今、ここにいるわれわれ自身

長澤唯史
(椙山女学園大学)

巽孝之『メタファーはなぜ殺される-現代批評講義-』は現代批評理論の 「講義ノート」であると同時に、『ニュー・アメリカニズム』〈1995〉 の「実質的な理論的分身」であると、著者は「終文」と題された後書き で述べている。だが観測主体あるいは観測という行為そのものが観測対 象を生み出すという量 子力学的レトリックに現在批評の本質を見る著者 のことである。本書にいわゆる教科書的な批評理論の記述を求めること はできまい。

確かに目次を見れば、各種の批評理論に関する第一部「現在批評のポレ ミックス」、80年代後半の代表的な批評理論書を読む第二章「現在批評 のカリキュラム」、90年代のアメリカ文学・文化史の研究書を紹介する 第三章「現在批評のリーディングリスト」と、教科書的構成を彷彿とさ せる。しかしながら通 読してみれば、本書が「遠いもの同士の連結をし きりに企まずにはいられぬ 精神病理学的パラノイア」としての文学批評 を実践する書物であることはすぐに理解されよう。本書は様々な批評理 論の盛衰を語ると見せかけながら、「たった今文学テクストを批評する ポジションに立つわたしたち自身」の歴史的位 相を照射する、きわめて 挑発的なテクストなのである。

第一部第一章「危機の文学批評理論」は本書に収められた文章の中では 最も早く、17年前、著者が20代の頃の論文である。そのためか、脱構築 批評のへの歴史的流れと代表的批評家の理論の検証などを手際よくまと め、他の文章と比べて手堅い印象を受ける。比較的「教科書的」な記述と 受け取られる向きもあるかもしれない。しかし脱構築をアメリカ的現象 と文化的・歴史的に位 置付け、さらにフェミニズム批評を「最も本質的 な脱構築批評」とするなど、単なる客観的な見取り図を超えた独自の視 点がすでに見て取れる。

第二章以降はまさにアクロバティックなパラノイア的連結としての批評 が次々と繰り出される。第二章「外国文学研究の抵抗」は「外国文学」 と「翻訳」という視点からデリダ、ド・マン、ジョージ・スタイナーそ して新歴史主義批評を接続し、彼らに共通するアンティゴネーのレト リックが実のところ「解釈学的暴力」に対する抵抗というポスト・ホロ コースト的問題であることを、まさに新歴史主義的に暴き出す。第三章 「滅びゆく他者の帰還」では、サイード的なオリエンタリズムに代わる 「ナショナリティの問題とセクシュアリティの問題がきわめて複合的な 絡み合いを見せる」エキゾティシズムという概念を提示し、日本におけ るオキシデンタリズムとオリエンタリズムの境界を脱構築する一方で日 本的オキシデンタリズムこそが現代アメリカ人のエキゾティシズムの源 泉となりつつある状況が報告される。第四章「仮想家族の主体形成」は マイケル・ジャクソンの人工授精というスキャンダルをスキャンダルた らしめているのは、「異性愛至上主義的同種族内一夫一婦制」という近 代の支配的言説であることを指摘したうえで、「本来家族そのものが高 度に制御され歴史的に製造された仮想現実だった」と断定してみせる。

第一部を読み終えた読者には、巽が各批評理論に従ってその批評理論の テクストを読むという一貫した戦略をとっていることが明らかになろう。 かつてジョナサン・カラーは脱構築批評について自分の乗っている枝を 自分で切り落とすに等しい行為と皮肉混じりに述べたが、ド・マンのナ チ荷担スキャンダルに止めを刺したのが、ファシズム / 反ファシズムの 対立項を脱構築してしまったデリダ論文であったことから明らかなよう に、脱構築批評が自分自身を脱構築せざるを得なかったことは本書でも 言及されている。その後批評の中心は脱構築批評のテクスト中心主義か ら新歴史主義のコンテクスト重視主義へと移行したが、著者は「文学的 枠組みが歴史的に作られたとするコンストラクティズムがまた新たな エッセンシャリズムと化す可能性」を指摘することも忘れない。

本書の中核を成す第二部においても、巽はテクストに寄り添いながらそ のテクスト自体の死角を明るみに出す。彼の前ではシンシア・チェイス 『比喩の解体』は脱修辞学を意図しながら「読解という修辞」を実演する という逆説的なテクストと化す。読者反応論批評に依拠しながらアメリ カ文学における家庭の問題を再考するジェイン・トムキンズ『煽情的な 構図』は、トムキンズが自らの「家庭性」や「自分史」に言及すること で「読者」としてのトムキンズを構成してしまう。マイケル・ギルモア 『アメリカのロマン派文学と市場社会』は文学テクストにおける市場性 を問題にしながら、自分自身が「マーケッタブル」な形式を備えた商品 としての価値を誇示する。例を挙げていけば枚挙に暇がない。

しかしながら評者にとってもっとも印象的だったのは、巽が序文「メタ ファーはなぜ殺される」において「書物と世界のみならず、言語と現実 とが必ずしもメタフォリカルに対応しない」という認識を出発点とする 新たな批評の可能性を示唆するくだりであった。著者が大学院生時代か らSFに関する文章を書きつづけていること、処女作『サイバーパンク・ アメリカ』でいち早く取り上げたラリイ・マキャフリイのアヴァン・ ポップ論に高い評価を与えていること、本書のみならずこれまでの著書 において絶えず過去から現在の問題に立ち返りつづけていることなどを 考え合わせると、巽孝之の目指す批評とは、文学テクストすらSFのよう に読むという戦略ではないか。

SFとは常に、もう一つの現実からわれわれの現実を逆照射する装置であ り、「現実」とは「修辞的」産物に過ぎないことを暴露する形式である。 イデオロジカルな「現実スタジオ」をそのイデオロギー自体によって転 覆させようとするアヴァン・ポップ的戦略は、現実をSF的構造とみる点 で巽の視点と通底する。『メタファーはなぜ殺される』という書物に記 されている巽孝之という主体の思想的軌跡は、つねに「今、ここにいる われわれ自身」という問題を巡る一貫した思索なのである。