東アジアの目連救母伝承にみられる比較心性史-中国、朝鮮、日本の仏教民俗から
                                  於韓国国立木浦大学  2006.9.6


楽戸の隊戯『斬華雄』山西省長治

楽戸の院本『土地堂』

福建省仙游の目連戯。三殿超度

三殿超度の際に儀礼に参与する村人

目連による超度後に別れを惜しむ遺族

事情により子供ひとりのばあいもある。

女性たちの陥る血盆地獄

済州島の死者霊供養「十王迎え」

福建省南安の目連戯。女人観音(右端)

福建省政和県禾洋村の送子観音

山西省長治の城隍。日曜毎に縁日開催。

人による目連戯。銀奴の首吊り。

           木浦大学講演要旨                     06.9.6

                                            野村伸一


  《東アジアの目連救母伝承にみられる比較心性史-中国、朝鮮、日本の仏教民俗から》

 序 問題の所在

 東アジアは現在、経済、政治の統合をめざしています。そのために東アジアの文化の探究が焦眉の問題となっています。しかし、これは容易なことではありません。日本の例でいうと、中国、台湾の文化研究が最も多く、次に韓国文化研究でしょう。しかし、問題は、それぞれの研究者間に十分な意見交換がないことです。
 このなかで目連救母伝承とその演劇的儀礼はたいへん大きな意味を持つといえるでしょう。第一に、この伝承は仏教文化のなかから出てきたものであり、必然的に東アジア全般を考察の対象に置くことになります。第二に、その歴史は千数百年と長く、しかもその間に説話から芸能まで多様な形態がみられます。第三に、目連救母の芸能に関連して観音信仰との結合がみられ、それがさらに女性救済の祭儀という新たな展開をもたらしました。そこには女性生活史という重要な課題が含まれています。
 
 1. 目連救母伝承とは何か 

 『盂蘭盆経』-盂蘭盆会の起源を説く伝承

 『盂蘭盆経』は通例は3世紀に竺法護が中国で翻訳したとされるのですが、確実ではありません。小川貫弌は、『盂蘭盆経』は5世紀の初頭インドから東晋に伝来したもので訳者は不詳とすべきだといいます。目連尊者は六通(道眼、6種の神通力)により、死んだ母親が餓鬼のあいだで痩せさらばえているのをみます。そこで、鉢に飯を盛って救済を試みるけれど、母の「罪根」が深いためにうまくいきません。目連はこの時、釈迦の教えを乞います。すると、釈迦は、7月15日の僧の自恣[春から夏にかけての修行「安居」の最終日におこなう僧たちの集い、[]は筆者補注、以下同]の時に、十方の僧衆に食物などの布施をすれば、「現在父母七世父母六種親属」を「三途之苦」から救うことができるといいます。目連がそれに従い供養をしたところ、母は救済されました(以上前段)。
後段では、未来の信者たちも盂蘭盆会をすると、同様の結果が得られるといいます。

『大目乾連冥間救母変文』-変文としての伝承

 『盂蘭盆経』の内容をより説話的に発展させたものが変文です。その内容は中国文学史でもよく知られています。また別紙の資料にも載せました。そこで、ここでは詳しく述べません。
 これは時代的には唐代におこなわれたものです。そして、このあと、唐末から宋代にかけて目連戯がおこなわれることになります。ただ、その正確な起源はわかりません。確実なのは、北宋時代の文献『東京夢華録』に記録があるということです。これについてはのちほどまた述べます。

『仏説目連救母経』-南宋代の目連救母伝承

 ところで、南宋時代の目連経で重要なのは『仏説目連救母経』です。これはおそらく、民間の目連戯を反映させたものでしょう。人物の設定が類型化しています。母親の救済過程が詳しく描写されます。この目連経は宋元代の中国だけでなく、高麗時代の朝鮮半島、日本にも伝わり大きな影響を及ぼしたとみられます。

 2. 俗講から芸能への進展

 変文が各地で語られるうちに、これが祭祀芸能として演じられるに至りました。すなわち目連戯です。北宋の孟元老『東京夢華録』(1147年)巻8、中元節の項には次のように述べられています。

 七月十五日は中元節である。それに先立つ数日前から、市中では、 … また「尊勝経」[畜生に生まれ変わる者救済する陀羅尼]と「目連経」の摺り本を売っている。また竹竿を割って、高さ四、五尺の三脚を作り、その上に灯心皿の形を編んだのを盂蘭盆といい、それに衣服や紙銭を掛け、その上で焼く。劇場の役者[构肆楽人]は、七夕が終ってから後ずっと「目連救母」の芝居を上演し[般《目連救母》雑劇]、十五日で打ち上げるが、この日は倍以上の入りがある[観者倍増]。
 
 これによると市中で目連戯が広く演戯されていたことがわかります。ただし、その上演の内容については記載がなく知ることはできません。
 金代にも目連戯がおこなわれました。元の陶宗儀『南村輟耕録』巻25には金の院本として『打青提』の名がみられる。ここでは、院本の性格からみて、劉氏が地獄で苛まれる場面が滑稽に演じられたとおもわれます。『打青提』の系統の演戯はそののちも好まれたようです。たとえば明代の嘉靖(1522-66)、万暦(1573-1620)初に山西省の上党地区[現、長治市]において、唖隊戯[黙劇]という芸能が神事のなかで演じられました。そこには『青鉄[青提]劉氏游地獄』という演目がありました。これも同類のものでしょう。なおこれを演じたのは楽戸といいます。彼らは神事に参与し、また音楽と寸劇を伝承しました。朝鮮半島の在家僧、広大のような者だといえるでしょう(図版1)(図版2)。

  2.1. 朝鮮と日本への伝播の特徴

 盂蘭盆会と目連救母伝承は朝鮮においても古くからおこなわれていました。ただし、記録の上では『高麗史』世家、睿宗元年(1106)7月の記事がはじめです。癸卯の日(14日)には「長齢殿で盂蘭盆斎を設けて粛宗の冥福を祈り、また甲辰の日(15日)には、名僧を召して目連経を講じさせた」とあります。
 さらに高麗末期の語学書『朴通事』(1347-48)によれば、7月15日に高麗僧が北京慶寿寺において目連救母経を語って大衆を感嘆させています。すなわち、高麗僧が目連尊者救母経を説くと、多くの人びとは皆、足を組み、手を上げ、合掌し、耳をそばだて、その声に聴きいったといいます(原文は漢文)*1。
 朝鮮王朝(1392-1910)治下においても目連経は語られました。その内容は15世紀の『月印釈譜』に記されて残っています。それをみると、物語は前引の『仏説目連救母経』(京都金光寺蔵1346年刊)と全く同じです。つまり、13世紀から15世紀の東アジアでは、『仏説目連救母経』の系統の目連経がかなり流布していたことが知られます。
 一方、日本には目連伝承だけでなく目連戯も伝わりました。日本では7世紀以来、盂蘭盆会がおこなわれているので、目連救母の伝承が広く知られているのは当然でしょう。
 ところで、目連戯については室町時代(14世紀前半-16世紀後半)ころのものとおもわれる神楽能が知られています。すなわち「目連ノ能」とよばれるもので、これは死者の霊魂の救済儀礼の一環として演じられたものです。これについては後述します。日本に伝わった目連戯はごく素朴なもので、それは中国宋元時代の寺院の芸能を反映しているものでしょう。鬼卒が出て目連の母劉氏を責め苛む。そしてそれを目連と鬼卒が救済するというものです。この演戯は単純な場面を中心にしたものとみられます。これがどのような性質の祭儀で演じられたのかについてはあとで述べることにします。

 3. 中国の目連戯の変容 

 明代後期、安徽省の鄭之珍(1518-1595)が『目連救母勧善記』(1582年)を書きました。これは上中下3巻、全100齣、3日間の上演用の脚本である。この作品は北宋の目連救母雑劇の系統を引くもので、明代の初中期に盛行した目連戯を改編したものとみられています。
 鄭之珍本の影響は大きく、安徽省一帯ではどこでも目連戯を演じ、それは清末までの三百年、同地方の中下層社会の人心を支配したといいます。
田仲一成はこの作品の中心思想は「崇仏から、世俗的な勧善懲悪」に移行したといいます。確かに勧善懲悪と目連の親孝行が目につきます。しかし、この作品においても、宗教性はみられます。すなわち明代の民間で広くみられた観音信仰がやはり重要な要素として機能しています。観音に託された象徴的な意味は「罪」を犯した男女を地獄から究極的に救済することである。おそらくこれは明代の民衆の意向を反映したもので、鄭之珍はこれを否応なく受容するほかはなかったのでしょう。
そもそも中国南部の伝統社会における観音は、古代中国に顕著な女神信仰の系譜の上にあるとみられます。それゆえ、目連戯中の観音の役割を考えることは一際、重要なのです。
観音はなぜ目連戯のなかに登場することになったのでしょうか。わたしはこれについて次のように考えます。
 第一に劉氏にみられる女性苦難の設定が観音の身の上にもみられたこと。『香山宝巻』の妙善は結婚を拒否し罪なくして父親に殺されました。そこに共通するのは代受苦の思想です。
 第二に目連戯の最も熱心な観客が女性たちであったこと。彼女らは平生から観音やそれから派生した女神を信奉していました。

 女性救済の目連戯の事例は今日、福建省の中部でみられます。地獄に彷徨う劉氏の「三殿超度」の場面で、舞台上では、劉氏以外の多数の死者の霊魂が救済されます(図版3)(図版4)(図版5)(図版6)(図版7)。

 4. 朝鮮の宗教文化における女性救済  以下後半

 以上のような中国の目連戯が朝鮮半島に根付かなかったのはなぜでしょうか。そこには、朝鮮の宗教文化における女性救済の特質が潜んでいると考えます。ここのところは本日、みなさんとともに十分に考えてみたいとおもっています。
 わたしの考えはこうです。

第一に、女性の置かれた環境の問題があります。東アジアのなかで、朝鮮の女性の社会的地位は少なくとも高麗時代(918-1392)末期から朝鮮王朝の初期にかけて、すなわち14,5世紀においてもけっして低くはなかった。そのため、目連救母の教えは寺院のなかではあり得ても、社会一般で切実なものとして注目されることはなかったと考えます。
 第二に、朝鮮では、独自の救母伝承が作られていました。すなわち『安楽国太子経』で、これは朝鮮における偽経とされます。そこに現れる鴛鴦夫人は息子を世に出すために殺されます。しかし、のちには息子の安楽国に救済されます。この母親は実は観音菩薩でした。そこでは、やはり、観音と女性(母親)の救済が結びついていました。この物語は、朝鮮朝初期の『月印釈譜』(1459年)のなかにハングルで書き記されていました。しかし、その発生はもっとずっと古く、少なくとも高麗時代にはさかのぼるでしょう。しかも、興味深いことに『月印釈譜』にはまた目連経も記されていた。そしてそもそも、『月印釈譜』という書が朝鮮の王室における母親供養に関連して編纂されていることを考えると、目連救母の代わりに『安楽国太子経』が用いられたことが想定されるのです。ちなみに『安楽国太子経』は絵にかかれて絵解きされた可能性もあります。この絵は今日、日本に伝わって現存します。
 第三に、朝鮮では、女性の身近な神事においては絶えず巫女が重要な役割をはたしていました。中国と日本でも、巫女はかつて重要な役割をはたしていました。しかし、一方で、中国、日本のばあいは、男の宗教者が次第に巫女の役割を奪っていきました。 <道教の教義を説く道士、法師、陰陽先生(以上中国)、また陰陽師、山伏、法者、太夫、神楽師(以上日本)など名称は諸種あるが、これらはいずれも男性の宗教者である。彼らが巫女を従えて近現代に至るまで広く活動していたことは、よく知られています。>
 ところが朝鮮では、朝鮮朝五百年の統治のもと、僧侶をはじめとした男性の宗教者は社会的な活動が著しく制約されました。このため、逆に、巫女の祭儀が発展したとみられるのです。このなかで、巫女は目連尊者と自分たちを重ね合わせる必要がなかったのです。むしろ、巫女たちは目連や地蔵(冥府における霊魂の救済者)よりは観音女神を選び取りました。巫女たちの神話「パリ公主」の主人公は父親に捨てられたにもかかわらず、父親の危機を救い、神となります。それはまさに『香山宝巻』に説く妙善の物語を移したものです。
 以上のほかにもなお考えられる理由はあります。女性の死者霊救済の儀がすでに、多様なかたちでおこなわれていて、目連戯のかたちをかりる必要がなかったことなども指摘できるでしょう。ただ、時間の関係もあり、ここでは説明を省略します。これらを要するに、朝鮮のばあいは、巫女が観音の化身ともいうべきパリ公主をまつりつつ、世の多くの母親および女性の霊魂を救うために献身した。そのため目連尊者による霊魂救済を必要としなかったということです。

 5. 日本の宗教文化における女性救済

 日本では江戸時代の初期に「目連ノ能」の台本が書き留められました。これは浄土神楽とよばれるものの台本です。神楽は今日では五穀豊穣を祈願する性格が強いのですが、それはもともと死霊を鎮め、供養する性格のものでした。そうした鎮魂の神楽は、中世日本では各地でみられました。
 「目連ノ能」はこんな内容です。すなわち広島県比婆郡東城町戸宇宮脇の栃木家に伝わる文書によると、天竺のフダイ国に伝相長者がいます。その一人息子の羅卜太子は母の青提夫女に対して神仏への施しを勧めます。しかし、母はこれに従わず、神仏に憎まれ地獄の釜に陥ります。そのことを知った羅卜は母の菩提のために地獄の釜のところへいきます。そして、釜を守る鬼と対面します。羅卜は鬼に向かって「母を忉利天に舞い浮かばせたい」といいます。鬼は、はじめは羅卜の頼みを拒否するが、のちには協力します。ここで、おもしろいのは鬼自身が「自分も舞ってみせよう」といって青提夫女の成仏のために舞いを舞っていることです。
 日本の「目連ノ能」はこれで終わります。それはごく簡単な内容です。宋元時代の目連戯を移したものとみられます。これが実際にどのような法事に用いられたのかははっきりしません。おそらく非業の死を遂げた女性の霊を救済するためにおこなわれたのでしょう。
このほかに「松の能」があり、そこでも母の救済が大きく取りあげられています。一体に、日本の中世から近世にかけては女性の救済が大きな課題となっていたことが知られます。これは東アジアに通有のことであったといえるでしょう。
 なお、ここで、日本と中国の目連伝承には『血盆経』が関係してくることも指摘しておきたいとおもいます。すなわち女性は月経、出産などの血を流すことで地神を汚す、また神仏に捧げる水を結果的にけがすことになる。そのために、死後、血盆地獄に陥ることになので、目連尊者がこれを救済するというのです。時間の関係で詳細は省きますが、『血盆経』は日中の基層社会ではかなり広く説かれて近、現代に至っています。
 ところが、朝鮮半島にはこの『血盆経』が伝わっていません。これをどう考えるかということもひとつの課題です。

6. まとめ

6.1. 考察

 中国では遅くとも五世紀ころには、目連救母伝承がおこなわれていました。それに基づき盂蘭盆会がおこなわれ、これは朝鮮、日本にも広まりました。盂蘭盆会は東アジアに共通する文化であり、現代においてもなお、新旧の7月15日ころには寺院で行事がおこなわれます。これだけみれば、東アジアは共通する面が多いということになります。
 ところが、目連戯に焦点を当てると、事情は違ってきます。目連戯の諸相には明らかに中国、朝鮮、日本の宗教文化史の特徴が反映されています。その異同について、とりまとめると次のようになります。
 第一に、目連戯は当初は目連の母親が地獄に落ちたことを強調する面が強かった。これは金元代においても同様であったとみられます。そして、その演戯の背景には『仏説目連救母経』のような経典がありました。この目連経は東アジアでは広く流布しました。
 第二に、日本とは違い、朝鮮では『仏説目連救母経』だけ受容し、母親劉氏が地獄で苛まれる演戯は受容されませんでした。これは朝鮮の社会生活において、15世紀ころまではまだ女性の地位の低下がそれほど顕著でなかったことを反映しているのでしょう。そこでは、母親の救済が別のかたちで説かれました。『安楽国太子経』がそれを物語っています。ここにおいて朝鮮では明らかに違いが生じていました。
 第三に、中国では宋代以降、僧侶や道士などにより『血盆経』が説かれ、目連尊者による女性救済の儀礼がおこなわれました。これは日本の仏教および修験道の担い手のあいだにそのままはいってきました。それは男性宗教者の持ち込んだものです。そして、日本ではさらに熊野比丘尼というような女性下級宗教者によっても広められました。ところが朝鮮では、ムーダンという名の巫女たちがさかんに儀礼をおこなったにもかかわらず、『血盆経』は受容されませんでした。この理由は次のように考えられます。すなわち朝鮮本土では巫女が観音の化身ともいえるパリ公主(巫祖神)の主導下に死霊を救済することが徹底していたため、ことさら目連尊者による救済を説く必要がなかったということです。なお、済州島は十王思想の影響を受けてまた特別な死霊祭儀「十王迎え」(図版8)が展開したので、パリ公主の伝承はありません。

6.2. 課題
 
 最後に、今後の課題をいくつかあげておきたいとおもいます。
 第一に東アジアには観音信仰文化複合とでもいうべき領域があることです。観音信仰は在来の女神信仰と習合しているものが多いのが特徴です(図版9)(図版10)。この領域はたいへん広く、同時に基層社会に深く根付いています。それゆえ、目連伝承もそのなかに取りこまれることになります。観音信仰はチベット、モンゴルはいうまでもなく、ベトナムにも大きな影響を及ぼしています。それゆえ、今後、周辺地域を含めて、観音信仰の文化複合と女性救済の祭儀をより詳細に追究する必要があります。ちなみに、朝鮮半島の女神信仰の歴史の上で、観音女神を考えることも重要な課題のひとつでしょう。
 第二に目連戯と各地域の平安祈願の祭儀との関係をより広く究明する必要があります。中国の目連戯は各地において特別な願掛けと関連づけられていました。江西省では目連戯を5年、10年、30年あるいは60年に一度おこないました。また祭儀をする時期も、中元節だけではなく、多様でした。これらの祭儀の背後には誰にもまつられない死霊を放置しつづけると、地域に災いが生じるという観念があります。この観念は東アジアの各地において信じられ、そのためにさまざまな祭儀が催されました。朝鮮ではこうした観念に基づいて別神クッがおこなわれました。それは主として城隍祭との関連で盛大におこなわれました。城隍は中国では今日にいたるまでたいへん影響力の強い神です。それは死者の霊魂の帰趨を管掌します。この神が高麗時代以来、朝鮮でもまつられて各地で臨時の盛大な祭儀を生みだしたのです(図版11)。
 中国の目連戯は民俗行事となって久しいものです。それゆえ、朝鮮や日本ではそれに対応する祭儀、行事がどのようなかたちでなされているのかを考察する必要があります。
 第三に目連戯を東アジアの女性生活史の一コマとして検討することが残されています。たとえば、写真12(図版12)にみられるものは劉氏の侍女銀奴の首吊りです。銀奴は劉氏が肉食するのを諫めたところ、逆にひどく詰られて首を吊りました。これは劉氏の悪行を印象づけるための単なる脚色とみられないこともありません。しかし、かつて魯迅によると、紹興の人びとは目連戯のなかで首吊りする女性を神とみていました。わたしのみた福建省莆田の銀奴は神とはよばれていません。しかし、その舞台上での首吊りは、代受苦そのものです。そして銀奴の顔は観音女神そのものでした。おそらく人びとは、銀奴のなかに聖なる女人をみていたでしょう。銀奴の首吊りは一例です。それは明らかに中国女性の伝承した「死の文化」のひとつなのです。
 要するに、こうした観点から女性の生活感情をみなおすことが課題として残されているといえます。
 目連戯にはわれわれが基層文化を考える際に手がかりとなるものが、非常にたくさんあるということを付け加えておきたいとおもいます。
                                          (2006.8.25)
        

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