〔花祭の進行〕 

 T 神迎えまで

 1月3日の朝、清浄な滝の水を汲んできて釜に入れる一方、公民館の神座では注連縄を張る「注連引き」があり、祭具作りの準備が進む。
 鎮めの面を迎える  午後5時少し前、あらかじめ決められた者たちが鎮め*8(「火の王」「水の王」)の面のはいった箱、太鼓、鬼の面のはいった箱を担ってくる。これらはそれぞれ清水神社、神明神社、林花太夫の家に保管されていた。これを榊原、林の両花太夫が公民館の前、注連縄を張ったところで待ち受けて、まず「門じめ」をする。つづいて公民館の「会所」の脇の戸の前で「神迎え」「天狗打ち」「門固め」をする。このとき、公民館側ではみょうどが鬼の面を掲げて迎える。下位の鬼神がまつりの中心となる神を出迎えるかたちである。また、このときの天狗打ちは、天狗をして祭場の門衛役を担わせることだという*9。
 このあと、神部屋で大人と子供がともに面の手入れをし、終わると、神棚に面を並べる。


*8山内の林花太夫によると、「火の王」「水の王」ともいうが、ここではより一般に「鎮め(さま)」(水の王は「竜王さま」)という。また、「みるめ」というのは「しめなわ」のことでこれは天からくだってきたものだという理解である。早川孝太郎以来、花祭関係のものでは「みるめ」「きるめ」がまつりの中心というかたちで無条件に受け入れられているが、土地ごとの細かい吟味が必要であろう。前引、『早川孝太郎全集』第一巻、103頁、108頁参照のこと。
*9唱えごとをみると、各種の天狗を五方へ打ち返しておいてのちに「門番と立あらはれてたのむ」といっている(前引『本田安次著作集』第六巻、397-398頁)。

 U 祭場語りと神へのよびかけ

 夕刻5時半ごろ、花太夫やみょうどが神座にすわって公民館のなかでのまつりがはじまる。
 しめおろし  しめおろしは神座でおこなう。林花太夫によると、しめに性を入れるためにやるという。太鼓に合わせてみょうど数名が立って東西南北と向きを変えつつ唱えごとをしていく。このとき鈴を振り、また途中で餅蒔きもある。なお、しめおろしはのちに鎮めの儀をやるときに、もう一度おこなう。現在、注連縄はあらかじめ張っておくが、本来は注連縄を張りつつやるものであろう。
 撥の舞、とうのはやし  次に、ゆるやかな、よく通る笛の音に合わせて花太夫が釜の前で撥の舞をする。これを「楽の舞」とよぶ地域もある。音色の妙、つまり楽器への祝福であろう*10。これが終わると、みょうどらが太鼓の周りに坐して、とうのはやし*11が唱えられる。これは「うたぐら」だけで舞はない。
 こぎひろい以下の儀式舞  こぎひろいはみょうど一人による舞である。竈をつくるまでの過程を叙すものだという(林氏)。釜褒めであろう。次の式さんばもみょうど一人の簡単な舞である。神おろしの歌と舞であろう。つづいて順の舞がある。これは四人の者が鈴と扇を携えて五方を浄める儀式舞である。
以上で、神霊へのよびかけが終わる。


*10 舞を終え太鼓を打つときに「右ばち一ツ 天のみはしら」「左ばち一ツ 国のみはしら」と口中で唱える(前引『本田安次著作集』第六巻、398頁)。なお済州島のクッでも楽器を称えることが祭式のなかにある。
*11 とうのはやしの意味は、山内の花太夫もよくわからないという。早川孝太郎の聞書においても明確ではない。神楽の次第書などにもみえていて、三沢の天正9年本では「堂のはやし」とある。また、早川の掲げた歌詞には、翁に問いかけ、翁が長者の家を示唆しつつ「千歳千代とも栄えたり」「千歳長者の椽のはたに幡立てゝ」などと、まつりごとをしているようすを述べている(山本ひろ子『変成譜』、春秋社、1993年、385頁、前引、『早川孝太郎全集』第一巻、447頁)。これらを踏まえると、花祭をする場所(花宿)の褒めことばかもしれない


 V 人と神霊の舞

ここから夜通し人と神霊が舞い踊る。上記の順の舞までは釜の前に敷物を敷き、その上で舞う。しかし、以下にあげる地固以降は敷物を使わない*12。以下、それぞれの舞の概略を述べていく。

 ○地固
 舞の基本  地固は舞の基本。二人で舞う。早川によれば、舞の魁であり、「一般の三番叟に当たる」*13。右手には鈴。左手には扇、やちごま(木刀)、剣と持ち物を三度まで変える。すべて舞うと、1時間20分ほどかかる。早川は、地固、花の舞、三つ舞、四つ舞、湯ばやしの舞を青少年の舞とした。また、かつては不文律として、それぞれの舞の年齢が決められていた。すなわち花の舞の「盆の手」が7、8歳で最小、四つ舞の「剣の手」が25、6歳で最年長となる。ただし、これは目安であり、30歳前後の者が舞うこともあった*14。
 地固では地霊を鎮め、悪鬼を退散させる跳舞が釜の周囲でくり返される。この地固の舞については井上隆弘が詳細に分析している*15。

 ○いちの舞
 定型のない舞  この舞は定型がない。早川によると、釜に向かって礼拝し、片足立ちになり、五方を踏んでまわる。このあと、反り返り、黙祷のかたちになり、やがて激しい太鼓の音色にかきたてられるかのように跳躍し笹を振り回す。のちには見物を叩き払って廻る*16。山内でも類似の光景がみられる。
 もとは巫女舞か  早川によると、これはいちみこ(巫女)の舞というべきもののようである。古い神楽次第書などにもすでにあった。これが巫女舞とすると、本来は請神の舞だったのであろう。神楽のばあい(また花祭でも)、ほとんど第一番目あるいはそれに近く舞われているのも興味深い。これは男たちによる舞以前の、いいかえると、より前代の巫女舞の名残かもしれない。

 ○山見鬼
 山見物と山割り  夜8時ごろ、舞処には小鬼が三匹登場して舞う。子供の舞いである。次にいくらか大きい鬼が出て舞う。これらは伴鬼である。伴鬼のあと、山見鬼が花道に現れ、上がり框で止まって舞処をみおろす。舞処では釜の前にきて、まず神座のほうに向く。このとき山見鬼は右手を横に伸ばして鉞を立て、左手は腰にあてがう。そうして鉞を持ち替えつつ釜の前で五方見をする。やがて辺りをみやりつつ、松明持ちの案内に従って釜の周りをゆっくりと巡る。これが山見物である*17。そしてのち、まず釜に向かい、次に五方で山(釜)を割る仕種をみせる。
 なお、場所によっては山割りの前に、あらため役と山見鬼が問答をする。これは榊鬼も同じだが、山内ではこの問答はない。
 ちなみに、鬼神の山割りは中国の儺戯における「開山」にもみられる。それは人間のために山地を切り開くことであろうう。こうした開拓の魁のような鬼神が中国の祭祀の場に現れることを中世の花太夫は聞きき知っていたのかもしれない。

 ○花の舞
 花笠をかぶった四人の少年が地固と同じ振りで跳舞する。扇、盆(紙で作った折敷)、湯桶と採り物を変えて三回くり返す。 新しい生命の象徴である「花の舞」は少年が舞うのにふさわしい。これは三沢の「御神楽日記」(1581年)にもみえている。神楽の成立時においてすでに重要な舞であったことが知られる。

 ○湯立て
 神々のための湯  ここで「カミ拾い」「湯立て」がある。林花太夫によると、、神々は梵天からまず衣笠(白蓋)へ移動し、さらに湯蓋へ往き来してあそぶのだという。この間を通るのが神道である。つまり、この段で神々は湯を献上される。このときぼでんに挿してあった幣のうち五台山(火伏せのカミ)の幣が太鼓のところにおろされる。舞処では花太夫とみょうどたちが全国の神名を唱えあげる。同時に笹の葉で釜の湯をかき混ぜ神にあげる。
 来臨した神々に沐浴の水を献じてもてなすことは今日、中国や台湾の道教儀礼では一般的である。朝鮮半島の仏教儀礼でも灌浴がみられる(後述、まとめ参照)。彼我、同じ発想に基づくものだろう。
 梵天の幣の持ち帰り  なお、人びとはぼでんに挿した幣を取ることで、神々の直接の加護を得ようとする。すなわち早川によれば「湯立ての行事が終ると同時に、見物が先を争ってこれを奪い取る」*18という。山内のばあい、かつて花宿でやった時代には湯立てが終わり、次の舞おろしがはじまると、人びとが争って幣を持っていったという。つまり、舞おろしのなかで神の下降が確認されるから、ぼでんの幣は今や持ち帰ってもよいということなのだろう。今日なお、幣を持ち帰る人がみられる。
 
 ○舞おろし
 湯立てのあと、山内ならではのものだが、四人の青年による激しい舞「舞おろし」がある。形式的には四つ舞に近いが、より激しい。せいと衆の「それ舞え、そーれ舞え」「そーれっと」という独特のかけ声が舞処、一杯に響く。はじめは四人の舞だが、次第に雰囲気が高調し、のちには平服の青年たちも交じり、乱舞に近くなる。この舞は神々との交歓の舞であり、四つ舞をより押し広げたものとして注目される。

 ○花育て
舞おろしで神々との出会い、その加護を体験したあとで、みょうどばかりか見物の人びとも含めて花育てがおこなわれる。大中小、三種の花の御串を持って地を突きつつ釜の周りを左回りに巡る。このとき花太夫らによって「花育て」の祭文が唱えられる。大花を持った者は首に紙で作った「懸け帯」を懸ける。これには護身の注連の意味があった*19。このとき用いる「花」は各自が望んで持ち帰り、神仏に奉納したり、畑に立てて虫除けにすることもある。なお花育ては山内以外ではすべて一連の行事の終わりにおこなっている*20。
花育ての意味については後述する。

 ○三つ舞
 ここでの三つ舞は扇の手だけである。扇の手は地固と同じように演じられる。やちごまと剣の手はのちにおこなわれた。このように分けたのは時間の関係である。すなわち扇の手は中学生が担う。しかし、時間はすでに午前1時を過ぎていたので、できるだけ早めにすませようとしたのである。年によってはこの扇の手を湯立ての前にやったりもする。

 ○火の禰宜
 道化  はじめに道化が三人登場する。両手に笹を持ち、跳ぶようにして釜の周りを巡る。下顎の欠けたもの、口がよじれ頬の膨れたものなどが勝手に跳びまわる。こうした面相の者は朝鮮半島の『河回仮面戯』にもみられる。元来は雑鬼雑神(精霊)の演戯だったとみられる。
 禰宜、伴の舞  次いで、幣と鈴を持った白い面の禰宜が登場する。釜の前までくると、五方をみる。そしてあらため役の者によびとめられて問答がはじまる。火の禰宜ともいい、伊勢の国度会郡からきた老人である。こっけいな問答で見物を笑わせたあと、五方舞をして退く。このあとでまた伴のモノたちの舞がある。早川は、伴の舞が盛んにおこなわれることについて、人びとの舞への哀惜があるという*21。
 そうしたことも一因だろうが、神祭の場に醜女や身体不自由な者が現れて存分に踊ることは沖縄や朝鮮半島にもみられる。これはもともとは下位の神霊への供養なのだろう*22。

 ○巫女
 爺婆と巫女  火の禰宜のあとに、しばし、爺さん・婆さんが登場して釜の周りを巡る。ただし、特別な演戯はない。爺さんは手にひいな*23を持ち、また婆さんは笹と榊を持つ。それにつづいて巫女が現れる。巫女は瓔珞の冠に緋の袴。花太夫が介添えとして付く。無言でしずしずと釜の周りを巡って退場する。
 翁媼の共寝  ところで現在の山内の演戯では、道化から巫女まで、互いの関係はない。しかし、もとは相互間に演戯があった可能性がある。古真立(こまだて)の事例が参考となる。すなわち、山内と同じいでたちの巫女が退くと、あとに残った爺と婆が釜の前に筵を敷いて横になる。これを見物がみて喝采する*24
 禰宜と巫女の演戯の可能性  山内でも古真立と同様の演戯がおこなわれてもおかしくはない。山内の火の禰宜は問答のなかで、女が好きだといって観客を笑わせる。おそらく火の禰宜はもとは巫女を自分のものとして連れ立っていたのであろう。そして道化が元来は巫女に絡んだりしたのであろう。早川が、下津具、古戸(ふっと)の神楽次第書によって再現したものによると、神楽では禰宜と巫女は手を把るばかりか、その場に筵を敷いて抱擁したという*25
 生子の次第の含意  さらに注目に値するのは「生子(うまれこ)の次第」である。「子うまづげにそろ。子うまづげにそろ」といって「いがあこがあ ざんぶりと生れましてそろ」といった詞章がある。そして、脇の下から子供を抱え出したという*26。これらは朝鮮半島の仮面戯における「老長(ノジャン)と小巫(ソム)、酔発(チゥイバリ、酔漢)」などの関係と対応する。そこでも小巫は交わってすぐ、赤子を産む。その子が、来る年の実り、子孫繁昌を予兆させる「生まれ子」であることには変わりはない。
 この部分はおそらく最も古い民俗世界の演戯を表現しているのだろう。大神楽の仮面の演戯が朝鮮半島のそれとよく似た部分を含んでいたのは間違いない。
 
 ○三つ舞
 ここでの三つ舞はやちごまだけである。剣の手は榊鬼のあとにやった。
やちごまと剣の手の後半には独特の振りがある。拍子は五拍子である。青年層のなかでも身体能力のすぐれた者が、その限りを尽くすかのような趣がある。早川は五拍子の舞(てろれ)の中味を八種類に分けて記述した。詳細は省くが、このときの採り物は右手にやちごま、あるいは剣を持ち、左手は腰に当てるかあるいは肩と水平に伸ばしている。たとえば、剣を肩と水平に押しだし、また切っ先を持ったり、頭上で回転させたりする*27。これらは修験者の体力と験力を誇示する意味合いがあったのだろう。

 ○榊鬼
榊鬼も山見鬼と同じかたちでまず釜の前に立つ。そして五方見をし、釜を一巡りしてから、釜の前であらため役と問答をする。背後から迫ったあらため役が榊鬼の肩に榊を載せ、鬼の素性、年齢を問う。榊鬼は肩に置かれた榊に気づいて榊を伐ったことを咎める。すると、あらため役は、神々の許しを得て舞いあそぶために伐ったという。榊鬼はそれを許す。
 問答が終わると、榊鬼は右手に鉞を持ったまま釜の前の茣蓙の上に立ち、へんべ(反閇)をおこなう。早川によると、その足は青・黄・赤・白・黒・盤古・大王の七字に鶏足型に踏む。そしてこれを五方においてくり返す*28。
へんべのあと、山見鬼と同じように榊鬼も山割り(釜割り)をする。このあと松明を持った者が榊鬼の前に出て先導する。榊鬼は鉞でこの松明を打つ(松明割り)。これを五方でくり返す。

 ○三つ舞
三つ舞の剣の手。

 (翁)
長い翁の語りがかつてはあった。しかし、現在は演じる者がなくて省略されている。

 ○四つ舞
 釜の前の振りは地固と同じとされる。ただし、個々の舞い手の動きは一層複雑である。また釜のくろにおいても前半は地固に近いが、後半はむしろ三つ舞に近い*29。

○湯ばやし(釜あらい*30)
 湯をまき散らす  午前5時半近くから、1時間ほど、人びとの期待する湯ばやしが賑やかにおこなわれる。四人舞で採り物は藁の束子一折りである。湯立ての舞ともいう*31。釜の前の「五方式」の振りはもちろん入り目、てろれなども、四人で舞うこともあり、見た目は四つ舞と似ている。ただ湯ばやしではへんべはない。そして、てろれのあと、四人が釜の湯を舞処から神座などへ勢いよくまき散らす。これにより、興奮は周囲に伝わる。湯ばやしは神々を対象とした湯立てとされる*32。だとすると、「釜あらい」とは、より一層身近な神霊に対する今一つの湯立てなのだろう。

 ○四つ舞
 四人の舞い手は剣を取る。振りは湯ばやしと同じだが、より一層乱舞の感じがする。四人のうち頭役の青年は、最後には草鞋も服も釜のなかに投げ込んで退く。

 ○四つ鬼
元来は四つ鬼だが、予定の舞い手が動けなくなって二人だけで舞った。

 ○獅子
獅子は神座を一巡りして邪を払う。この演戯はごく簡単で数分にして終わった。

 ○鎮め
 神部屋の結界作り  鎮めの儀は神部屋でおこなう。まずみょうどらの唱えごとによるしめおろしで注連縄に性を入れる。そして、部屋の四方に榊の葉を置いて結界を作る(山立て)。これは舞処に山を立てたのと同じことで、ここが単なる部屋でなく儀礼の山となったことを意味する。
 火の王と水の王  次に林、榊原の両花太夫が向き合って着座する。そして「鎮めさま」に向かって拝礼してから、介添えの助けを借り、それぞれ火の王(赤い天狗面)と水の王(白い面)の面形を着け、立ち上がる。火の王は刀、水の王は柄杓を持ち、互いに同じ振りで五方を踏み鎮める。花太夫たちの反閇のあと、みょうどらも加わって五人で刀を取って部屋のなかを巡る。このあと、はじめと同じように、花太夫二人が対面して坐し、面を外す。
 みるめおろし  鎮めの儀は一貫して厳粛な趣のなかでおこなわれる。これについては武井正弘が「これは悪魔払いと地霊鎮め」であるといっている。妥当であろう*33。現行の山内の花祭では、鎮めの儀ののちに注連縄を取り外す。これを「みるめおろし」とよぶ*34。祭場の設えを取り除く段階である。これをみると神部屋に新たにヤマを立てたのは、それがとりわけ重要な祭儀だったからであろう。
 「鎮め」の神の送り儀礼をすることはこれが全体の祭儀を見守っていたことを意味するだろう。山内の鎮めのカミは「火の王」「水の王」という名の両神で、その居所は清水神社である。そこに送り返すには、一度、姿を現す必要がある。こうしたことは、中国の儺戯ではふつうにみられる。すなわち、儺公、儺母といった祭儀の主神は祭場で舞わされてから送られる*35。
 御利益  山内の厳かな「鎮め」の儀の末尾には鬼神の御利益を表現する場面がみられた。面を外した「火の王」「水の王」が結界のソトに出て、みょうどのひとりである男性の腰を踏むのである。その人は、腰痛持ちの運転手であったが、火の王にぜひ踏んでもらいたいといってうずくまった。この種の儀は月では榊鬼が家巡りをしながらやる。
 なお、林花太夫はこうしたことは「むしろお面よりも古くからやっていることで、文書にも記されている」といった。この証言によるならば、鎮めの神は「火の王」「水の王」となるよりも前に、人々に密着したところでまつられていたことになる。要するに、鎮めの神は、一晩の花祭を人びととともに観て帰る際に、姿を現し家の主を祝福して帰っていった。鎮めの神を儺神と捉えるならば、それが厄除けを実践して帰っていくのはごく当然である。

 注
*12 ただし、榊鬼のへんべ(反閇)のときには、鬼の足の下にみょうどが茣蓙を敷く。
*13 前引、『早川孝太郎全集』第一巻、170頁。
*14 前引、『早川孝太郎全集』第一巻、165頁。
*15 井上隆弘「舞の現象学」『神語り研究』第四号、春秋社、1994年参照。
*16前引、『早川孝太郎全集』第一巻、161-163頁。
*17前引、『早川孝太郎全集』第一巻、214頁。
*18前引、『早川孝太郎全集』第一巻、77頁。
*19前引、山本ひろ子『変成譜』、169頁。また山内では、この花育てのとき神鬘をかぶるしきたりだという。わたしのみたときには、これはなかった。神鬘は「うまれこ」「うまれきよまり」のしるしである(前引、『早川孝太郎全集』第二巻、70頁)。
*20前引、『早川孝太郎全集』第一巻、149頁。
*21前引、『早川孝太郎全集』第一巻、231頁参照。
*22野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、151頁。
*23なお、本田安次によると、翁(後述)は「かづらをかむりひなを持ち出る、かたちみなおなじ」とされる。この記述は直前に、 ひなのことが書かれているのと関連している。ひなは「人たる者一人前になんたる時、むこ入よめとりの祝いの時、五色のきものをきたるかたちを云ふなり」とある(前引『本田安次著作集』第六巻、431頁)。このひなを爺さんもまた携えて現れる。それは着飾っているのと同じである。その姿で、婆さんと対面して舞ってみせる演戯がある(古真立、後述)。そこではまた、若い女との交情、つまりは婆さんを含めた三角関係のようなものがあったかもしれない。ここで朝鮮半島の仮面戯の事例が想起される。すなわちそこでも爺さんと婆さんが再会する。そして両者は抱擁をし寐たりする。爺さんには若い女(妾)がいた(『鳳山仮面戯』ミヤル舞)。三沢の花祭においてもそうした演戯がかつてはあったのではなかろうか。次の「生子の次第」も参照のこと。
*24前引、『早川孝太郎全集』第一巻、240頁。
*25前引、『早川孝太郎全集』第二巻、65頁。
*26前引、『早川孝太郎全集』第二巻、66-67頁。
*27前引、『早川孝太郎全集』第一巻、192頁以下。
*28前引、『早川孝太郎全集』第一巻、220頁。
*29前引、『早川孝太郎全集』第一巻、196頁。
*30現地できいたときは、湯ばやしのことを釜あらいといっていたが、より正確には湯ばやしの最後の一舞を釜あらいという。「釜あらい」は明暦2(1656)年の神楽次第書にもみえているが、その内容はよくわからない。湯立ての数番あとにみられる(山本ひろ子「花祭の形態学」『神語り研究』4、春秋社、1994年、129頁)。
*31前引、『早川孝太郎全集』第一巻、199頁。
*32前引、『早川孝太郎全集』第一巻、199頁。
*33前引、武井正弘「花祭の世界」、230頁。
*34山内ではみるめは注連縄と同一視されている。ただし、それは天から降ってきたなどという伝承もあり、やはり神聖な存在だったとみられる。なお、「大神楽」の末尾におこなわれる「ひいなおろし」もまた、注連縄を解くことである(前引、『早川孝太郎全集』第二巻、47頁)。山内の「みるめおろし」はこれを踏襲したものであろう。
*35 これについては、ウェブサイト「貴州省徳江の儺堂戯」(792頁、図版39参照)。
http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/tokkou/tokkou.pdf
*36もっとも現行の花祭は鬼舞があってこその賑わいなのであり、それなくしては花祭の体をなさないのも確かである

 W 神を返す

 ○神返し、外道祓い
 山内では、鎮めの儀のあと朝食を取る。それから、建物のなかの注連縄をはずす(みるめおろし)。これで山という舞台はすっかり解体された。こうして神々はやってきたときと同じように箱に入れられ担がれて帰っていく(神返し)。しかし、山の周辺には招かれざる神霊がまだ蠢いている。そこでみょうどが剣を持って「外道祓い」をする。以上で夜通しつづいた花祭が終わる。

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