トップ早池峰神楽

2. 岳と大償の神楽


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かつては早池峰山の四つの登山口のそれぞれにあったといわれる山伏神楽は、現在はその多くが退転し、南口の岳集落の岳神楽と田中神社のある大償集落の大償神楽やこの両者の系統のものが知られている。この二つをはじめとする、それにつらなる、早池峰の山伏神楽は、八月一日の岳の早池峰神社の大祭の時に神楽殿で演じられている。

早池峰山 岳集落
早池峰山

岳集落

大償集落 早池峰神社の大祭時の神楽殿
大償集落

早池峰神社の大祭時の神楽殿


この折は大祭前夜の宵宮と当日の二回にわたって、岳、大償、さらにこれらの弟子神楽が、たがいに技をきそうのである。現在私たちがもっともまとまった形で目にすることのできる山伏神楽はこの夏の大祭の折である。しかしながら山伏神楽の季節は本来は冬であった。岳や大償の神楽衆は山に雪が降る霜月頃、三十〜五十日間位をかけて岩手県内の稗貫、上閉伊、和賀、江刺などの各郡の家々を権現様と称する獅子頭をたずさえてまわって歩き、夜は宿で神楽を演じたのである。岳ではこれをまわり神楽、大償では通り神楽と呼んでいた。そして昭和の初年頃までは、この岳と大償の両神楽が一年おきに陸中の村々をおとずれていたのである。今ではこうした遠出はしなくなったがそれでも主に二月頃、近郷の家々の新築や屋根替の祓い、厄年の祓い、病気平癒の祈祷、年重ねの祝いに招かれて神楽を演じている。雪深い北上地方の人々に春の訪れを告げるのがこの岳のまわり神楽であり、大償の通り神楽であったのである。

このうち、岳神楽を伝える岳集落は、早池峰山南登山口にある小村である。近世期には、早池峰権現をまつる新山宮と別当の妙泉寺を中心に、これに奉仕する相模坊、因幡坊、大和坊、民部坊、日向坊、和泉坊の六坊の修験と四軒の禰宜、一軒の神子からなっていた。この六坊の修験が山伏神楽を伝えてきたのである。ただその起源は定かでなく、文禄四年(1595)の銘のある権現獅子額が保存されていることから、室町時代末頃には、すでにこの地で神楽がなされていたことが推測されるのみである。

一方大償神楽を伝える大償の集落は岳より麓へ十二キロメートル程下った所にあり、大償神社の別当佐々木家を中心に神楽を守ってきた。佐々木家には長享二年(1488)の奥書のある巻物「日本神楽之巻」があり、これに「田中明神神主より大付内別当江」と記されている。このことから、この頃田中明神の神主山陰家より大償の人々に神楽が伝えられたのではないかとされている。

このように岳や大償の神楽は室町時代には行なわれていたと考えられるのである。この岳、大債の神楽は修験者のみが行なう加持祈祷の舞いとして百姓や町民への伝授はかたく禁じられていた。しかし元禄から弘化にかけての百五十年間に、度重なる凶作で、大饑饉が頻発した。そのため農民は五穀の豊穣と悪疫の退散を願った。一方修験者もこの饑饉を乗りこえるため村人に神楽を伝授し、その謝礼によって生活を支えようとした。岳の神楽がその頃山伏神楽が消滅していた遠野の大出に伝えられて、大出神楽となったのもこの頃のことである。さらに東和町、紫波郡、上閉伊郡、石鳥谷町に現存する山伏神楽には、この頃に岳や大償から伝えられたものが多いのである。

ところで山伏神楽を代表するこの岳と大償の両神楽は両者合わせて阿の舞いになっているといわれている。また岳と大償の権現様はそれぞれ早池峰権現、大償権現と呼ばれ雌雄の関係にあるという。

このように両神楽は一対のものとされているのである。ところがその反面、この両者の間では相互に技を競いあう意識が強く、早池峰神社の祭礼の折には同じ演目を同一舞台で演じて自分たちの舞い振りを誇示する傾向すら見られるのである。 ▼ Next



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