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2.概観


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(1)分布

 陸中沿岸地方の神子の分布は、北から下閉伊郡普代村、田野畑村、岩泉町、田老町、宮古市、新里村、山田町に及んでいる。彼らの系譜と分布は(○は生存、×は故人)[表1]の通りである注6)

※[表1]は現在準備中です。

  [表1]の系列を地元では、前者を扇田シノを中心にした扇田系(photo02)、後者を山野目千代を中心にした山野目系と呼んで区別している。[表1]の作成以降に若干の移動がみられたので、追加しておいた。小形信夫注7)によれば、扇田系の松浦クマ神子はオクマイタコと呼ばれ、山野目系の宮古市津軽石根井沢の某巫女はイタコヤと呼ばれていた。また筆者の聞き書きによれば、田老町の西野アキ神子の家と、宮古市の山野目キヌ神子(photo03)の家はイタコヤという屋号で呼ばれている。

 [表1]以外に、高橋貞子注8)の聞き書きによると、×愛野チヨウ(岩泉町)−×小成トキ(岩泉町小本)−○浅沼イシノ(岩泉町中家袰野チヨウの孫) という相承の系統もある。右の浅沼イシノ神子が前表の浅沼イシ神子と同一人物と思われ、小成トキ神子が前表の某オトキ神子であれば、現在三組の系統が考えられることになる。高橋注9)によれば、浅沼イシノは祖母の後を継いで神子になった。彼女は現在下閉伊郡でただ一人の婦人の宮司であり、家は代々山伏や巫女をつとめる修験の家系であったという。また小成トキの弟は檜の沢の山伏さまと呼ばれていたという。  

扇田系
扇田系
山野目キヌ神子
山野目キヌ神子

(2)歴史

 神子についての歴史は現状ではあまり古くは逆のぼることができない。戸川安章注10)によれば「羽黒派末寺并修験院跡大数取調帳」注11)の延享年間(1944−48)の分限改め表には、陸奥国閉伊郡に神子が七〇軒とあり、同帳の神子の合計八六軒からみると、当時の羽黒派の神子の大多数が閉伊郡にいたことがわかる。戸川注12)によれば、羽黒派では太夫や巫女を末派にかかえていたのである。

 本山派修験に関しては、森毅注13)が「奥州地方の修験道史料」をあらわしている。この史料から神子に関するものをみてみると、

 「神子祈祭場宛行状」(19・18 番号は森による以下同)注14)が二通宝暦4年(1954)に閉伊郡年行事の寿松院から、豊間根村寿法院組荒川村の神子千日と、同村神子左りに宛行されている。森注15)によればこれは神子が修験年行事に統轄されて、鯵鯵者の霞場と類似の「祈祭場」を預けられたものである。

 「惣録家普請上納書留」(20)注16)は、惣鏡自光坊家の普請に津軽石村の朝日と荒河村の千日が各五拾文ずつ、他の修験に続いて上納している。この書留には年号が入っていない。

 「年行行事上京祝儀覚」(21)注17)は、明和4年(1969)に年行事の上京に際して上納した祝儀銭の覚で、千日と朝日はそれぞれ五十文ずつ出している。

 「神予取立願状」(28)注18)は津軽石村の寄木という神子が死亡したので、ひこ孫の利益院弟子円覚坊女房を取立ててほしいというもので、津軽石村の検断や肝入が享保8年(1923)に年行事寿松院に願状を提出したものである。

 「旦那場宛行状」(31)注19)は土地の土豪である田鍍津右衛門が宝暦2年(1952)に神子林に旦那場を宛行したものである。

 「神子、山伏ヘノ証文ニ付訴状」(32)注20)は俗人からの旦那場職宛行に対しての山伏からの反論である。

 「神子祈祭場宛行場」(35・36)注21)は閉伊年行事寿松院が文化15年に津軽石村新町神子朝日と、根井沢村神子護予の神子祈祭場宛行状である。

 前述の羽黒派と同様、本山派も神子を修験の末派に加えていたことが、これらの資料から明白である。神子も修験と同様に祈祭場や旦那場を宛行され、年行事や惣録の物入りには相応の金銭を上納していたのであった。

 次に下閉伊郡豊間根の旧修験威徳院に伝わる文書を調べた伊吹喜市注22)の「豊間根芳賀家文書(一)」によって、個別の事例を探ってみたい。修験威徳院は元禄14年(1701)に無住となった極楽院の霞を譲りうけ、その跡を継承して威徳院初代となった。その祖母と母は明秋道神信女、明冬蓮神信女の戒名をもつところから、伊吹注23)はこの祖母と母は神子であり、元来は女系家族だったのではないかと推測している。威徳院の「宗門帳」注24)には、廷享元年(1744)から安永元年(1772)までの間に弟子の左利という神子が載っており、明和8年(1771)に豊一神と改名している。威徳院にある「宗門帳」注25)は、現山田町豊間根、宮古市津軽石地域に在住した修験者六院、神子二院の併せて八軒一組の記録である。このうちの二軒の神子は、前述の豊間根村朝日と、荒川村千日である。両家の「宗門帳」注26)によると、朝日は寛延3年(1750)に養女ふかを迎え、朝日の死後宝暦4年(1754)に朝日の名を継いでいる。一方千日は宝暦5年(1755)に養女たつを迎え、宝暦13年(1763)にたつは寄祈を命名する。この二例も女系であることが示されている。また天保6年(1835)に一家離散した豊間根村吉野坊注27)の母豊住(37才)、娘豊祈(7才)も神子であった。

 前述の「神子取立願状」注28)も含めて、これらの事例は、神子が血脈継承に近い形で女系継承を行っていたことを示すものと思われる。

 以上のように歴史的にみると、神子は血脈継承に近い形で女系継承を行ない、その痕跡が現在の聞き書き注29)でもある程度認められる。一方代々神子の家系であってもイタコヤの屋号で呼ばれていたり、神子がイタコと呼ばれていた人々を師匠にしていた例もある。これらは自分達の意識と、周囲の人々の考え方のズレがあらわれたものとも考えられるのである。 

(3)一年間の活動状況

 神子の活動の主なものは、年中行事化した定期的なものと、臨時のものがある。以下は佐々木ハルエ神子(photo04)からの聞き書きによる。

■年中行事■

(1)オシラサマ遊ばせ(photo05photo06) 小正月 個人の家
(2)春祈祷(photo07photo08photo09) 節分すぎ 個人の家
(3)春の祭礼の湯立託宣 3月から 神社
(4)秋の祭礼の託宣(photo10) 九月から 神社
(5)一年のお礼の託萱(photo11) 11月 神社 

■臨時のもの■

(6)地鎮祭 新築の時や井戸堀など
(7)舟霊祓 新造船建設の折
(8)病人祈祷
(9)憑きものおとし
(10)あと清め(photo12photo13) 葬式後の祓い
(11)仏降ろし(photo14photo15)
(12)厄払い(photo16photo17)

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オシラサマ遊ばせ
オシラサマ遊ばせ
あと清め
あと清め

注6 小形信夫  前掲
注7 小形信夫  前掲
注8 高橋貞子「巫女の行びらき」『岩手民俗第四号』岩手民俗の会 昭和58年10
注9 高橋貞子  前掲
注10 戸川安章『修験道と民俗』岩崎美術社 昭和47年
注11 日本大蔵経編纂会『修験道章疏』大正八年名著出版 複刻昭和60年
注12 戸川安章  前掲
注13 森毅「奥州地方の修験道史料」『日本宗教史研究年報6』佼成出版社 昭和60年
注14 森毅  前掲(番号は森による、以下同じ)
注15 森毅  前掲
注16 森毅  前掲
注17 森毅  前掲
注18 森毅  前掲
注19 森毅  前掲
注20 森毅  前掲
注21 森毅  前掲
注22 伊吹喜市「豊間根芳賀家文書(1)−威徳院系譜」『宮古地方史研究第二号』宮古地方史研究会 昭和六〇年
注23 伊吹喜市  前掲
注24 伊吹喜市  前掲
注25 伊吹喜市  前掲
注26 伊吹喜市  前掲
注27 伊吹喜市  前掲
注28 森毅  前掲
注29 小形信夫  高橋貞子  前掲  


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