個人的な距離から人間にとどくこと

田中和生
(評論家)

  私が青柳瑞穂の名前を覚えたのは、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』の翻訳によってである。個人的な話で恐縮であるが、私はその『孤独な散歩者の夢想』について卒業論文を書いたことがある。それは「要するに、僕は地上でただの一人きりになってしまった。」(青柳瑞穂訳)とはじまる晩年のルソーの絶望的な孤独が刻印された作品であるが、私がその「僕」の絶望と平静の日々に魅せられたように、おそらく青柳瑞穂氏もその狂気と紙一重の孤独に惹きつけられたにちがいない。彼はそれを端正な日本語に移して紹介したが、私の個人的な見解ではその作品は近代の「私」の起源に位 置しており、だからそれは画期的な出来事だった。あるいは青柳瑞穂氏もそのような感覚を共有していたのかもしれない。そのような人として、その名は私の胸にしまいこまれた。

 私がこのようにことさら個人的な話を強調するのは、ほかならぬ青柳いづみこ『青柳瑞穂の生涯』が、そのような個人的な話を方法論とした評伝であったからである。著者である青柳いづみこ氏は、評伝の対象である青柳瑞穂の実の孫にあたり、少々特殊な環境ではあったが同じ家に長く一緒に住んでいたこともあるらしい。だから彼女には祖父が集めていた骨董を見せてもらったり、彼が仕事で訳したフランス文学の翻訳書をもらったりといった多くの思い出があるが、たとえばその「プロローグ」では、「私が子供だったころ、私たち一家の居住区のドアをあけ、タタキを右に曲がって瑞穂の家の廊下を歩けるのは、私一人だった。瑞穂の長男である私の父は、ごく例外的な一時期をのぞいては、父親との一切の交流を絶っていた。何によらず夫のすることを絶対視していた母も、父と行動を共にした。(……)/孫の私だけが、ときどき本棚をあさりに、瑞穂の書斎にはいっていった。」というエピソードが紹介されているが、それはこの評伝が「孫の私だけ」が書くことのできる性質のものであることをよく説明してくれる。

 本書は孫である青柳いづみ子氏の視点から、祖父である青柳瑞穂氏の生涯を編年体の手法とテーマ別 の手法を組み合わせて自在に語った評伝である。

 とはいえそのような「孫―祖父」という個人的な距離は、いったい評伝にふさわしいものであるのだろうか。私たちは、あるいは妻の視点から、あるいは子の視点から書かれた文学者たちについてのおびただしい評伝のたぐいをすでに知っているが、その多くがわがままで身勝手な夫を描き出し、あるいは理不尽で傲慢な父のすがたを暴露するだけで、すこしも文学者たちの人間にとどく言葉になっていなかったことを思い出してみる必要がある。それらはなにより妻の立場からの夫に対する愚痴であり、子の立場からの父に対する悲鳴であったせいであるが、孫の立場に立つ著者も、厳密にはその幣をのがれることはできていない。実際にそのような部分も目につくが、それにもかかわらず本書が評伝としてすぐれているのは、その個人的な距離を徹底することによって対象である祖父、青柳瑞穂という人間の再発見の物語になり得ているからである。それは同時に「孫―祖父」という関係を新らしいものにするが、だからそれは著者である孫、青柳いづみこの自己発見の物語でもある。

  おそらく誰かが「私」として対象の前に立ったとき、そこに個人的ではない距離など存在しない。今世紀の物理学が証明してしまったように、観察者は観察対象に決定的な影響を与えてしまうのである。だからそれは客観的などではなく主観的で個人的な距離であらざるを得ず、「私」に許されているのはその距離を徹底することによって対象に肉薄することだけであるが、そうして「私」自身がおどろくほど対象に迫りその距離を無効にしてしまったとき、はじめて「私」と対象の間には創造的な関係が結ばれるのにちがいない。なぜなら著者である「私」を動かさないような記述が、どうして読者を動かすことがあるだろうか。

  明らかに祖父に対して厳しい調子ではじまった本書は、その終盤で骨董蒐集とその体験を書き綴った『ささやかな日本発掘』で名をあげた祖父を、「骨董蒐集で成功してしまったことが、それを典雅な日本語で表現できたことが、それをまた高く評価されたことが、そして、訳書に対する特異な目、そこに流れる隠れた系譜を評価されなかったことが、瑞穂の生活を自堕落にさせ、仕事を小さくまとめさせる結果 になったのかもしれなかった」と評する。けれどもその翻訳の仕事に「隠れた系譜」を発見し、発表されなかった『夜の抜穽』という祖父の幻想的な小説と結びつけた著者は、そこで「孫―祖父」という個人的な距離を解消し、青柳瑞穂の人間に触れている。

《『夜の抜穽』は、作品としての価値はないものだったが、少なくともそこには、私が無意識のうちに反発を感じるものがなかった。そこで私は、逆投影の形で、私と瑞穂を隔てようとしていたものを知った。骨董随筆を書くときに瑞穂のかぶっていた仮面 が、私をして瑞穂に対してよそよそしくさせたのである。瑞穂が晩年に集めた乾山陶が、私たちを遠ざけていたのである。「ジョリ」と「ボー」のはざまにあるものが、私たちの間に眼にみえない衝立をたてたのである。》(「ィ。 マルドロールの歌」)

 その「美しい」という意味のフランス語、joli(ジョリ)とbeau(ボー)を青柳瑞穂の中に読み解いていくスリルのうちに、確かに人間が息づいている。