福建の蛇性の伝承
                                                   野村伸一

 閩は蛇種**

  **以下の文章は、野村伸一「東シナ海、蛇性の伝承」『藝文研究』77、慶應義塾大学文学部、1999年の第一章、234-237頁に補遺を加えたものです。なお、野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、229頁も参照のこと。


 中国福建省一帯の古名は閩、そして閩人は後漢の時代の『説文解字』によれば、「蛇種」とされていた3)。
 この東シナ海に接した地域の蛇神信仰は古来名高く、その民俗は近現代にまで維持されてきていた。徐暁望『福建民間信仰源流』は、これを簡潔かつ的確に叙述していて興味深いものであるが、ここでは、そのうちのいくつかを摘記しておきたい。

 農婦の簪  まず、民間の習俗として農村の婦人たちは「蛇簪」をかざした。『閩雑記』に説う。

 福州の農婦、多く銀の簪を帯つ。長さは五寸許り。蛇の首を昂げる状を作し髻の中間に挿す。俗に蛇簪と名づく。…簪は蛇の形に作る。乃ち其の始めの義を忘れず。

要するに髪をぐるぐる巻いて起こすのを好む、黒い蛇がとぐろを巻いているようにするというのである4)。

 漳州の人びとと蛇  蛇は人びとの生活と親しい関係にあってけっして忌むべきものではなかった。漳州の人びとは蠎蛇あるいは黒い無毒の蛇を捕らえない。『閩雑記』によれば、

 大田県は蛇多し。夏の夜常に人の床に上り共に睡る。灯無き夜、起き、毎に誤りてこれに触れる。然れども人を噬まず。

という。あるいはまたこれらがイエに出入りするのを妨げないで保護する。しかも、その人には福気が授かると人びとはいう5)。 

 樟湖坂の蛇王  蛇は蛇王として廟にまつられることもある。蛇崇拝においてもっとも熱心なのは水上民で、樟湖坂の蛇のまつりはよく知られている。これを信じる人びとは閩江の難所をたくみに乗り切る船頭たちである。かれらは、のちになると、人格神をまつるが、はじめは竜や蛇をまつったものとおもわれる。特に、7月7日のまつりにおいては、数十年前まで、人びとは活きた蛇を持ってカミのあとについて練り歩いた6)。かれらは、正月の元宵節にも蛇灯をあそばした。すなわち行進があり川辺で蛇灯を舞わした7)。   

 『捜神記』の蛇  さて、閩の地における蛇神信仰は必ずしも、「崇拝」のかたちでだけ維持されてきたのではない。一方では、蛇精を忌むべきものとして抑圧しようとすることも歴史的には絶えずおこなわれてきたとみるべきである。その典型的な事例は4世紀前後の事情を反映している『捜神記』にすでにみられる。
 それによると、人をもって大蛇をまつる習俗があったこと、ところが、供犠の身の上となった寄というむすめが剣を用意してこの大蛇を退治したことが語られている8)。蛇神は充分に敬われ祭祀されていたが、これを不合理、迷信とみる「合理主義」の伝統もすでに一千年以上にわたって存在してきた。にもかかわらず、閩の人びとは蛇性を忌避しなかった。そのことは次の伝承に明らかである。
 
 明代の『閩都別記』の伝承  明代の民間伝承を多数含む『閩都別記』には、蛇を母とする二人の息子の物語がある。

 永福の方広岩に一蛇精有って葉青選を夫とし、二子を生んだ。長子、名は施郎。年二十二歳にして尚かつ妻無し。隣家、陳仲信に二女有り。媒人の李七、葉家の為に作媒す。李七、高い聘金を許(やくそく)するのみならず、蛇の、人を咬みに来らんことをもって陳家を威嚇す。されば、陳仲信は二(ふたり)の女(むすめ)の意見を征求む。姐、先に答えて曰く、「人は都てかれの蛇精たることを暁得(し)る。誰か肯えてこれに嫁がん」と。仲信、李七の教(さと)す言をもってむすめに説く。掌珠(いしきむすめ)の答えて曰く「爺爺(ちち)はなんとして奴家(わたし)を蛇の子に与えんと想えり。蛇は最も毒たり、若しも意の如くならぬとなら、蛇の母の肚内に呑み入れられん、寧ろ爺爺、蛇の咬を乞うべし。女(われ)、なんぞ蛇に嫁すことを肯ぜんや。」

 この結果、妹がこの婚事に応じたという9)。

 ひとつの白蛇伝  さて、今ひとつは、より興味深い話である。

 葉青選は白蛇の精繆隠仙の助けを得て方広岩下に薬店を開く。蛇、百薬を認識(し)るに因り生意(あきない)は特に好し。人面蛇はかれらの第二子。落盆(うまれおち)るや乃ち人頭蛇身。母の隠仙、これを棄てんとするも、青選のいわく、「頭は父に似て身は母に似る。真(まこと)に乃ち汝と我の血脉(けつみゃく)、なんぞこれを棄てるに理有らん」と。姑(しばら)く留めて乳を哺(の)ます。これを名づけて虁郎という。葉虁郎、長大(ひととな)って后、母親の法術を継承し四処に行善(ぎょうぜん)す。かれはかつて妖精の羊頭靂を殺死し、讖語をもって張献忠の入閩の計画を嚇退(おどししりぞけ)た。かれはまた薬を採みとり人を救い、医者により行業(こうぎょう)の神と奉られた10)。

 まことに不思議な世界で、ここでは母の蛇性は人面蛇の息子に伝わり、広く人びとを救った。とはいえ、長男の嫁取りにおいて隣家のむすめは蛇性を厭悪し、また母は生まれてまもない人面蛇の子を棄てようとした。これは、明代には一般に、蛇性を疎んずる気風も相当に広くあったということをものがたっている。
 儒仏道―蛇性の制御  こうした見方をもたらしたのは儒者や仏者、それと同時に道教の担い手たちでもあっただろう。たとえば閩の地の偉大なる女神のひとつ臨水夫人11)は、紀元一千年ごろに実在した陳靖姑という名の民間の巫女であった。ところが、これが広く信奉されていくにつれ、蛇を操る道教の担い手として位置づけられていった12)。いわばこの民間の女神は出世したのだが、その過程で在来の蛇精が平定されていくことはみのがせない。すなわち臨水夫人は閩の地にいた数多くの女神や蛇神を従えてその頂点に位置づけられていったのである。特に白蛇の精との壮絶な戦いはさまざまに脚色され、陳靖姑の死の直接の原因もこの蛇神によるとされた。しかし、のちに白蛇の精は制御された。それは形式を整えた道教の法術の勝利を意味し、それがまた民間伝承でかたられる蛇性封じ込めの淵源となったと考える。


紅頭法師の用いる法縄。台南臨水夫人廟


 
3
)閩、「東南越、蛇種なり」(白川静『字統』、平凡社、1984年、734頁参照)。
4)徐暁望『福建民間信仰源流』、福建教育出版社、1993年、29頁。
5)前引、徐暁望『福建民間信仰源流』、39頁。
6)これは今日復活されている。ただし、本物の蛇ではなく竹製の大きな蛇王(蠎蛇の精)を持って練り歩く(陳松民・楊慕震「福建南平市樟湖鎮崇蛇文化内函探微」『民俗曲藝』第102期、1996年、50頁参照)。
7)前引、徐暁望『福建民間信仰源流』、41頁。
8)干宝著、竹田晃訳『捜神記』東洋文庫10、平凡社、1964年、365-367頁。
9)前引、徐暁望『福建民間信仰源流』、38頁。
10)前引、徐暁望『福建民間信仰源流』、46頁。
11)臨水夫人は、今日なお難産を救うカミ、また子供の肥立ちの面倒をみるカミとして信仰されている。これについては次節でも触れた。なお、閩の地に由来するもうひとつの偉大なる女神は媽祖であり、こちらは宋代以降、全中国的な信仰を集めた。
12)前引、徐暁望『福建民間信仰源流』、333頁。

 戻る