慶應義塾大学アジア基層文化研究会 >> 2002年 地域研究センター 研究例会のご案内

Internet Explorer 5.0 or later only!!
このページは一部に簡体字中国語を埋め込んでいます。
InternetExplorer 5.0以上で閲覧してください。

巫女が伝える目連救母伝説 ―陸前北部の口寄せ縁起―

川島 秀一(気仙沼市図書館)

1.大乗寺縁起の成立過程

 東北地方の巫祖伝承は、大正8年(1919)にネフスキイが書簡で取り上げた「アサヒ和歌神子伝説」を初めとして、その後もこの伝説を中心に論じられることが多かった。
 しかし、岩手県南から宮城県北にかけての陸前(旧仙台藩)北部で活躍していたオカミサンと呼ばれる巫女は、「アサヒ和歌神子伝説」の他に、アサヒ和歌神子の以前の伝承として「目連救母伝説」(「盂蘭盆経」の説話)を語ることがある。それは、どちらかというと、巫祖の伝承としてよりも、巫女であることを立証するための突出した職能である「口寄せ」の由来を解くものであった。
 この、巫女が伝える「目連救母伝説」は、オカミサンたちの宗教的なセンターである大乗寺(大和宗本山)の縁起がつくられたときを機縁として、巫女たちのあいだで語り始めたようである。つまり、それまで地域社会の巫祖伝承として伝えられてきた「アサヒ和歌神子伝説」に当道成立の系譜が合体されたときに、新たに加えられた話であった。
 昭和34年(1959)に大乗寺の境内に建立された二人の巫祖の供養碑(「教祖貝田大法尼・旭大法尼精霊塔」)の裏面には大乗寺(大和宗)の縁起が記されている。それは「大和宗の縁起を尋ねるに其の昔御釈迦様が御弟子の目蓮尊者に伝授された招霊の秘法…」という文言で始まるが、「招霊の秘法」とは「口寄せ」のことである。これが、御釈迦様→目蓮尊者→慈覚大師→貝田和迦巫→旭という系譜で伝わったことを記している。
 昭和40年(1965)発行の「大和宗の縁起並大乗寺史録」には、もう少し詳しく「目蓮尊者が、亡き母の恋しさから、或日釈尊にお問いなされた。いかにして亡き母に会えるやと」と「目連救母伝説」が具体的に説かれている。
 大乗寺では一方で、以前から「釈迦の一代記(太子伝)」が伝えられ、それは石巻地方のオカミサンに伝えられていた「太子の本尊」という祭文とその内容が同じであった。この祭文の後半では、太子(釈迦)が「この世になからん人の、御行方を、尋ねばや」と、母の「まや夫人」の霊を巫女の弓によって降ろしてもらう話になっており、一種の「口寄せの功徳と梓弓の由来譚」となっている。おそらく、口寄せの由来を説くための語り物が、権威性を得るために、太子伝と結びつけられて成立したものと思われる。
 同じような祭文は宮城県石越町の大和宗所属の僧(夫人が巫女)も伝承しており、採録者は「ミコの口誦祭文」と称している。それは釈迦を目連が訪ねる話になっており、釈迦の述懐として母の霊を降ろした話を目連にしている。大乗寺縁起とオカミサンたちが伝える「口寄せの由来」が、すべて目連とその母を救う話に終始していることを考えると、おそらく「太子の本尊」のような祭文に、少しずつ目連を登場させることで「目連救母伝説」を成立させ、そのことで釈迦から目連へ伝えたことを強調して、「系譜」ということ自体がもっている価値をも表現してきたのではないかと思われる。

2.巫女が語る「目連救母伝説」

 オカミサンたちが伝える「目連救母伝説」の特徴は、それが「口寄せ」という巫儀の由来譚になっているだけではない。実際の口寄せという儀礼と対応するような口寄せの巫具の由来譚にもなっている。
 たとえば、宮城県の栗原地方は、弓による口寄せが最後まで行なわれていた地方であるが、オカミサンたちのほとんどが、次のような「目連救母伝説」を伝承している。
 亡くなった母親に会いたいと思っていた目連が釈迦に相談したところ、母の「声」だけを聞かせること(「口寄せ」)ができる方法を教えられる。その方法とは、檀特山の東の方から7尺の桃の木を伐ってきて、それで弓台を作り、西の方からは3尺2寸のホチク(?・日本では柳を用いるという)を伐ってきて、それで弓撥にする。それから南の方へ行って、そこにいる観音様が着ている麻から糸を抜いてきて、それを弓糸に用いる。また、目連の母親は地獄に落ちているので、そこから救い出す道具として、西の方から手に入れてきた絹の糸か真綿を必要としたといい、それによって目連は口寄せを通して母親を救うことができたという話になっている。
 実際の弓による口寄せでは、弓は梓の木で作られ、弓撥は竹であるが、桃と柳の木は、弓の末弭(巫女から向かって左側)のそばに置かれた白米の上に挿され、麻糸は末弭に巻かれる。本弭(巫女から向かって右側)には引き綿が巻かれていることから考えると、死者の霊は桃・柳・麻糸を通して末弭から降り、弓糸を伝わって巫女の口を借りて口寄せを終えた後、本弭の真綿を通して救われ、ホトケになるという径路が分かる。つまり、「口寄せ」という儀礼は巫女が語る「目連救母伝説」と対応していることになる。
 大乗寺との関わりが他の地方よりも強い、岩手県南と宮城県の気仙沼地方では、口寄せの道具として、早くに弓から引磬に代えているが、この地方でも「目連救母伝説」は巫女によって伝承されている。しかし、口寄せに弓を用いないこともあって、桃・柳・麻・真綿などが別な用途を与えられて使用されている。
 たとえば、桃と柳の木を3尺の晒しに包んで、着物のように襟を作り、死者と同様に左前に合わして麻で結ぶ。巫女は、これを「地蔵菩薩のお姿を作る」と呼んで、水を入れた小鉢の中に立てかけ、死者の祭壇のそばに置く。また、このような着物の形に作らなくとも、桃と柳の小枝をミタテ(納棺)のときに使った残りの布キレで結び、水を入れた御飯茶碗に立てかけておく場合もある。口寄せのときに死者の霊に対して、遺族を代表して対話をする「問い口」役は、口寄せの最中にときおり、この布キレに対して、水を吸い込んだ綿で濡らし、「いっぱい語らいん」などと問いかけたりする。その理由は、「オホトケ(死者)が喉を渇かさないように、いっぱい語れるようにするため」といわれる。また、口寄せが終了すると、桃と柳は死者が埋められた墓に持って行って納めるが、以前は柳を墓のそばに植えて育て、それで33回忌の塔婆を作ったものだという。
 大和宗の管轄内である岩手県陸前高田市の広田町のオカミサンは、桃はあの世へ行くための杖であり、真綿は地獄の針の山を歩くときに用いるため、麻はあの世とこの世をつなぐために、それぞれ口寄せに用いると語り、特別に目連の話を出していない。
 「目連救母伝説」が伝えられずに「アサヒ和歌神子伝説」だけを伝承している岩手県の一戸地方でも、イタコの彼岸の口寄せには、山桃3本を瓶に挿して麻糸をかけるといい、これを「ホトケ様の宿」と呼んでいる。
 一方で、山形県のオナカマと呼ばれる巫女も、口寄せのときに弓弭に麻を付けた。死者が男である場合は末弭に、女である場合は本弭に、死者が口寄せの依頼者より年齢が少ない場合は弓糸に、年齢が多い場合には弓本体に麻を結び付けたという。死者は死後、釈迦・観音・阿弥陀・勢至・阿閦に7年間仕えることによってホトケになるが、麻を付けると、それらを省くことができ、早く浄土へ近づくことができると伝えられている。また、口寄せのときには、瓶に入れた柳に麻糸をかけて机の上に置くところもある。
 秋田県のイチコと呼ばれる巫女の場合も、口寄せのときに、米3升の上に麻を置いておくというが、この麻は魔よけのためだという。
 以上のようなことを考えると、桃・柳・麻・真綿などの口寄せの道具は、大乗寺の縁起にあるような「目連救母伝説」に引き寄せられる以前から、東北一円にわたって用いられていた植物であり道具であったと思われる。
 

3.口寄せで語られた「目連救母伝説」の祭文

 前述した「太子の本尊」の後半には、「口寄せの由来と梓弓の由来」が語られているが、弓は梓、弦(弓糸)は「右と左のころもの糸」、3尺の打ち竹は「こずくがうらのこずくがうらだけ」を用いたと語られている。「こずく」は、栗原地方のオカミサンたちが語る「ホチク」と思われるが、意味は不明である。
 注意されるのは、本弭には「黄金のろうそく」、末弭には「銀のろうそく」、その間の「なかのはやし」には「綾が千段、錦千段、緞子千疋、絹千匹こふくの綿を千把」置いたというから、これらは一種の供物のようなものと思われる。現在の口寄せに用いられる絹や綿も、本来は弓に対する供物であった可能性もある。
 この「太子の本尊」という祭文は、死霊の口寄せの直前に語られるが、そのほかにも死霊の憑き物落しである「弓がけ」や「ブッタテギトウ」にも用いられる。この祭文の最後は「血の池くげんものがれつつ、つぼみし花を手に持って、ひらけし花をかさとなし、蓮花の茎を杖とさだめ、などや極楽往生疑いなしとおおせける。謹上さんげさいへいさいわい、と畏しみ敬まって申す」と終える。つまり、これらの儀礼の前に、口寄せの功徳とその効力の由来を祭文で語ることによって、口寄せそのものの呪力を十分に発揮させることに意味があったものと思われる。
 そのことは、栗原地方のオカミサンが、目連尊者の登場する祭文は、口寄せの「ヨリクチ」のときに語られると語っていることに等しいようである。おそらく、それは、宮城県の石越で採録された祭文のようなものではなかったかと思われる。
 祭文という形態ではないが、宮城県唐桑町のオカミサンは、「弓開き」と呼ばれる成巫儀礼のときに、師匠からオシラサマの由来譚と共に、「目連救母伝説」の話を教えられている。しかも、この話は他者に語ることは戒められていた話であったという。
 「目連救母伝説」は、「口寄せ」などの巫儀や巫女の成巫儀礼のときに欠かせない祭文や語り伝えであったわけであり、これらの儀礼を根底から支えるものであったにちがいない。




$Id: index.html v 1.00 2002/07/21 13:52:00 ayoshizaki Exp $
Copyright (c) 2002 Nomura lab. All Rights Reserved.
慶應義塾大学アジア基層文化研究会 >> 2002年 地域研究センター 研究例会のご案内