祝官、献官の四人が儒教式の祭儀をおこなう。酒を献じ、漢文で記された祝文を読み、ムラ人の所願成就のために白紙を焚きあげる(焼紙)。そしてのち、持参した供物をていねいに地に埋めて式を終える。堂主らの厳しい斎戒をおもえば、一般人の参観、つまり不浄の接近を許さないのは当然のことであろう。
 庭踏みクッ他  二日目の行事も午前11時ごろからはじまる。得主のイエで簡単に庭踏みクッをしてから、農楽隊は大堂山の前の百坪ほどの空地にいき、農楽を奏で堂山クッを演じる。前日の大堂山の農楽に較べると、この日のほうが念入りで、ここでのクッはまだ終わっていないことがわかる。 
 堂主ねぎらい  次に、昼少し前に農楽隊は堂主のイエにいき、労をねぎらう。堂主の表情からは上堂クッをなし終えた安堵感がうかがえる。堂主夫婦はこの日の夜、なお龍王や死者霊をまつる儀礼を果たさなければならないのだが、緊張感は幾分少ない。やがて牛の頭が運びこまれる。これはのちに献官のところに移され調理される。肉と骨をばらして藁つとのなかに入れ、堂山神、龍王、死者霊などに献じるのである。
 出堂山クッ  堂主のイエでのねぎらいの農楽につづいて、楽隊は広場で出堂山クッを演じ*9、また前日と同様に小堂山の前でひとしきり堂山クッをおこなう。
 井戸クッ  さらにそののち、ムラ外れの井戸にいき、井戸クッをする。大浦里では水道の普及が遅く、1980年まで共同井戸を利用した。ムラ人によると、この井戸には「井戸閣氏」がいる。それは耳の付いた鰻で、クッのときには決まって顔を出す。またどんな日照りでも涸れることがなく、近隣のムラからもらい水にきたものだという。
 夜間の下堂祭  夕刻、里長宅の庭で門クッを交えて二時間くらいあそんだのち、七時すぎ、堂主のもとから篝火の行列がはじまる。下堂祭の開始である。大きな藁束に火がともされる。ラッパが吹かれ、つづいて、白い衣を着た堂主夫婦、献官、祝官が前日と同じように、堂山婆さん・堂山爺さん、龍王地神、また物故したムラの功労者のための膳を携えて、大堂山の前に臨時に設けた藁葺きの祭庁まで行進する(図E)。この行進には、漁をするイエを代表して、婦人たちが七人加わる。婦人らはいずれも白い衣すがたで恭しく膳を運ぶ。それは海で死んだ者の霊に供える膳で、婦人らは海辺に至るや、膳を置き静かに合掌再拝する(図F)。死霊迎えの意を込めた祈りである。
 農楽隊は大堂山の前の空地で何回か巡る。やがて、横一列に並ぶと、その面前で火が焚かれる。すると、藁つとを背負った砲手と三名の倡夫が、大堂山の近くまでいき、拝礼をし、「神がみよ、ごあいさついたします」と告げる。このあと祭庁に供物を並べる。人びとは三々五々、祭庁に拝礼にきて、酒を酌み交わす。一方では、農楽隊の熱のこもった演戯がはじまる。狭いあそびの場に人びとは二百人近い。
 こうして以後、三時間あまり、篝火を中心に老若男女の入り交じった農楽のあそびが展開される(図G)。その次第は前日、得主のイエの庭で演じられたものと同じだが、盛り上がりはこの日のほうがはるかに大きい。若いむすめが男装し、子供が走りまわり、近ごろはほとんどみられなくなったムラまつりのにぎわいがここにはある。
 盗っ人捕らえクッ  このあそびは全羅道では各地でみられる。大浦里では祭場をひとつの宮殿に見立てる。サンセが指揮を取り、「ここに敵将が侵入した、ついては三進三退しつつ、敵をおびき寄せ、歓待するとみせかけてひっ捕らえよう」という。砲手と倡夫が敵兵役を演じる。かれらが陣中に忍びこむと歓待される(図H)。そこで油断し、仲間うちで賭博にうち興じ、あげくにつかまってしまう。サンセは敵将を捕らえたことを人びとに宣言し、勝戦鼓を打てと命ずる。太鼓、鉦、ラッパが順に三度ずつ鳴らされると、この寸劇は終了する。
 このあと、祭庁のなかで堂主らが拝礼をする。海辺に安置してあった死者霊のための膳の上の供物も海に捨てられる。つづいて砲手と倡夫が、大堂山の前にいき、「各おのの神がみよ、別れのごあいさつをいたします」と告げる。砲手の背の藁つとには、祭庁にあった供物が入れてある。下堂祭の終了が堂山婆さんに告げられた。
 龍王への供物奉献  ところが、なおもう一幕が残されていた。人びとは手ん手に大きな藁束を携える。しばらくすると、それに火がともされる。農楽隊が海辺で楽を奏でるなか、砲手、倡夫、白い衣の婦人たちが夜の干潟のほうに降りていく。あちこちに灯される藁束の火が深夜の海辺を鬼火のように動いていく。砲手は背中の藁苞(わらづと)を頭上に掲げ、暗い海に向かって二、三十メートル進んでいき、ためらいつつも投げ放つ(図I)。やがて潮が満ちてきて、それを遠くさらっていけば、くる年は豊漁なのだという。
 藁苞と各イエからの供物を龍王と死者霊に献じたあと、人びとは祭庁の前に集まる。およそ二メートル立方の仮ごしらえのカミのヤシロが焼きおとされて、まつりは終わる。農楽隊とともにする堂山クッとしては劇的な最後であった*10。

 三、小考

 大浦里(テポリ)の正月のまつりは東方地中海地域の年末年始の祭祀と芸能の文脈のなかでみると、次のようになる。

 1. 農楽隊による村内の行進、個々の家の地神踏みと祝福。これは民間の儺に相当する。

 2. 大(クン)堂山(タンサン)での深夜の祝願では、村の主神(女神)、男神(タンサンハラボジ)、また地神など、あらゆる神がみを集めてまつる。これは臘祭に該当する。

 3. 翌日の下堂祭ではさまざまなことが連続しておこなわれる。すなわち、農楽隊の行進、村の諸神への祈願、水死した祖霊の供養、盗っ人捕らえという名の災厄除け、龍王への海上安全、豊漁祈願である。これらは臘祭、儺戯、初春のまつりを複合した祭儀といえるだろう。

 以上、タンサンハルモニ(女神)をはじめとした諸神に一年の豊饒を感謝し、寄り来る水中孤魂を慰撫し、儺戯をする。そうして、新年の豊饒(とくに豊漁)を祈って供物とともに神霊を海の彼方に送り返す。これは大きくみれば、東シナ海周辺地域の年末年始の村祭りに共通するものだといえる。
 

 
*1この語義は、拙稿「農楽の淵源と芸能性」『大系日本歴史と芸能』第4巻、平凡社、1991年、109頁以下参照。農楽は学者の用語であるが、ここでは便宜上、共通語として用いる。
*2朝鮮では正月一日から十五日にかけての堂山クッがもっとも多いが、十月におこなうこともある。なお、「堂山クッ」というとき、ムラまつり全体を指すばあいと、ムラのなかの個々の堂山の前での農楽のあそびを指すばあいとがある。以下でもこれを併用する。
*3祭儀が上堂祭、下堂祭のふたつの部分から成る。この二重構成は全羅道には多い。大浦里では上堂祭で堂山婆さんをまつり、翌日にやる下堂祭では人びとが踊りつつ龍神と海で死んだ者の霊をまつる。なお堂クッと堂山クッのあいだに意味の違いはない。
*4とはいえ、1996年に再訪したとき、残念ながら、このまつりの熱気はだいぶ失せて、堂クッもかろうじて維持されているという感じであった。
*5元来、軍の命令を伝える旗だが、農楽隊はこれと竜旗、また「農者天下之大本」と記した農旗を携えて行進することが多い。
*6これはマダンパルビとかマダンパプキという。どちらも「庭を踏むこと」の意味で、具体的には、庭を巡り、竈、成造(家宅神)などを祝福する一連の行為で構成されている。このうち庭でのあそびを特に「庭クッ」ともいう。
*7門クッは、洪顕植・金千興・朴憲鳳『湖南農楽』(無形文化財調査報告書)、1967年によると、二種類に分けられる。ひとつは農楽隊が他のムラを訪れるとき、ムラの入り口において入堂山につづいておこなうばあいで、ここでは演戯の実力披露の意味がある。各種の陣クッ、三進三退、陣解きなど、入り組んだ演戯を示す。他の一つは、個人のイエでの庭踏みクッにおける門クッで、このときは、門前で主人に対し、「主人よ、主人よ、門を開けなされ、開けねばいってしまいますよ」という(36-37頁)。
*8シッキムクッは死者霊を洗いもてなす儀礼である。拙稿「シッキムクッの芸能性」『民俗芸能研究』第二十五号、民俗芸能学会、1997年、18-41頁参照。
*9「出堂山クッ」がおこなわれることで上堂クッは一段落したとみられる。しかし、堂山クッそのものは宵の下堂クッへとつづいていく。この間、農楽隊はイエ巡りをつづける。
*10なお、この次の年(1988年)にもう一度みにいったが、この祭庁の焼却はやらなかった。

 付記
 この文章は、星野紘、野村伸一編『歌・踊り・祈りのアジア』、「儺戯としての農楽」の一部、勉誠出版、2000年、196-205頁の原文を補訂したものです。
 

  (2008.11.29、2010.10.12補訂) (2011.6.7 補遺)(2013.5.4 補訂) 野村伸一

戻る