4 花育ての含意

 「花育て」の儀は花祭の最も根源的な意味を含んでいるとみられる。一方、花祭の鬼は祭祀の場に寄りくる神霊による儺戯に相当するだろう。それはどちらかというと、あとから構成されたものとみられる。
 花育てについてはおおむね二系統の解釈がおこなわれている。すなわち、ひとつは折口信夫の説、もうひとつはどちらかというと、より観念的な解釈である。
 花は稲穂  ところで花育てについては折口信夫の明解な解釈がある。すなわち、 折口は、「花の話」のなかで、花育てがこの祭祀の中心だといった。そして、花育ての花は今は竹のこしらえ物だが、もとは山からきた山人が携えてきた杖なのだという。それは根源的に生命力があると信じられていた。そして、その杖は稲の象徴でもある。山人は稲の穂がやがてこの杖のように実るだろうということを村人や土地の霊にみせて回った。これが花育ての意味である。ところが、折口によると、のちには修験道の考えがはいってくる。そして、その末裔のミョウド[宮人]が花の荘厳(唱言、唱文)を唱える。こうしてはじめの意義が変容していったという*42。
 早川説以降  一方、早川によると、花育ては神楽次第書にはみえないが、大神楽のなかの白山(しらやま)の浄土入りと深くかかわると解釈されている。すなわち振草系各所の育ては他の行事に較べて特色があるといい、一力花の願主や花の御串の奉納者のことを述べ、さらに次のように記した。

 「花そだて」の祭文は、一に花を開くとも言い、「びゃっけ」を笠に被り御串を杖に突いて、花の山すなわち極楽浄土に巡り合う因縁を説いたもので、口調もまた一種哀愁を帯んだ和讃調である。

 さらに早川はこの部分に註をつけて「振草系の「花そだて」の次第は、次の宮渡りとともに、神楽の次第中の白山の浄土入りに通ずるものがあり、それを簡略したものとも言える」と記した*43


参考図。天上四隅その他の場所に湯蓋、釜の上とその隣に白蓋。2009年振草系中在家
白蓋に吊されたはちのすを叩き落とす伴鬼。これは中国、朝鮮半島の華蓋すなわち「建木の花」(天柱)とも通じる。→華蓋その他


 武井正弘説  さらに武井正弘は次のようにいう。すなわち、大神楽の白山行事の意味は生まれ清まりつまり本卦還り(61歳)にあるという。そして、本卦還りをはたした者は極楽浄土の花の山から生まれてきて、「花の杖をつきながら、郷土の地を祝福し、子孫繁栄を祝う」のだという。さらに花育てについては、「いつ極楽へ参ってもよいという、この世との訣別を意味する行事でもあった」と述べた*44。
 武井説は「花」の解釈を神楽の目ざすもの「浄土入り」と結びつけたものである。極楽浄土の花の山から生まれてくるという部分は興味深い。ただし、花育てが本卦還りをはたした者のやる行為だとするのは少し強引である。今日の花育てで、見物の人びとが年齢にかかわりなく参加しているのをみると、武井のいうような前提のものとは考えられない。
 山本ひろ子説  一方、山本ひろ子は武井説を転倒させた。すなわち、花育てとは、本卦還りをはたしていない者のためにおこなわれるのだという。いいかえると、大神楽の核心儀礼「生まれ子」「清まり」を取り込むことが目的となる。すなわち「大神楽」にはみられない花育ては人生最大の幸福者といわれる本卦還りの者になるためのプログラムなのだという*45。
 折口説と早川以降の説は併存可能  以上、早川以降山本に至るまでの説は再生とか子孫繁栄と密接な花ということが想定されている。ただし、そこでは折口説を退けたところがある。しかし、ここで、中国の花の民俗を踏まえると、折口説と早川以降の説は併存しうることが知られる。すなわち、花および花の樹が豊作、そして人の生命と直結していることが祭儀のかたちで表現されているのである。
 豊作祈願の竹の花  たとえば、苗族の祭祖儀礼「慶古壇」のなかでは、花の樹の前での祭儀が翌年の豊作祈願となる。この祭儀は「踩田」という。村老が竹で作った花の樹を携え先導する。巫師が飛び回り、人びとが練り歩く。彼らは竹の枝を舞わし、巫師に率いられて「踩田歌」を歌う*46。花の樹の上の五色の紙は現在は餅や肉、銭などに替えられている。それは豊穣の具体的な表現だろう。いずれにしても、彼らは象徴的に「田」を踏み歩く。そしてこのあと、巫師が「花」(現在は紅い花の印を押した餅〔粑粑〕)を四方に蒔く。この花は豊作、吉祥、幸福、あるいはまた子孫繁盛の花で、これを手にした人びとは懐に入れてだいじに持って帰る。万一、この花を奪われたりしたら、その者は宗族の罵倒を浴びることになる*47。
 花とともに生き死ぬ  一方、花は人の生命の根源であり、それは生命の原郷ともいうべき花山からこの世にもたらされる。そして、この世の人が死ぬと、花の樹が立てられ、そこで祭儀がなされる。湖南省黔陽県では人が死ぬと、「散花歌」を歌い、人生を開花、落下になぞらえた。これには「接花」「散花」「収花」などの一連の祭儀が伴う。「散花歌」の詞章のなかには、「今宵、花散り柩を巡る。これより亡霊天にゆく」とある。また「你(なんじ)、散る花、我収む花、你、西天王母の家にいく。来る年の春三月にもなれば、南風吹いてまた発芽せん」というような文言がある*48。
 修験道での認知  日本の修験道はおそらく文献を通して東アジアの基層文化に潜むこのふたつの花の世界を知っていたのだろう。山内の花育ての賑わいはどちらかというと、折口説すなわち、豊作、豊穣への希求にみえる。しかし、大神楽の浄土入りというような儀礼に関連づけてみるならば、花育てはまた参加者の生命力の活性化を意図したものともみられる。

 注
*42野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、222頁。
*43前引、『早川孝太郎全集』第一巻、151頁。
*44武井正弘「花祭の世界」『日本祭祀研究集成』第四巻、名著出版、1977年、237頁。
*45山本ひろ子「花祭の形態学」『神語り研究』4、春秋社、1994年、135頁。
*46なお、花育てにおいては、花太夫らが「花育て」の祭文を唱える。
*47林河『九歌与沅湘民俗』、三聯書店、1990年、271-272頁および、前引、野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、156頁。我先に得た花を一家、一族のサチとみなすことは貴州省苗族の「跳花節」でもみられる(同『東シナ海祭祀芸能史論序説』、249頁図版2参照)。
*48 同上、270頁。「今夜将花遶棺散、従此亡霊上天台」「你散花、我収花、収到西天王母家。再等来年春三月、南風吹動又発芽。」

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