加持祈祷

崇拝対象に向ってその印契を結び、その真言をとなえて崇拝対象の境地に入った上で、願事の達成を祈る儀礼。一般には加持祈祷と続けて用いられるが、専門的にいえば加持と祈祷は多少概念が異なる。すなわち加持は護念・加護と相応し、かかわり合うことを意味する仏教の言葉であるが、祈祷は自己を崇拝対象にゆだねる宗教行為をさす諸宗教にみられる概念であるという。加持祈祷(とくに加持)はもともと密教の修法をさす言葉であったが、密教と密接な関係を持つ修験道でも広く行なわれた。修験道の祈祷は、基本的には修法者が印契や真言によって崇拝対象と同化した上で守護や除魔をはかるというものである。読経・供養法・護摩などが行なわれるが、願事に応じた独特の祈祷がなされることも多い。治病には薬師、敬愛には愛染の法などがある。修験道の加持には、武具加持・刀加持・弓箭加持など武家の戦勝の祈願にこたえるためのもの、邪気加持・疾病加持などの病者の祈願にこたえるためのもの、月水加持・妊者帯加持・産兒湯加持など女性や安産の祈願にこたえるためのものなどがある。修験者が人々の様々な要求に答えていたことがこれから知られるが、大別して帯加持・武具加持など加持の対象物に超自然力を付与する加持と、土砂加持・病者加持など除魔を目的とするニ種類の加持があると考えられている。このように修験道の加持祈祷は、超自然の世界とこの世の現象が密接に相応し、かかわりあっているという前提の上に、宗教者がそれに超自然的な力を付与したり、それによって除魔をはかることができるという世界観にのっとった儀礼であるということができる。
(福島)宮家 準編,昭和61年『修験道辞典』東京堂出版。




九字

臨・兵・闘・者・皆・陳・列・在・前の九つの文字から成る呪文。葛浜の『抱朴子』(篇四)に出る「臨兵闘者皆陳列前行」に由来する。道士が山に入るときの魔よけの呪文とされたが、密教や修験道にとり入れられて、煩悩魔障一切の禍を除く護身呪とみなされた。九字の印は九字の呪を誦し、大金剛輪印・外獅子印・内獅子印・外縛印・内縛印・智拳印・日輪印・宝瓶印の九印を結んで禍を避け、福を招こうとするもの。修験道では九印に毘沙門天・十一面観音・如意輪観音・不動明王・愛染明王・正観音・阿弥陀如来・弥勒菩薩・文殊菩薩などを本地仏とすることもある。九字護身法は、九字を唱えながら刀印で虚空を縦横に切ることで一切の災難を除き、その身を護る作法という。東海地方の神楽・田楽などの鎮めの作法では、五万に反閇を踏み、九字を切り、五印を結び、太刀で五方を切り払う。九字を切り五印を結ぶのは、呪師の護身法と結界作法が山伏を経て祢宜に流れたものと考えられる。また愛知県奥三河の花祭りでは「臨兵闘者皆陳列在前」と九足に反問を踏む。宮城県牡鹿十筒院の法式は、法印神楽が始まる前に般若心経を読誦し、懺悔文を唱え仏法僧へ三度の礼拝をし、臨(独古)・兵(大金剛輪)・闘(外獅子)・者(内獅子)・皆(外印)・陳(内印)・烈(智拳)・在(日輪)・前(宝瓶)の九字を結び、それぞれ何々僧婆訶の文を唱えて祈祷をしたという。
(神田 より子)宮家 準編,昭和61年『修験道辞典』東京堂出版。




権現舞

青森・秋田・岩手・山形に広く分布している山伏神楽・番楽・能舞などで演じられるニ人立ちの獅子舞。これらの地域では獅子頭を権現さまとあがめ、霜月から正月にかけて山伏・法印などが霞の村々を訪れ、戸ごとに権現をまわし、悪魔ばらいや火伏せの祈祷をした。権現とは仏菩薩が衆生を救うために日本の神に姿をかえてこの世に現われる、という本地垂迹の思想から出たもので、権現頭は熊野さま、早池峰さま、黒森さまなどと神体として扱われている。この権現頭をかついで春先に祈祷をして家々を歩くのを、春祈祷またはまわり神楽などという。権現舞は笛・太鼓・鉦の囃子にあわせて、舞手はまず扇を手にもって下舞を舞い、次に獅子頭を手にとって舞い、獅子頭を高くかかげて歯を打ちあわせて歯打ちを行なう。次いで家人が獅子を拝して神酒や米を献じる。獅子はロに檜杓をくわえて竃や炉に水をかけて火伏せをする。下北では新築の家の家固めの折に、獅子が火の上を飛んで火を消す。獅子に噛んでもらうと病気除けになるという。また獅子頭と獅子のかぶる幕の間をくぐることを胎内くぐりといい、擬死再生をあらわす生まれ清まりの儀礼とされている。権現舞には死者供養の要素もある。ハ戸の鮫では墓獅子といって盆に墓地で、また宮古市黒森でも墓前で念仏系の神楽歌によって権現舞が行なわれている。権現舞の訪れる町や村の宿では、夜になると能舞として数曲の神楽が演じられる。
(神田 より子) 宮家準編,昭和61年『修験道辞典』東京堂出版。




山伏神楽

岩手県稗貫郡大迫町内川目岳と、大償に伝わる神楽。七月三十一日の早池峰神社祭礼宵宮と八月一日例大祭に行われるほか、正月の舞初め、新築祝いなどに演じられる。かつては通り神楽、まわり神楽、門打ちなどに称して、農閑期に権現頭をまわして近郷の家々で祈祷を行い、夜ごとに農家の一間に幕をはって舞台とし神楽を演じた。岳にはかつて山伏修験の道場妙泉寺があり、今も早池峰権現をまつる早池峰神社がある。大償は早池峰神社の遙拝所である田中神社の別当山陰家から神楽を伝授されたという。古来岳と大償の神楽は兄弟関係にあり阿吽の形をとるという。神楽の演目には儀式的な式舞として、鳥舞・翁・三番叟・八幡・山神・岩戸の表六番と、四人鳥舞・松迎・裏三番・裏八幡・小山神・稲田姫の裏六番がある。記紀神話に取材した天降・天王・五穀・悪神退治などの神舞、修験者の呪法を取り込んだ龍王、笹割などの荒舞、源平や曾我など、武士の修羅を織りこんだ屋島・鞍馬・鈴木などの番楽舞、女の執念と除魔を舞いこんだ鐘巻・機織などの女舞があり、このほかに田植・雷神などの狂言もある。神楽の最後に早池峰権現である権現(獅子)頭が出て歯打ち・散米・火伏せの祈祷をする。所望があれば衣装を喰んだり、頭をかじって健康祈願としたり、権現頭の下をくぐりぬけて胎内くぐりをする。早池峰神社には文禄四年(1595)銘の権現頭があり、中世末にはすでに神楽が演じられていたとみられる。
(神田より子,宮家準編,昭和61年『修験道辞典』東京堂出版。)




修験者

修験道の教えを信じ実践する宗教者をいう。その語義は、山岳などで修行することによって超自然的な験力を獲得した者という意味である。この語の濫觴は、平安時代初期に密教の験者の加持祈祷の修法の効験の根拠を「修験」に秀でているか否かにもとづいて判断したことによっている。その後、鎌倉時代以降になって修験教団が確立すると、修験道の宗教者の通称として広く用いられた。なお、教義の上では修験の修は始覚、験は本覚とし、始本双修の宗教者を修験者というと説明されている。
(宮家 準)宮家 準編,昭和61年『修験道辞典』東京堂出版。




大同元年(八〇六)

東北地方では、開山開元伝承として幅広く用いられている年号。多くは、坂上田村麻呂伝承と結びつけて語られる場合が多い。また、大同二年は慈覚大師伝承と結びつけて語られる。




弟子神楽

これを「弟子」神楽という。「弟子」は「師匠」である「座」から許面。あるいは承認を得ていると言われている。岩手県和賀郡東和町に所在する石鳩岡神楽は、岳神楽の「弟子」のひとつである。親神楽である岳流にとって石鳩岡の地域は霞、賽銭場、いわば生活の資を得る対象地であった。




禰宜

神職の名称の一つ。おおむね神主の次位におかれたこ。ときに神職の総称としても用いる。語源としては神の心を安めその加護を願う「ねぐ」に由来する(『日本書紀』摂政前紀、神功皇后が琴を弾かせて神意を問う条に「請(ねぎ)して日さく」とある)。『令集解』喪葬令所引の古記遊部の項に刀を負い戈を取って●所に供奉する「禰義」の語がみえるが、神職の名称に固定される以前の姿を伝えるものであろう。神職としての禰宜の初見は『続日本紀』天平二年(七三〇)七月条の「大神宮禰宜二人」、伝承としては『皇太神宮儀式帳』に垂仁朝にはじめて定められたとあるが、学説上、伊勢神宮の禰宜は天武朝に始まるとみられている。伊勢神宮以外の禰宜の成立も古く、『続日本紀』には、天平勝宝元年(七四九)十一月条に「八幡大神禰宜」、同八歳二月条に「河内国諸社祝禰宜等」、天平宝字二年(七五八)八月朔日条の詔に「太神宮乎始氏諸社禰宜祝爾」などとある。伊勢神宮の禰宜は、『延喜式』には内外宮各一人と定められ、のち逐次増員されて嘉元二年(一三〇四)十月には各十員となり(『二所大神宮例文』)、それぞれ一禰宜・二禰宜などと称した。また第一の者を長官(ちょうがん)とも称した。禰宜が定められた天武朝においては大神主が停められ、中世以降は長官かー切の祭肥を管掌することとなり、もってその地位の重要性が窺われる。したがって、正員の禰宜は荒木田・度会(わたらい)両姓(古くは根木を加う)の者をもってこれに任じ、藤波・沢田など荒木田姓の者は内宮の禰宜に、檜垣・松木など度会姓の者は外宮の禰宜とした。両姓の者がまず権禰宜(ごんのねぎ)に任ぜられるとき、これを権官と称し、他姓のものを権任と称して区別するなど家系を重んじ、両姓の直系を神宮家または重代家と称した。権禰宜は、正員のほかに任ぜられた神職て、『延喜式』 以後、永祚元年(九八九)以前の設置とみられている。のちに、権禰宜・官符権禰宜・擬符権禰宜の別が生じた。『朝野群載』 には、四位の権禰宜が内宮に二人、五位が内宮に三十二、外宮に二十八、六位の官符権禰宜が各三人とある。官符権禰宜が三人であることはのちの例と同じであるが、のちの例では六位の者を擬符権禰宜と称している。両姓の直系以外の六位の者はまた地下(じげ)権禰宜とも称する。禰宜は、伊勢神宮以外にも、賀茂下上・松尾など諸社におかれ、古く日吉・平野社などは第一の神職を禰宜とし、香取・鹿島社には大禰宜(おおねぎ)がおかれた。明治維新以後、神宮(伊勢神宮)および官・国幣社に禰宜職をおいた。第二次世界大戦後は神社本庁管下の神社などすべてにおくことができることとなった。
(国史大辞典編集委員会,H9『国史大辞典11巻』吉川弘文館。)




別当

(一)本官をもつ者が別に他の機関の長の職にあたることと一般に解釈されているが、実際には広く長官の称として用いられている。上皇・女院に奉事する院司の上首。嵯峨天皇が譲位して冷然院に遷御した際、内蔵頭南淵永河を同院別当とし、ついで安倍安仁を別当に補して、事大小となく安仁に委ね決したというのがその初見てある。『西宮記』には、公卿ならびに在位時の蔵人頭をこれに補するとみえる。 その員数は初期の一、二人から次第に増加して、院政時代には二十数人にも達し、公卿別当・四位別当の別も生じたが、その後は次第に減じて、江戸時代には十人以下の例が多い。また院政時代以降、別当の中に執事や執権・年預が置かれて院務執行の中核となり、その執事は大別当ともよばれ、鎌倉時代末期以降は大臣が補される例となった。さらに別納所・仕所・御服所・御厩など、各種の職務を分掌する院司にも別当が置かれ、特に御幸の供奉・警衛にあたる御厩別当には、平安時代後期以降、公卿が任ぜられる例が多くなり、鎌倉時代に入って幕府と親密な西園寺一門の公卿が補されてからは、これが常例となった。平安時代中期に始まった女院の院司にも別当が置かれ、后位より転じた女院の場合は、元宮司の亮や大進を補することとした。なお、別当は摂関・大臣家などの家政機関にも置かれたが、親王家には、政所の別当のほか、勅宣をもって納言を補任する勅別当が置かれた。また朝廷においても、一上の大臣が補される蔵人所別当や、衛門督または兵衛督の補任される検非違便別当などの重職をはじめ、各種の機関に別当が任ぜられたが、とりわけ内廷の「所」「殿」に置かれたものが多い。

(二)大寺・定額寺などの諸寺の代表権者の職名。三綱などの実務機関を指揮下に置いて仏法興隆・伽藍修治の任務を主宰した。『延喜式』 によれば、同職の任期は原則として四年、欠員が生じた時には、その寺の五師・大衆もしくは檀越・氏人らが能治廉節の僧を簡定し、僧綱あるいは講読師の審査を経て太政官が任命する規定であった。東大寺の場合、当該職名の明確な初見は延暦二十三年(八〇四)、以後貞観十三年(八七一)までに造東大寺所・三網を指揮下におさめ同寺の統轄者としての立場を確立した。なお、十世紀末期以降、同寺別当に寺外散住の真言宗不系門跡が任じられるという事態が頻出し、次第に別当・寺僧間の乖離が顕著になってゆく。
(国史大辞典編集委員会,H9,『国史大辞典12巻』吉川弘文館。)




修験道では、修験者が修行をした後でもらう最初の修験名に付く。最も低い官位にあたる。