トップ黒森神楽役舞の世界-陸中沿岸地方の神楽より-

2.概観


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 岩手県の陸中沿岸地方では新春になると権現様とよばれる獅子頭をたずさえた神楽の一行が村の家々を訪れて獅子頭をまわし、日が暮れると民家を宿として終夜にわたり神楽を演じている(photo02)。今もこのようにして毎年村々をまわっているのは、宮古市黒森神社の権現様をいただく黒森神楽と、普代村鵜鳥神社の権現様をたずさえて歩く鵜鳥神楽である。この二組の神楽集団は南廻りの年は他方は北廻り、そして翌年は逆にというように交互に廻村をしている。この南廻り、北回りでめぐり歩く範囲は黒森神楽・鵜鳥神楽ともに北は久慈市小袖、久喜あたりから野田村下安家まで、南は釜石市仮宿、箱崎白浜あたりまでである。この地域は藩政時代には三閉伊通りと通称され、南部藩の領地の北上山地東麓の村々のほとんどを含み、北は八戸南部藩との、南は伊達藩との国境までを廻村の範囲注5)としていた。

 近世期に本山派や羽黒派に所属していた末派の修験者は、霞と称する本山から祈祷や配札などの行為を認められた一定の地域を有していた。彼らはその地域内に限り山伏としての活動ができたのである。陸中沿岸地方の修験者はこの霞の範囲に限って、獅子頭を権現様といって家々を門打ちして歩き、神楽を演じてきた。ところがそうした霞の範囲を大幅に超えて廻村していたものの一つが黒森神楽であった。それゆえ当然両者の間には紛争が生じてきた。この霞の範囲をめぐっての両者の争いは注6)、宝暦八年(1758)に黒森別当から真言宗惣録の永福寺経由で南部藩寺社奉行に提出された。そして吟味の結果「古来より三閉伊相廻候儀相違無御座候由」と判断され、黒森神楽の権現祈祷と神楽の巡行は承認された。黒森神楽側は訴訟には勝ったものの、霞場をめぐる争いは絶えなかったようで、後々まで神楽をもって廻って歩くことのできない村々注7)もあった。現在でも黒森神楽が訪れて来る村と来ない村があり、今だに霞争いが尾を引いているさまがみてとれる。鵜鳥神楽については近世期の資料が見つかっていないのではっきりわからないが、大なり小なり同じような事件はあったものと推測できる。

 本論で述べる宗教的世界観は右の地域を廻っていた神楽衆のもつ宗教的世界観である。彼らは近世期には地域の山伏に率いられた集団であった。現鵜鳥神楽の胴取の祖先も羽黒派の修験栄福院注8)であった。それゆえ陸中沿岸地方の神楽はこうした山伏系の神楽の特色を色濃く残している注9)。そしてその当該地方の人々の黒森山や鵜鳥山への信仰に支えられ注10)、また神楽のあり方もこの地方の人々の生き方や考え方に何らかの形で規定されているものと考えられる。宗教者や芸能者が表現しようとするものは、それを受け入れる信仰者や観客に納得されてはじめてその表現が成り立つものと考えるからである。ある行為はそれを表現する者と受け入れる者との相互のかかわりのなかで成り立つものであり、そのバランスがくずれるとき、その行為は変化してゆくと思えるのである。

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注5霞争の訴訟の資料として宝暦八年に黒森別当が提出した報告書には巡業先の村々と宿が記されている。森毅「黒森神楽の廻村に関する資料」11−13頁『黒森神楽調査報告書(一)』昭和五七年宮古市教育委員会・田老町教育委員会

注6森毅 前掲書(5) 11−13頁

注7宮古市八木沢の旧羽黒派修験文殊院には「黒森国がけ、八木沢八わたり」という口承が伝えられている。黒森神楽は国中をかけて歩けたが、八木沢村文殊院は自分の霞の八ヶ村きり歩けなかったからという。

注8羽黒派修験栄福院は前掲書(5)によれば、田野畑村に五三軒、羅賀村に三六軒の霞をかかえていた(森毅60頁)。田野畑和七氏によれば、彼の父以外は代々神楽の胴取をつとめ、曾々祖父が栄福院を名乗っていた。

注9神田より子「陸中沿岸の神楽と修験」18−32頁『あしなか』199号 昭和六一年 山村民俗の会

注10神田より子 前掲書(9)


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